平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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阿弥陀経にある「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙高潔〜〜」という意味について疑問があります。
ネットで調べると、私が今までに見つけて中では一番具体的でわかりやすい説明に「池の中に蓮の花があります。大きさが車輪のようだ。青い色が青く光っています。黄色い色は黄色く光っています。赤い色は赤く光っています。白い色は白く光っています。それらが非常に微妙な、何ともいえない妙なる清らかな香りをあたり一面に漂わせています」とありました。
なるほどよくわかるのですが、蓮の花に青色はないのにどうして「青色青光」と青の蓮の花があるように書かれてあるのですか。
人間世界には青い蓮の花はなくても、お浄土には青い蓮の花はあるのですか?
青という色に何か高貴な意味があるのでしょうか?
とっても知りたいです。
もしかして蓮が鏡でできていて、空の青い色を映し出すのかと思いました。
お説法で鏡に自分の心を写すという話しを聴いたような気がします。
それとも、透明なガラスのような物でできていて、蓮池の青い水の色がそのまま透きとおって見えるのかと思いました。
仏様は悲しい時も嬉しい時もいつも一緒にいてくれる意味の歌を子どもの頃、お寺で歌った覚えがあります。
その人の気持が染まってくれる仏様の色は透明なのかなと思いました。
気になって仕方がありません。
青い蓮の色には、仏教で語り継がれた深い意味があるのではないでしょうか?
「蓮が鏡でできていて・・・」や、「透明なガラスのような物でできていて・・・」という推測やその理由については、素敵というか中々詩的な解釈ですから、あえて直すような無粋な真似はしたくありませんが、ご質問を受けましたので私が学んで肯かせていただいた領解を述べてみます。
池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。
『仏説阿弥陀経』 正宗分 依正段 より
▼意訳(現代語版より)
また池の中には車輪のように大きな蓮の花があって、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである。
浄土三部経と呼ばれる『大無量寿経』(大経)・『観無量寿経』(観経)・『阿弥陀経』(小経)は、それを意図して編纂されたのかは定かではありませんが、密接なつながりを鑑みて解釈されます。
その中で『大経』は、上巻には阿弥陀如来の浄土建立が願成就という経緯を通して顕されていて、下巻は衆生済度の展開が示されています。
『観経』は、実際に王舎城で起きた事件をベースに、如来の功徳によって衆生が浄土往生を果す方法が説かれ、『小経』は弟子の問いが無いにも関わらず、釈尊が一方的に浄土の功徳が荘厳として成就した相を説かれた内容になっています。
なお、親鸞聖人は『大経』を「真実の経」と称えられています。ちなみに『大経』では蓮の華には無限の色の種類があり、主な色として六色(青・白・黒・黄・赤・紫)をあげています。浄土の蓮は植物ではなく、仏の功徳のはたらきを象徴しているのです。
そこで、『小経』に顕された「青色青光 黄色黄光・・・」のみなもとを、『大経』に顕された如来の本願に求めると、第四願[無有好醜の願] に相当する内容となっています。
<天人のように立派な相好がそなわるように><美醜が無いように>との願いですが、実はこれは仏願の第三願 [悉皆金色の願] にもあるように、それぞれがみな真心の色で輝くように、という願いがさらに展開した姿なのです。つまり個性が最大限見抜かれ最大限発揮されることでもあるのです。
この蓮の譬えについて、ある有名な唱歌が「同じような内容を歌っている」と、法話で聞かせてもらいました。
さいた さいた
チューリップの花が
ならんだ ならんだ
あか しろ きいろ
どの花 みても
きれいだな
『チューリップ』教育音楽協会 作詞 / 井上武士 作曲
この詩の前半は、単に赤・白・黄の花が並んで咲いている情景が出ているだけですが、後半には「どの花 見ても 綺麗だな」と感嘆の声をあげています。この後半の声はまさに如来の声でしょう。私たちは「どの花が綺麗かな? 好きかな?」と見てしまいますが、ここでは「どの花も皆綺麗だ」と見抜いています。
これは花だけを見ているようですが、その奥に人間を見る眼がある。花は人間を譬えていて、どんな人も皆素晴らしい、仏教用語で言えば、「みな仏性を持っている」と見抜いているのです。
『阿弥陀経』でいえば、青い花がある、黄色い花がある、赤い花、白い花がある。みな素晴らしい。みな光っている。様々な人種・民族・国家がある、生い立ちも職業も様々ある、性格も顔立ちも様々ある。みな素晴らしい。みな光っている。みな仏性がある。そう見抜くことができることこそ仏性の展開であり、仏の功徳でありましょう。そして見抜かれた仏性の通り光って展開したところを「浄土」と呼ぶのです。
逆に、肌の色で差別する、生い立ちや職業で差別する、性格や顔立ちで差別する。自他の持っているそれぞれの色が輝いていることが見抜けない。見抜けない眼や色眼鏡をかけたところに展開するのが地獄です。
浄土と地獄は、同じ世界にありながら、世界を見る眼が違うために違った相を見、そして違った相を見たために、現実にも違った展開が現われるのです。『大経』には「無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいる」とあります。浄土とは仏心のもたらした世界をいうのです。地獄の住人も、やはり行いが原因でもたらされたところ(穢土)に住んでいると言えましょう。これは生死の隔てなく展開しますが、生きている私たちにとっては、現実の相をよく見極めなければなりません。現実社会は、浄土と穢土の両方のはたらきが同時に展開していますので、これを見分ける眼を育てることが、仏法を聞く、聞法ということです。
こうした浄土に蓮の花が咲いているとは、どういうことを現わしているのでしょう。
『阿弥陀経』による。〈西方は道に進むこと娑婆に勝れたり。五欲および邪魔なきによつてなり。成仏にもろもろの善業を労しくせず。華台に端座して弥陀を念じたてまつる。五濁の修行は多く退転す。念仏して西方に往くにはしかず。かしこに到れば自然に正覚を成る。苦界に還来りて津梁とならん。万行のなかに急要とす。迅速なること浄土門に過ぎたるはなし。ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏ともに伝へ証したまふ。この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて迎へたまふと〉。略抄
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文 より
▼意訳(現代語版より)
『阿弥陀経』によってつくった偈。
<西方浄土はさとりに向って進むことが娑婆世界よりすぐれている。人々の欲望をかきたてるものもなく、悪魔のさまたげもないからである。そのため、仏となるのに苦労を重ねてさまざまな功徳を積む必要もなく、ただ、蓮の花の台座に座り、弥陀を念じたてまつるのである。煩悩に汚れた世で修行すれば、さとりの道から退転することが多い。だから、念仏して西方浄土に往生することほど、すぐれたことはない。浄土に至れば本願のはたらきにより自然[じねん]にさとりを成就するのである。そして迷いの世界に還ってきて、衆生をさとりの世界へ導くための橋となるであろう。あらゆる行の中で念仏がもっとも大切である。速やかにさとることができるのは、浄土の教えよりすぐれたものはない。ただ釈尊が説かれているだけではない。すべての世界の仏がたもともに広く念仏の教えを伝え、それが真実であることを証明しておられる。
この世界で一人の人が仏の名号を称えると、浄土の一つの蓮の花が生じる。生涯、信心を失うことなく念仏を相続するなら、その蓮の花がこの世界に来ってその人を迎えてくださるのである>
如来の願いを聞き開く事でもたらされる菩提心が不退転のもの(つまり真実の心)であれば、浄土の蓮の花は生きている間に現実に到って、私を迎えてくださる。これによって「蓮の花の台座に座り、弥陀を念じたてまつる」のですが、「蓮の花の台座」とは本来は如来が坐る座です。この座に私たち凡夫が坐れば、煩悩のある身でも如来の功徳を得ることができるのです。
蓮は清水では咲かず泥田で咲きます。煩悩の汚れがあるまま、それを養分として蓮が育ち、煩悩の汚れの無い美しい花が咲きます。花が咲くとは、真の人間として開花するということです。人間としての花を咲かせた人のことを仏といいます。また蓮の花は、花が開けば内に実を持っている。実を内包して花が咲くのですが、これは、浄土の功徳というのは、仏のはたらきは原因のうちに既に結果を内包している、ということを譬えているのです。仏心に触れて、あこがれて信がもたらされると同時に、仏に成る結果を内包しているのです。菩薩として未完成のまま、完成を内包して浄土の功徳を自他共に広めていくのです。往相の菩薩のまま還相の菩薩としてのはたらきを本願自然として展開するのです。
そのため浄土往生の功徳を荘厳して、蓮の華に譬えているのです。
さらに『大経』には――
また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一々の宝華に百千億の葉[はなびら]あり。その華の光明に無量種の色あり。青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。イ曄煥爛として日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 華光出仏 より
▼意訳(現代語版より)と六色(青・白・黒・黄・赤・紫)の色の花が登場します。百千億の花びらそれぞれこの六色が互いに反映し合いますので、花の中から、三十六百千億の光が放たれ、その一々の光のなかより三十六百千億の仏身が現われ、その一々の諸仏からまた百千の光が放たれ、そのはたらきで一切衆生に無上の菩提心(求道心)が振り向けられるのです。この天文学的な数の智慧の光を放って一切衆生を覚りに導かれるのです。
百千億とか十万億というのは、人類の総数を表していると言われていまして、これは、浄土では一切衆生を済度する準備ができていることを現わしているのでしょう。そしてこれは単に一人一人が光るだけではなく、すべての人々の光が互いに反映して映しあい、複雑に重なりあった美しいハーモニーのように全てが調和していくことを表現しています。そうであるからこそ浄土は「無量光明土」とも呼ばれ、阿弥陀仏を「不可思議光如来」とも申しあげるのです。なお「光明」は「用[はたら]き」を表していますので、「浄土のはたらきは数も種類も限りなく、人々に映えあって私たちに智慧を授けてくださる」、そういう環境であると経典は教えるのです。
つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。
『顕浄土真実教行証文類』 真仏土文類五 真仏土釈 仏土出願 より
▼意訳(現代語版より)
つつしんで、真実の仏と浄土をうかがうと、仏は思いはかることのできない光明の如来であり、浄土はまた限りない光明の世界である。すなわち、それは法蔵菩薩のおこされた大いなる慈悲の誓願の果報として成就されたものであるから、真実の報仏・報土というのである。その誓願とは、すなわち光明無量の願(第十二願)と寿命無量の願(第十三願)とである。
前置きが長くなりました。青色の意味ということですが、「青色青光」の蓮に当てはまるものであるかは論が分かれるかも知れませんが、例えば仏身で青というと眼の色が青いことが挙げられます。青目なのは白人ということではなく(仏身は人種民族を超えている)、物を見る眼が海水のように深いことを顕しています。これは第二十一願[具足諸相の願] にある真青眼相[しんしょうげんそう]で、「紺碧の海のように澄んだ青い瞳。見る目が底光りして、見方に無限の深みがある」と表現されています。
無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転して、〔大きさ〕五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。〔大きさ〕須弥山のごとし。かの仏の円光は、〔広さ〕百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 真身観 より
▼意訳(現代語版より)この意を受け、龍樹菩薩は『十二礼』において、また善導大師は『往生礼讃偈』において、「両目の浄きこと、青蓮華のごとし」と顕され、源信和尚は――
九には、仏眼は青白にして上下ともにマジロく。白きものは白宝に過ぎたり。青きものは青蓮華に勝れたり。あるいは次に広く観ずべし。眼より光明を出したまふに、分れて四支となりて、あまねく十方の無量の世界を照らす。青き光のなかには青き色の化仏ましまし、白き光のなかには白き色の化仏まします。この青白の化仏、またもろもろの神通を現じたまふ。
『大集経』(意)にのたまはく、「慈心を修集し、衆生を愛視して、紺色の目の相を得たり」と云々。小時のあひだにおいても、この相を観ずるものは、未来の生処に、眼つねに明浄にして、眼根に病なく、七劫の生死の罪を除却す。
源信 著『往生要集』 巻中 尽第六別時念仏門 より
▼意訳(意訳聖典より)
九つには、仏の眼は青と白とで、上下ともまたたく。白いところは白宝より超え。青いところは青蓮華より勝れている。あるいは、次に広く観ずべきである。その眼より光明を出し、分かれて四つの支[えだ]となり、遍[あまね]く十方の無量の世界を照らす。青い光の中には青い色の化仏がましまし、白い光の中には白い色の化仏がましまして、この青と白の化仏は、また諸[もろもろ]の神通を現[あら]わすのである。
『大集経』に説かれている。「慈悲の心を多く集め、衆生をいつくしみ視[み]て、紺色の目の相を得たのである」下略。わずかの時間でも、この相を観ずる者は、未来に生まれる所で、いつも眼は明らかで浄く、眼の病はなく、七劫の生死の罪を除き去るのである。
と、詳しく顕されています。ちなみに「眼の病はなく」というのは、ものを見る眼が確かで、煩悩や悪思想に侵されていないことをいいます。
ただ、質問で書いていただいた――
〉もしかして蓮が鏡でできていて、空の青い色を映し出すのかと思いました。
〉お説法で鏡に自分の心を写すという話しを聴いたような気がします。
〉それとも、透明なガラスのような物でできていて、蓮池の青い水の色がそのまま透きとおって見えるのかと思いました。
〉仏様は悲しい時も嬉しい時もいつも一緒にいてくれる意味の歌を子どもの頃、お寺で歌った覚えがあります。
〉その人の気持が染まってくれる仏様の色は透明なのかなと思いました。
という味わいは、蓮の華の色としての解釈では経典の意に即しませんが、「鏡に自分の心を写す」とか「仏様は悲しい時も嬉しい時もいつも一緒にいてくれる」という法話はとても素晴らしい内容ですので、一生の宝として胸にしまっておき、周りの人たちにも披露してあげて下さい。
以下、その内容を聖典や仏教讃歌から引いておきます。
もろもろの妙華あり。閻浮檀金色をなし、旋火輪のごとく葉のあひだに婉転す。もろもろの果を涌生すること、帝釈の瓶のごとし。 大光明あり、化して幢幡・無量の宝蓋と成る。この宝蓋のなかに三千大千世界の一切の仏事を映現す。十方の仏国もまたなかにおいて現ず。
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 宝樹観 より
▼意訳(現代語版より)
たくさんの美しい花は金色に輝き、まるで火の輪のようにきらめきながら、葉と葉の間でまわっている。
ちょうど帝釈天の宝の瓶のように、その花からは次から次へと多くの実がわき出ている。
そしてその実が放つ大いなる光明は、幡と数限りない宝に飾られた天蓋となる。
その中には、世界中でなされる仏のすぐれたはたらきのすべてが映し出され、さらにさまざまな仏がたの国々も、みな映し出されている。
『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈 より
▼意訳(現代語版より)
『涅槃経』に説かれている。
「善良なるものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形につきしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。
しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまふ」(散善義・意)と、善導和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」(同・意)とあかせり。しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。
『親鸞聖人御消息』(6) より
▼意訳(『親鸞 日本の名著6』中央公論社 より)
ところが、濁りはてた、悪にまみれた世に生きるわたしたちには釈迦お一人のお言葉だけでは信ずることはむつかしかろうと、十方にまします数限りない多くの仏たちが証人におなりになった、と善導和尚は解かれました。釈迦・弥陀及び十方のあらゆる仏がみな同じお心をもって、本願の念仏を信ずる人には、影が形にそうようによりそって、お離れにならないと、説き明かされました。ですから、この信心の人を釈迦如来は、私の友である、とお喜びになっておられます。またこの信心の人を真の仏弟子といわれました。
みほとけは
まなことじて み名よべば
さやかにいます わがまえに
さやかにいます わがまえに
みほとけは
ひとりなげきてみ名よべば
笑みてぞいます わが胸に
笑みてぞいます わが胸に
みほとけは
したいまつりて み名よべば
つつみています わがいのち
つつみています わがいのち
『みほとけは』 仲野良一 作詞/信時 潔 作曲
そよかぜわたる あさのまど
はたらく手のひら あわせつつ
南無阿弥陀仏となえれば
しんらんさまは にこやかに
わたしのとなりに いらっしゃる
きらめく夜空 星のかげ
あらしにきえても かくれても
南無阿弥陀仏となえれば
しんらんさまは ともしびを
わたしのゆくてに かざされる
この世の旅の あけくれに
さびしいいのちを なげくとき
南無阿弥陀仏となえれば
しんらんさまは よりそって
わたしの手をとり あゆまれる
『しんらんさま』 滝田常晴 作詞/古関裕而 作曲
以上