平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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「死んだらどうなるのだろう」と「死んで浄土へ往生できる人と出来ない人」について。
11月24日付及び12月5日付で掲載されました見出しのタイトルのQ&Aを興味深く拝見いたしました。「死んだらどうなるのか?」という設問は、連続研修や寺院における話合い法座の設問としてよく取り上げれるテーマであり、何よりもわたしたち一人ひとりに求められている大きな命題でもあります。
簡単に「そりあ、浄土か地獄やわさ」「阿弥陀さんに救ってもらうことになっているのやから極楽浄土やわな」と答えが返って来ます。或いは「どこに行くのかなあ、やっぱり浄土に生まれさせてもらうのやわなあ」と遠慮勝ちに言われる方もいます。本当にそうでしょうか。なぜそういい切れるのでしょうか。
今回のQ&Aについて二つほど自分の意見を含めおたずねいたします。
Q1.主体的な自己についての理解は次のような理解でよいのでしょうか。
Yba-tokaiホームページでは「死んだらどうなるのでしょうか」と言う設問に対して、回答の中では、
「その疑問を生じさせる自己を対象化する分別こそ我執・煩悩の源でありますが、阿弥陀如来の本願は、私がその我執・煩悩を抱いたまま、本来の私に寄り添い、分別を超えた道をお示しになるのです。
阿弥陀如来の本願をいただくということは、現実この身で主体的に生きることによって、生死の問題をはるか超えたところでいのちの問題を解決していくことです。」
《現実この身で主体的に生きる》とはどういうことを言うのであろうか。
「この名号法は衆生の求めるに先行して、既に主体の側にとどけられているのである。しかれば汝は何故救われないのであろうか。それは如来の側に失があるのでなく、主体の側に問題が残されているからである。」
その問題とは
「浄土真宗では迷悟の鍵はひとえに仏智疑惑によると云う。一般仏教で云う、我執とか、煩悩であると何故云わないのであろうか。ここにも浄土真宗の根本的立場が見出される。疑惑とは既に与えられているものをはねつけることである。」と示されています
「浄土真宗の立場は平生業成である。…・中略…・・平生とは具体的には今、ここと云う外にはあり得ない。「今ここ」と云う場はいかなる場であろうか。それは既述の中論の上にも既に明らかにされている如く、自らの自覚存在としての主体の存立する場が「今ここ」である。私の存するところ以外に「今ここ」と云う場はあり得ない。」
「主体の存在する場が救いの場であることは、救われる法が先に主体の側に与えられているからである。」
「第一人称的主体的立場は、対象化し得ない自己そのものを云う。この自己は勿論自己と考えられた自己を、自己と考えているのではない。自己と意識される以前の自己である。それこそ自己そのものである。」
ここのところはわたしたちにとって難解な個所でありますが《主体的な自己》について、次のように理解をしました。
「わたしたちは自分の顔を直接に見ることは出来ません。鏡を見て自分の姿を認識していますが、その姿、形は虚像の姿・形でもあります。本当の自分というか主体的な私というか、それは多分鏡に映る自分でもないし、また鏡に映る自分を見ている自分でもなく、鏡に写る前の自分なのではないかと思うのです。それが主体的といわれる自分なのではないか。間違いなくそこに自分はいますが鏡の中の自分は自分ではない。しかし本当の自分は自分が見ることは出来ない。その本当の自分が《今ここに》存在して、そのわたしに阿弥陀如来の救いの法が降り注いでいる。生身の自分(鏡に映る自分)が求めているのは自分の料簡でつくりあげている浄土であり、阿弥陀如来の本願を自分流に、自分の好みにつくりあげているに過ぎないのではないか。
だから大切なのは《救われるに違いない》そのこと以外に何ものもないのではないか。だから死んで後救われる先は浄土かも知れないが、浄土でなくてもよいのではないか。そこに「生き切る」世界が生まれてくると思えるのです。」
Q2.死んで往生できる人とできない人について、「死んで往生できない人は《流転する》としか言いようがない」と言う個所について。
ある法座で、「知人の主人はクリスチャンですが、奥さんは真宗の門徒です。すると二人は死んだら別々のところに行くのでしょうか。」と言う方がありました。
わたしは、「キリスト教を信じている人は《キリスト教の神の救済を受ける》と信じており、《神に召されて天国に生まれる》ということでありましょう。真宗の門徒は、《阿弥陀如来の本願成就を信じ、その救いにお任せして、死んだら即浄土に生まれさせていただき仏になる」とお示しを受けている。また第十八願には《唯除五逆 誹謗正法》とあるように、正法すなはち仏法を謗り信じない人は仏の救いに背中をむけて頑なに拒んでいる人だから、もともと仏のすくいを求めていないし、信じていない。そのような人が浄土に生まれることはないでしょう。他の宗教を信じているということは、仏法を誹謗しないまでも信じていない人やから、先ほどのご主人と奥さんは宗教によって死後の別々の世界があるなら別々の世界に生まれるということになるとしかいえないのでしょうね。でもそれでは、《阿弥陀如来はすべての衆生を洩れなく救うという願いを建てられ、すでにその願いは完成され、わたしたちに働きつづけておられる》ことと矛盾するところがあるようにも思える。
一方で、善導大師は「抑止門」「未造業」の考えを示され、「謗法闡提の者も回心すればみな浄土に生まれる」ことができると示された。この教えを頂くことで他の宗教を信じている人もまた浄土に生まれることの出来る機会が遺されていると言えるのではないか。だからそのお二人が別々の世界に生まれることになると悲観しなくても阿弥陀仏の広大なお慈悲にお任せすればよいのではないか」という主旨の意見を言ったことでした。
しかし、「本当にそう言うことでよいのだろうか?」との思いがずっとあり、あるとき機会を得て行信教校の藤澤信照先生に「そのようなことでよいのでしょうか」とおたずねしたことがありました。
先生は「阿弥陀様の世界は『尽十方無碍なる世界』、《つまり(ほとりのない世界、ここまでが浄土でここからは浄土でないという境界線がない)世界》です。『浄土に往生する』ということは『阿弥陀仏の世界に生まれる』ことです。また『阿弥陀仏と同じさとりを開く』ということは、『自他一如の世界が開かれる』ということです。一切がわたしであり、わたしが一切であるような世界に生まれることであって、他人というものがない。
つまりクリスチャンや他の信心をした人たちをも包み込んでいくような世界が浄土である。そのような心の世界を開くことがさとりなのです」とお教えくださいました。
わたしは今は、このお示しのようにすべての衆生を洩れなく救いとってやまないのがあみだ様の願いであり、それが成就されている世界すなはち浄土なのだと思っています。
「《流転する》としか言いようがない」との個所、回答された先生の後段のところでは詳説いただいており、その通りいただかせてもらっているのですが、語句にこだわるわけではありませんが矢張りそう言うよりほかはないのでしょうか。
≪わたしたちは自分の顔を直接に見ることは出来ません。鏡を見て自分の姿を認識していますが、その姿、形は虚像の姿・形でもあります。本当の自分というか主体的な私というか、それは多分鏡に映る自分でもないし、また鏡に映る自分を見ている自分でもなく、鏡に写る前の自分なのではないかと思うのです。それが主体的といわれる自分なのではないか。間違いなくそこに自分はいますが鏡の中の自分は自分ではない。しかし本当の自分は自分が見ることは出来ない。その本当の自分が《今ここに》存在して、そのわたしに阿弥陀如来の救いの法が降り注いでいる。生身の自分(鏡に映る自分)が求めているのは自分の料簡でつくりあげている浄土であり、阿弥陀如来の本願を自分流に、自分の好みにつくりあげているに過ぎないのではないか。≫
「鏡に写る前の自分」という見方は面白いですね。色々と想像を広げ得る言葉を選ばれていますが、同感できる表現です。
《主体的な自己》は、要は正直に誠実に生きる態度を言うのですが、そこに自ずと救いが用意されているのです。もちろんそれを促すのも名号であり、受け止める私の側では念仏がすべてなのです。
「至心」が「真実誠種」、「信楽」が「真実誠満」の心、と親鸞聖人が解釈してみえることからもわかりますように、「真」=言葉にならない真如法性が、「実」=名号となって私に至り、「誠」=内側に至った如来の徳が外に現われる、というはたらきが、「種」から生活に「満」たされていく、それが真実信心である「信楽」なのです。
固定的な実体・対象として自己を見ると、いわゆる霊魂のような幻を設定して、さらにそこに我執を投影してしまいます。浄土は霊魂の溜まり場ではありません。自覚覚他の根源であり、人が現に生きている場にはたらき、その徳を展開してまいります。
人は不断に決断を迫られ、瞬間瞬間、自らの責任において道を決定し続けているのですが、それで刹那主義に陥るのではなく、また責任を放棄して権威の奴隷になるのではなく、歴史を貫いて、しかも普遍的な価値観を与え続けるはたらきに出会い、その象徴としての人生を一人一人が歩む。そうした不可思議な出会いを南無阿弥陀仏と喜ばせていただくのでしょう。
そうした喜びを人々とともに味わい、死して後までも人々を導き得る人生こそ、真宗門徒の生き方、と領解させていただいております。
≪だから大切なのは《救われるに違いない》そのこと以外に何ものもないのではないか。だから死んで後救われる先は浄土かも知れないが、浄土でなくてもよいのではないか。そこに「生き切る」世界が生まれてくると思えるのです。≫
本当にその通りだと思います。地獄以外に行きようがない私、と気づくと同時に、浄土に照らされ続け、待ち続けられていた人生に気づく、そうした不思議を味わうと、死後の行き先など詮索する必要はなくなりますね。
自らの生きざまが、如来の願いとともにあり、日々が如来の願いそのものになってゆく歩みである、と気づかされた時、死後の問題も如来の願いと同等の意味を持ちます。すなわち、一切衆生の済度と自らのいのちの成就が同時になるのです。
もちろん、これは信心の本質であって、日常が即変化するわけではありません。しかし、如来の視点を与えられた日暮しは、そうした大きな課題を引き受けて歩む人生なのでしょう。
≪ Q2.死んで往生できる人とできない人について、「死んで往生できない人は《流転する》としか言いようがない」と言う個所について。≫
<以下略>
如来の救いをいただく時、二つの邪見を排しなければなりません。ひとつは、済度される人と排除される人とに衆生を分けて見ていくこと、もうひとつは、無反省に全ての衆生が済度されていると見ていくことです。前者は世界に断絶を生み、後者は如来のはたらきを無力にします。
「すべての衆生を洩れなく救いとってやまないのがあみだ様の願いであり、それが成就されている世界すなはち浄土なのだと思っています」というご指摘は全く殊勝な領解だと思います。「信心正因」と言われるように、個人の才覚は問題ではなく、ただ、浄土の成就という真実に肯くならば、久遠劫よりのはたらきがこの身に満ちて実を結ぶことになるのです。
しかし、成就された名号を、そのままいただけず、自らの矮小な判断に固執し、浄土の成就を疑い避ける人も多く、そのことが問題であり、如来の悲しみなのです。
どんな宗教に生きる人でも、「すべての衆生を洩れなく救いとってやまない」というはたらきに気づき、その願いとともに歩む人生は、たとえ、瞬間瞬間の心が真実のはたらきに反するものであっても、日々時々に慚愧をともなってそのはたらきを称える日暮しになり、それはまさに往生を約束された人生といえるでしょう。
他宗旨でも、「往生」されれば、それは一如の姿を顕していますから、教団組織の枠を超えた『自他一如の世界』そのものになられている訳です。また他の宗教でも、「往生」の文字は使わなくても、『自他一如の世界』に肯いて生きていれば、つまり「救われなくてもいい人など存在しない」という目覚めに肯けば、それは浄土のはたらきに出遭っていることになります。
しかし、他宗教者の不幸を願ったり、痛みを同感せず、自分の都合で「関係ない人」をつくり、その人のいのちを無視する。さらにそうした行動を慚愧することなく、言い訳ばかりして生きる。それどころか、宗教の違いを口実に殺戮を正当化し、やられたらやりかえす。時としてやられた以上にやり返す、という現実の歴史は、とても『自他一如の世界』を示してはいません。憎む相手を地獄に落としてやろうとする悪意や、そうした悪意に基づく主義・宗教教学がこの悲惨な現実を作りあげています。
そうしたことに終始し、反省もなく過した人生に「往生」の文字をつけるわけにはいきません。機縁なくして救いは展開されないのです。どれほどの光明が放たれようとも、心開かず、無明に閉じこもり、よりどころを無視し続ければ、流転はまぬがれません。実際、そうした多くの<流転の人生>が現実社会にも反映され、国や世界や人々も方向の定まらないままに日々を過ごしているように思われます。
たとえ経済が落ち込み、不況になっても、人々の心がつながってさえいれば、共に乗り越える気持ちも術も生まれてくるはずです。価値観が違っていても、互いを思いやっていれば、それぞれのいのちの輝く場が現出されるはずです。一人一人が現実の混迷に翻弄されながらも、心が浄土・自他一如の世界を求めて生きていれば、決して地獄・餓鬼・畜生の流転世界が野放しにはなりません。
流転はまず今の問題です。そしてまた他人の問題ではないのです。
さらに親鸞聖人は『仏説無量寿経』(巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失)をもとに、
『浄土和讃』2
また、『蓮如上人御一代聞書』末(122)には、
▼現代語版
蓮如上人は、「仏法を聴聞することに熱心であろうとする人はいる。
しかし信心を得ようと思う人はいない。
極楽は楽しいところであるとだけ聞いて往生したいと願う人はいる。
しかしその人は仏になれないのである。
ただ弥陀を信じておまかせする人が、往生して仏になれるのである」
と仰せになりました。
とあり、「教団に属せば往生できる」などとは申されていません。
これは、自分勝手な幻の快楽に固執して、信心が我流になり、その反省ができていない人を歎いてみえるのです。
≪他の信心をした人たちをも包み込んでいくような世界が浄土≫
とは至言ですが、現実は、宗教の違いがもとで殺戮を繰り返してきたのが世界の歴史です。「異端者」というレッテルが貼られただけで、西欧では常に大量虐殺が許されてきたのです。
こうした闇黒の歴史を問わずして、真の光明はありません。
人類の中にある抜き差し難い悪業を、自らの課題として受けとめ、「この身今生に向かって度せずんば」というギリギリの問いかけに対し、真宗者が道理を無視した救いを提示することは、浄土が現実にはたらかねばならない悲願をむしろないがしろにすることになるでしょう。そうした意味で「流転」を無反省に「救済」とごまかすことは避けるべきだろうと思われます。
ところで、今生に往生を逃せば 「《流転する》としか言いようがない」、と書きましたのは、
「如来の側に失があるのでなく、主体の側に問題が残されている」という機法一体の名号を前提にしてあります。
「故に信疑によって、迷悟が決定すると云われる前提は、既に救いの法は与えられとどけられているものであることが前提とされる。既述の名号成就を場としているからである。しかも、成就として、完成されたままでなく、完成されたままが、いつでもどこでも、主体の存在する所には、既に与えられているのである。」
「流転」は「往生」と比べれば悲しむべきありさまですが、「永遠の地獄」というような絶望ではありません。浄土の『自他一如の世界』、「もれなく済度せしむる」という願いは、行者の身に満ちてた信心においても当然不退転です。往生を逃す人々の人生をも摂取する心がなくては浄土は成立しません。
これは、例えば[「父母のために念仏したことはない」の真意] にも引用しましたが、
梯實圓 著『浄土真宗の教え』往相と還相 より
というように、流転の相を見せる人々をも「菩薩の化身」として拝むところに浄土の本質があるでしょう。
また、「自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです」(『歎異抄』5 現代語版) というお言葉が行者の奥底に立ち上がれば、流転の人生を排除したり傍観することはできません。
流転の現場に飛び込んで、苦悩をわかちあい、共に『自他一如の世界』に肯く、そうした活動が現実に成就するまでは、念仏行者の果す役割は残っているのです。「つまりクリスチャンや他の信心をした人たちをも包み込んでいくような世界が浄土である」とのお言葉は、自らの課題として、また社会に念仏の徳を展開する活動原理としてこそ意味を持つのであって、もし「既成事実だ」とすりかえてしまえば、それは浄土の展開を止めることにつながってしまいます。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末) 後序より
▼現代語版 信心を拒んでしまった人生を知らされたなら、私の至らなさを思い、如来の呼びかけに肯く縁をどこまでも広げていきたいと思います。そして、流転の人生も排除することなく、自らも流転の人生ではなかったかと、善悪ともども浄土に目覚める縁として拝み、ともども一如を喜べる世界を念じていきたいと思います。