ご本願を味わう

大経全体について

【浄土真宗の教え】

 『仏説無量寿経』の概略

【大無量寿経点睛】
(1)大経のあらすじ
 経典が自らを語っている。『大無量寿経』は私の命です。この経は親鸞がその当時、日本の神道、中国の儒教、道教、インドの仏教の中から、唯一つ「真の宗教」と選び取った書です(もちろん親鸞はキリスト教も西洋哲学も、科学も知らなかったが)。私はこの経を措いて二十一世紀を切り拓く教えは他にない。この経は人生地図であり、羅針盤であると思っています。しかし悲しい哉、この経は今日まで誰にも解読されることなく、公開の秘経として経机の上に置かれたままです。これから私は「大無量寿経点睛」と銘打って、この経の意を「八葉通信」に連載して、私たちの先祖が「人間に生まれた喜びは仏法を聞くこと」と言い伝えて来た、その法とはこの経のことであったかと、幾世の先祖に遇えることを信じて筆を執らせていただきます。「点睛」とは、「仏造って眼を入れる」、経の眼を開くことです。

【経の名】 「大無量寿経」また「大経」は呼び名で、経には「仏説無量寿経」と名づけています。一切経の中でこれほど簡単で意を尽くした名は外にはないと、金子先生はいっている。その眼で見れば『華厳経』も『涅槃経』も、『法華経』も『般若経』も、説かれている法だけで、誰が説いたか、説いた人の名がない。同じ人生読本でも、説く人によって内容も違えば、値打も違います。『維摩経』は維摩が説いたというだけで、何を説いた経か解りません。この経は「仏が説いた無量寿の経」と、説いた人と説かれた法とそれを記録した経の三つ調うた名です。

【仏説】 多くの経典の中で「仏説」と断っているのは、浄土教の経典だけだといっても過言ではないでしょう。何故殊更に仏説と断ってあるのでしょうか。<中略>「迷いを転じて悟りを開いた」のはアラカンです。仏とはさらに客観的な正しい人生観を確立した「覚者」のことです。この経が特に仏説と断った背景に隠された秘密は、何でしょうか。

【無量寿】とは、「いつまでも死なぬ」というような、「迷い」といわれている常識人の空想している寿ではない。覚者の寿です。寿は産み出す命、生きようとする意志、人間自らが人間より以上のものに進化し、真実の文化を創り出そうとする創造精神のことです。内に無限の可能性を宿している青春の、「春秋に富む」寿のことです。
 経には「無量寿仏」と「無量寿国」の二つに分析しています。西田哲学のいう「創造的世界の創造的主体」です。しかも、さらに創造的主体を、「根源的主体のアミダ仏と、「前衛的主体」の不退転の菩薩を分けています。

【大経】 親鸞が特にこの経を「大無量寿経」といったのは、単に大部な経ということだけではなく、『大方広仏華厳経』の「大方広」でしょう。「大」は優れている勝っていることで、特殊な地域の低俗な民族宗教ではなく、万人に通ずる世界宗教という意でしょう。それも今日の常識となっているキリスト教、イスラム教、仏教ということではない。それらの中にも迷信や低俗な信仰が幾らもある。正しい人生観に立った真実の宗教ということに違いありません。

【経】とは、「常なり法なり」といって、単なる書物のことではなく、「これを古今に通じて誤らず、これを中外に施してもとらない」永遠にして真実の、人間の生きる道を説いた「聖者の書」のことです。

【仏教の経典】には、仏教が生まれて、「大経」が説かれるまでには、何遍も自己脱皮しています。釈迦のさとりの根本仏教と、弟子の説いた部派仏教は、共に真如法性をさとりとするものですが、現実自覚に立った華厳経系統の、人間自らの進化を説くものは、後期の大乗仏教と呼んでいます。
 浄土経典の中でも特にこの『大経』は、人間からの進化はもちろん社会的歴史的自覚さえ遂げています。『大経』だけが正しい人生観に立った「了義経」で、その他の経は全て人生観に認識不足のある「不了義経」と貶されています。しかしこの心の眼の開けた覚者によって説かれた立派な経典が、悲しいことには「迷い」の常識の眼で読まれたものですから、今日ではまるで「虹の橋を渡って雲の世界へ連れて行く」ような、幼児のおとぎ話に化けてしまっているのです。

【『大経』のあらすじ】 私はこの「仏説無量寿経」の名を、「覚者のさとった、歴史を創造する、永遠に新たな命を説いた、人生読本」と翻訳しています。

【我聞くかくの如し】 この言葉から経は始まっている。これをどう読むかによって、経の死活が決まります。この「我」と名告る覆面の「覚者」こそ、釈迦の名に隠れていた正本人で、この経を創作した著書その人です。この経全体がこの「我」の一字から展開したものです。

【序説】は、この経が説かれる会場の光景ですが、これは肉眼で見える光景ではなく、この著者のさとりの内景です。
『華厳経』の「奇なる哉、我心の眼を開けば、山川草木皆さとっており、一切衆生に悉く仏性が有った」という、あの心境をさらに深め、詳しく説いたものです。

【仏仏想念の世界】 従来発起序と呼ばれていた文は、実はここからがこの経の正説で、親鸞が「仏の名号を以て経の体とする」といった所で、三世の諸仏が互いに念じ合う「仏仏想念の世界」の開顕が、この経の内容なのです。

【人類の精神史】 覚りの世界の開顕は「昔々まだ昔、もう一つ昔のその昔、錠光如来がこの世に出て、無数の衆生を育てて逝った。次に光遠、次に月光・・・・・・次に処世」と五十三の仏が過ぎたことを説く。これは法蔵菩薩がこの世に生まれて来るまでの、人類の精神史です。驚く勿れ、精神史という見方は最近のもので、『日本精神史』は國學院大學の村岡典嗣が初めてでしょう。それが二千年昔ですよ。この経の著者がいかに天才か、このこと一つでも解るでしょう。五十三仏の一々は、時代精神のめざめです。

【法王と国王】 第五十四番目が世自在王仏で、「時に国王あり、仏の説法を聞いて弟子となる」。いよいよ法蔵菩薩の誕生です。どこの国の王でしょうか。地球上に国王が現われたのは、中国の伝説の尭舜でも、紀元前五千年の昔です。結論だけ申しておきます。インドでは昔は国と国の争いが絶えなかった。全世界が一つの国であったらという悲願から、描き出されたのが、四天下の王の転輪聖王です。それが夢ではなく、現に足元にその理想の国が実現されていたのを、この経の著者が発見したのです。その国の王こそ法蔵菩薩その人なのです。

【理想と現実】 この世自在王仏と法蔵菩薩の出遇いは、国王の理想と現実の照らし合いによって、人類の深い願いを発見した様子を説いているのですが、親鸞もそのことを『愚禿鈔』にメモしています。経には「仏国土を摂取し、その中の無量の妙土を清浄にし、荘厳したい」と表白し、その実現の設計図が四十八願です。その第一願から第十七願までは、法蔵の即自的願と対自的願と即自対自的願ですが、驚くべきことにはこれも極最近のドイツ哲学の言葉です。第十八願は、覚りとは人間本能の理性が刺激して、内なる生命本能の脳幹が働き出すことを説き、あとの全ての願は、自分自らを身体的に世界的に形成し、客観化する種々相です。次の「三誓の偈」(重誓偈)は、願いの内に成就は自証せられる「永遠の今」を現し、永劫の修行は、歴史は今の構造の内的展開です。宇宙は現に自己完結していながら、無限に拡大しているのと同じく、内外一如の歴史的構造を説いているのです。そのあと法蔵の深い願いは虐げられた庶民の闇の中だけに生まれるが、願いの成就は「長者、国王」などの有力者でなければ実現しないことを説く。

【浄土の成就】 浄土はすでに「十劫の昔」に成就されている。どんな形で。「浄土には山も川もない。見ようと思えば現われる」。どこに。この「十万億の宿業の世界」を「去った」彼方に。去るとは?

【無量寿仏】 法蔵菩薩が成就した仏の第一の徳は光明です。「或いは仏の光あり、百仏の世界を照らす、千仏の世界、要を取っていえば無数の仏国を照らす」。「或いは仏の光あり、七尺を照らす、一里二里三里かくの如く転た倍して、乃至一仏の世界を照らす」。これは超越と内在の徳ですが、西洋哲学とは比較にならぬほど具体的です。これを踏まえて「故に無量寿仏をば、無量光仏、無辺光仏・・・・・・超日月光仏と号す」と十二の光明を説き、さらにその光明に照らされたものは、どんな変化が起こるのか、念仏者の徳を説いています。曇鸞は一々の光明の徳を一々の念仏者の上に説いています。
 第二は、仏の寿命の徳。(1)は長久、しかし長生きのことではなく、歴史的時間のこと。(2)無数の命を産み出す唯だ一つの寿。(3)唯だ一つの寿から産み出された無数の命。(4)さらにその命によって一切の世界が支えられていること。
 第三に、弥陀が初めてさとりを開いた時の初転法輪の会座に、雲の如く多くの聴衆が集まったという。その人たちはどうして弥陀のさとりを知ったのか、またどうやって来たのか。これが解れば私たちが救われる原理が解ります。

【浄土の功徳】は、樹と池と高殿で象徴しています。これは『華厳経』に習ったので、樹は行為的世界を、池は感情で柔軟心を、高殿は智慧と音楽で楽しみを現しています。

【浄土の人】は、浄土の土徳によって育つのですが、その人の美しいこと生活の楽しいこと、またその人間像を、虚無の身、無極の体と説いています。「虚無の身」とは、居っても邪魔にならぬ。居らなくなると淋しくなる人。自分自身は八畳に座れば八畳一ぱい、十畳に座れば十畳一ぱい。退職して六畳に座っても六畳一ぱいに住める人のこと。「無極の体」は、自分では自慢せんが、人が聞けば何でも教えてくれる人生経験豊かな人。

【華の中から仏が出る】 上巻の最後は心踊り血が高鳴る格調高い文章で、「またそよ風吹いて華を散らすに普く仏土に満ち、色の次第に順って乱れず、足その上を踏むに下がること四寸、足を挙げればまた元の如し。・・・・・・衆の蓮華は世界に満ち、一々の華の中より三十六百千億の光を放ち、一々の光の中より三十六百千億の仏を出す。一々の諸仏は十方のために微妙の法を説き、各々の無量の衆生を仏の正道に安立せしめたもう」と、その一々の仏と私の関係は? どう思いますか。

【信心と往生】 上巻にはアミダ仏に関する始終の問題、これから下巻は信心の問題の全てが説かれていて、上巻と下巻でアミダ仏とナムのいわれが明らかにされているのです。
 下巻の最初の文は成就文と呼ばれていますが、ここでは「生彼国者」をどう読むか、「彼の国に生まれた者」か、「彼の国に生まれんとする者」かが大きな問題です。次の「諸仏が弥陀の功徳を讃嘆する」、それを受けて「その名号を聞いて信心歓喜する」、讃める功徳と聞く名号の問題、仏の名号を聞いて感動できる人の問題、また「彼の国に生まれようと願えば即ち往生を得る」。それにくっついて「唯だ五逆と法を謗るものを除く」という問題、ここには真宗信心の死活問題が幾つもあります。

【願生の願意】 もっと重要な問題は次の次に出ている「往覲の偈」です。浄土に生まれるのは、一生厄介物になるためでもなく、お手伝いでもない、視察旅行です。「彼の浄土を見て、私の国も同じようにしたい」と述べれば、仏は喜んで「必ず成就しますよ。(どこで)夢の如く幻の如き(この世)に、滅びない真実の国を創ること」といっています。
 そして次に不退転の菩薩(念仏者)の日常生活を説き、反転して弥勒菩薩の名を呼んで、その信心の智慧によって見える現実生活のいかに悲惨で傷ましいかを説いて、懇ろに浄土を願わねばならぬことを勧めています。ここは一名所で、三毒段、五悪段と呼ばれています。
 それが終わってまた阿難の名を呼んで、阿弥陀仏を見、浄土を見ることを説いています。この『大経』だけではない、『観無量寿経』には愚かな罪の深いイダイケ夫人にも浄土が見えたことを説いています。浄土は私たちにも見える世界です。しかしそれは信心の智慧によってです。
 その阿難尊者の見た浄土に蓮華の開いたものと蕾のもののことを、弥勒が横合いから口を挟んで、「何の因、何の縁で華の開合の違いがるか」を尋ねています。これが胎生化生の問題で、浄土に生まれた信の中にも純と不純があることです。
 最後の流通文と呼ばれている中に「仏教が滅びる中に、この経だけは百年遺るようにする」とある「止終百歳」の文です。一般の学者はどうして千年も万年も遺すといってくれんのかという。金子先生一人「百年で結構、百歳は人の一生で、仏法は滅びるが、金子お前の一生は大丈夫、私は最後の一人として間に合った。最後の一人は廻れ右すれば最初の一人。新しい仏法は両手合わされたこの手から始まる」と。何と素晴らしい領解でしょう。親鸞のいう「補処の弥勒に同じ」とはこの信境でしょうか。

島田幸昭著『八葉通信』第8号 大無量寿経点睛 より

 この経は『大無量寿経』ともいい、略して『大経』とも称される。浄土真宗の根本所依の経典であり、阿弥陀仏の本願が説かれる。
 おおよそ、経典は序分、正宗分、流通分に分けられるが、この経の序分には、それが王舎城の耆闍崛山において、すぐれた比丘や菩薩たちに対して、釈尊が五徳の瑞相をあらわして説かれたものであり、如来が世間に出現されるのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためであるといわれている。
 正宗分にはいって、第一に法蔵菩薩が発願し修行して阿弥陀仏となられた仏願の始終が説かれる。まず「讃仏偈」において師の世自在王仏を讃嘆し、続いてみずからの願を述べる。次いで諸仏中における選択と、それによってたてられた四十八願が説かれるが、なかでも、すべての衆生に名号を与えて救おうと誓う第十八願が根本である。次に四十八願の要点を重ねて誓う「重誓偈」が、さらに兆載永劫にわたる修行のさまが説かれ、この願と行が成就して阿弥陀仏となりたもうてから十劫を経ているといい、その仏徳と浄土のさまがあらわされている。下巻にいたると第十八願が成就しえ、衆生は阿弥陀仏の名号を聞信する一念に往生が定まると述べ、さらに浄土に往生した聖衆の徳が広く説かれる。こうして第二に釈尊は弥勒菩薩に対して、三毒、五悪を誡め、胎生と化生の得失を判定し、仏智を信じて浄土往生を願うべき旨が勧められる。
 最後に流通分にいたって、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、将来聖道の法が滅尽しても、この経だけは留めおいて人々を救いつづけると説いて終っている。

本願寺出版社『浄土真宗聖典(註釈版)』仏説無量寿経 解説 より

 大経は上下二巻に分かれ、上巻において弥陀成仏の因果が説かれる。弥陀成仏の因果とは阿弥陀仏もと法蔵菩薩であった時、衆生救済の悲願止みがたく、世自在王仏のみもとにおいて、二百一十億の諸仏を覩見し、その中より善美なるものを選取して理想の浄土を建立し、その浄土に衆生を往生させたいと念じた。その願いを具体的に示したものが四十八願である。この願を完成するために、法蔵は永劫の修行をした。これが弥陀成仏の因である。弥陀成仏の果とは、先の因位の願行が成就して、自ら阿弥陀仏となり、西方に浄土を建立して衆生救済の法を名号として成就されたことをいうのである。
 下巻においては衆生往生の因果を説く。衆生往生の因とは、仏の名号を聞信する一つで救済されるという他力易行の大道であり、衆生往生の果とは、衆生が浄土に往生して得る仏果である。  次に下巻には釈尊の勧誡が説かれる。即ちこの世は三毒に沈み、五常にそむく五悪が満ちている。この悪世を厭い、浄土を欣求せよとすすめ、さらに五善を守って念仏行者としての行為をつつしむべきことが説かれている。

本願寺出版社/中央仏教学院『三経要義』4 三経の概要 より

『大無量寿経』のあらまし
『大無量寿経』は、上下二巻にわかれ、上巻は、阿弥陀如来の浄土がどのようにしてできあがったかを明らかにし、下巻は、その浄土に私たちがどのようにして生まれるのかを教えられている。 如来の眼(本願)が生まれるまで[上巻]
<序分について>
◆証信序
 釈尊のお弟子たちが、釈尊の教えを、学校の授業のように教養として聞いていることができなくなって、教えが聞く人の全身に生き生きと響く、生きた教えとなってよみがえったことを宣言されている。そして真剣に耳を傾ける釈尊のお弟子たちの姿を明らかにすることによって、なぜこの教えが真実なのか、という問いに応えられている。
◆発起序
 ・・・いつも釈尊の前で優等生のように、無欠席で教えを聞いていた阿難尊者が、初めて「今日の釈尊はいつもと違ってキラキラ輝いておられる。これは一体どういうわけですか」と尋ねる。釈尊は「阿難よ、よく気がついてくれた。そなたが気がついてくれたお陰で真実が世に出るのだ」と、微笑まれた。釈尊がどんな素晴らしい教えを説かれても、本当に「教えが聞こえる人」が現われなければ、真実は働かない。親鸞さまは、この一点に注目されて、『大無量寿経』は真実の教なんだ、と受けとめられたのである。
<正宗分について>
◆法蔵菩薩の出現
 ・・・私たちにわかるように、この世の人の姿を現した法蔵菩薩の物語を説かれ、私たちの考えてもみなかった広大な明るい阿弥陀如来の眼(本願)に会わせてくださるのである。
◆明るい眼の始動
 法蔵菩薩が建てられた四十八の明るい眼(本願)。それは私たちが狭い迷いの心で創り出した願いではない。五劫思惟(気の遠くなるような長い時間をかけて吟味された)と表現される目覚めた眼なのだ。その眼に出会うと、日頃、狭い自分中心の眼に振りまわされて悩み苦しむ、私たちの愚かな姿が浮き掘りにされてくる。
◆永遠のいのちの世界
 私たちは、欲望の狭い眼で見た世界しか知らない。そこで阿弥陀如来の明るい眼で見た世界を余すところなく教えられる。見たことも聞いたこともなかった阿弥陀如来の浄土とは、こういう世界なのだ、と、いのちの躍動する世界がくり広げられている。

浄土に生まれ行く人生[下巻]
◆常識の世界を超えよう(願成就の文)
 まず明るい眼との出会いとは何か、と説かれ、できのよい人が救われるという私たちの常識の世界を破って、ひらすら「目を覚ませ」と呼びかけられている。
◆目覚めた世界の人びと(一生補処)
 迷いの世界で幸せを追い続ける私たちに、目覚めた世界に生きる人びとの躍動する姿を、見せてくださる。その姿にめぐり会うと、誰でもこの世界で居眠りしていることができなくなる。
◆自分の心を見よ(三毒の段)
 阿弥陀さまの世界を、楽しいところだから努力して行きたい、というように、私たちの常識の世界では考える。だがそういう姿勢では、どれだけがんばっても、阿弥陀如来の世界にたどり着くことはできない。まず、私たちは、自分本位の狭い煩悩の世界(貪欲、瞋恚、愚癡)から、一生離れることができないことを知らねばならないと、きびしく問いかけられている。
◆阿弥陀如来の世界しかない(弥勒菩薩との対話)
 この世の救われない人びとの姿を嘆き、未来の民衆ととに救われたいと願う弥勒菩薩に対して、釈尊は、この道しかない、と勧められる。
◆見えてくる迷いの生活(五悪の段)
 阿弥陀如来の世界へは誰でも行ける。みんなが救われる世界なのだ。だが誰も行こうとしない。・・・・・・そこで釈尊は、この世の愚かな私たちの生きざまを、わかりやすく説かれ、どのように生きるべきか、というこの世の道徳を説かれる。宗教はわからないが、道徳なら誰にもわかる。その誰にもわかる道徳から出発して、深い南無阿弥陀仏の世界に導いてくださるのである。
◆明るい心をいただけ(智慧の段)
 やっと人びとは阿弥陀如来の世界に気がつき始めた。教えが私たちの胸に響く。だがこの世には教えを聞いて、ただちに浄土に生まれる人もいるが、そうでない人もいる。この世で恵まれている人は、どうしても遠回りしてしまう。遠回りして仮の浄土(胎生)に腰を下ろしてしまう人は多い。といっても仮の浄土へ行った者が救われないのではない。人はみな、人生が異なるのだ。しかし最後にはみんな阿弥陀如来の世界に導かれる御同朋、御同行なのだ。
<流通分について>
◆未来世にこの教えを伝えよ
 煩悩具足の私たちの生きる道は、この南無阿弥陀仏の教えとともに歩むしかない。しかし、人は、知識ある者を尊び、道徳を実践する者を理想とする。だから「みんなが救われなければ、私も救われない」という阿弥陀如来の本願を、いただくことほど難しいことはないのだ、と念を押されたのである。

高松信英訳/法蔵館『現代語訳 大無量寿経』 『大無量寿経』のあらまし より

[next→]



[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)