平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:“魂”についての概念で、そちらのホームページを拝見させていただきましたが、下のようなことをご回答いただきたく存じます。
『仏教の正統から言うと「生まれ変わることもないのでしょうか」とか「地獄もなければ天国もないのでしょうか」と言った質問には答えないのが正しい』という部分について、釈尊の言われた六道輪廻とは違う意味なのでしょうか。
『浄土とは私たちが死後について持っているイメージに対する批判である』
とありますが、仏説阿弥陀経の中にあるお浄土はどのように解釈すればよろしい
でしょうか。 |
まず、第一のご質問「六道輪廻=生まれ変わり」に関する部分についてお答えします。
世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。
そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。
その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。
趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。
ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。
というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。
これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。
ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。
しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。
それと、釈尊について知っておくべき基本的前提は、釈尊が確かにこの通りしゃべったといえる言葉は残念ながら一つも残っていないということです。大乗経典はもちろんのこと、最初期の経典にもそれを見つけるのは困難です。
しかし、釈尊がしゃべった言葉にかなり近いだろういわれているものはあって、スッタニパータ(『ブッダのことば』岩波文庫)やダンマパダ(『真理のことば/感興のことば』同)の中の言葉がそれにあたります。もしお知りになりたければ、その中でも、スッタニパータの「八つの詩句の章」と「彼岸に至る道の章」をまず読まれることをおすすめします。そこには、仏教の基本的教えとされる「諸行無常」も「諸法無我」も出てきませんし、菩提樹の下で瞑想し自己と宇宙に関する究極的真理を体得したとかいった神話もありません。それらは釈尊よりはるかに後の人が釈尊の教えを整理した言葉、あるいは、釈尊の教えを宣伝するために作った物語なのですから当然ですが、とりあえずそういうものをいったん忘れて釈尊の言葉を読む必要があると思います。
次に、浄土に関するご質問についてお答えします。
『仏説阿弥陀経』の中には、たしかに金銀財宝に満ちあふれ、極彩色の鳥たちが飛び交う、きわめてイメージ豊かな浄土が描かれています。その光景は、このお経の作られた時代と場所の価値観にしたがって、浄土とはいかに魅力的で素晴らしい場所かということを、考えられる限り想像力を尽くして描き出したものと言えます。
しかし、親鸞聖人の浄土に対する基本的な考え方に戻るならば、まず浄土とは、われわれの想像力を超えた世界ということになります。言い方を変えれば、わたしたちがどんなイメージを浄土に対して抱いたところで、そのどれにもあてはまらない世界。
たとえば『教行信証』の「真仏土巻」で、
つつしんで真仏土(浄土)を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり
(浄土真宗聖典註釈版337ページ)
と言われます。つまり、「不可思議」わたしたちが思考することができない如来さまの、「無量」量ることのできない光に満ちあふれた場所ということですが、要するに、「不可思議」とか「無量」という言い方しかできない。とてもじゃないけど、わたしたちの言葉でいくら言っても言い尽くすことができないのが浄土だということになります。
また『高僧和讃』にも
安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり
究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし
(同・580ページ)
と言われ、浄土の荘厳(おかざり)とはただ仏のみが知りたもうもので、究極的には虚空(現在でいう空間)であり、それは広大で際限がないとお示しです。というと、抽象的なようですが、要するに浄土をいかなる美辞麗句によって表現するのもおこがましいという、浄土を言葉やイメージによって把握しようとすることに対する否定を強調しておられます。
それと、余談かもしれませんが、これは経典というものをどう考えるかという問題にもかかわってきます。それが「仏説」と呼ばれるからには、一字一句すべて実際にあるもののことについて書いてあるのかどうかということです。
ちなみに、現在のアメリカ合衆国には『聖書』の「創世記」の万物創世の記述(神が六日間で世界を創造し、七日目に休息した)を文字通り信じると表明している方がかなりの割合でおられるそうで、そういう方はファンダメンタリスト(原理主義者)と呼ばれているそうです。もちろん、われわれ仏教徒にもそういう立場はありなのですが、さっき釈尊について言ったように、「仏説」と言われるものであっても、今日の学問的知見に照らした場合、釈尊より何世紀も後になって、どなたかのお書きになったものであることは疑いがありません。
しかし、では無意味なのかというとそうではありません。名古屋別院で月に一度「なもの会」でお話をしてくださっている加藤順教先生によると、霊山勝海先生は、
「人々の琴線にふれ、その人の心を浄めて仏の世界に導く法が語られているならば、それは仏法なのです。経典成立の事情が文献学的に、歴史学的にどのようにあばきたてられたとしても、そこに語られている教えの中に、私自身のいのちを浄化する法則を聞くことが出来るならば、それは仏法であり、仏説なのであります」と、『観無量寿経法話』という本の中で書いておられるそうです。
また、加藤先生は『教行信証』総序の「ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)ひがくたく」というお言葉を引かれ、
「あの『ああ』は、ただ感動しはった感嘆された言葉じゃなくて、親鸞聖人が自分のいのちをふるわせなさった、おそろしいどえらいものに出会って、いのち全体が揺すぶられた言葉なんでしょうね。『弘誓の強縁』に出会ったのは29歳ですよ。でも、教行信証をかかれたのは、52歳のころといわれています。そんだけ時間を隔てても、なおまだ『ああ』と書き出せる出会い、そういうものがあるんじゃないか。だから、お経さまをどう受け止めてさせてもらうかっていうことです。と言っておられます。
『琴線にふれる』ということは、こちら側のお経さまの読み方を問われますよね。わたし自身がどうお経さまを読まさしてもらうのか。歴史学的、経典成立史的、文献学的にいろんなことを調べることも、学びとしてはいい。たしかにお経はそうして出来たものだけれど、『ああ』と身をふるわせる言葉に出会っていくこと、それこそが仏説に出会うということだとおっしゃってくださるんじゃないかな」
ですから、『仏説阿弥陀経』に描かれた浄土に心をふるわせる体験をし、それが浄土へと心を向ける縁になるならば、それは「仏説」に出会っている、つまり真実のものに出会っているということになるのではないでしょうか。
それと、浄土に往生するということについて言うと、そもそも、インドであれ中国であれアメリカ合衆国であれ、まだ行ったことのない場所について書いてある本をいくら読んだり、人から話を聞いたからといって、そこへ行ったのと同じことになるということはありえませんね。それどころか、テレビで見、本で読み、話を聞くことと、そこへ実際に行くことは別のことがらで、むしろ先入観を裏切られ、まったく予想もしなった印象を受けるというのが普通ではないでしょうか。
浄土に往生するということについてもある程度似たようなことが言えるのではないかとわたしは考えています。親鸞聖人は「難思議往生」(考えることのできない往生)とおっしゃっておられますが、浄土についてどんなイメージを持っていたところで、実際に浄土に往生するということは、いわばまったく知らない土地に行くようなもので、それより他に取り替えのきかない体験である以上、それがイメージによって先取りされるということはあり得ないというのは当然のことではないでしょうか。わたしが「浄土とはわたしたちが死後について持っているイメージに対する批判である」と言ったのはそのことです。
以上、浄土に関しては雑然としていますが、専門家の方々の意見も一致しないようで、たとえば『教学シリーズ・往生浄土(上・下)』(本願寺出版社)を読まれると、現在の論争の状況が分かります。(了)
[相川拓善]