平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
実は今年の初め、大病を患い、入院生活を送りました。
同じ病棟で亡くなってゆく方を目の当たりにし、まだ先のことと思っていた死が目の前に迫ってくる恐怖を覚えました。
いやがうえにも、死んだらどうなるのだろうと深刻に考えずにはおれませんでした。
幸い、現在は退院して体の調子も良くなって参りましたがあのときの気持ちは忘れられません。
この疑問に仏教はどう答えてくだされるのか。
私はずっと親鸞聖人を尊敬して参りましたので、浄土真宗、親鸞聖人のみ教えでは私たちが死ねばどうなると教えておられるのか、教えて頂きたいと思いました。
よろしくお願いします
「死んだらどうなるのだろう」という疑問は、誰でも一度は抱く疑問、つまりは大きな悩みでしょう。
この疑問に正確にお応えするには、即便往生の問題や、覚りと救済の問題に踏み込まなければなりませんが、簡潔に申しますと――
死ぬとは、浄土に往生し切る(臨終往生・便得往生・当得往生)ということなのです。
死ぬとは、与えられた命を完全燃焼し、覚りの寿に成り切り、浄土において一切衆生を覚りの願土に導く歴史的な身となるということなのです。
私は嘘を言うつもりはありませんし、勝手な推測や書かれた文字を鵜呑みにしてこのように述べたのではありません。経典を読み仏の真意を体解しようと願い、そして現実の身において仏法を検証させていただけば、このようにお応えするしかないのです――「浄土に生まれたい念じる者は、その時、浄土に座が設けられて私を浄土の住民として招き育てる」と。これが道理であり法則なのです。
ただし先の言葉を聞いて、大勢の方々がイメージされた事柄と、私の述べたい事柄はおそらく一致していないと思います。死は生に深い深い味わいを与えてくれるもので、この味わいを通して「死ぬとは」云々と述べてみたのです。しかしまずは上記の言葉に嘘偽りはない、ということだけは受け入れていただきたいと思います。
以下、聖教の味わいなどを加えてもう少し説明させていただきますが、本来は生死に迷うことなく、阿弥陀仏の真意や浄土の尊さを領解することに心血を注いでいただきたいのです。阿弥陀仏に出遇うということはどんなに素晴らしいことでしょう。浄土に生まれたいと願うことはどんなに人生を輝かせてくれることでしょう。あって無きが如しだった宝の山が、今ここに宝があると見出すことができた喜びは何ものにも代えがたいものです。
阿弥陀仏は、私たちの細胞一つひとつに成り切りつつ、一切衆生の仏性の支柱となって歴史を貫き働き続ける真心の主体なのです。
大多数の宗教は、死の問題、また死後の問題を、仮定的な神話・作り話に基づいて解決しようとしています。
死後の物語は世界中に数多く存在しますが、その多くは、生きていた時と同じように自我が存在し、現実と同じような風景、または極端に楽しい、もしくは極端に悲惨な境遇を、階層的に演出することによって人々にその宗教を信じさせようとしました。
これら神話の多くは、自己陶酔的な幻覚であったり、多重人格を憑依と見誤ったり、臨死体験等をもととしていますが、それらは現代では単に心理学の範疇に留まるようなものです。さらに権力者を神聖視する都合で書かれた神話や、人間の常識的な欲望を拡大した作り話も多く存在します。
また、幻想とまではいえなくても、生死の問題を対象的に見て、客観的・対象的な分別で自己をとらえ、そのとらえた(と思い込んでいる)自己の幸せに執着することで、肝心な自己の主体が放り出されてしまった教えも多くあり、ほとんどの宗教は以上のような視点から抜け出ていません。
こうした宗教の大敵は科学で、なぜなら<物事を対象的に見る>という点で、科学と部分的にしろ同じ課題に取り組むことになり、教祖を絶対として古来の教えを尊ぶ性質上、科学との対決部分で宗教は勝利を望めず、敗北をきすことになります。するといきおい科学を「神への冒涜」呼ばわりするはめに陥ってしまうのです。
しかし、科学は生死の問題を解決することはできません。「死んだ後のことは分からない」、もしくは「虚無」という説を出すのみです。すると、「死の部分だけは宗教者に解決してもらわないと、空虚な未来を背負うことになり、死を目前にしたら絶望してしまう」と考え、現代人の多くは「病気は医者が解決し、死は宗教者が解決する」という常識になっているのです。そこには、人間の都合や思い込みで解決を委ねる相手を変えているだけで、解決が急がれる問題そのものに気づいていません。
それに、現実の認識で誤謬のあった宗教に、<死の問題だけは正しい道を示す>と本気で考える人がいるでしょうか。
仏教は、科学とは全く別の視点で物事や自己をとらえる、もっといいますと、とらえることをしない、自己が直面する現実の場に視点が集中します。なぜなら、真に自己を対象としてとらえることは不可能であり、それは自己保全の欲望が作り出した過程的な幻想に過ぎないからです。この過程的な幻想は、身を守り未来を予測するためには必要なのですが、これを実体として固定化しようとすると、逆に身を損ない、未来に絶望する危険をはらんでいるのです。
つまり、死にゆく対象として自己を見ることそのものが誤謬と苦悩を作り出している。それから自由になるためには、本来の視点、現実の底に開かれた真実からの呼び出しに即し、今、この場にこそ立つ、という現実に集中していくことです。
これは死の恐怖から目を背けるのではなく、むしろ死を受け入れることによって自ずと開ける境地でしょう。そしてそれは現実逃避とは対照的に、現実を真に生き切る生活に転じることになります。
かつて「板垣死すとも自由は死せず」と言った政治家がいました。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という諺もあります。たとえ名は残せなくても、人は歴史を残すことができます、環境を造り出すことができます。歴史と環境はその人の身体そのものであり、死して後も生み出された歴史と環境が生き続け、やがて永く一切衆生に報いてゆくことができるのです。私が生きてきた一生は永遠に消えることは無く、むしろ時とともに大きく響き渡ってゆくのです。
しかしこうした視点を己の努力で体得することは稀で、与えられた環境と資質も問われる事柄ですが、それを<無量寿如来からふり向けられた信>によって、誰でも可能な、しかも勝れた覚りに至る道が仏の名号法です。
・・・この名号法は衆生の求めるに先行して、既に主体の側にとどけられているのである。しかれば汝は何故救われないのであろうか。それは如来の側に失があるのでなく、主体の側に問題が残されているからである。
浄土真宗では迷悟の鍵はひとえに仏智疑惑によると云う。一般仏教で云う、我執とか、煩悩であると何故云わないのであろうか。ここにも浄土真宗の根本的立場が見出される。疑惑とは既に与えられているものをはねつけることである。
<中略>
名号もこのような薬の如く、既に衆生の病患を完全に征服すはたらきを内有しているのである。「万行円備嘉号、消障除疑」とある如くに、しかもこの妙薬が主体の側から手を出す先に与えられているのである。救いの法は既に求める先にとどけられていても、主体の側から、はねつけているから、救われないこととなる。故に信疑によって、迷悟が決定すると云われる前提は、既に救いの法は与えられとどけられているものであることが前提とされる。既述の名号成就を場としているからである。しかも、成就として、完成されたままでなく、完成されたままが、いつでもどこでも、主体の存在する所には、既に与えられているのである。行巻の構造が何よりもかかる立場を証明するものである。
それは又既述の信楽に開発と云う言葉の存することによっても明瞭である。敬信記には(善譲著「本典敬信記」巻12、真全、210頁)
「開発とは、閉塞に対す。無始より今迄は、心中閉塞して仏の信楽を受けず、それが豁然と開けて心に受くるようになりし故、其閉塞に対して開発と云う。・・・」
この閉塞は自らの恣意たる疑惑である。疑惑によって、既にとどけられ、与えられているものがらを妨害しているのである。それ故疑の除去されたるときを開発と云えるのである。
また浄土真宗の立場は、平生業成である。平生業成は勿論臨終業成に対する言葉であるが、平生と云われる時間は、直線的に空間化された時間ではない。平生と云う時間は円環的場に立つ時間性を意味するものであろう。円環の場に立つ時間は、おさえた点がすべて中心である。それ故平生とは具体的には今、ここと云う外にはあり得ない。「今ここ」と云う場はいかなる場であろうか。それは既述の中論の上にも既に明らかにされている如く、自らの自覚存在としての主体の存立する場が「今ここ」である。私の存するところ以外に「今ここ」と云う場はあり得ない。業成としての救いの場が「今ここ」と云う主体の存在する場にあることは、いかなる意味であろうか。それは過程的、二次元的場の全く是認されない立場である。対象論的に彼方に所信の体を眺める他のいかなる宗教とも立場を異にする。かかる立場は、信じたらとか、喜ばれたらと云う何々「したら」と云う言葉も打ち消され、はっきりなって、安心の出来得ないものが安心してと云う「なって」と云う言葉も成立し得ない。それは無立場の立場であって、いかなる主体の側の過程的な前提も否定されねばならぬ。
<中略>
主体の存在する場が救いの場であることは、救われる法が先に主体の側に与えられているからである。
<中略>
第一人称的主体的立場は、対象化し得ない自己そのものを云う。この自己は勿論自己と考えられた自己を、自己と考えているのではない。自己と意識される以前の自己である。それこそ自己そのものである。かかる主体的自己は、聞信を場とする如来によばれている自己そのものである。いわゆる正定聚の機とも云われる主体である。そこには人間的生から浄土的生に転換された自己であってかかる生を相対的分別から如何に規定せんとしても不可能である。聞信を場とする生は浄土に直接する生で、有無の範疇にかけて、問題にしようとする態度そのものが誤りである。往生の主体とは正しくこのような主体を意味するものと云えよう。
稲城選恵著『浄土真宗の霊魂觀』信の主体的性格 より
こうした主体的自己に、現実に気づかされ、受けさせていただくことは、その中心に念仏があってこそかなうものです。
たとい、法性無生の理はしらなくても、念仏そのもののはたらき場としているから、有相の浄土への見相の火は燃えていても、そのまま浄土に至れば自然に消されるのである。
ここに自証教と救済教との根本的相違を見出す。自証教の立場は此土入聖にして、現実に無生の理を悟り、無生の世界に入る。しかし、救済教の立場は、有限的相対的肉体的存在の存する限り、無生法たる名号を場とするのであって、自らは無生の理と一になるのであり得ない。有限的有執的存在として最後の息の根をひきとるまでは、無生の理に背く無明煩悩の中に存する。それは救われないものが、救われないまま、救いの法から逃げることの出来得ない身として存するのである。そこには逆に救いの法に遇うことによって、救われない身の発見となる。この二元的立場に立ちつつしかも名号そのもの、念仏そのものの中に統摂される弁証法的立場に立つ。その主軸はどこまでも念仏である。
それ故、往生の主体と云い得るものは、念仏そのものの上に求めねばならぬ。念仏の中に呼ばれている身――この私として、自ら対象化し得ない自己そのもの、それこそ浄土に直接する主体である。アラヤ識や業を以て表現するのも、このような表現そのものが意識以前の主体的立場を意味するものであれば云い得る。もし対象的分別悟性的に主体の外に何かを考えられたものを云うならばそれは似而非なる立場と云わねばならぬ。それ故宗祖に於いては、「コノ私」としての第一人称、愚禿親鸞の自らの名を以てされているのである。
このような主体は概念的思惟や、対象論理的分別の世界では永遠にかくされている。随って、霊魂論や、往生の主体を問題にしようとする態度そのものが、既に主体的自己そのものは、問題の外にはみ出され、かくされているのである。そこにいかなる答えが与えられても、人間の思弁によって考えられたもの以外から一歩も出られない。このような主体は最近にして最遠なる立場に立つ。概念的対象論理的場に於いては永遠の彼方の存在であるが、概念を突破した第二者の場に於いては、今、ここに於ける、「コノ私」としての主体である。それはどこ迄も、如来から問題とされている自己であり、呼ばれている主体そのものである。所謂正定聚の機と云われる立場を除いては成立し得ない。
稲城選恵著『浄土真宗の霊魂觀』往生の意義 より
ところで『大無量寿経』においては、「滅度」は死ぬこととして意味が統一されているのですが、天親菩薩は「択滅無為」という死に方(つまりは生き方)を勧めてみえます。
・・・「滅度」のことですが、昔からこれは涅槃の訳語といわれているのです。そうかも知れませんが、ニル・バーナーにもいろんな意味があるのでしょう。『大無量寿経』では、涅槃のことは「泥*オン」といって、滅度は死ぬことに使っているのです。六か所滅度の語が出ていますあが、他の五つは皆死ぬことを意味しています。今いちいちその例は略しますが、ここでも「正定聚に住したもの」は「必ず仏になる」というのではなく、死んでも悔いのない、死に切れる身になることのようです。
ニル・バーナーは、火が消えることですが、火が消えるのか火を消すのかという問題があります。<中略>天親菩薩は、択滅無為と非択滅無為ということをいっておられます。択滅無為は、まごころの智慧によって、自分の方から積極的に働きかけて、自分の命を燃焼さすことである。<中略>非択滅無為は、縁欠不生といって、縁が欠けることによって、自然に命がなくなることである。ちょうどローソクの火が、蝋が尽きて消えるように。この二つの中で、非択滅無為は迷うた人の死であり、択滅無為は聖者の死であるといっておられます。お釈迦さまはその死に際して、「梵行すでに立し、所作すでに成ず。後の有を受けず」、作すべきことは皆してしまった。作さねばならなぬことは一つもない。もう再びどこへも生まれないといって、涅槃に入られたといわれています。西田幾多郎博士も「愛宕山、入る日の如く、あかあかと、燃やし尽さん。残れるいのち」と、晩年の心境を詠んでおられます。
<中略>
仏とは菩薩の内面の徳であって、表は菩薩、内は仏です。これを第二十二願には、「諸地の行、現前する」といっています。それで正定聚に住することが一切なのです。
<中略>
「必ず滅度に至る」とあるから、滅度というものがあって、そこへ行くように思いますが、涅槃に入ると同じように、死に切る、死んでも悔いがないとさとることです。経にはそれを「善逝」と説いて、仏の十の徳の一つに数えています。善逝とは善く逝くということで、思い残しなく死ぬことができるということです。
島田幸昭著 『仏教開眼四十八願』 必死滅度の願 より
厳密にいえば、死という問題は本来は存在せず、死へ至るまでの生が問題なのであり、その生を完全燃焼させることによって、ついでに死の問題も片付くのです。死と向き合って戦いを挑むのではなく、いま生きている現場の解決こそが急務で、それは<いかに生き切るか>に神経を集中させることで適います。すると、「死んだらどうなるか」という問題は、現実に生き切られた先祖の存在を我が身に報い続ける鼓動として感じ、外に眼を転じれば、ここにも、あそこにも、先祖の真心が充満し続けている、と見抜くことで解決できるのではないでしょうか。
「即得往生」すなわち往生を得るということは正定聚の位に定まって、不退転に住することであると、『一念多念文意』には明瞭におっしゃっているのです。
このゆゐにさだまりぬればかならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆへに、等正覚をなるともとき、阿毘跋致にいたるとも、阿惟越致にいたるともときたまふ。即時入必定ともまふすなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。
この信楽即ち真実の信心というものは他力横超の金剛心である。阿毘跋致にいたるというのは、不退転にいたるということであります。だから他力横超の金剛心、即ち信心を得れば正定聚に住することになり、等正覚に住することになり、不退転の位に住することになるのである。それを往生といい、必定ともいい、必ず、滅度、大涅槃にまでいたらしめんという御本願であること、こういうことを知らして下さってあります。この御文によって親鸞聖人が現生正定聚ということを定められたのであります。
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す(『御文』1-4・930 )【※注:執持鈔 一】
真実信心の念仏者は、即ち摂取不捨の身の上になるから正定聚に住すのである、それを往生するというのである。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、こう示してくださったのが、真宗の大事な「現生正定聚」ということでありまして、現生から正定聚にして、必ず滅度にいたらしめられるという身の上になるということが助けられたということであって、そうならしめねばおかんというのが第十一の本願である。こう『一念多念文意』にはっきり知らして下さったということは、ありがたいことだと思います。だから聖人が勝手に、独断で、自分の思いつきで、こうに違いないときめられたということでないということであります。こういう仮名までつけておしまいになったということは非常なご体験といえましょう。自覚によってお経を身読されたといいますか、体読されたといいますか、まことに驚歎すべきお示しであると思うのであります。そうであってこそ、初めて釈尊の説かれた阿弥陀如来の本願も、本当に活きて働いて、私どもが現在から助けられたということがわかります。それでこそ真の宗教であって本当に有難いことなんであります。多くは死んでから悟りを開くとか、死んでから極楽に往ったら涅槃に至る、死んでから正定聚になる、死んでから死んでからということにしてしまって、それがため何でも往生せねばならんといいます。そういう話をしておけば一番簡単でありますが、聖人はそれでは助かったということは言えないこととなりますから、信心を自ら味おうてお考えになったあげく、『如来会』というお経をご覧になってこれを発見されたのです。そうして、「彼の国に生まるれば」と未来的な言葉になっておるのを、「生ぜんとするものは」と読まれたのです。翻訳はこうなっておるのだが、こう読むのが本当に違いがないと大自信をもってこうなさったのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』上 必死滅度の願 より
浄土往生の本質は、死を恐れる心と格闘するのではなく、現実を、一切衆生への如来からの呼びかけとして覚りの眼でとらえ直すところにあります。そして、そのお心に帰命するというのは、すべての物事やいのちの歴史を、阿弥陀如来の本願力の展開として捉えなおし、私の存在意義や人生の意味を、その展開に参画する中で見出してゆく、ということなのです。ただしこれは阿弥陀仏の手伝いをするのではありません。阿弥陀仏の浄土の暖簾をわけてもらい、自らの生活の場において、安楽国の徳を一隅に展開することをいいます(往覲偈 参照)。ここに親鸞聖人が見出された現生正定聚の尊さがあります。
大経や聖人の著によって示された救済の法は、実に多くの人々に恵みとなってきました。その中でひとつ張偉さんの味わいを紹介したいと思います。
親鸞聖人の教えは、苦悩するどうしようもない人間のためのものだと思います。人間が絶望のどん底にいるときこそ、この教えは力強く感じられます。その心身の奥深くから生じてくる感じこそは、根源的な救済への機縁だと言えましょう。人間のはからいに対する徹底的な絶望のどん底から生じてきた救済への渇望と、人間のはからいを超えた大いなる力の働きとがぶつかるところに、本願他力の救済の道が現われてくるのでしょう。この救済は、普通理解されるような苦しみから救い出すということとは違います。それは苦悩のままの救済です。
たとえて言いますと、一人で海の中を泳いでいるうちに、もがいて溺れそうになり、だんだん気が遠くなり、あきらめようとしたところに、大船が現われて救われる、というふうに言えましょう。そのような大船に救いとられることを「難度海を度する大船」と喩えているのです。それが、他力の救済、自然法爾の救済だと思います。その大船は、海の上に浮かんで溺れそうな人を海から救い出すのではなく、海より大きくて、もがいている人間と海そのものを載せている大船だというほうがよいと思います。
「南無阿弥陀仏」という救済には、合理主義によって育てられた人間心理と異なる人生感覚があると思います。すなわち自分の人生の上に人間のはからいを超えた永遠無限のはたらきを見、私たちの生は大いなる眼差しに包まれていると感じる人生感覚です。その感覚からすると、私たちの人生のすべてをいただくものとして受けとめることができます。そして、浄土へ迎えられることが定められているのですから、毎日、毎時刻、苦悩しながらも、人生を船で旅するように主体的に味わうことができるのです。一口のご飯も、一滴の水も大事に味わい、悪いもいいことも恵まれた人生の内容として大事にいただきます。
張偉 著『海をこえて響くお念仏』 念仏者の人生感覚 より
最後に親鸞聖人の書かれたお書物の中から、臨終に関係した文をいくつかひもといてみたいと思います。
有念無念の事
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
『親鸞聖人御消息』(1)建長三歳辛亥閏九月二十日 より
▼ 意訳(中央公論社・『親鸞』より) ―――――――――――
有念無念ということ。
いまわのきわに浄土からのお迎えがあるということは、さまざまな善行を積んで浄土に生まれようとする人のためにあるのであって、それは、その人が自力をたのむ人だからです。また臨終を待つということもさまざまな善行を手だてとして浄土に生まれようとする人にあてはまることで、それは、その人がまだ真実の信心をえていないからです。またそれは、十悪や五逆の罪を犯した人が臨終にはじめて正しい友(善知識)の導きに遇って、念仏を勧められる場合にいう言葉です。真実の信心をえた人は阿弥陀如来のお心に救い取られて捨てられませんから、浄土に生まれる(正定聚)身となっているのです。ですから臨終を待つ必要はなく、お迎えをたのむこともいりません。信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません。
『親鸞聖人御消息』(16)文応元年十一月十三日 より
▼ 意訳(同上より) ―――――――――――
いずれの年にもまして、去年と今年に、老若男女、多くの人々が相次いでなくなられたことは、誠にいたわしいことであります。けれども生死の無常である道理は詳しく如来の説き置かれておられるところでありますから、いまさら驚かれることではありません。まずわたくしとしましては、臨終の善し悪しは申しません。信心の定まった人は疑いの心がありませんから、浄土に生まれる身となっているわけであって、それでこそ愚かな人や無智な人でも終わりもめでたくまっとうすることができるのです。如来のおはからいによって浄土に生まれると、あなたがたが人々に申されていることは、わたしと少しも違っておりません。年来、わたしがこのように人々に申して来たことは今も変わりありません。けっして学者ぶった議論をなさらないで、浄土に生まれることをなし遂げてください。
この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
『親鸞聖人御消息』(26) 七月十三日 有阿弥陀仏 御返事 より
▼ 意訳(同上より) ―――――――――――
わたしは、もうすっかり年をとってしまいましたから、さだめしあなたに先立って浄土に生まれるでしょうから、浄土でかならずかならず、お待ちいたしましょう。
『親鸞聖人御消息』(39)十一月二十六日 より
▼ 意訳(同上より) ―――――――――――
お念仏を共にするものが、「いまわの時を期して」、といわれることは、わたしの力ではなんともいたしかたのないことであります。信心が真実のものとおなりになっている人は弥陀のお誓いの恵みをえているうえに、さらに弥陀はそのような人をお心に救い取ってお捨てにならない、とありますから、ことさら臨終を期して、浄土からのお迎えをお待ちになる必要はない、と思われます。まだ信心の定まらないような人は、臨終をも期し、お迎えをお待ちになればよいでしょう。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
如来浄華の聖衆は
正覚のはなより化生して
衆生の願楽ことごとく
すみやかにとく満足す
『高僧和讃』 天親讃(13・14) より
▼ 意訳等(『三帖和讃の意訳と解説』より) ―――――――――――
【意訳】
本願力を信ずれば、空しく生死に流転するものはない。名号の功徳がその身にみちて、煩悩の濁水も同化して差別するところがない。
【語句】
○本願力にあひぬれば――本願力とは第十八願のこと、あひぬればとは遇の意で、本願力を信ずることをいう。『一念多念文意』【※編集注:一念多念証文とも称される】に「遇はまうあふといふ、まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。」とある。
○煩悩の濁水へだてなし――濁水が海にそそいで同一となるように、如来の本願を信ずると、煩悩がそのまま功徳と融化して一味になること。
【意訳】
弥陀の浄土に生まれた聖衆は、他力本願の功徳によったものであるから、如来と同じ果徳をあらわし、正覚の華から化生するのである。ゆえにひとたび化生すれば、一切衆生のあらゆる願いを満足させてくだされる。
【語句】
○如来浄華の聖衆――浄華とは阿弥陀如来の坐わっていられるきよらかな蓮華の座をいい、極楽に往生した行者を聖衆という。ゆえに真蹟本の左訓にも「じやうくゑといふは、あみだのほとけになりたまひしときのはななり、このはなにしやうずるしゆじやうは、どうゐちにねむぶちして、べちのみちなし」とある。
○化生――生死の迷界をはならて自然に生まれること。
○願楽――往生する人の願いをいう。
さらに、「自然法爾の事」も味わっていただきたいと思います。
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
正嘉二年十二月十四日 愚禿親鸞八十六歳
▼ 意訳(中央公論社・『親鸞』より) ―――――――――――
自然法爾ということ
自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。然とはそのようにさせるということであります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。
言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。
如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。
阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。
聖人にとっては、生も死も、信心の上からは全て「本願力自然」としての義、如来のはからいである、ということです。ただし、私と如来とが別々にあって「私でなく如来に主体をバトンタッチした」ということではありません。これでは奴隷的生であり、畜生の生になってしまいます。真意は、「本来の私が如来のはからいの上で明らかになった」ということなのです。そこに生死を安心して受け入れていける場も与えられるのです。
なお、こうした道理は、常々意識して考えていたのでは道理が道理として固定されてしまい、それでは平生業成が成り立ちません。こうした道理を飲み込んで消化し、日々の生活に如来からの視座を生かして生き切ることが肝心でしょう。