巻上 正宗分 弥陀果徳 三途見光
仏説無量寿経 巻上……。この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。
無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名の聞こえないところはない。わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」
釈尊が仰せになる。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」
前々回は阿弥陀仏の十方恒沙の仏刹を照らす「超越」のはたらきと、拡大して照らす「内在」のはらたきを、そして前回は十二光の構造を明らかにしましたが、今回は「阿弥陀仏のはたらきに出遇った私たちに実際どのような功徳が施されるのか」を明らかにしてゆきます。
<それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり>
(参照:{百八煩悩})
そうした根本の煩悩である三垢が、(本願成就のいわれを聞き開く念仏者においては)阿弥陀仏のはたらきに出遇うと「消滅し」とあります。しかし、本当に私たちの煩悩は消滅するのでしょうか。念仏者の中で煩悩を消滅させた人が果たして何人居るのでしょう。いや他人事ではない、「そもそも自分自身はどうなのか」と問うと、誠にお恥ずかしい、「煩悩具足の凡夫」としか言いようの無い自分の姿が見えてきます。これはどうしたことでしょう。
本願力回向の菩提心を尊み、如来回向の念仏を称えさせて頂いているにも関わらず、それでも裏切りや煩悩の止まない我が身のあさましさ。しかし経典には「三垢消滅し」と書いてある。すると、経典は嘘を言っているのでしょうか。それとも三垢消滅する人と消滅しない人の別があるのでしょうか。ここは大事なところですが、皆様はどう思われますか。
ここは三つの観点を経て領解せねばならないでしょう。
まず一点目は、三垢消滅は阿弥陀仏の智徳の内容≠ニして説かれているということ。
二点目は、阿弥陀仏のはたらきは、本願力を至り届けることにより、煩悩具足の私のありさまを私に見さしめ、清浄荘厳の願いを起こさせしめていくということ。
三点目は、第十八願の三心(至心・信楽・欲生)を経て実際に三垢消滅が成就してゆくということです。
『仏説無量寿経』は上巻と下巻に分かれていますが、この上巻は阿弥陀仏の内容、つまり本願成就の経緯を説いた巻で、浄土の場に立ち、仏性の歴史が願いとなり浄土として報い一切衆生に回施されている内容を説いています。そして下巻は南無の内容、つまり
ですから上巻において「三垢消滅し」と言うのは浄土の功徳の内容であり、願いの広大さ深さの徳分から「消滅」と断言できるのですが、穢土の現実に現れ出た内容としては三垢消滅し難し≠ニいう慚愧・懺悔となります(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか? })。つまり「三垢消滅し」と「三垢消滅し難し」は一つ現実の裏表。このように矛盾したまま一体となっているのが真実であり、どちらか一方だけ存在しているという見方は真実ではありません。
このことを第十八願の三心で言えば、「至心」において仏性の本来性である真実誠が第十七願までの理想内容となって我が身に迫って自覚(霊性的自覚)となります。この自覚は仏道の要めであり、ここを経ねば人生成就もありえないのですが、この自覚を得た途端、法と我と社会が極めて矛盾した状態に置かれてしまいます。ここに留まると理想主義の非常に危険な状態となってしまうのですが、至心が種(きっかけ・引出仏性)となり、慚愧・懺悔を経て生命一切の宿業(業の歴史)が背に引き受けられると、「信楽(了因仏性)」として如来回向の真実誠が足元から華開き身に満ちてゆきます(場所的自覚/参照:{仏教は「自分らしく生きる」ことを説く宗教ですか? })。
すると法と我が「絶対矛盾の自己同一」という場を得ることが適い、そこであらためて仏の本願が我が願いと定まり、個別的・客観的世界に歩み出て「欲生・願生(生因仏性)」が発揮される。つまり浄土の功徳が宿業の現場に展開され、<もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん>との仏の励ましを胸に私の国土(環境)を創造してゆくことになるのです。これが南無阿弥陀仏のいわれであり、現実に私たちが機法一体の南無阿弥陀仏・真実信心を獲得する(「した」ではない)経緯なのです。
仏説無量寿経講話(島田幸昭)より
これを浄土と宿業の関係で言えば、人間は大きく分けて次の四つの状態にあることが解ります。
第一に、宿業を背負って宿業の世渡りをする。
第二に、浄土を背に浄土に立つ。
第三に、宿業を背負って浄土に立つ。
第四に、浄土を背に宿業の世渡りをする。
この四つの中で、第一は不定聚、第二は邪定聚、第三は正定聚(往相)、第四は正定聚(還相)の状態であります。
宿業とは、行き当たりばったりでその場しのぎの身口意の業、つまり先の三垢(貪瞋癡)を根本とした様々な煩悩が今ここに報いていることを言いますが、第一の「宿業を背負って宿業の世渡りをする」ということは、そうした穢れた宿業に対して開き直り、「毒を食らわば皿まで」とか「どうせこの世は汚い世界だから汚く生きよう」と、宿業の毒に飲み込まれてしまうことを言います。これでは仏性や仏法のはたらき場は見出せず、虚しく苦悩を重ねる人生が転じられることはありませんので、「避けるべき道」と言うほかありません。
問題は第二の「浄土を背に浄土に立つ」ということ、実はこれが極めて危険な状態なのです。周囲から宗教の熱心な信者≠ニ見られているような人が、ある時急に常識外れで奇怪な行動をしたり、浮世離れした生活や、神秘主義に陥ったり、時として破壊的な行動に出てしまうのは、皆「浄土を背に浄土に立つ」という
確かに阿弥陀仏の光(かぎりないはたらき)に出遇えば、その徳分から言えば「三垢消滅」がもたらされるのは当然です。ここにはもはや一点の疑念もありません。ところがこの信念に執われ「与えられた宝が尊いのなら、受けた私が三垢消滅できなければ道理に合わないではないか」と自分を責めることが問題なのです。また「三垢消滅できないというのは、お前の信心が足りないからだ」と他人を責め、さらには「こんな尊い教えを受け入れない腐れ切った社会が悪いのだ」と焦れば、「一度この穢れた世界を破壊して、自分たちの理想世界を新たに築くのだ」と、血走った極端な行動に走る人々も出てきます。
これは「きれいな心になったら、足元があんまり汚いから生きられない」ということの延長。こうなれば詩人金子みすヾのように自ら死を選ぶか、汚れきった社会を否定して世直しののろしを上げるしかありませんが、これはみな足元の宿業が見えていない結果なのです。そのため教団によっては「信者は汚い社会とは関係を切れ」とか「汚いこの社会はいずれ大いなる力によって破壊される」、もしくは「我々の手で破壊しよう」と焦ってしまうのです。こうした終末思想は歴史上
『華厳経』第三四 入法界品
たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。(鳩摩羅什)
続いて第三の「宿業を背負って浄土に立つ」ということ。これが如来の願心に適った正定聚の信心です。「三垢消滅し」という阿弥陀仏のはたらきを尊み
人々は生き抜くために様々な裏切りや嘘を重ねてきました。人々は一時も無明・煩悩を離れて生きてはいないのです。この宿業を他人事として糾弾せず、自らにも見出し、全てを引き受けて浄土をいただく。すると、浄土に片足が乗り、同時にもう一方の足が踏みしめている穢土の内容が解る。今までは汚いとばかり思っていた宿業に意味が与えられるのです。
私事で言えば、自分は実にだらしない人間なのですが、仏の「だらしある」不断のはたらきに出遇えば、だらしないという煩悩がそのまま自分を理解し活かす才能であったことに気づき、やがて自ずと時々恒に&s断の活動が足元から湧き上がってきます。自力で
そうすると、仏のはたらきは常に継続し、一瞬も
最後に第四の「浄土を背に宿業の世渡りをする」ということ。これも如来の願心に適った正定聚の信心ですが、こちらは還相回向の姿です。仏本来から言えば往相と還相は対面通行、表裏一体で時間的な差は無いのですが、信心を分析して語る際には「往還二回向」と一時的に時間差・内容差を設けて語ります。つまり同じ菩薩の身の上に往相と還相の二種の回向が同時にはたらくのですが、分析する際は分けて論じるのです。
具体的にはどういうことかと申しますと、如来のはたらきにより「宿業を背負って浄土に立つ」ことが適った。すると宿業を宝と見る仏の目が回施され、宿業に意味が与えられ、宿業を見さしめている浄土が見えてくる。これが往相ですが、如来のはたらきはここに留まらず、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」(正像末和讃51)で、行者は必然的に宿業の場に還って世渡りに
「三垢消滅し」の真実は以上のように、如来本来のはたらきが広大であるということだけでなく、我が身の中では「三垢消滅し難し」と映じ、慚愧を通して宿業を見、懺悔を通して宿業に意味が与えられ、同時に浄土を背に宿業の世渡りができる。よって三垢の煩悩は消えなくともそのまま徳に転じられ、実質的に煩悩の役割はあってなきが如し¥態になってしまうので「三垢消滅し」と言い得るのです。
聖徳太子は「世間虚仮 唯仏是真」と仰いましたが、虚仮である世間がそのまま「唯仏是真」の現場に転じられたことが、仏教者・念仏者の大いなる手柄なのです。
「身意柔軟なり」以降も同様の領解をすることで自らの生活に定まるのですが、ここからは阿弥陀仏のはたらき分のみを顕していきます。宿業の現実がどうであるかということと、至心・信楽・欲生の本願三心を通して実際に我が身にどう受領されるのかは、前節の「三垢消滅し」の例にならって下さい。
<身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず>は{触光柔軟の願}成就の果報をいいます。この第三十三願は第十八願と同じくらい重要な願で、第十八願は信心や智慧の成就でありますが、第三十三願は身や生活の成就を願っています。
仏のはたらきに出遇えばみな
ただし柔軟といっても金剛心と一味になった柔軟心ですから、上司の命令にただ従うような腑抜けた風見鶏のような心ではなく、腹の据わった人生観を持ちながら、それを活かすため自由無碍に活動し、生活を変え、自分を変化させていく、ダイナミックな柔軟心が「身意柔軟なり」の実態です。
<三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし>は{無三悪趣の願}と{不更悪趣の願}成就の果報をいいます。
このような悪環境・悪境遇に陥った人々も、「報仏弥陀の大悲の願行は、もとより迷ひの衆生の心想のうちに入りたまへり」(安心決定鈔7)ですから、本願成就のいわれを聞き開き、真実法雨に
<寿終りてののちに、みな解脱を蒙る>は、そのまま常識的に読めば、生きているうちは解脱できないが、死んだ後ならば迷いを離れることができる≠ニなってしまいますが、経典は「いかにこの苦悩の人生を生き切るか」を説いたものであって、後生願いのろくでなし≠つくるために説いたものではありません。「まごころで受け取ってくれよ」と願い説かれた教えですから、常識的な文字通りの解釈では真意を外します。書かれた文字である「指」を見るのではなく、月を指差す指の「方向」に目を向けねばならないでしょう。
するとどう受け取れば良いか。
「解脱を蒙る」ということは煩悩の縛りから完全に解き放たれて自由になる≠アとですが、実は人間は一生かかっても解脱を成就することは適いません。三悪道に戻ることはなくとも、解脱が達成されることは難しいし、もし解脱したとしても
しかし「完全に解脱したい」ということは生命本来の願いですから、いつか解脱を達成したいという願いが切なるものであることは確かです。この願いの深さと自らの煩悩性を鑑みれば、「寿終りてののちに」と言わざるを得ない。「せめて死後には解脱したい」という敬虔で深い願いの表明となるのです。
ここからは阿弥陀仏と念仏者の評判が十方にはたらくということですから、信心の社会性が問題となってきます。
<無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし>について。
ここで「光明」が「はたらき」をあらわす言葉であることが再認識できるでしょう。光明が文字通りの光明であれば「聞えざることなし」ではなく「見えざることなし」と表現しなくてはなりません。しかし「聞こえる」とありますから、「光明」とは「はたらき」であることが証明できます。そして「十方諸仏の国土を照耀」するこの箇所で言えば、光明は「阿弥陀仏の徳のはたらき(身放の光明/色光)」であり、具体的に言えば「阿弥陀仏の智慧と不可思議兆載永劫の修行の成果が評判となり、名声となって世界中に広がり、すべての仏がたの国々に聞こえ渡る」という内容を表しています。信心はひとり一人の個人的問題として認識されがちですが、これでは自己満足で終わってしまう可能性がありますので、つねに一切諸仏・一切衆生に開いて評判を聞かねばなりません。そしてこの成就は主として{諸仏称名の願}が因となって報いた果報であることも解るでしょう。
<ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし>について。
「諸仏称名の願」では「十方世界の無量の諸仏」が我が名(阿弥陀仏の名声)をたたえることが願われていますが、願成就のこの箇所では釈尊や諸仏のみならず、「声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆」までも、みな同じく阿弥陀仏をたたえておいでになることが果報として述べられています。つまり「諸仏称名の願」では「諸仏」としか述べられていませんでしたが、この箇所の諸仏は修行を成就した諸仏だけではなく、「一切衆生悉有仏性」という「法の真実」をふまえた本質としての諸仏≠ナあったことがここで証明されるのです。すると「諸仏称名の願」は他人ごとではなく、私たちも含めた称名であることが解ります。そしてここにある「声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆」は「機の真実」をふまえた実践者としての声聞・縁覚・菩薩衆≠ナすから、念仏者すべて、仏教徒すべての称名念仏であることがより明確になって述べられています。
<もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て>について。
衆生に仏徳として名を褒め称えられれば、阿弥陀仏自身は光明無量の願が一応成就し満足でしょうが、仏徳を褒め称えている私たち自身は満足できるのでしょうか。その答えがここにあります。「意の所願に随ひて、その国に生ずることを得」る。願いのままに無量寿仏の国に往生することができるのです。親鸞聖人も法位の言葉を引いて、「もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし」と勧めてみえます。それではなぜ称名念仏にそうしたはたらきがあるのかと申しますと、称名念仏が聞法につながり、聞法によって仏願の生起本末を尊ぶことが本当に適い、これを真に讃ずることにより、讃ぜられた如来の真の徳が能所不二となって我が身に回向され満ちることになるのです。称えれば称えた中身がそのまま我が身に回施されることは、道理の上からも、生活の中からも頷けることでしょう。
(参照:{荘厳妙声功徳成就})
<もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん>
その上今度は「菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる」とあるのですが、ここには二つの留意点があります。一つは、ここでは「菩薩・声聞・大衆」のために(菩薩・声聞・大衆が)褒めるのですが、「諸仏」は抜けています。なぜ諸仏はここでは褒めないのか、という点。もう一つは、「その功徳を称せられん」の「その功徳」とはどの功徳のことか、という点です。
まずは「諸仏」が抜けている理由ですが、すぐ後に「仏道を得るときに至りて」からは諸仏も歎じられるとありますから、二つ目の留意点である「その功徳」は阿弥陀仏の功徳だけではなく、信心獲得者の願往生の功徳も含まれていることが解ります。つまり、「仏の功徳」により念仏者は阿弥陀仏の本願成就のいわれを聞き開いて仏の功徳を忘れず褒める、これが「念仏者の功徳」で、この「仏の功徳」と「念仏者の功徳」を一体に観て、諸菩薩・声聞・大衆がこれを褒めるのです。しかもこれを褒めることが、諸菩薩・声聞・大衆の人生成就のためにもなってきます。
ところで、菩薩・声聞・大衆はそれぞれ自分の道を成就するために、仏と念仏者一体の功徳を褒めるのですが、まだこの段階では念仏者は完全に仏道を得ていません。「往生即成仏」は浄土の徳分から言えば間違いではないのですが、背負った宿業の問題と自らの国土建設の歩みの面からは「即成仏」とは言えないのです。これが「諸仏」が抜けている理由なのですが、次の文章を読むとこの別がよりはっきりしてきます。
<それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん>
安楽国に往生することを得た正定聚の菩薩、つまり信心獲得の念仏者は、往相の菩薩のまま還相回向のはたらきに乗じて宿業の場(時代や環境に限定のある個別の現場)に戻り、自らの国土を成就させ、「仏道を得るときに至りて」からは、つまり自分が実際に仏の智慧と徳を成就したならば、釈尊が無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明(念仏者の上に華開いた仏性のはたらき)をたたえられるであろう≠ニいうわけです。これは{必至滅度の願}成就の果報ですから、「今の私がそうだ」と言うことはできませんが、最初にあるように、せめて「寿終りてののちに」みな解脱を蒙りたいという願いの深さをもってこの功徳の成就とするのです。
諸仏はみな既に独立を果たし、自らの国土を建設しているわけですから、いくら阿弥陀仏の浄土の住民といえどもまだ諸仏が称える対象ではありません。しかし安楽国の道場で念仏者は楽しくお育てにあずかり、「もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん」との仏のお墨付きを得て独立を果たし、自らの国土を創造し整えていく過程においては、「あまねく十方の諸仏・菩薩」も大いに参考になるのであり、その功徳が褒め称えられるのです。
仏説無量寿経講話(島田幸昭)より
<仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と>
これは現代語版の訳でほぼ解るでしょう。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」ということですが、「巍」とは「讃仏偈」の「光顔巍巍」と同じで、無量寿仏の功徳のはたらきを盛んに強調しているわけです。
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