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キリスト教カトリックの愛と仏教浄土真宗の愛と調べました。
コリントの信徒への手紙一 12章31b節〜13章13節
貴兄のホームページ
五十二位と、親鸞聖人・蓮如上人の教学の違い
引用↓
菩薩の初めの十段を「信位」というのは、自己を信じて、自己を人間として成就してゆこうと、人生に希望を持って、願いに生きる位であるからです。信とは愛とか希望とか、真実とか徳とか願いのことといわれています
真宗で愛とはどういう捕らえ方をしているのか
真宗入門者にも分かりやすくお教え願えれば幸甚です。
「真宗で愛とは・・」ということですが、一教団や一宗旨という組織としての見解というより、「真実はどうなのか」と考えることが「真実の宗教」を目指す「真宗」の名のりであり、その要めが浄土であることから「浄土真宗」の名があるのですから、経典に依りながら現実の問題としても考えてみたいと思います。
仏教では、「諸法無我」が三法印の一つとして尊ばれています。あらゆるものを固定的実体として見ないことが真実に向かう道なのです(大乗仏教では、無我から真我という方向に向かうのですが、このことは今回は省略します)。同様に、「愛」という言葉も、固定的実体として捕えるのではなく、つながりや用い方を問題とすべきでしょう。
仏教で永遠普遍の価値を有するものは「菩提心」や「仏性」といわれるもので、これは<どこまでも真実を求める心>であり<まごころ>をいいます。これは「愛」や「理性」と違って副作用のない心で、菩提心は強まれば強まるほど、純粋になれば純粋になるほど覚りの智慧と功徳を生むのです。この心を広く衆生に見て種を育てることが仏道といえましょう。
キリスト教では、多数の福音書に書かれてある通り、「愛」を「完全なもの」と絶対的に評価するため、信者は周りや社会に積極的に関る性格を獲得するようになったようです。<神が私を愛するように、私も皆を愛してゆこう>という精神でしょう。有名な「敵を愛せよ」とか「だれかがあなたの右の頬を打ったら、左をも向けよ」など、聖書には愛がとても美しい言葉で語られています。
その言葉を鵜呑みにすれば、さぞやキリスト教の盛んな地域では愛あふれる美しい歴史を刻んだのだろうと想像されるのですが、どういうわけか言葉とは真反対の面もあり、血で血を洗う宗教戦争を繰り返し、現代にまでつながる紛争を生み出す核となってきたという厳然たる事実もあります。つまり、言葉では否定してあるはずでも、時として愛は押し付けや強制につながり、「愛あるゆえに」信仰を同じくしない者を許さず、改宗を拒む者を蔑み、神の名において他宗教や他宗派の大量虐殺さえ行ってきました。
全ては因縁によって果を生むのですから、結果が悲惨であれば、それは因と縁である教えとその周辺に悲惨な現実を生む原因があると考えるべきでしょう。この原因について個人的に考えてみると、地上・肉親の愛と天上・永遠の愛が比較されたり、時として対立させてしまう傾向があること、そして個人の愛をいかに浄化して慈悲に転じてゆくかという手段・方法が明確になっていないことに問題があるのではないでしょうか。
仏教では、「愛」それ自体に固定的実体をみとめず、単独での評価を避け、愛は善でも悪でもなく、ただ「強いつながり」や「強い関心」を意味する語(共通的観念)として用いてきました。この「つながり」が、何に対して、どういう立場で、どんな風につながるのか、ということを問題としたのです。
つまり、「愛」として語られる心自体を善ととらえてしまえば愛の執着面に目が向かず、反対に悪ととらえてしまえば愛の徳面に目が向かないことになってしまいます。愛がストーカー行為や憎しみに結びつくこともあれば、愛が我執を破る行為につながることもあるのは衆知の事実でしょう。仏教では、この愛を浄化し、慈悲の徳に昇華する手段を時機に応じて求め続けてきました。
簡単に言えば、「愛」が多くの良き因縁によって成熟するよう導くことが大切であり、我執や無明によって捻じ曲がることがないように気をつけるのです。
この世に存在するものは全て矛盾的・相対的な存在であり、それ自体は善でも悪でもないのですが、矛盾が見えず自分の行動を正当化するために使用すれば、どんなものでも必ず破綻をきたすのです。そして破綻した人は結果に執着し、自分に非をみとめず、その鍵となったものや心を罪悪と見てしまうのです。
ですから、愛の意味も固定化・実体化するのではなく、その展開にこそ気を使うべきでしょう。『仏説無量寿経』などの聖典に「愛」の字がどのように使用されているか具体的に見てみると――
「愛敬」「和顔愛語」「仁愛」「愛法」「敬愛」「一念喜愛」「聖尊の重愛」「欲願愛悦の心」「甚深の法を愛楽」「月愛三昧」「仏の功徳を愛する」等のように、愛が菩提心に随順する面をみとめる半面、「憎愛」「愛欲」「恩愛思慕して、憂念結縛す」「宝を愛して貪る」「愛欲交乱」「貪愛」「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」「疑網を断除して愛流を出で」「愛欲の広海に沈没」等と菩提心の障害となる面も見逃しません。
なお、「愛」の関心が仏法や敬恭供養・功徳・信心・往生・願などに向いたとき、つまり菩提心に随順する内容で語られる場合は、梵語で「プレーマ」という語が多く用いられ、「愛」が欲望や執着・貪り・煩悩などに向いたとき、つまり菩提心の障害となる内容で語られる場合は一般的に「トゥリシュナー」という語を用いるそうです。
それでは「愛欲」や「憎愛」のように「煩悩」と見なされた愛は極力排除すべきものなのでしょうか。
この点について親鸞聖人は、煩悩と菩提が決して反目するものではないということを述べてみえます。
無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
『高僧和讃』39 曇鸞讃 より
煩悩という愛欲的な心を「氷」にたとえ、菩提心という求道的精神や仏心を「水」にたとえ、氷が溶ければ水になるように、煩悩も手段さえ得れば菩提に転じられるというのです。これは親鸞聖人が勝手に言われたのではありません。曇鸞大師の言葉を引かれたのです。聖人の信心は曇鸞大師に導かれ開かれたのですが、大師は氷と水の喩えの他に『維摩経』の「淤泥華」の説を引かれてみえます。
〈淤泥華〉とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆して、つねに絶えざらしむと。
『往生論註』93 巻下 より
(『顕浄土真実教行証文類』 証文類四17 還相回向釈 引文 に引用)
意訳▼(現代語版 より)
<煩悩の泥の中に蓮の花を開く>とは、『維摩経』に、<高原の乾いた陸地には蓮の花は生じないが、低い湿地の泥沼には蓮の花が生じる>と説かれている。これは凡夫が煩悩の泥の中にあって、菩薩に教え導かれて、如来回向の信心の花を開くことができることをたとえたのである。まことに菩薩は、仏・法・僧の三宝を次々と受け継いで広く盛んにし、絶えないようにされているのである。
さらに、源信僧都も同様のことを言われています。
二に縁理の願とは、一切の諸法は、本来寂静なり。 有にあらず無にあらず、常にあらず断にあらず、生ぜず滅せず、垢れず浄からず。 一色・一香も、中道にあらずといふことなし。 生死即涅槃、煩悩即菩提なり。 一々の塵労門を翻ずれば、すなはちこれ八万四千の諸波羅蜜なり。 無明変じて明となる、氷融けて水となるがごとし。
『往生要集』39 巻上 正修念仏 より
意訳▼
二つに、理を対象とする願というのは、あらゆる諸法は、本来寂静であって、有でもなく無でもない、常でもなく断でもない。生ぜず滅せず、垢れもせず浄くもない。一つの色、一つの香も、中道でないものはない。生死はそのまま涅槃であり、煩悩はそのまま菩提である。一々の塵労(煩悩)の門をひるがえせば、そのまま八万四千の諸波羅蜜(さとりの道)である。無明が変じて智明となるのは、氷を融かして水にするようなものである。
ただし、単純に煩悩が菩提に転じることはなく、「その体は同一であるけれども、時にしたがって、その
問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。
答ふ。
かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空のものとなす。
もつぱら仏弟子にあらず。
いま反質していはく、なんぢ、もし煩悩即菩提なるがゆゑに欣ひて煩悩・悪業を起さば、また生死即涅槃なるがゆゑに欣ひて生死の猛苦を受くべし。
なんがゆゑぞ、刹那の苦果においては、なほ堪へがたきことを厭ひ、永劫の苦因においては、みづからほしいままに作ることを欣ふや。
このゆゑに、まさに知るべし、煩悩・菩提、体これ一なりといへども、時・用異なるがゆゑに染・浄不同なり。
水と氷とのごとく、また種と菓とのごとし。
その体これ一なれども、時に随ひて用異なるなり。
これによりて、道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。
『往生要集』39 巻上 作願門 より
意訳▼
問う。煩悩と菩提とが、もし体が一つならば、ただ意のままに煩悩を起こしてもよいのか。
答える。このような見解を起こすものを<空の意味を誤解する者>と名づける。全く仏弟子ではない。今、反問していおう。そなたがもし、煩悩そのまま菩提であるからといって、このんで煩悩悪業を起こすならば、また生死そのまま涅槃であるから、このんで生死のはげしい苦しみを受けるであろう。どういうわけで、ほんの短い間の苦しみでも、なお堪え難いと厭い、永劫の苦しみをうける因においては、ほしいままに作ることをこのむのか。
こういうわけであるから、次のように知るがよい。煩悩と菩提とは、体は同一であるけれども、時と用 が異なっているから、汚れたものと清らかなものとの不同がある。水と氷のようであり、また種子と果実とのようである。その体は同一であるけれども、時にしたがって、その[ 用 が異なるのである。こういうわけで、道を修める者は、本来もっている仏性を顕わすけれども、仏道を修めない者は、ついにこの道理を顕わすことはないのである。[
このように、煩悩的な愛も菩提的な愛も、根は同じなのです。しかし現実に時間を得て「はたらき」をみせる時は、煩悩と菩提は同じではありません。
そこで、菩薩の初期段階である信位の十段では、盲目的な愛から菩提的な愛に目ざめる仏道を修します。それはまず真実に目ざめようと願い(至心)、願いをもった自分を信じ、人生や社会を信じ、希望を持ち、人生に明るさを取り戻し、社会の浄化を目指すのです。
この後、「住位」「行位」「回向位」までは同じ至心のはたらきによってそれぞれの養分を得ますが、41段(正定聚・不退転)の「地位」からは信楽や欲生の心がはたらきます。
至心は「引出仏性」ともいいますので、まだ自力の励み(意志の力)を必要としますが、ここを通していくうちに了因仏性である「信楽」、生因仏性である「欲生」の純粋な如来他力のはたらきが引き出されてくるのです(ただしこれら三心が如来回向の一心と解れば、至心も他力と領解できます)。念仏の功徳はこうした至心・信楽・欲生の三心によって一切衆生を48段の不動地以上の菩薩にするはたらきを具えていて、聖人は真実信心者を補処の弥勒と同じ51段の「等正覚(十地満位)の菩薩」とほめ称えられました。
どうして念仏がそうした功徳を具えているか解るのかというと、本願(四十八願)の生起本末を聞くことで解るのです。本願が成就するいわれ(経緯)を経典と人生に学ぶうちに、如来の願いの深さや歴史性に自ずから気づかせていただけるのです。すると、如来の願いが私の願いとなり、如来のいのちが私の信心と成り切り、心の奥底に念仏が響き渡っていることに気づくことができます。
このように、個人の愛が慈悲に転じられたり、欲望が願いに成ったり、社会を根源から成り立たせていくまごころの世界を浄土とよぶのです。そして浄土のはたらきを身に受け、真から往生を願い、自らの国をみつけ、その国を阿弥陀仏の浄土のように素晴らしい国にしていくことが念仏者の喜びとなります。
愛については、これを絶対視せず、毛嫌いもせず、自らと衆生の菩提心に転じられていくことを願って用いることを勧めるのです。
マタイ福音書5章
43 あなたた達は昔の人がモーセから"隣の人を愛し、"敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。
44 しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。
45 あなた達が天の父上の子であることを示すためである。父上は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨をお降らしになるのだから。
46 自分を愛する者を愛したからとて、なんの褒美があろう。人でなしと言われるあの税金取りでも同じことをするではないか。
47 また兄弟にだけ親しくしたからとて、なんの特別なことをしたのだろう。異教人でも同じことをするではないか。
48 だからあなた達は、天の父上が完全であられるように"完全になれ。"マタイ福音書10章
34 地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、戦いをもたらすために来たのである。
35 わたしは子を"その父と、娘を母と、嫁を姑と"仲違いさせるために来たのだから。
36 "家族が自分の敵となろう。"
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしの弟子たるに適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしの弟子たるに適しない。
38 また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたしの弟子たるに適しない。
39 十字架を避けてこの世の命を得るものは永遠の命を失い、わたしのためにこの世の命を失う者は、永遠の命を得るであろう。ルカ福音書6章
36 あなた達の天の父上が慈悲深くあられるように、慈悲深くあれ。
37 人を裁くな、そうすれば神に裁かれない。人を罪に落とすな、そうすれば罪に落されない。赦してやれ、きっと神に赦される。
38 与えよ、きっと与えられる。押しつけ、ゆすり込み、こぼれるほど量りを良くして、懐に入れていただけるであろう。人を量る量りで、あなた達も量りかえされるからである。マルコ福音書12章
28 一人の聖書学者がこの議論を聞いていたが、イエスがあざやかに答えられたのを見ると、進み出て尋ねた、「どの掟がすべてのうちで第一ですか。」
29 イエスは答えられた、「第一はこれである。――"聞け、イスラエルよ、われわれの神なる主はただ一人の主である。
30 心のかぎり、精神のかぎり、"思いのかぎり、"力のかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。"
31 第二はこれ。――"隣の人を自分のように愛せよ。"これら二つよりも大事な掟はほかにはない。『福音書』塚本虎二訳(岩波文庫) より
不請の法をもつてもろもろの黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。
意訳:すすんで人々に尊い教えを説き与えることは、親孝行な子が父母を敬愛するようである。『仏説無量寿経』2 巻上 序分 証信序 八相化儀 より和顔愛語にして、意を先にして承問す
意訳:表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れた『仏説無量寿経』9 巻上 正宗分 法蔵修行 より慈恵博く施し、仁愛兼ねて済ふ
意訳:慈悲の心でひろく施し、哀れみの心で人々を救う『仏説無量寿経』18 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳 より柔軟調伏にして忿恨の心なく、離蓋清浄にして厭怠の心なし。等心・勝心・深心・定心、愛法・楽法・喜法の心のみなり。もろもろの煩悩を滅して悪趣の心を離る。
意訳:いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。『仏説無量寿経』30 巻下 正宗分 衆生往生果 より世間の人民にして、父子・兄弟・夫婦・家室・中外の親属、まさにあひ敬愛してあひ憎嫉することなかるべし。
意訳:世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。『仏説無量寿経』31 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭 より仁慈博愛にして、仏語の教誨あへて虧負することなかれ。
意訳:ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。『仏説無量寿経』40 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 よりよく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
意訳:信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。『顕浄土真実教行証文類』 行文類二102 正信偈 よりここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。
意訳:そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本)1 大信釈 嘆徳出願 より信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
意訳:「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決定してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから疑いがまじることはない。『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本)20 三一問答 字訓釈 よりもし堅固の大悲心を得れば、すなはちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなはちよく有為の過を捨離せん。
意訳:堅固な慈悲の心を得れば、奥深い教えを喜び味わうことができる。奥深い教えを喜び味わえば、迷いの罪を離れることができる。『華厳経』 より所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。
意訳:あらゆる功徳をおさめた名号を与えられたことを喜んで、無量寿如来の国に生れようと願うなら、願いどおりにみな往生し、不退転の位を得て、この上ないさとりを開くことができる。もろもろの衆生において、つねに愛敬を楽ふことなほ親属のごとし
意訳:まるで身内のものに対するかのように、あらゆる衆生を常に敬愛したのである。『無量寿如来会』 よりそのときに世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入りをはりて大光明を放つ。・・・甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆゑにまた月愛三昧と名づく
意訳:そのとき、慈悲に満ちた導師である釈尊は、阿闍世のために月愛三昧にお入りになり、三昧に入りおわって大いなる光明を放たれた。・・・甘露の味わいであり、すべての衆生が願い求めるものであります。だからまた、月愛三昧というのです。『涅槃経』 よりこの智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。
意訳:この智慧による楽しみは、阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。『浄土論』 より
つねに導師となり、等しくして憎愛なし
意訳:いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをしない『仏説無量寿経』30 巻下 正宗分 衆生往生果 より人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。
意訳:人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。『仏説無量寿経』31 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭 より愛欲に痴惑せられて道徳を達らず、瞋怒に迷没し財・色を貪狼す。
意訳:欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。『仏説無量寿経』31 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭 よりたがひにあひ哀愍し、恩愛思慕して、憂念〔身心を〕結縛す、心意痛着してたがひにあひ顧恋す。
意訳:互いに別れを悲しみ、切ない思い慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。『仏説無量寿経』31 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭 より総猥ケ擾にしてみな愛欲を貪る。道に惑へるものは衆く、これを悟るものは寡し。
意訳:世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。『仏説無量寿経』31 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭 より愛欲・栄華つねに保つべからず、みなまさに別離すべし。
意訳:欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。『仏説無量寿経』32 巻下 正宗分 釈迦指勧 弥勒領解 よりもろもろの疑網を断ち、愛欲の本を抜き、衆悪の源を杜ぐ。三界に遊歩するに拘碍するところなし。
意訳:さまざまな疑いを断ち切り、執着を根本から抜き去り、すべての悪の源を閉じふさぎ、迷いの世界に行って自由自在に人々を導いている。『仏説無量寿経』33 巻下 正宗分 釈迦指勧 弥勒領解 より富有なれども慳惜してあへて施与せず。宝を愛して貪ること重く、心労し、身苦す。
意訳:裕福でありながらも物惜しみして人に施しを与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまう。『仏説無量寿経』36 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 よりただ婬イツを念ひて、煩ひ胸のうちに満ち、愛欲交乱して坐起安からず。
意訳:みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。『仏説無量寿経』37 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 よりすでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり
意訳:すでに無明の闇ははれても、貪りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。『顕浄土真実教行証文類』 行文類二102 正信偈 よりすなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ
意訳:貪りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえる『散善義』 より信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。
意訳:信はさとりのもとであり、功徳を生む母である。すべての善を養い育てる。疑いを断ち切って煩悩を離れ、この上ないさとりを開かせる。『華厳経』 より
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。
意訳:いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、正定聚に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、嘆かわしいことである。『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 仮偽弁釈 113より