平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

信心定まった人は死後の行く先がハッキリするのか否か

― 如来とともに歩む人生を ―

質問:

興味深く読ませて頂いております。
20日付で掲載された質問の中に、以下のような文面がございました。

だから大切なのは《救われるに違いない》そのこと以外に何ものもないのではないか。だから死んで後救われる先は浄土かも知れないが、浄土でなくてもよいのではないか。そこに「生き切る」世界が生まれてくると思えるのです。
それに対して、ご回答は以下のようでありました。
本当にその通りだと思います。地獄以外に行きようがない私、と気づくと同時に、浄土に照らされ続け、待ち続けられていた人生に気づく、そうした不思議を味わうと、死後の行き先など詮索する必要はなくなりますね。
これを読んで、わからなくなりました。

 救われた人は「死後の行き先など詮索する必要がなくなる」というご回答は、質問者と同様、「死後行く先は浄土なのかもしれない、そうでないかもしれない」というあいまいなものとお答えになっていると感じましたが、質問者がとりあげている以前の質問に対するご回答を読むと「真実の信心の定まった人は死んだら浄土へ往生する」と書かれてあると理解いたしました。

 そうすると、死ねば必ず浄土へ往くのに、本人は、それがはっきりしていないということなのでしょうか。

 つまり、真実の信心定まった人は、上記の質問者や回答のように死後の行く先がハッキリしないものなのでしょうか。あるいはハッキリするものなのでしょうか。

 ハッキリするのなら、「詮索する必要がなくなる」という表現にはならないように思います。ハッキリしないとすると、親鸞聖人の以下のようなお言葉と矛盾するように感じ、わからなくなりました。

「真実信心うるひとは すなわち定聚のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」

「わが歳きわまりて安養浄土に還帰す・・」(御臨末の御書)

 御教示よろしくお願い致します。

返答

 確かに文面だけを読むと、「真実の信心の定まった人は死んだら浄土へ往生する」という先の文と、「死んで後救われる先は浄土かも知れないが、浄土でなくてもよいのではないか」「死後の行き先など詮索する必要はなくなりますね」という文は矛盾しています。しかしこれは信心のあり方を両面に開いた解答なのです。

 厳密を期そうとすると、文章が長くなり混乱を与えますので、今回は今まで述べた要点をまとめるに留めておきます。

◆ 正定聚と滅度の関係

 最初の「真実の信心の定まった人は死んだら浄土へ往生する」というのは、阿弥陀如来の本願成就から明言できることです。名号のもっている徳には、一切衆生に信心を施し、受け入れる者全てを念仏の声をともなって救うはたらきを具えているのです。これは疑いようのない大原則です。

 次に「死んで後救われる先は浄土かも知れないが、浄土でなくてもよいのではないか」というのは、質問者が変わり、実際その信心を受容した人の心持ちであり、それに肯いて「死後の行き先など詮索する必要はなくなりますね」とお応えしたのです。

 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。

『蓮如上人御一代聞書』末(122)


▼現代語版
 蓮如上人は、「仏法を聴聞することに熱心であろうとする人はいる。しかし信心を得ようと思う人はいない。極楽は楽しいところであるとだけ聞いて往生したいと願う人はいる。しかしその人は仏になれないのである。ただ弥陀を信じておまかせする人が、往生して仏になれるのである」と仰せになりました。

 つまり、<死後を安逸に過ごそうとして信じる>というのは、やってみると分かりますが、絶対に信じ切れません。また、これを組織的に無理やり信じ込ませるのは<洗脳>になってしまい、自分の人生を放棄することにつながります。これは結局、疑いをともなった信になりますから、真実の信ではないのです。実際こうした宗教は多くあり、所謂「宗教は民衆の阿片である」(レーニン)というところに陥り、時として危険な行動にもつながります。

 信心のありようが、「ただ弥陀を信じておまかせする」となるには、現実の私が如来とともに歩む人生になって初めて疑いが除かれるのです。

 有念無念の事
 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。

『親鸞聖人御消息』(1) 建長三歳辛亥閏九月二十日 より


▼現代語訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社)
 有念無念ということ。
 いまわのきわに浄土からのお迎えがあるということは、さまざまな善行を積んで浄土に生まれようとする人のためにあるのであって、それは、その人が自力をたのむ人だからです。また臨終を待つということもさまざまな善行を手だてとして浄土に生まれようとする人にあてはまることで、それは、その人がまだ真実の信心をえていないからです。またそれは、十悪や五逆の罪を犯した人が臨終にはじめて正しい友(善知識)の導きに遇って、念仏を勧められる場合にいう言葉です。真実の信心をえた人は阿弥陀如来のお心に救い取られて捨てられませんから、浄土に生まれる(正定聚)身となっているのです。ですから臨終を待つ必要はなく、お迎えをたのむこともいりません。信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません。

 このように、第十八願によって生きることの解決をする、つまり正定聚・不退転という生き方になることが最も重要なのです。死後の解決は結果として当然ともなってくるのですが、生きている今は、<死んで後救われる先は浄土かも知れないが、浄土でなくてもよいのではないか>という心境であり、<そこに「生き切る」世界が生まれてくると思える>という決意に満たされているのです。そしてまた、自分だけの救済に安穏としてはいられない、という第二十二願も肯けるのではないでしょうか。自分だけが浄土に居続けることはできなくなります。

「滅度」も「安養浄土に還帰す」というのも、そうした正定聚・不退転の人生を生きるところに、おのずとともなってくる利益なのです。

 以下、第十八願、第二十二願、成就文と、その現代語訳を掲載しますので、参考になさって下さい。

(18)たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
<中略>
(22)たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願 より

仏、阿難に告げたまはく、「それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く」と。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十一・十七・十八願成就 より

▼現代語版

(18) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

(22) わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、その菩薩の願によってはその限りではありません。 すなわち、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させようとするものは別であって、菩薩の通常の各段階の行を超え出て、その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
(別訳)
わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。 ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。 すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 釈尊が阿難に仰せになった。
「さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。 なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないからである。 すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。 無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる」
(別訳)
さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。 なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものが生れることはないからである。 すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。 すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。



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