さて、いよいよ臨終が近づきます。釈尊は最期まで弟子たちに教えを伝えます。
アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるである
またアーナンダよ。いま修行僧たちは、互いに『友よ!』と呼びかけて、つき合っている。しかし私が亡くなったのちには、お前たちはこのようにいってつき合ってはならない。アーナンダよ。年長である修行僧は、新参の修行僧を、名を呼んで、また姓を呼んで、または『友よ!』と呼びかけてつき合うべきである。新参の修行僧は、年長の修行僧を『尊い方よ!』とか『尊者よ!』と呼んでつきあうべきである。
アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなったのちには、もしも欲するならば、瑣細[ささい]な、小さな戒律箇条はこれを廃止してもよい。
なお、この「小さな戒律箇条はこれを廃止してもよい」という言葉は、後に教団において拒否されます。というのも、初期の仏教教団において、戒律は非常に重要で、一つの戒律を廃止するということは、ある者にとっては、修行生活の根本を変更させられることになりかねません。ですから釈尊から具体的な指示がない以上、変更することは不可能だったのです。しかし、このことが後世(約百年後)戒律をめぐって教団が分裂するもととなりました。
この後、修行僧チャンナについて、「清浄な罰」「ブラフマ・ダンダ」を加えるように指示します。これは他の修行僧が沈黙することで罰を与えるわけで、これにより、気難しく争い好きなチャンナも人格が円熟したということです。
釈尊は、また告げられます。
また、修行僧たちよ。ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関し、一人の修行僧に、疑い、疑惑が起るかもしれない。修行僧たちよ。問いなさい。あとになって、「わたしたちは師に目のあたりお目にかかっていた。それなのにわたしたちは尊師に目のあたりにおたずねすることができなかった」と言って後悔することのないように
釈尊は三度たずね、また仲間同士に質問をしあうことも促しますが、誰も「疑い、疑惑」を口にする者はいませんでした。アーナンダは、このことに驚きの声を発します。すると釈尊は、――
アーナンダよ。お前は浄らかな信仰からそのように語る。ところが、修行完成には、こういう智がある、「この修行者の集いにおいては、ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関して、一人の修行僧にも、疑い、疑惑が起こっていない。この五百人の修行僧のうちの最後の修行僧でも、聖者の流れに入り、退堕しないはずのものであり、必ず正しいさとりに達する」と。
ここで「修行僧のうちの最後の修行僧」とはアーナンダを指し、彼は若く、また釈尊に長きにわたって随行し、記憶力は抜群でしたが、修行の歩みは遅かったようです。彼もやがて阿羅漢果に達するのですが、それは経典結集の直前であったと伝えられています。
この後、釈尊は最後の言葉を述べられます。
さらに尊師は修行僧たちに告げた。――、
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」
これが修行をつづけて来た者の最後の言葉であった。
この後、世尊は精神統一をして“最初の禅定”(初禅)に入られ、そこから第二禅、第三禅、第四禅に入り、“虚空の果てしがない処”(空無辺処定)、“意識の果てしがない処”(識無辺処定)、“一切の所有のない処”(無所有処定)、“意識もなく意識しないこともない処”(非想非非想処定)、“意識も感覚も滅尽した処”(滅想受定・滅受想定)の境地に入られます。
ちなみに、これらのうち四禅定(初禅〜第四禅)は、色界における四つの段階的境地で、欲界の迷いを超えて色界に生ずる四段階の瞑想をいいます。それぞれの禅定は、「初禅=覚・観・喜・楽・一心の五支よりなる」「第二禅=内浄・喜・楽・一心の四支よりなる」「第三禅=捨・念・慧・楽・一心の五支よりなる」「第四禅=不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなる」。また以上の境地には諸天・神々が存するため『四禅天』といいます。
ここからさらに進むと、無色界における四つの段階的境地『四無色定』の境地(空無辺処定〜非想非非想処定)になり、ここでは禅定修行において一切の物質的な繋縛を受けないようになった境地を四段階に分けています。ここからさらに滅想受定(滅受想定)に進むのですが、以上の心的状態を後代のアビダルマ仏教教学では「九次第定・九次定・九次第思惟正定」と名付け、これらの九つの境涯を一つずつ進んでいくことを修行の目的としました。
そのとき尊者アーナンダは尊者アヌルッダにこう言った、
「尊いかた、アヌルッダよ。世尊はニルヴァーナに入られました」
「友アーナンダよ。世尊はニルヴァーナに入られたのではありません。滅想受定に入られたのです」
その後逆順に、滅想受定から非想非非想処定、無所有処定、識無辺処定、空無辺処定、第四禅、第三禅、第二禅、から初禅に入られ、また第二禅、第三禅、第四禅に入られ、そこから起って、世尊はただちに完きニルヴァーナ(無余依涅槃)に入られました。
釈尊入滅とともに大地震が起り、天鼓は鳴り響きます。そして、サハー(娑婆)世界の主である梵天(ブラフマン)や、神々の世界の主である帝釈天(サッカ)、アヌルッダ尊者がそれぞれ釈尊の解脱・涅槃をたたえる詩をとなえます。そしてアーナンダも詩をとなえますが、それは次のような恐怖を含んだ詩でした。
そのときまさに 恐ろしき
身の毛のよだつ ことがあり
万徳そなえる みほとけの
身まかり行きし そのときに
こうして釈尊が涅槃に入られると、貪りをすっかり離れてはいない修行僧は嘆き悲しみ、これに対して貪りを離れた修行僧たちは「およそつくられたものは無常である。どうして(滅びないことが)あり得ようか」と、正しく思念し、正しく意識を保って、じっとこの悲しみに耐えていました。
そして尊者アヌルッダは、嘆き悲しむ未熟な修行僧たちに「友らよ。神霊たちは呟いています」と自制を促し、また神々も人間同様、情欲を離れた神々とそうでない神々がいて、様々な相で釈尊の入滅を受け止めている様子を伝えます。
これは、時に「ヴァイシャーカ月の満月の日」となっていますが、ヴァイシャーカ月は第二の月ということでしたので、二月十五日の夜半、と中国・日本では伝えていますが、実はヴァイシャーカ月は今のほぼ5月に当ります。また年代ですが、西紀前544年から383年まで様々な説があり、なかなか特定できません。ただし、「インド古代史の年代について僅かに百年の差しかないということは年代の不明な古代インドとしては驚くべきことである」と中村元氏も指摘しているように、歴史上の釈尊の存在が、このことからも確定していると言えるでしょう。
尊者アヌルッダと若き人アーナンダは、その夜じゅう『法に関する講話』を説いてすごしました。
また『パーリ本』には詳細な記述はありませんが、『法顕本』には――人々はアーナンダに「尊者よ、願わくば、親しく仏陀を拝するを許したまえ」と願い、アーナンダは「婦人で世尊の座下に詣ったものは、必ずしも多くはない。今こそ彼等に仏陀を拝せしめなければならぬ」と思い、婦人達優先で、進んで仏陀を拝することを許した、と記述されています。釈尊は出家でしたから、当然戒律は守っていましたので、女性と親しく交わることが少なかった訳です。彼女たちは、泣く泣く香花をささげました。
アヌルッダはアーナンダに「クシナーラーに入って、クシナーラーの住民であるマッラ族の人たちに告げなさい」と指示し、早朝、アーナンダは一人の従者を連れて城中に入っていきます。
この時、マッラ族の人々はある用件があって公会堂に集まっていましたが、釈尊の入滅を聞くと、皆大いに嘆き悲しみました。
◆ 遺体の火葬
クシナーラーのマッラ族は従僕たちに命じ、クシナーラーのうちにある香と花輪と楽器をすべて集めさせます。そして、――
そこで、クシナーラーに住んでいるマッラ族は、香と花輪と楽器をすべて取って、また五百組の布を取って、尊師の遺体のあるマッラ族のウパヴァッタナ、沙羅樹林におもむいた。そこにおもむいてから、舞踏、歌謡、音楽・花輪・香料をもって、尊師の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養し、天幕を張り、多くの布の囲いをつけて、このようにしてその日を過ごした。
葬儀に歌舞音曲は異様に感じますが、これはインドでは今でも一般に行われているようで、またインド人の踊り好きは映画でもよく見受けられるところです。
こうして6日間過ごした後、7日目に遺体を都市の南に運ぼうと、「マッラ族の八人の首長は、頭を水に浸して(洗い)、新しい布を着けて『われらは尊師の遺体をもち上げて運んでゆこう』と思った」のですが、どうしても持ち上がりません。
そこでアヌルッダに相談すると、――
ヴァーセッタたちよ。神霊たちの意向は、「われらは、舞踏、歌謡、音楽・花輪・香料をもって、尊師の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養して、北に通じる道路によって都市の北に運び、北門から都市の中に入れて、中央に通ずる道路によって都市の中央に運び、東門から出て行って都市の東方にあるマクダバンダナ(天冠寺)と名づけるマッラ族の祠堂に進んで、そこで尊師の遺体を火葬に付そう」というのである。
最初マッラ族が遺体を南に運ぼうとするのは、古代インドでは南の方角は死神ヤマ(閻魔)の方角であると考えられていたためで、また死骸を町や村の中に置いたり、通過させるのは、当時「穢れをもたらす」と忌み嫌われていたのですが、こうした古来の習俗に仏教徒は反抗した訳です。「神霊たちの意向」と表現されていますが、ここで展開されようとする葬儀の実行は、現在私たちも問題とする「世間の習俗・慣習に流された葬儀」から「本当の教えに基づいた葬儀」への転換を示唆してくれているようです。
そのときクシナーラー(市)は、塵箱の塵芥の堆積の上に至るまでも、膝のあたりに至るまでも、マンダーラ華を撒きちらされていた
このような表現がされるように、天界もともなって葬儀は進行します。
アヌルッダの指示通りマクダバンダナに釈尊の遺体を安置し、その後の処理をアーナンダにたずねます。アーナンダは、以前釈尊から聞いた「世界を支配する帝王(転輪聖王)の葬法にならって扱うがよい」という指示を伝えます。
そこでマッラ族に人々は使用人たちに「それではマッラ族のよく打ってときほごした綿を集めなさい」と命じます。
そのときクシナーラーの住民であるマッラ族の人々は尊師の遺体を新しい布で包んだ。新しい布で包んでから、次に打ってほごされた綿で包んだ。打ってほごされた綿で包んでから、新しい布で包んだ。このようなしかたで五百重に尊師の遺体を包んで、鉄の油槽に入れ、他の一つの鉄槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、尊師の遺体を、薪の堆積の上にのせた。
ここに出てくる「鉄の油槽」のくだりですが、『法顕本』には、――
マッラ族は、新しい浄らかな綿及び織り目の細かい厚地の毛布で如来の身を纏[まと]い、然る後に金棺の中に内[おさ]めた。其の金棺の内には牛頭栴檀香の屑及び諸の妙なる華を散らし、即ち金棺を銀棺の中に内めた。又、銀棺を銅棺の中に内め、又、銅棺を鉄棺の中に内めた。又、鉄棺を宝の輿の上に置き、諸の伎楽を作し、唄を歌って賛嘆した。
と出ています。
ちょうどその頃、尊者 大(マハー)カッサパは、パーヴァーで托鉢をして、それからクシナーラーに至る道を五百人の修行僧と歩んでいたのですが、道すがらアージーヴァカ行者から釈尊の入滅を知ります。ここでも、貪りをすっかり離れてはいない修行僧は嘆き悲しみ、貪りを離れた修行僧たちは、正しく思念し、正しく意識を保って、じっとこの悲しみに耐えていました。
ところが悲報を聞いた中に一人、スバッダ(最後の直弟子とは別人)という修行僧がいて、「釈尊入滅によって我々は解放されたのだ。これからは欲望のおもむくままにしよう」と、暴言を吐きます。これにはマハーカッサパも驚き、心を痛め、正しい教法と戒律を定める必要を感じます。そこで後にマハーカッサパは経典結集の中心となり、またこのスバッダも前非を悔い正道に立ち帰ったということです。
さて、マッラ族の4人の首長が、頭に水を注いで身を清め、新しい衣服を身にまとって用意を整えると、「さあ、火葬の薪に火をつけよう」と言って、火葬の薪に火をつけようとしますが、どういうわけか一向に火をつけることができません。アヌルッダに相談すると、ここでも「神霊の意向」で、尊者大カッサパの到着を待つことになります。
尊者大カッサパがクシナーラに到着すると、マクダバンダナと名づけるマッラ族の祠堂、釈尊の遺骸を安置してある火葬の薪のところまでおもむきます。そして衣を左肩だけにかけ直し、合掌して、火葬の薪に三度右回りの礼をしてから、釈尊のみ足を頭にいただいて礼拝します。五百人の比丘たちも、同じように衣を左肩だけにかけ直し、合掌して、火葬の薪に三度右回りの礼をしてから、釈尊のみ足を頭にいただいて礼拝します。
こうして尊者大カッサパと五百人の比丘たちがみな釈尊の遺骸に礼拝し終わると、釈尊の遺骸をのせた火葬の薪の堆積は自然に火を発して燃え上がったということです。しかし、実際に薪に点火したのはマハーカッサパ尊者であろうと思われます。
釈尊の遺骸が、骨だけを残してみな燃え尽きると、天(虚空)からは雨が降り注ぎ、また地面(草木?)からは水か噴き上がって注ぎかかって、釈尊の遺骸をのせた火葬の薪の火を消します。また、クシナーラのマッラ族も、さまざまな香水をふりかけて、消化を助けました。
こうして荼毘が終わると、遺骨を七日間公会堂におき、その周囲を槍を組んだ矢来で囲み、さらに弓の柵をはりめぐらし、歌舞音曲や花環やお香などによって、敬い、尊び、崇め、供養し続ました。
◆ 遺骨の分配と崇拝
その後、釈尊の遺骨をめぐって争いが起ります。
マガダ国王であるアジャータサットゥ、ヴィデーハ国王の女の子は、釈尊の死を知り、クシナーラーのマッラ族に使いを出し、「尊師も王族(クシャトリヤ族)であり、わたしも王族である。わたしもまた尊師の遺骨の一部分の分配を受ける資格がある。わたしも尊師の遺骨をおさめるストゥーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう」と言います。
またヴェーサーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータディーパの或るバラモン、パーヴァーのマッラ族も釈尊がクシナーラーで亡くなったということを聞いて、使者を遣わし、遺骨を請求します。
ただし、シャカ族が遺骨を請求した主張の理由は「尊師はわれらの種族の最もすぐれた人である」ということであり、ヴェータディーパのバラモンは「尊師はクシャトリアであり、われはバラモンである(=つまり私の方が上だ)」ということでした。
ところがマッラ族は、「尊師はわれらの村の野でお亡くなりになったのである。われらは尊師の遺骨の一部分も与えないであろう」と言います。
このようにクシナーラのマッラ族が各国の使者の申し入れを拒否したため、あたりは険悪な空気に包まれてきます。そこでその気配を察知したドーナというバラモンが、一同をとりなそうとして、次のように言います。――
わが提言に 諸君よ
耳傾けよ みほとけは
忍耐説きし ひとなれば無上の人の 遺骨とて
そをめぐりつつ 争うを
いかでか義しと 言うを得んみなで仲よく 諸君よ
八つに等しく 相分けて
各自一つを 持てばよし各地に塔の 建たれなば
浄らの信心 具眼者に
懐けるひとは 世に満てん
人々はドーナの提案を受け入れ、彼の手により遺骨は均等に八つに分配されます。残った瓶はドーナ自身が受け取りました。その後ピッパラーヤナというバラモン学生(モーリヤ族?)も遺骨の引渡しを申し入れてきますが、分配された後だったので、荼毘を行った時に残った灰のみを受け取ります。
これにより最初の八つの部族はそれぞれ仏舎利塔をつくり、ドーナは瓶塔、ピッパラーヤナは灰塔をつくって供養を営んだとされています。
ただ、『大パリニッバーナ経』諸本最後には次の詩があり、以上の記述とは異なっています。
眼ある人の遺骨は八斛ある。
七斛はインドで供養される。
最上の人の他の一斛は、ラーマ村で諸々の竜王が供養する。
一つの歯は三十三天で供養され、
また一つの歯はガンダーラ市で供養される。
また一つの歯はカリンガ王の国において供養される。
また一つの歯を諸々の竜王が供養している。
その威光によってこの豊かな大地は、
最上の供養物をもって飾られているのである。
このように、この眼ある人(=ブッダ)の遺骨は、
よく崇敬され、種々にいともよく崇敬されている。
天王・諸々の竜王・人王に供養され、
最上の人々によってこのように供養されている。
合掌して、かれを礼拝せよ。
げにブッダは百劫にも会うこと難し。
大パリニッパーナ経 終る
以上がパーリ本『大パリニッパーナ経』等にあらわされた釈尊の最期の様子でした。
なお、埋葬された遺骨は、のちにアショーカ王が掘り出し、八万四千のストゥーパに分け納めて安置した、という伝説が残っています。
また1898年にカピラヴァストゥから約3キロ隔たったピラーワーにおいて古墳を発掘したところ、遺骨を納めた壷が発見されますが、それにはアショーカ文字(西紀前3世紀以前の文字)で「これは仏陀世尊の舎利を収める器であり、栄光あるシャーキャ族の人びととその姉妹、妻子たちのものである」と記してありました。
この遺骨は仏教徒のタイ国の王室に譲り渡され、その一部は日本に分与。現在は名古屋市千種区の日泰寺に納められ、諸宗交代で輪番する制度になっています。