平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

「葬式仏教」と呼ばれることについて

仏教教団の栄光と挫折

質問:

 ふとした疑問なのですが、日本の僧侶が法事やお葬式を営むようになったのはいつ頃からですか?
 お釈迦様の広めた仏教は生きている人々への教えであるとある本で読みました。もちろんあの当時は葬式仏教ではありませんでしたよね?

返答1

「ふとした疑問」ということですが、実に深い意味をもっています。

◆ 葬儀をする意義

 仏教というのは、お釈迦様の時代から現在に至るまで、 またインドでも中国でも日本でも、 全て生きている人々のために教えが説かれるのです。 死を目前にした人に経典を読む「臨終勤行」の作法はありますが、 死者のために読むお経などは存在しません。 あったらそれは「偽経」といって、覚りをもたらさない経典です。

 また「追善供養」も、それは如来の真意ではなく、 そこから本当の意味の供養、つまり「相手を敬い尊敬する行為」 に転じていくための手段として用いられているだけです。
 (『「供養」について』 参照)

 日本のいわゆる「葬式仏教」ということに関しての批判はよく聞きますし、 実際、葬式や法事でも、お経を棒読みしただけで終り、 法を伝えたり人々の悩みに応える努力をしない僧侶も多くいます。

 ただ、インドでの仏教教団が葬儀を全く行なわなかた訳ではありません。 例えばお釈迦様が涅槃に入られた時も 盛大な葬儀が営まれたと伝えられています。
 (『ブッダ最後の旅 E』 参照)

 経典に記された内容には事実認定が不確かな部分もあるのですが、 初期の仏教教団でも葬儀と無関係でなかったことは確かなようです。 ただそれを、単に死者の冥福を祈るだけに終始させたりはしませんでした。
 普段は彼方に見ていた死が、身近に起こってきたため、 人々は死という厳然たる事実をしっかり見つめざるを得ず、 ようやく「生老病死」の四苦や八苦の事実が自分の中で問題となってきます。
 そこで苦の現実から目を背けず、克服すべき道を聞き開き、 死を受け入れ、死を抱えて生きる。 そうした生き方に転じる絶好の機会として葬儀を執り行なう訳で、 つまり葬式も生きている人々のための儀式なのです。

 また、環浄された(亡くなられた)方の一生を訪ね、 法を聞き開いた心をもって遺徳を偲ばせてもらうと、 その御一生に如来としてのはたらきが見い出されてきます。 すると、そうしたいのちの往き先が 『冥土』と語られるような寂しく暗いところではなく、 『無量光明土』とも呼ばれ、 真実の因縁果により、いのちが共に集える場所として報われた『浄土』であると、 明らかに見させていただくことができるのです。

 そうした尊い御先祖様ですから、「冥福を祈る」ような追善供養は必要なく、 ひたすら尊敬の念が沸き、いつでも見守って下さっていることが感じられますので、 私たちといのちの深いところで関わりをもつことができるのです。
 (『お悔やみの言葉に傷つく』『葬儀についての手引き』 参照)

◆ 歴史を創造する力

 仏教は、お釈迦様在世の時代の教えや戒律を守るだけでなく、 教団が発展し、多くの地域の人々に試される中、 長く思惟を積み重ねてきた結果、 大乗仏教運動として花開きます。
 そこでは単に苦からの解脱を個人が目指すだけでなく、 一切衆生に具わる仏性を見い出し、 涅槃の楽を受け、常住なる法身を依りどころとし、 現世を厭うだけでなく、浄土を願うことで、 現実を変革する力を獲得してきました。
 (『往生論註の「願生」について・大乗仏教の基本は「常・楽・我・浄」の肯定』 参照)
 いわば「社会」や「国」の問題を解決していく中に、 個人の成道も有り得るのであり、 また人類の社会的・文化的・宗教的な継続の中に、 歴史を創造する力を「如来のはたらき」として見い出し、 人の存在を絶対的な輝きとして褒め称えられることにより、 みずからのいのちも尊く受けとめていけるのです。

 こうした教えや高僧方の活躍を思うと、 先人達の偉業には目を見張るものがあります。 しかし一方、 「お釈迦様の広めた仏教は生きている人々への 教えであるとある本で読みました。」 ――ということは、つまり裏を返せば 「本で読まなければ、仏教は生きている人々への教えであると知らなかった」 ということですから、これは皆様にも先人達にも、大変申し訳ないことですね。
 今の僧侶を代表(?)して陳謝申し上げます。

◆ 唾棄すべき有様

 どうしてこんな事態になってしまったのか、理由は色々あると思いますが、 まず第一に、江戸時代、仏教教団が檀家制度により為政者の側についてしまい、 民衆を統治し、身分差別を固定化する政策に乗ってしまったことが挙げられます。
 そこでは「平等」の仏教思想は現実には放棄され、 「死んでからのこと」としてしか語ることができません。 また「人を見下すことが現実に地獄を作り出す元なのだ」 という正論は見失われ、 「現実の地獄は仕方がないが、死んでからなら救われる」 と、すり替えられてしまいました。 如来の願いは、あくまで真実のはたらきを現実に展開することであって、 決して現実の苦の解決を見放したわけではないのに、です。

 また明治時代、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた時、 一部では人々の苦悩を背負って活躍する動きもあったのですが、 各教団組織は政治的な解決に走りがちで、 改革は限定されたものになってしましました。 特に戦時中、時代に迎合(もしくは率先)して作り出した戦時教学は余りに極端な内容で、 結局、教団組織の保身と引き換えに、人々を「死んでこい」と戦地に送り込んでいた訳です。 もし戦時中でも「いのちは尊い」と説いてさえいれば、 せめて集団自決のような逃げ場のない悲惨な事態は避けられたことでしょう。

 第二次大戦後はそうした戦時教学はなくなりましたが、 長年に渡って矮小化させてきた「伝統教学」はまだ影響を残しています。 同時に世相として唯物主義が横行し、宗教心が削がれ、 教団として今後の宗教活動の柱となるべき教学が打ち立てられずにいるばかりでなく、 いまだに差別発言をする僧侶が後を絶たないのです。

 このように日本の仏教には様々な問題がありますが、 現実を変える力も如来の業として成就されていることを学び、 本来の教えの展開が現実になされるように努力したいと思います。


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