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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』8b(重誓偈2)

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 法蔵発願 重誓偈

  (経文は{『仏説無量寿経』8a}参照)

 根本精神が歴史や社会を導く師となる

「究竟靡所聞 誓不成正覚」までの三誓は前回詳説しましたので、今回は重誓偈の後半を味わってみます。

離欲深正念 浄慧修梵行: 離欲と深正念と、浄慧とをもつて梵行を修して、
志求無上道 為諸天人師: 無上道を志求して、諸天人の師とならん。

 この箇所は本来、前回の三誓の流れの中で語るべきものかも知れません。と申しますのは、<かならず{卒業なしの}無上道に至らん>、<大施主となり全ての貧苦(窮)を済う>、<名声が十方に超え聞こえん>という三大誓願は仏の最終目標でありますが、その誓願が実現されるために、自らはどうあれねばならないか≠ニ、ここでは仏自身の成仏の道程を語っているのです。四十八願では、国土と国民がどうあらねばならないか≠ェ十一願までに説かれて、十二願から仏自身はどうあれねばならないかという願が出ましたが、重誓偈ではまず自らの誓願が建てられます。

 この理由は前にも語りましたが、重誓偈では<求道の前衛主体である正定聚の菩薩(信心獲得者)の「我」と、その根本主体である阿弥陀仏の「我」が一体となった「我」、つまり機法一体の南無阿弥陀仏と成り切った「我」>の誓いですから、仏と衆生、さらには身土不二の国土が総合的に誓いを発しているので、自身の誓願が最初に述べられるのでしょう。

<離欲>とは、欲を離れることです。なぜ「欲」を離れる必要があるかと申しますと、「欲」とは「無いものねだり」の苦しみを生み、不要となっても執着の苦しみが残る心だからです。そして、「無いものねだり」の苦しみや執着の苦しみは、自分自身の主体性を失わせ、他者による誘導を容易にする危険性があります。また「欲」は気まぐれであり、叶って叶わなくても構わないものが含まれるので人生に迷いを生んでしまいます。比べて「願」や「誓」は、今ある存在そのものを発揮し実現させてゆくことを求めますので迷いがなく、常に必要な心ですから誓願を保っても執着とは呼ばないのです。執着とは不要なものを保とうとすることをいいます。

<深正念>とは、「深」は仏の深い≠ニいう意味で、「正念」は邪念を離れ真実を思念する≠ニいうことです。「正念」は「八正道」の一つに数えられていますが、ここでは「如来回向の正念」ということでしょう。「深正念」は衆生の側からの念ではありません。我と成り切られた<我ならぬ清らの我>の念であり、その正念が如来より回向される。これが「深」の意味なのです。

<浄慧>はけがれた欲望のない清浄なる仏の智慧≠ニいう意味です。智慧の「慧」は、泰然自若とした態度で我執や先入観念を離れ、客観の世界が平等にあるがままに見える智慧です。「智」は慧の立場に立った上で、明らかに分別し、白黒の決断を下してゆく智慧です。これも衆生の側からの智慧ではありません。如来回向の「浄慧」です。

<修梵行>とはけがれた欲望を断じた、清く正しく美しい仏の修行≠ニいう意味です。これも衆生の側から行った修行ではなく、如来回向の梵行です。四十八願で言えば「36・聞名梵行の願」に当たりますが、出家主義ではなく在家の立場を重んじるこの『仏説無量寿経』の経意から言えば、「修梵行」は「禁欲道」ばかりでなく、むしろ「愛欲即是道」が主となります。

 ところで、「離欲」「深正念」「浄慧」「修梵行」の四つはどのような関係にあるのでしょうか。一番単純に言えば、<無上道を志求して、諸天人の師とならん>との誓いを実現するための四要素≠ニも考えられます。また、「離欲」の裏づけのある「深正念」≠ニ「浄慧」に基づいた「修梵行」≠フ二要素に絞ることもできます。さらには、「深正念」によって生み出される「浄慧」≠ニ考えれば「修梵行」のみに絞ることもできます。註釈版は「修梵行」の一要素と解される読みになっていますが、それはあまりに極端ですから、二要素と理解するのが勝義だと思われます。

<志求無上道 為諸天人師>で、はやり「無上道」が出てきます。最初は「必至無上道」でしたが、「志求無上道」も同じです。仏教とはこの「必至無上道」「志求無上道」の展開である、と言えるでしょう。そしてそれは同時に、人類の歩みは「無上道を求め至らん」とする展開である≠ニいう意味でもあるのです。この根本精神が人々の師となり歴史や社会を導いてゆくのです。

 高々と誓願を宣告し実行する

神力演大光 普照無際土: 神力、大光を演べて、あまねく無際の土を照らし、
消除三垢冥 広済衆厄難: 三垢の冥を消除して、広くもろもろの厄難を済はん。

<神力演大光 普照無際土>は、いよいよ阿弥陀仏が衆生一人ひとりの国土(世界)を「照らす」ということですが、「照らす」と言っても太陽や電灯のように光源をどこかに設置して光を当てるのではありません。正確に言えば「見出して輝かせる」のです。光明は「はたらき」です。一人ひとりの持っている世界が本質を現わすように仕向け、一人ひとりの個性で輝くように導くのが仏の光明です。個人的な悪い癖が転じられ、個性となって輝くのです。では具体的にどういう道程を経て一人ひとりの世界が輝くのでしょう。
 時として、「俺には確固とした信念がある。俺の生き方に文句を言うな」と自分の生き方を貫く人がいます。独覚で覚ることができないわけではありません。しかしその道程は余りに長く、覚るまでに命が持ちません。尊い先人たちや同朋から道を聞けば、千年かかることも十年や一年、それどころか一瞬で適うことさえあります。
 物理や数学も、先人たちが発見した法則をまず学んで、その上で自らが応用するようになりますが、人生にも法則があるのです。仏教は、覚った人が発見した人生の法則(仏法)を、相手の人間性や時代に合わせて教え(仏教)にしたものなのです。機と法が遇えば、闇の長さには関係なく、一瞬で輝きを現わすことになります。

<消除三垢冥 広済衆厄難>は、衆生の厄難(災厄/わざわい)の原因が三垢冥[サンクミョウ]にあることを見抜き、解決方法を示しています。迷った人間や他宗教者の中には、厄難は日柄や方角や運勢や悪霊が原因だと思い込んでいる人もいます。しかし、すべての厄難は人間の心身言動に潜む欠陥のせいなのであり、特に貪瞋癡の三垢冥は、人生を闇に陥らせる根本原因なのです。三垢冥とは、貪欲[トンヨク](むさぼり)、瞋恚[シンニ](いかり)、愚癡[グチ](おろか)をいいます。
 貪欲は、欲望に自分の主体が奪われ、執着し、むさぼり尽くすこと。瞋恚は、怒りに自分の主体が奪われ心身の平安を乱すこと。愚癡は、愚かで智慧がない上に物事を問わないことをいいます。根本煩悩は「貪、瞋、癡、慢、疑、見」の六煩悩なのですが、その中でも最も解決を迫られる三毒煩悩なのです。
(参照:
{百八煩悩}
 この中でも注意したいのは「愚癡」で、一般的には「愚痴」と書きますが、「癡」と「痴」は似て非なる文字でありますし、現代では「愚痴」は不平不満を言う意味になってしまいました。しかし本当は「問題意識の欠如」という意味なのです。
「愚」は「おろか」であり、仏教では消除(克服)すべきものなのですが、たとえば「愚禿釈の親鸞」とか「大愚良寛」と、自らの名のりに「愚」を当てる高僧もみえます。これは仏教の良き伝統でもあるのですが、自らを省みればかえりみるほと「私は何と愚かなのだろう」との慚愧に駆られるのです。すると「問い」が生まれるのは必定でしょう。愚かであることが自覚できたのだから、敬虔な気持ちで何事も聞き開いてゆく態度が定まるのです。この「問い」が生まれれば、「愚」ではあっても既に「癡」ではありません。「癡」とは「問いが病んでいる」という意味なのです。
『ウダーナヴァルガ』25・23には、<愚者が「私は愚かだ」と知れば賢者である>とありますが、これは「問い」によって「癡」が破れ、「愚」が生かされてくる。渋柿の渋みが甘みに転じられるように、「愚」の欠点がそのまま長所となることを言います。
 比べて「私は愚かではない」「このままで問題はない」「私は解脱した」などと主張する人間こそ信用はできません、邪見驕慢の悪衆生の有様でしょう。「愚」が自覚できないので、「問い」が発生しない「癡」の状態が続くのです。人生の問題は、「問い」が無ければ答えは見つからないものなのです。

開彼智慧眼 滅此昏盲闇: かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅し、
閉塞諸悪道 通達善趣門: もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。

<開彼智慧眼 滅此昏盲闇>は、衆生の「昏盲闇」、つまり心の眼が開かず物事の本質が見えない状態≠解決するため「彼の智慧眼を開く」とあります。ここに「彼の」とありますが、「彼」とは衆生一人ひとりのことを指すのか、それとも「彼岸の」という意味なのか、が問題となってきます。一般的には前者で訳されているようですが、迷っている彼の眼≠ヘ「此の岸」の眼であり、この眼をいくら見開いてもそれは仏智とは言えません。しかし誰の眼を開くのかと言えば、衆生一人ひとりの眼を開くのでなければ解決にはなりません。するとやはり、この智慧眼も「回向」されるものでしょう。衆生一人ひとりに仏より覚りの眼が回向され、その智慧の眼が開く。本質それ自体が働いて私の眼となり「よく見よ」と促される。それによって衆生の「昏盲闇」が滅するのです。

<閉塞諸悪道 通達善趣門>は、諸々の悪道を閉じ、善趣門を通達するということです。「諸々の悪道」とは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道(参照:{無三悪趣の願})をはじめ、人生を破滅に追いやる様々な道であり、これを閉ざすのです。真っ当な道から外れた道を塞ぐ、そのためには善趣門を通達するということですが、善趣門とは浄土入出無碍の門であり、これが見つかることが浄土門の要めなので、それを通達する、知らしめるのです。
 浄土の門に入るというのは、歴史的に明らかとなった人生の法則を尊び、真心の本質に感動し、よくよく見定めてゆくことであり、浄土の門から出るというのは、この世の歴史的法則に背いて真心を殺す有様を悲しみ、よくよく自他を監視し、同時に自分自身を作り変え、新たな環境を創造してゆくことです。このように仏は、性根の無い私の性根となってはたらいて下さいます。
 なおこの二つの世界は別々にあるのではなく、浄土は娑婆を娑婆と映し、娑婆は浄土を浄土と映している。表裏一体の世界であることも解るでしょう。その要めとなる入出無碍の門が「善趣門」なのです。

功祚成満足 威曜朗十方: 功祚、成満足して、威曜十方に朗らかならん。
日月シュウ重暉 天光隠不現:日月、重暉をオサめて、天の光も隠れて現ぜじ。

<功祚成満足 威曜朗十方>は、「功」は「工夫をこらした仕事とできばえ。手がら」であり、「祚」は「初代の人が切り開いて後世に伝えた国の福運。先祖から伝わる王朝の君主の位。さいわい。天がさずける幸福」ですから、これまで述べてきた歴史を貫く大事業が満足し、仏の威光がほがらかに全世界に及んでゆくことを誓ってみえます。

<日月シュウ重暉 天光隠不現>は、日や月も並び輝くことをおさめ、天光(星)も隠れて現れない、ということです。これは{讃仏偈}の<日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし>と同じ表現ですが、讃仏偈では理想王である世自在王仏に出遇った法蔵の心境だったのに比べ、この重誓偈では法蔵菩薩のかくあらん≠ニの誓いになっています。法蔵菩薩には世自在王仏と等しく成らん≠ニの誓いが貫かれているのです。
 ところで、日や月や星が輝きを隠す、とはどういう状態を言うのでしょう。一般的には仏の輝きと太陽や天体の輝きとを比べ、そこに雲泥の差があることを言い、仏の輝きの無上なるを表現したもの、と理解されているようです。
 ただこの理解では、単に仏と天体を比較しただけで、私自身の人生は反映されていません。島田師はこの点においても見事な領解を示されています。法蔵が<みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし>と言うのは、輝かしい師の前に出ると、今のみじめな自分が情け無い。今までの私の人生は一体何だったのか。こんなに輝く道があったのか≠ニ驚き、世の中が真っ暗闇になる。今まで価値があると思い込んでいたものが全く無価値になってしまった懺悔の心境、と仰いました。
 そうであるとすれば、阿弥陀仏の威光を目の当たりにした私たちも、かつての法蔵と同様、仏徳讃嘆とともに価値観が転換し、自らの懺悔が出てこなければ嘘になります。逆に、仏を讃嘆した口で俺の教えを聞け≠ニばかり人々を教化対象として見下げるのは邪見驕慢の極みと言わねばなりません。よくよく慎まねばならないでしょう。

 苦悩の現場において

為衆開法蔵 広施功徳宝: 衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。
常於大衆中 説法師子吼: つねに大衆のなかにして、法を説きて獅子吼せん。

<為衆開法蔵 広施功徳宝>は、衆生のために法蔵を開いて、広く功徳の宝を施す。ここからは、あまねくもろもろの貧苦を救済することの具体策です。
「法蔵」とは、法蔵菩薩と同じ漢字が当てられていますが、両者は同じではなく、ここは「念仏」とする解釈が勝義とされています。しかし全く違うかと言うとそうではなく、充分に関係はあるはずです。法蔵菩薩は人類の歴史に自ら働きを示し社会に乗り出た仏性であり、この「為衆開法蔵」の法蔵は、名はあっても内容が隠れている仏性や、逆に内容はあっても名として現れ出てこなかった仏性のことでしょう。ですから、歴史の軸となった仏性が、具体的な名の由来を開示して仏性を掘り起こし、人類に示してゆく、これが為衆開法蔵の意味なのではないでしょうか。ものみな名のる世界≠ェ浄土であります。
「広施功徳宝」の「功徳宝」も南无阿弥陀仏の名号とされています。するとこの一文は、衆生のために南无阿弥陀仏を開示し、広く南无阿弥陀仏の名号を施す≠ニなります。しかしこれだけでは何を言いたいのか意味か解りません。
 法位は<諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり>と仰り、親鸞聖人は<「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり>と著されました。この導きによって先の「為衆開法蔵 広施功徳宝」を味わってみると、衆生のために、南无阿弥陀仏の名号となった仏性の歴史的展開の内容を開示し、仏徳を褒め称えて聞き開いてゆく念仏を広く人々に施す≠ニいう意味になります。念仏は単に口を動かして唱えるのではなく、内容を知って全身・全生活で仏徳を褒め称えることなのです。
(参照:
{どのような心でお経を読むのか?}

<常於大衆中 説法師子吼>は、常に人々の中において、法を説くことが獅子のほえるように、ということです。「常於大衆中」は文字通りですが、「説法師子吼」が問題です。ライオンの咆哮のように説法する、というのですが、基本的に説法師子吼の内容は名号です。すると大声で念仏する意味にも取れますが、それでは唱名になってしまいます。本当は称名であり、それは先の説明どおり、南无阿弥陀仏の名の由来を訊ねてゆくうちに、名号に込められた浄土建立の歴史的仏徳が、まるでライオンの咆哮のように響き出てくる。そんな素晴らしい名号を成就したいという仏の誓願なのでしょう。実際私たちは、人類の歴史の上に如来の血を吐くような苦労や悲嘆や救済の浄業を見出すことができるのであり、それは絶叫のような咆哮であることは、この自分の浅ましい生き様を懺悔する中から見出されるのであります。

供養一切仏 具足衆徳本: 一切の仏を供養したてまつりて、もろもろの徳本を具足し、
願慧悉成満 得為三界雄: 願と慧ことごとく成満して、三界の雄たることを得ん。

<供養一切仏 具足衆徳本>は、もう一度法蔵菩薩自身の誓願に戻り、一切の仏を供養し、あらゆる徳をそなえた仏になろうと誓います。供養とは、自らは敬虔な態度を取り、相手を理解し尊敬し、相手の深い人生観を聞き開いてゆくことを言います。ところで「一切仏」とは誰のことを指すのでしょう。特別に功績のあった人々でしょうか。功績はなくとも一定水準以上の覚りを開いた人のことでしょうか。実は大乗仏教では一切衆生悉有仏性が原則でありますから、一切衆生に本質として具わる仏性をさらに明確に一切仏と拝み、そのはたらきの展開を尊敬してゆくのです。東井義男師は「拝まない者も おがまれている 拝まない時も おがまれている」と仰いましたが、仏の方が私たちより先んじて私を拝む。仏が私を信頼してくれていた、それを申し訳ない≠ニ懺悔して、私が仏を信頼して拝む。これが「供養一切仏 具足衆徳本」の内容です。
 人は自分を否定したり批判する言葉には反発し、素直に道を聞くことができませんが、自分を本当に褒めて下さる方の言葉は真摯に耳を傾けるものです。もし現在、仏教の伝道布教が行き詰っているとしたら、それは時代や環境のせいばかりではなく、相手を供養することを忘れて教説を押し付けようとする態度に原因があるのかも知れません。

<願慧悉成満 得為三界雄>は、以上の本願と智慧が全て成就して、三界の雄たることを得ん、ということです。三界とは欲界・色界・無色界の迷いの世界(参照:{往生論註を味わう 8「#三界の道に勝過せり」})。この娑婆世界の雄(王・世尊)となることを法蔵菩薩は誓っているのです。つまり阿弥陀仏は浄土の王 というだけではなく、娑婆世界の王仏と成ろうと誓願してもいるのです。これによって、私たちは浄土に往って後に浄土の功徳を受けるのではなく、迷い悩み苦しむ娑婆の現場で浄土の功徳を得ることができる、ということが明らかになるのです。

如仏無礙智 通達靡不照: 仏(世自在王仏)の無碍智のごとく、通達して照らさざることなけん。
願我功慧力 等此最勝尊: 願はくはわが功慧の力、この最勝尊(世自在王仏)に等しからん。

 世自在王仏と法蔵菩薩の関係は、久遠の師と弟子の関係でありながら、やがて弟子は師と同じ智慧と徳を得て独立を果たしてゆく平等の関係であります。また、弟子は自らのしびれるような、絞り出すような、震えるような心地で誓願を発する、それに応じて師はただ一人、その高邁な精神に同感し、肯いてくれるのです。誰がこのような誓願をたった一人で建てられましょうか。肯いて頂ける師が居ればこそ、現実とは気の遠くなるような隔たりがある誓願を発することができるのです。

斯願若剋果 大千応感動: この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。
虚空諸天人 当雨珍妙華: 虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし〉」と。

 法蔵菩薩が以上のように四十八願と重誓偈を建て終わると、いよいよ世界全体(大千)や天人たちに向かって披露し、内容の判断を仰ぎます。結果として世界全体が感動の嵐に包まれ、また天人たちが集まって来て美しい華の雨を降らせます。
 ただし、法蔵菩薩は他の誰かに確かめて欲しかったのではありません。自ら発した誓願に自ら感動し、人生が美しい荘厳に飾られることを確信をもって宣言しているのです。内容の素晴らしさは既に決しているのですが、それを全世界に披露せざるを得ない感動がここでこみ上げてきたのでしょう。
 阿弥陀仏はこれにより、いよいよ自らの精神を因果を持って説く地固めができたのであり、現実の人々に浄土建立の誓願と名号に込めた徳を通して歴史的精神に触れる方法を確立したのです。

 資料

生まれたときと、本当に自己が誕生したとき。我々から信心決定でも、正定聚不退転菩薩として私が誕生したときに、大地が六種に震動して天から華が降ると。死んだときであります。
 この場合には生まれた私に関係なしに、今、赤ちゃんね。赤ちゃんは知らない。赤ちゃんは知らんでも、誰は喜ばんでも天地が喜ぶ。それと同じように私が誕生したときも私が知らんでも天地が喜ぶ。それは何か。それによって本当の人間に生まれた値打ちが見つかったから。私は悲しまなくても、誰は悲しまなくても、天地が悲しむ。でしょう。
 ところが、ここでは、今の法蔵菩薩は違うのです、これは。これは天地ではないのです。私の思いが私から始まるのです。私が自分の中に見つかったこの四十八の願いが、いかに広大無辺なものであって、まことであることが証明されるというと、だからこの願いを天地が証明するのです。時に応じて、法蔵菩薩の胸に応じて天地が動いている。これだけちょっと違いましょう。だから、同じ大地が六種に震動して天から華が降ると言いましても、今の三つの場合とこの法蔵菩薩の場合は場合が違う。
 それならば今度はどうか。私はどうだろう。信心決定して、私が本当の本願を信ずる私の胸にこの四十八の願いが見つかった途端に、法蔵菩薩と同じこの喜びが出てくる。これが大事なんですよ。そういうもの。
 だから、もう一つ申しますと、親鸞聖人は、法蔵菩薩が「ここをもって如来」、「菩薩の行を行じたまいしとき」、「一念一刹那も清浄ならざることなき」、「真実ならざることなき」この清浄真実のまごころをもって、衆生に回施(えせ)したもの。私、施すという。与えるという。
 そうすると、もらったらどうなるのでしょうかな。私だったら受け取るだけありがとうございます。今まで受け取る信仰だから。だから、いつ死んでもお浄土に参る。約束ぐらいでしょう。そうではないのです。仏の信が生まれてきたら、これは私の信になるのです。信心は私のもの。南無は私のものですよ。そうすると、仏の信が私の信にならねばいけないのです。如来廻向の信です。そうすると、私の仏の信は、お浄土を背中にして泥田の中にお浄土の花を咲かせていくということが仏の信でありますから、私もお浄土に向かうのではないのです。今までお浄土に向いておったかもしれないが、お浄土を背中にして、仏が泥田の中にお浄土の花を咲かせていくのと同じように、私も家庭の泥田の中にお浄土の花を咲かせていこうと、同じ方向になるのです。これを逆対応というのです。
<中略>
 そこで、大地が六種に震動して天から妙なる華が降ったと。そうすると次にはどうなるかというと、この華が大地に満遍なく華が降ったというのであります。これはやがて、『大無量寿経』の一番最後に出てきますから。これは菩薩が、今では法蔵菩薩でありますが、今度は私がお浄土に生まれた菩薩が、信心決定をした人は正定聚不退転菩薩と言いましょう。そうすると、これが菩薩の日暮らしになってくれば、今度は私の一足一足に全部華が降るのです。「青色青光、白色白光」の皆、色とりどりの華が降ってきて、私がその華の上を歩くのです。こういうものになってくるのです。
 だから見なさいね。これはただ法蔵菩薩だけではない。やがてそれが法蔵菩薩のお徳が全部、私のものになるのです。それを言うなら、信心のことですね。

仏説無量寿経講話(島田幸昭)より

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