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和訳されても経典が今いち解らない

言葉の核心をイメージすれば簡単

【十界モニター】
現代語訳の経典を読んでも 仏や浄土が今一つ理解できないのは何故でしょう


 仏教経典は、智慧と徳を円成された諸仏が、持てる全ての力を使って覚りの内容を説き述べられたものです。人生の達人である諸仏の遺言ですから、私たちも虚心坦懐に経典を読めば、諸仏の覚りの内容が理解できるはずです。体得とまではいかなくとも、せめて領解、せめて理解できるはずなのです。そうでなくては経典の名も廃るというものでしょう。

 しかし実際には、諸仏や覚る人はおろか、如来の真意を明らかにしようという機運さえ起こっていません。如来の覚りはお不思議の世界だから、我々凡夫が解ろうとすること自体が驕慢な態度だ≠ネどという、耳を疑うような意見さえ聞かれる有様です。
 このような情けない現状を生み出した元凶は一体どこにあるのでしょう。また、諸仏の真意を明らかにする方法があるとすれば、それはどこにあるのでしょう。

 硬直したな日本語訳が仏意を損ねている

 日本において仏教を理解する上でひとつの障害となっているのは、依りどころの経典がほぼ全て漢訳であることです。また梵語(サンスクリト語)やパーリー語を直接読むのはさらに難解で、一般人はとても歯が立ちません。

 この問題を解決するため、例えば大正時代に「新訳仏教聖典」などが開版となり、また梵語・パーリー語の意訳も次々試みられ、現代語の聖典も増えてまいりました。浄土真宗本願寺派でも、本願寺出版社から「浄土三部経」や「顕浄土真実教行証文類」など重要な聖典が次々「現代語版」で出版されています。
 おかげで経典の内容が全て解るようになった≠ニ喜びたいところですが、当初予想したほど理解の深化は見られず、特に浄土経典に至っては、如来の真意を解するには程遠い状態に留まっています。どこに問題があるのでしょう。

 これは、思惟を重ねずに為した安易で勝手な日本語訳が仏典の真意を遠ざけているということと、仏教の基本語に対する理解が甘すぎる、ということに尽きるでしょう。特に後者の問題は漢訳経典を読む際にも問題となりますので、徹底的に改革しなくては諸仏に申し訳が立ちません。仏教の学問が文字解釈に終始していては誰も覚りを得ることはできないのです。

 大体、梵語経典や漢訳経典でさえ基本的に世俗の言葉でできており、覚りの境地そのものを示すものではありませんから、誤解が幾重にも重なって如来の真意が隠されてしまっているのです。覚りの境地で発せられた言葉と世俗で使用される言葉には、深みにおいて隔たりがありますので、この溝を埋める作業をしなくてはなりません。
 そこでこの課題を、例えば外国語を学ぶ際に生じる問題を解決する手法≠ナ克服していったらどうなるか試してみたいと思います。

 キーワードで理解

 個人的な話になりますが、学生時代私は英語が苦手でした。勉強不足もありますが、基本の英単語に余りにも多くの用例があることを知り、それを一つひとつ覚えていくことに疲れてしまったからです。元々私は記憶力は良くなく、どちらかというと理論から結果を導く科目に長けていたので、丸暗記の多い英語は段々苦手になってしまったのです。
 ところが以前放送された「新感覚☆キーワードで英会話」を見て眼から鱗が落ちました。基本英単語のコアさえしっかり頭に叩き込んでおけば、日本語での用例を一々丸暗記しなくても、英語の感覚で物事をとらえることが可能になる、というのです。

 これまで皆さんは日本語を通して英語を学んできたことと思います。例えば、takeの場合、「ものを取る」のほか「写真を撮る」「電車に乗る」「体温を計る」などいろいろな使い方があります。それぞれの応じた訳語をおぼえる必要があるというと、実はそうではありません。
 この講座では、さまざまな使われ方に共通する意味に注目します。この共通する意味を「コア」といいます。takeのコアは「自分のところに何かを取り込む」。このコアをイメージで理解していけば、日本語の訳語にとらわれなくても、スッキリと英語が分かるようになります。どんなときにtakeを使うのか、似ていると思われがちなgetなどと使い分けることもできるようになります。

 例えば"get"を「得る」と訳したのでは、"Got it?"が「わかった?」と日本語訳できまない、getの本当のコア<ある状態にする(なる)>を理解し、力強く何かを獲得する変化や働きかけを強調する"get"をイメージすれば、"Got it?"が、解っていない状態から解る状態に変化したか?≠ニ問われていることになり、「わかった?」と正確に日本語訳できる、と教えています。
 この他、"have"は<何かを自分のところに持つ>、"be"は<何かがどこかにある>、"come"は<何かが視点が置かれているところに移動する>等のコアを紹介し、英単語を日本語に直訳していては出てこない用例を挙げ、正確な単語のコアなイメージ理解が大切なことを強調しています。
学生時代にこの番組を放送してくれていたらもっと理解できたのに≠ニ少し残念に思います。

 仏教の基本語もコアで理解

 それでは、仏教の基本語も英語同様にコアを理解してみたらどうなるでしょう。世俗の文字解釈にとらわれず、仏意によってその言葉を選ばれた真意を探るのです。もちろん仏教語の多くは陀羅尼だらに総持そうじ、つまり広く様々な意味を総合的に持っている言葉≠ナすから単純なイメージで理解はできませんが、基本を押さえておくことは大切です。
(参照:{成上起下偈・真実功徳釋「#陀羅尼により仏教と相応する」}
 これによって硬直化した教学全体を練り直し、経典理解も深めることができるのではないでしょうか。以下数例を挙げてみます。

他力(他力本願)
 一言で言えば<真心の歴史の力>です。<地下水の如きもの>という島田幸昭師の譬えも素晴らしいものです。生命誕生の瞬間以来働く真実の願いと寿[いのち]が、久遠の歴史を通して我が身に報い、社会に報いた深い心の働きです。この深い心を汲んで自分のものとするために聞法するのであり、具体的には、如来の願いが身と社会に報いた経緯・歴史を探ることで深い心が自分の心に成り切ってゆくのです。
 ただしこれは「阿頼耶識あらやしき」とは違います。阿頼耶識が「迷いの蔵識」とすれば、他力は「清浄・荘厳の法蔵」が歴史と個人に報いた力です。
 ですから他力は、自分で生み出した力ではありませんが、決して他者の力≠ナはありません。かつてある仏教学者が言った、子犬をくわえて運ぶ親犬≠フ譬えは全くの間違いです。自分の中に自分でも気付かない仏性の歴史の力が宿っているのです。細胞の一つひとつに人類全体の血と汗と涙がこもっているのです。<人間一生の間に人類の歴史を繰り返す>ともいいますが、この歴史の力を汲み上げて自分の人生観にしてゆくことが人間としての勤めでしょう。
 逆に「自力」は<意志の力>です。また世俗の言葉や理論で表し切れる範疇の力が自力です。ただし大きく言えば、自力も他力の裏付けがあって初めて存在します。いわば氷山の一角が自力で、海に隠れた氷山の大半が他力です。これは自分から見たら「他力」であり、仏性の歴史の側から言えば「本願」です。時間的・本質的には「本願」が先ですから、本来は「本願他力」と呼ぶのが正しいわけですが、逆の言い方が世間に定着してしまいました。
 そのためでしょうか、「他力」や「他力本願」は仏教の基本語の中でも最も誤解された用語になってしまっています。特に他人の力をあてにする≠ニいう「他力」の誤用は深刻で、いくらマスコミ関係者に抗議しても「時代の流れで仕方ない」と真剣に取り合ってくれません。誰が真意を曲解させてまったのか。自分たちのミスを時代の流れのせいにするのは責任転嫁というものです。日本の「文化人」と呼ばれる人たちの程度の低さを物語るものでしょう。宗教音痴では人類の文明や文化を語る資格はありません。

南無・信心
「南無」と「信心」はほぼ同じ内容で、一言で言えば<自分の主体が立ち上がる>とか<正しい人生観を得る>という意味です。仏教には「自灯明・法灯明」の大原則がありますが、南無は「自灯明」に当たり、<「この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず>という内容です。(参照:{ブッダ最後の旅2「#旅に病む――ベールヴァ村にて」}
『蓮如上人御一代聞書』237には――
一、弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは信心をうることなりと云々。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと云々。

とあります。経典で言えば、『仏説無量寿経』の下巻が「南無・信心」の詳細を顕し、上巻が「阿弥陀仏」の歴史を物語っています。
 具体的に言いますと、「南無」とか「信心」は、<全体の問題を自らの問題として受け入れて立ち上がる>という意味であり、野次馬の立場だった者が、当事者や国王の立場に立って国や世界全体の問題について考え行動していく人になることです。 源信僧都は<辺鄙のたみの、たちまちに王宮に入れるがごとし>と『往生要集』巻上23に表されました。
 また、<傀儡師かいらいし 首にかけたる人形箱、仏出そうと鬼を出そうと>という有名な道歌がありますが、島田幸昭師は、<信心は、「心」は主体性を意味する言葉で、自己の誕生を現わします。自分には浅ましい自分と尊い自分とが、矛盾的に同居していることを自覚して、尊い人間になりたいと願う、本来の自己が誕生したことを現します>と信心の内容を明らかにされました。先の譬えで言えば、「傀儡師」が「本来の自己」なのです。
 さらに<衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり>(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末)65・信一念釈 より)と親鸞聖人のいわれるように、如来の願いが永年の努力によって成就する経緯を聞き開くことによって、清浄・荘厳の覚りの側の世界が私に近寄り、私に成り切っていることを覚る、これを信心といいます。
 これらを身近な料理の例で譬えますと、たとえ食材が山のようにあっても、食材を生かして料理する心得がなければ全てが無駄になります。この食材を生かして料理する心得≠ェ「南無」とか「信心」に当たります。しかし、食材があるからこそ料理する心得も生まれるというものでしょう。
 世間には知識ばかり多くて主体が立ち上がっていない人や学者がいかに多いか。またそうした勉強はできるが智慧の無い者≠ェいかに危険で社会に不利益を与えているかは周知の事実でしょう。こうした人も信心を得れば、今までの勉強が生かされてくるのです。

 ところで、世間一般で用いられる「信心」は、そのほとんどが「信仰」と混同されているので注意が必要です。
「信仰」は、自らの意志や理性が壁にぶち当たり、自己に絶望し、より偉大なる存在・無限なる絶対者に頭を下げることをいいます。私は罪深く劣った者、信仰対象は尊く偉大な存在≠ニ、絶対的存在に服従し、下僕となり、お任せし、絶対者の使命を果たそうとする生き方をいいます。先に述べた仏教の信心とは明らかに違うことが解るでしょう。
『涅槃経』には<信あって解なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信と解とまどかにそなわってこそ行のもととなる>と示されています。この説でいえば「信仰」は<無明を増長>するもので、実際、宗教間の争いや、現実を無視した宗教観を知れば、『涅槃経』の説は正しいと言わざるを得ません。
(参照:{三大宗教の存在に矛盾は無いのでしょうか?「#理性の役割と限界」}

仏(如来)
 仏は<自覚覚他、覚行円満>といいまして、自覚(智慧・正覚)≠ニ覚他(方便・慈悲)≠ニ覚行(徳・信頼)≠ェ成就した人や存在のことをいいます。
「自覚」とは、現実と自分の本当の姿がつまびらか見えることです。つまり「煩悩と菩提」「生死と涅槃」「穢土と浄土」など、社会は様々な矛盾を抱えて存在していますが、ぼんやりと玉石混交に見えていた現実や自分を、玉は玉、石は石とよく見定めて割り開き、その一々の内容が解り、なおかつ矛盾するもの同士が互いに照らしあって新たなものを生み出している歴史を覚る、ということです。また覚りの基本は、万物一切が皆輝く現実世界を覚ることです。あらゆる衆生や物事が語りかけてくる、その深き響きを覚ることです。
「覚他」とは、自らの覚りを衆生に知らしめていくことを言います。そのためには「方便」が必要となってきます。「方便」とは「方法」のことであり、プランを立てて大願を実現していくことです。「方便」には主に二種あり、「自覚」を得るまでの「方便」と、「自覚」後の「方便」、ここでは後者の方便をいいます。
 この方便は「慈悲心」があるからこそ生じます。覚りの内容を衆生に示すのは非常に難しく、釈尊でさえ『仏説阿弥陀経』において、<われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とす>とその苦労を回想されてみえます。前半の<難事を行じて>は「自覚」ですが、後半の<これを甚難とす>は「覚他」で、ひとえに慈悲心より生じた「方便」の難しさを表しています。
「覚行円満」は、先の「自覚覚他」の行動が永く積み重ねられることによって得られる「徳」をいいます。いくら自覚できても、方便を得ても、長期間の実績が無ければ皆からの信頼は得られません。これを「徳」といい、これこそあらゆる人々が得たいと願うものです。
 例えば徳のある政治家であれば、人徳によって皆の協力が得られて難問が解決していきますが、頭がいいだけでは人や国は動きません。教育者や宗教家も徳が無ければ役割が果たせません。信頼されるかどうかは、その人の実績がものをいうのです。さらに「自覚覚他」の行業により自己形成が為され、身のこなしや行動、さらには人相にまで影響が出てくるのです。
(参照:
{具足諸相の願}
 これは、「徳」の漢字が、「真心が行動をともなうと徳になる」という内容であることからも解るでしょう。
 この「人徳」が成長して「仏徳」に成ることが「覚行円満」の内容であり、こう成った人間や存在を「仏」とも「如来」とも尊称させていただくのです。

 ところで先に「仏」を<……人間や存在>と説明しましたが、これは仏は本質は一つですが時機と認識面において「法身ほっしん」「報身ほうじん」「応身おうじん」「化身けしん」の身があることをふまえて述べたものですから、このことについて少し説明させていただきます。
 まず「法身」。これはさらに「法性法身」と「方便法身」に分かれます。
「法性法身」は「真如」とも「一如」ともいいますが、いわば「あるがままの智慧」ということです。人々の行動や認識に関係なく存在している「宇宙の本体」とでもいうべき仏身です。
「方便法身」は、「あるがままの智慧」の本質が色や形をとって人々にその存在を示し言葉に成った仏身をいいます。
 例えば、草木や髪がなびく様子を見て風の存在を知る≠ニかりんごが木から落ちた様子を見て万有引力の道理を発見する≠ニいう過程を分析すると――、万有引力や風というものが言葉になる以前の普遍的永遠的内容が「法性法身」で、草木や髪がなびく姿やりんごが木から落ちた姿を見せて風や万有引力の存在を知らしめて言葉となった内容が「方便法身」です。人々は「法性法身」のままでは心は通じず、「方便法身」になってはじめて「法身」を認識するのです。
報身は、上記の他力(他力本願)でも触れましたが、「法身」が生命を生みだし、以降も「法身」は理法として生命にはたらき続けてきました。しかし生命は生命独自の大願を起こし、自然と闘ったり、学び利用したり、さらには自然には存在しない製品や社会を創造してきました。自然に溶け込んだままでは私が生きる意味は失われてしまいます(参照:{Q.47})。この真心の大願が歴史となって人類を支え進化させ続けてきた仏身が「報身」です。「法身」が宇宙の本体ならば、「報身」は人類の歴史社会の本体でありましょう。それゆえ「法身」と「報身」は同じではありませんが別でもない、不一不二の関係なのです。
 これも譬えていえば、風や万有引力のはたらきを受けて生命が鳥に進化し、鳥を見て人類が飛行機を造った。風や万有引力が法身ならば、鳥や飛行機は報身です。さらに言えば、離着陸のための飛行場や安全飛行のための航空システムは報土・浄土に譬えられるでしょう。風や万有引力は努力しなくても存在しますが、飛行機や鳥は人類生命の長年の努力が寿[いのち]となって宿っていますので、当事者が努力を欠けば途端に地面に落ちて消滅してしまいます。消滅しないのはひとえに報身の力が無量無辺だからです。
「応身」は、いくら法身・報身の仏が存在するといっても、実際に人間個人がその内容を自覚し身につけ皆に教えていかねば絵に描いた餅に過ぎなくなってしまいます。そうした「自覚覚他、覚行円満」を肉身をもって実践する仏身が応身です。正法の時代の五百年間、釈尊はじめ沢山の諸仏が出現されました。
 この諸仏が覚り説き尽くされた経典の内容を基に、私たちも法を見聞し信受し、及ばずながら如来の真意を少しでも解したいと願っているわけです。
「化身」は、「応身」の諸仏・経家でなくとも、私たちが法を学ぶに当たって善知識となって下さった方々全てを言います。つまり先生はもちろん、周りの方々すべてが私にとっては仏の化身になります。また時には犯罪者のような人も、道心をもって見れば道を見失う怖ろしさを身をもって教えて下さった≠ニ、私にとっては仏の化身になります。また菩提心をもって聞けば鳥の鳴き声も「仏・法・僧」と聞こえます。災難も私を育てて下さる仏≠ニ拝むことができます。私に道心さえあれば、あらゆる物事や存在が仏となります。この仏身が化身です。
 親鸞聖人は<この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふ>と、「報身」と「応身」「化身」の関係を明らかにされました。
(参照:{法身と報身の違い}{成上起下偈・真実功徳釋「#「真実功徳相」は二諦に順ずる」}

阿弥陀仏
 阿弥陀仏は、上記の仏身のうちの「報身」に当たり、内容は他力(他力本願)でも説明しましたので参考にして下さい。ただし、阿弥陀仏は単なる「報身」ではなく、特別に「真実報身」と尊称されています。なぜなら「報身」としての全ての内容を「阿弥陀仏」の名のりで言い尽くしているからです。それだけ『仏説無量寿経』が素晴らしい内容である証しでしょう。「法身」と「応身」だけでは、覚りの内容が明らかにはなりません。歴史の時間軸を立ててこそ実際の仏身の内容が私に至る経緯が解るのです。
 親鸞聖人は阿弥陀仏のことを<一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり>(『唯信鈔文意』2)と明かされ、
蓮如上人は、<すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり>(『御文章』二帖9)と称えられ、
元照律師は<一時に円かに三身を証す万徳すべて四字に彰る>(『弥陀経義』)と、「法身」「報身」「応身」の三身全ての徳を成就した内容が「阿弥陀仏」の四字にあらわれていることを示し、仏果を褒めてみえます。
 ただし、漫然とした万善万行万徳の集合体なのではなく、仏願の因果を通じて一切の仏身の中心軸となっていることを信知しなければ、阿弥陀仏の本体に行き着くことはできません。
 現在、最も厳密に阿弥陀仏を言い表すことができる言葉は、島田幸昭師の仰る「創造的世界の創造的根本主体」でしょう。ちなみにこの創造的根本主体に対応する場合、「南無」は「創造的前衛主体」となります。創造的根本主体である阿弥陀仏は、正定聚・不退転の菩薩の信心となって現実(前衛)に働きを示せるのです。

称名念仏
 一般には「南無阿弥陀仏」と唱える∴モ味ですが、仏の真意は阿弥陀仏が成仏し私に宿り満ちた歴史を訪ね、万善万行万徳の内容を解し、褒め称えざるを得なくなる≠ニいうところにあります。「唱名」と「称名」は似て非なるもので、内容も解らずに信じて南無阿弥陀仏と「唱える」のでは、唱える側の心情から言えば迷信信仰と変りません。先にも引きました『涅槃経』の<信あって解なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信と解とまどかにそなわってこそ行のもととなる>という言葉どおり、内容を「たたえる」でなければ仏の真意は伝わらないのです。
 法位(法相宗の祖師)は<諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり>(『大経義疏』)と仰いました。称名は如来の「徳」を褒めるのであり、徳は先の「覚行円満」であり、それは「自覚覚他」の内容を探ることにつながるのです。
 いくら阿弥陀仏が一切諸仏の智慧を有し万善万行万徳を備えていると言っても、内容を確かめてみなければ本当の有り難さは解りません。看板や能書きだけで満足していては真偽は確かめられませんし、私の自覚になりません。そして、それより何より、内容を確かめずに拝むのでは、阿弥陀仏や諸仏・諸菩薩に失礼でしょう。漫才じゃありませんが、「はい、はい、はい、はい。信じてますよ。内容は知らんけど、とにかく如来を信じて南無阿弥陀仏≠ニ言えばいいんでしょ」という態度では、如来の血と汗と涙のご苦労を無視することになってしまいます。
(参照:
{諸仏称名の願}
供養
 仏教で言う供養は、<わが身を低くし、相手を尊敬して教えを聞き、その証しを具体的に示す>という意味が核にあります。尊敬する相手に物心を捧げ、修行を助けていくのですが、福の見返りを求めて供養するのは真意ではありません。相手を敬うことが、そのまま自他に利益と成っていることを知るのです。供養には「四事供養」(物の施与)と「恭敬供養」「讃嘆供養」「礼拝供養」の精神的供養がありますが、供養を受けた側は相手の敬いの心に応えていきたい≠ニいう願いが起き、自ずと菩提心が相続されてゆくのです。
 なお、真実信心を得た行者(正定聚の菩薩)と、よこしまな信心や未信の行者(不定聚・邪定聚の菩薩)の一番の違いは、諸仏供養ができているかどうかの違いなのです。
かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。その胎生のものはみな智慧なし。五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。
『仏説無量寿経』44 巻下・正宗分・釈迦指勧・胎化得失 より

 しかし、仏法を学んだことを自慢し、仏教を知らない人々や先祖を蔑ろにしてふんぞり返っている獅子身中の虫が、仏教徒を自称する者の中にも案外多くいるのではないでしょうか。本当は、現在・過去・未来の三世一切の諸仏を供養できてこそ称名念仏も信心も意味を持つのであり、念仏が親から子へ、世界へと展開するためには、相手を敬い話を聞く態度から始めなければならないでしょう。

(参照:{供養諸仏の願}{供養如意の願})、{地獄・極楽の食事風景「#本当の極楽の食事風景」}


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