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【仏教QandA】浄土真宗やっとかめ通信

仏教の死生観と葬儀・遺骨について

― 尊い今のいのちを生き切ること ―

質問:

はじめまして。大学でレポートを書くことになり、それをきっかけに常々疑問に思っていた事を質問させていただきます。

日本は昔から葬儀と言うものを行っていますが、仏教では死をどのように考えていて、その中で葬儀は一体どのような役割を果たしているのでしょうか?
また、日本では葬儀の際に骨を拾いお墓に遺骨を納めますが、あれはどういった意味があるのですか?骨を拾うという行為自体に何か意味があるのでしょうか?海外ではそのような習慣はないと思うので、とても気になります。

葬儀についてのレポートを書くために色々な文献を読んではみたのですが、納得できるような記述が見つかりませんでした。とても気になって仕方がないので、お答えいただけると幸いです。

返答

 死は、文化的な視点から論じれば多種多様の相が浮かび上がってくるでしょうが、死の本質から考えて、葬儀や遺骨とのつながりを知りたい、ということですから、実に宗教的な視点に立つご質問といえましょう。これは、当ホームページでも過去様々に応答してきました問題ですが、今回はなるべく専門的な用語は用いず、要点のみを記載しておこうと思います。そのため、説明不足の点があるかも知れませんが、その時は関連ページを参考にして下さい。

 死をどのように考えるか

 死について考察する時、死と真向かいになって考えても本質は見えてきません。
 なぜなら、死そのものには実体はなく、他者においてのみ経験される事柄だからです。自分の死は経験することはありません。みずからが経験しない問題をあれこれ考えても、本質は見えてこないのです。

 今経験しつつある最も重要な問題は「生」でありましょう。私が今ここで生きている、という現実から立ち上がる思索や行動のみが、本当に意味のある事なのです。そしてそれは、今において死に切る、ということと同時なのです。

過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ。

『中部経典』 より

「過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない」訳ですから、未来の死や死後について思い煩う必要などありません。それなのに、死や死後について心配ばかりしていると今現在の生が乱れてしまう、このことが問題なのです。「今ここにおいて生き切る」ことのみが私たちにとっての課題とならねばなりません。

 しかし一面、今現在の内容とは、過去一切の集大成であり、同時に未来の一切を含んでいます。永遠の過去からの因縁が結実して今があり、その今が原因となって未来が形成されていきます。ですから、今の私があるのも過去一切の衆生のおかげでしょう。
 葬儀は、そうした今は亡き人への感謝の思いを縁として勤まる法要です。そして葬儀の際にお経を読むのは、お経の内容が生死を越えた普遍的内容だからです。
 また、私が今現在を生き切りながら、後世に伝えるものも、そうした時代や地域を超えて光を与えて下さる内容でありたいと願うのです。これを「願生」といいます。
 私が死後について考えるべきなのは、残された家族や、身近な人たちや、社会・世界の行く末でありましょう。人々がともにいのちの尊さに目覚め、尊い人生を創造していけるかどうか、という人間環境の心配です。

 ですから「この今において生き切る」といっても、「今さえよければいい」という刹那主義とは違います。今を生き切ることが、永遠普遍の内容となっていることが重要なのです。つまり、今現在の生の問題の中に、死の問題が包括されている。金子大榮師は、「生の意味を見つけさせるために死が我々に恵まれている」と言われ、また妙好人の浅原才市さんは「臨終まつことなし今が臨終」と言われましたが、死の問題を解決して余りある教えが、今を生きる教えなのです。

 たとえば、仏の十徳の中に「善逝[ぜんぜい]」というものがあります。これは「涅槃」・「滅度」(ニル・バーナー)が徳となった内容であり、意訳すれば「完全燃焼する」ということです。しかも、自らが積極的に生命を輝かせて燃焼し尽くすことが重要であり、生き切り、そして死に切る。これは 釈尊はじめ諸仏や正定聚・不退転の菩薩の死の姿です。自から覚りを求め、生きる方向を定め、人生を創造し尽していく人生。人を覚らしめ、積極的に人間環境を浄化していく人生。本当に満足した人生によって、本当に満足した死に至るのです。

 しかし、生きる意味を問わず、迷っていることさえ忘れ、よこしまな教えや主義に翻弄されたまま終焉を迎える人生もあります。強いものには奴隷のように従い、弱いものをしいたげ、欲望の満足のために嘘をつき、自分の都合のために人を傷つける。愚かでありながら、智慧者であると思い上がって生きてきて、いよいよ死を目前にして、悔いと恐れが起こり、絶望の中で臨終を迎えなければならない人生もあります。また、残された人々に憎しみと悪思想を撒き散らすような人生を歩んだ人もいるでしょう。
 こうした悲惨な終焉を迎えないためにも仏教はあるのですが、たとえ心残りの多い人生であっても如来の救いは普く至り届いている、ということもまた真実なのです。ただしこれは、人々が仏法を学び、懺悔とともに如来の心が信受される中での話です。

 このように、仏教が死を問題にする時は、死に至る生の問題を主軸とします。これが正しい仏教です。これに対し、死そのものや死後の存在を実体として語る教えは、外道であるか仮の教えです。「霊魂不滅」という思想こそが無明煩悩の原因ですから、早くこの迷いから抜け出さなければ、正しい人生観は確立できません。
 しかし、形は仏教でありながら、内容は外道と変わらない教えが世にはびこっています。つまり、輪廻転生をまるで死後の実体のように語り、あたかもこれを仏教の死生観のように語る偽僧侶が目に付くのですが、全く嘆かわしい限りです。

 以上のように仏教では、生死を厭い捨てて逃れようとするのではなく、生死に執著するのでもなく、ただ真実を求める心をおこして生き切ることを勧めているのです。

(以下関連ページ)

魂という概念
六道輪廻と浄土について
信心定まった人は死後の行く先がハッキリするのか否か ― 如来とともに歩む人生を ―
死んだらどうなるのだろう ― 阿弥陀如来と同体のさとりを開く ―
死んで浄土へ往生できる人とできない人 ― 南無阿弥陀仏そのものになってゆく ―
「主体的な自己」と「《流転する》の真意」 ― 自他一如の世界が開かれる過程において ―
六道輪廻の迷信性 ― 釈尊の真意は輪廻思想の批判 ―
信心定まった人は死後の行く先がハッキリするのか否か ― 如来とともに歩む人生を ―
業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か ― 「善悪」ではなく「信」に仏教の中心軸はある ―
後生の一大事について ― 真実信心に導く因 ―

 葬儀と遺骨について

 仏教の葬儀の基本は、釈尊の葬儀に習っています。見事に生き切られた釈尊の人生を仰ぎ学んでいる仏教徒ですから、葬儀も釈尊に習うのです。

 具体的には『大パリニッバーナ経』という経典にある通り、「世界を支配する帝王(転輪聖王)の葬法にならって扱うがよい」という指示がありましたので、その指示通りに行い、最後は荼毘に付されます。
 つまり、沙羅樹林におもむき、「舞踏、歌謡、音楽・花輪・香料をもって、尊師の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養」し、新しい布で「五百重に尊師の遺体を包んで、鉄の油槽に入れ、他の一つの鉄槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、尊師の遺体を、薪の堆積の上にのせ」て、後に「尊者大カッサパと五百人の比丘たちがみな釈尊の遺骸に礼拝し終わると、釈尊の遺骸をのせた火葬の薪の堆積は自然に火を発して燃え上がった」ということです。
 そして、釈尊の遺骸が、骨だけを残してみな燃え尽きると、天(虚空)からは雨が降り注ぎ、また地面(草木?)からは水か噴き上がって注ぎかかって、釈尊の遺骸をのせた火葬の薪の火を消します。また、クシナーラのマッラ族も、さまざまな香水をふりかけて、消化を助けました。
 荼毘が終わると、遺骨を七日間公会堂におき、その周囲を槍を組んだ矢来で囲み、さらに弓の柵をはりめぐらし、歌舞音曲や花環やお香などによって、敬い、尊び、崇め、供養し続ました。

 以上は国をあげた大掛かりな葬儀ですが、この中で採用できる部分はなるべく用いるのです。
 例えば「沙羅樹林」をあらわすのが白い紙華で、釈尊入滅を悲しんで沙羅双樹が白くなってしまった、という逸話にちなんでいます。また遺体をお棺に入れ、花輪・香料によって供養することも同様ですが、「舞踏、歌謡」などは、現在の日本においては感覚的に合わないようですので、あえて採用することはないのです。

 釈尊の遺骨については、八つの部族がその引取りを請求し争いになりましたので、ドーナの取り計らいによって八つに分配されました。その後、八つの部族がそれぞれ仏舎利塔をつくり供養し、ドーナは瓶塔、ピッパラーヤナは灰塔をつくって供養を営んだとされています。
 仏教徒が「骨を拾いお墓に遺骨を納め」るのも、やはりこの釈尊の遺骨を塔に納めたことに習っています。

 なお供養とは、尊崇の念を形に表すことであり、後世、仏舎利塔を仏徳讃嘆の場とした民衆の間で大乗仏教が説かれた、という説も肯けます。さらに、仏教発展の歴史の中で、仏舎利塔(五重の塔等)の役割は、伽藍の中心から次第に隅に移され、金堂(本堂)が中心の時代に移っていきました。日本でも、法隆寺は丁度その過渡期の特徴が表れていて、金堂と塔が並列に配置されています。塔の原型は仏舎利塔であり釈尊そのものを象徴し、金堂は教えの内容を表していることから、仏教受容の過程が、釈尊の個人崇拝から仏法受容に移っていき、そのことが形としても現れている、と見てよいでしょう。さとりの本質を尊ぶまでに日本仏教が成熟してきた、という証しです。そのため現在は仏事でも中心は仏壇であり、墓は副次的な扱いとなっています。

 以上が「葬儀の役割」であり「骨を拾いお墓に遺骨を納め」る意味です。

 ご質問者はおそらく、<そういう儀式の中で、死の意味や死者の居場所等を聞きたい>ということでしょうが、釈尊にも先祖に対しても、「尊崇の念から遺徳を偲び、死の縁を仏縁に転じていく」という以外のことは、各自の学びや味わいが重要なのであり、教団や他人が無理に意味づけすることは差し控えるべきでしょう。
 特に、霊魂的な意味づけや輪廻転生の説は、真の仏法を解せない者のための仮の教えで、たとえば悪行をとどめるために一時的に説くような教えに過ぎません。真実は常識の延長上にはないが、人々がそれを得やすいように、仮に常識的な説き方をするのです。
 このことは説く側がしっかり自覚し、後に真実の仏道を説いて、信心・無上菩提心の開発に勤めるべきでしょう。これを前提としなければ迷信の伝道者になってしまいます。こうした僧侶は厳しく批判されるべきでしょう。

 ちなみに親鸞聖人は、「某 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(改邪鈔16)と仰られてみえました。これは、「この肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべき」ということですから、葬儀など一大事としてはならない。究極として言えば、「葬儀など、してもしなくてもよい」ということです。

 もちろん実際には、聖人の遺体を川に流すようなことはせず、荼毘に付し、遺骨を埋葬しましたが、「遺言に反して」ということではありません。言葉に執われるのではなく、お心を受け継ぎ、「仏法の信心」を中心にして法灯を守り弘めてきました。そうした上で葬儀が勤まります。

 以上のように葬儀は、「故人のためにしてあげる」のではなく、「生前は仏徳を称える同行・善知識として尊敬し、今後はいよいよ仏として仰いでゆく」という転換の儀式でありましょう。これは、残された私たちにとっては新たな出会いの場ですから、やはり葬儀は大切にしてゆきたいものです。

(以下関連ページ)
ブッダ最後の旅6#遺体の火葬
火葬と土葬の違いについて儒教との関係 ― 混交化の歴史と純粋化の歴史 ―
「葬式仏教」と呼ばれることについて ― 仏教教団の栄光と挫折 ―
お墓に足を向けたらいけない? ― おそれではなく、尊敬の気持ちで ―
浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは? ― 慚愧・懺悔とともに菩提心をおこす ―
葬式でお経を読むのは死んだ人の供養のため?
葬儀についての手引き― 浄土真宗本願寺派の正しい葬儀のありかた ―


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