平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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ご質問いただきました通り、おそらく多くの日本人が「
しかしこれには問題が多いのです。仏教でいう「
そこで以下、「
最初から仏教用語を並べると興味を失う方がみえると思いますので、皆さんがよく知っている事実から「自然」と「社会」の関係についてお話させていただきます。
まず、人間の存在自体について考えてみましょう。
人間と動物の違いは、二本足で歩いたり道具の使用を特徴に挙げる人もいますが、これらはまだ本質ではありません。最大の特徴は出生時に現われます。
母胎からオギャーと生れてきた赤ん坊を見てみると、他の生物とは明らかに違う点があります。それは首が据わっていない点です。寝返りもうてない状態で、母乳を飲むのも自分では動けず、親が慎重に頭を支えてようやく口に含ませることができます。そして這うまでに半年以上、立つまでには1年前後の期間が必要です。これは一体何を意味しているのでしょう。
例えば海がめは、卵から
哺乳類はもっと生存率が高いようですが、これは親が必死で子を守るからでしょう。ただし、馬でも狼でも大抵生れたその日のうちに歩けるようになります。人間に近いとされる猿でも、首が据わっていないまま生れてはきません。野生で生き残るためには、親に負担をかけないようにある程度の力を得てから生れてくるのです。それは、自然というものが苛酷な環境であることを肉体が知っているからで、生れた時にはそれだけの力が与えられているのです。
それに比べて、人間は何と無防備な、親にとことん負担をかける姿で生れてくることでしょう。これほど未熟な状態で出生すれば、海がめのような境遇はもちろん、野生・
これは結局、人間というのは、<野生ではなく、平和な社会に育てられることを想定して出生する生物だ>と言えるのではないでしょうか。肉体そのものが既に社会を内包しているのでしょう。
この社会は、自然の苛酷な環境から生命を守り、首の据わっていない子どもも豊かに育てる環境です。さらに、歴史や文化を伝承し、多くの出会いと生きる術を身につけていく期間をじっくり置いている環境でもあります。このため社会は、
だからこそ、
ちなみに、人間以外にも社会を形成する動物は多くありますが、「利己的な遺伝子」の影響から脱することなく、功利的な社会であり、
人間は、親や家庭が子どもを守り、地域社会が家庭を守り、教育機関が育児を手伝うというように、社会全体が一人一人の子どもを守り育てる環境を形成してきました。これは勿論、各自の利己的な思惑が一致しているという点もあるでしょうが、そればかりではなく、互いに助けあい、敬いあい、安心して一人一人が輝きを発揮してほしい、という「まごころ」が根本にあったからできた社会なのではないでしょうか。
そういう意味では、本当は動物も根本のところでは「まごころ」があり、この実現を本心のところでは願っているのでしょう。ただ、動物はこの本心を発揮する段階を経ていないため、生態を見ると残酷なことが当たり前のように起っているのです。かつて人間の先祖も、残酷な環境にありながら、自他の残酷さを嘆き悲しんでいたことでしょう。
この嘆き悲しむ「まごころ」を仏教では仏性といい、「一切衆生悉有仏性」と、生物の本質を明らかにしたのです。人間の社会は野生動物の社会に比べ、仏性が色濃く影響を与えている環境と言えましょう。
ところが、そうして「まごころ」で作ってきた社会であるはずが、環境を捻じ曲げ、他種族を絶滅に追い込み、人間を支配したり戦争に駆り立ててしまう面も持ってしまいました。自然の支配から逃れるために作ってきた社会が、自然に成り代わって人間を支配してしまうのです。
これは、人々が社会を成り立たせている根本精神を見失い、我執をのさばらせ、それを理性や主義主張によって凝り固まらせた結果といえるでしょう。これを「五濁悪世」とか「三悪道」といいますが、この問題が自己の生き方に含まれていることを見抜き、仏性のはたらきによって浄めることが解決の第一歩です。
仏教では社会を「器世間」とよび、このうち仏性のはたらきが報いられ形を表した社会を「如来世間」とか「浄土」とよびます(ただし形そのものが浄土ではありません)。そして浄土のはたらきを見て自ら深く懺悔し、浄土と名号の徳によってあらたな社会を創造することが仏教徒の勤めと示されています。({※資料1▼ 参照} 浄土はどの場にもあり、常に働きを見せますが、仏性が見えない人にはその存在すら疑うことになります。
仏性が見えた上で、生まれたばかりの無防備な赤ん坊の姿を見ると、<確かにこの子は浄土が存在していることを示している>と思うのです。そして肉体にさえ示された「まごころ」の方向に背き、戦争を繰り返している私たちは何と愚かなのだろうと嘆くのです。
『仏説無量寿経』には「国豊かに民安くして兵戈用ゐることなし」とありますが、兵器が必要でなくなる社会は、既に肉体においては「願い」として結果が出ているといえるでしょう。人間はこの願いの報いを種として受け取りますので、自ら率先しまごころの種を育て、花開かせていくように社会的に生きることが肝心であるといえましょう。
私達人間は、
まごころの歴史は尊く、その果報は常に我が身に成り切ろうとしているのです。そして同時に、まごころに逆行する性質も受け継いでいて、その報いも自他や社会に現われています。ですからまず、まごころの報いでできた浄土(如来世間)と、我執や無明の報いでできた娑婆(衆生世間)の見分けができるかどうかが、人生の謎を解く鍵となるのです。
(浅原才市)
ここからは少し仏教の歴史に関る問題点を述べてみます。質問と離れるかも知れませんが、関連することですからこの機会にお話したいと思います。
前節まで述べてきましたように、仏教でいう
たとえば「浄土」であれば、「いままでは努力して浄土に往くと思っていたが、往生を願えば浄土は既に私にはたらいていた」という意味になり、また「真実を求めれば真実はおのずと姿を現わす」といいます。つまり、「真実を求めていたら、やがて真実に遇えた」というのは本当の真実なのではなく、「真実を求める」その願いが私の主体であり、この主体に即して真実が現われるのです。私達が仏願を学ぶ意味もそこにあります。「法」のことを「法身」と言ったり、阿弥陀如来を「報身」と言う場合も同様です。「身」ですから、真実は常に自らを現わそう現わそうと働いているのです。
そしてここからが重要なのですが、仏教が目指したのは、
本当の仏教は、あらゆるものの意味や尊厳を、私の求道精神そのものに見ていくのです。一切によって私が打ち破られつつ、私が全てを食い尽くしてゆく。天然・
親鸞聖人の仰る
(参照:{「自然法爾」とはどういう意味ですか?})
大乗仏教では、
人は、
島田幸昭師も仰られてみえましたが、信頼に足る師から教えを聞いて実行すれば、千年かかることも一年で達成できます。先人たちの歩みを無駄にしないために教えがあり浄土があるのです。仏教の歴史の尊さは、一切衆生の生命活動を生かし切る道であり、それは社会の本質である浄土を見抜いて生き切る道なのです。
〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈 27 より
意訳▼(現代語版 より)
仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。
これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」