平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
[index]    [top]
【仏教QandA】

三大宗教の存在に矛盾は無いのでしょうか?

求道の動機と理性の役割

質問:

私はこれまで、いわゆる「無宗教・無神論者」を自認して来ました。 実家は浄土真宗ですが、数年前、母を亡くした時もお葬式・法事などでお手継ぎのお寺さんにお世話になりましたが、特段宗教に興味を持つということはありませんでした。
しかし最近、母方の祖母が他界しました。ここ数年で立て続けに親族を亡くし、自分なりに「人とは何か・人生とはなにか・死とは何か」を考えざるを得なくなりました。その時、宗教を抜きに思考することは片手落ちであるという結論に達しました。

そこで、お手継ぎのお寺の住職さんから1時間ほど教えを頂き、また浄土真宗に関する本も貸していただき、読んでみました。結論としては、なかなか魅力のある、また説得力のある宗教であるということです。

ただし、一つの疑問がどうしても頭から離れないのです。私の理解では宗教は人間の存在の真理を示しているものだと位置づけています。(間違いだったらすみません。)
しかし現実には、仏教内にも色々な宗派があり、世界に目を向ければ三大宗教であるキリスト教・イスラム教・仏教が対峙しております。真理を示す宗教が複数あることにどうしても違和感を感じてしまうのです。なぜ真理を示すものが人間の世の中で複数あるのか?それは切り口が違うだけなのでしょうか?

正直なところ、浄土真宗を信心して生活していきたいという気持ちはあります。昔、高校の世界史の先生が「宗教の無い人生は寂しいものです」と仰られていましたが十年余りの時を経て、その意味がわかるような心境になってきました。しかし一方で上記のような疑問がぬぐえず、素直になれない部分も自分の心の中に確かにあります。

また、宗教を信じることは、人間の理性の敗北ではないのかという気持ちも私自身は未だぬぐえません。浄土真宗で言うところの「凡夫」である私ごときが、数千年もの歴史を持つ宗教の整合性を追求することなど、ほぼ不可能であることは想像に難くないのですが、それでもなんとなく敗北感を感じてしまいそうなのです。(ただしこれはあくまで私の個人的な欲求であり、宗教を持つ人を軽蔑しているわけではありません。逆に尊敬できる人がたくさんいます。私の好きな作家、遠藤周作氏も不良のクリスチャンだと告白されていらっしゃいました。)

浅はかな知識でこのような質問をするのは無礼かと思いつつ、何かのご縁で浄土真宗とのご縁が近づきつつあるような気持ちもするので、非礼を承知で投稿しました。何かしらのご返事があれば幸いに思います。非常に抽象的かとは思いますがよろしくお願いいたします。
乱文ご容赦ください。

返答

◆ 真理を示す宗教が複数ある理由

〉 しかし最近、母方の祖母が他界しました。
〉 ここ数年で立て続けに親族を亡くし、自分なりに「人とは何か・人生とはなにか・死とは何か」を考えざるを得なくなりました。
〉 その時、宗教を抜きに思考することは片手落ちであるという結論に達しました。

 おっしゃる通り、身近な方に他界(浄土真宗では「往生」とか「環浄」といいます)されると、人生の大問題、<「人とは何か・人生とはなにか・死とは何か」を考えざるを得なくなり>ます。そして、ここに空想的でない解答を与え得る教えこそ、本物の宗教と言えましょう。

〉 ただし、一つの疑問がどうしても頭から離れないのです。
〉 私の理解では宗教は人間の存在の真理を示しているものだと位置づけています。(間違いだったらすみません。)
〉 しかし現実には、仏教内にも色々な宗派があり、
〉 世界に目を向ければ三大宗教であるキリスト教・イスラム教・仏教が対峙しております。
〉 真理を示す宗教が複数あることにどうしても違和感を感じてしまうのです。
〉 なぜ真理を示すものが人間の世の中で複数あるのか?それは切り口が違うだけなのでしょうか?

「宗教は人間の存在の真理を示している」というご理解ですが、これは正しいとも間違っているともいえません。
 ほとんどの人は、真理を客観的・対照的・固定的にとらえようとします。つまり絶対的に変らない真理・法則が有形無形に存在して、それを示すのが宗教である、という理解です。すると、「真理を示す宗教が複数あること」は確かに矛盾します。

 宗教にはこうした一面も存在しますが、仏教の場合本質はここに留まりません。真理は対象にのみ求めるのではなく、むしろ「求める心に真理・虚偽が存在する」という面を大切にします。現実の物事をどのように理解し、何を求め、どのように行動するか、という迷いの中に真理は見出せるのです。すると、この「求める心」に違いがあれば、その究極として語られる真理にも違いが出てきます。

 例えば、「いのち」というテーマで真理を考えれば、「遺伝子の乗り物」と見る説もあるでしょう。医療現場では「少しでも長く健康に」という視点が必須となります。また、大方は「自分のいのちは失いたくない」と執着しそれを宗教に求める人もいるでしょう。逆に「いのちは生まれてから死ぬまでの有限のもの」と考え、割り切った上でそれに動じない境地を求める人もいます。そして絶対的な「神」という概念を用い、「神の使命を果すために与えられたもの」という考えのもとで日々を送る人もあるでしょう。

 いのちを対照的に見ればいろいろな説明ができ、各意見には一応の理由づけもできるでしょう。しかし仏教徒が一番問題にするのは、「いのちとは何か」ではなく、「どう生きたらいいのか」なのです。ここに仮定的な説に執着せず、生きる歴史的現実において課題を見つけ、努力して共に苦難を乗り越える道を、多くの経釋論によって人々に示してきました。

 初期仏教では「いのち」について、「無常のいのち」と説かれ、生命執着からの解放を目指しましたが、大乗仏教では「常住のいのち」という覚りそのもののあり方を重視していきます。
 さらに、「天上天下唯我独尊」という味わいを拡大し、「一切衆生悉有仏性」という言葉が真理として明かされました。これは、「限りなく尊いいのちよ」という呼びかけが、自らに、そして一切衆生に注がれた言葉です。ただここで問題なのは、真理として「限りなく尊いいのち」が存在しているのではありません。「限りなく尊いいのち」と見ること自体が仏教において真理なのです。これは求道心の発露としての言葉ですから、当然一つの教えに留まるものではありません。

「どんな境地を求めるのか」という、求道の動機が違えば、道や教えが変ってきます。仏教の場合は、求道心の発展・菩提心の究極化がすなわち仏教発展の歴史でもありました。ですから人間個人同様、幾度も仏教は脱皮を繰り返してきたのです。

 私が本気で仏教を聞きだした十七、八の頃には、講師は「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を観むる」と、自力の禅宗も他力の念仏も、道は違ってもさとりは一つと説き、村人もそれに同調して、仏教もキリスト教も、宗教は皆究極の真理は一つであるといっていた。
 しかし宗教を求める動機が違い、道が違えば、さとりも違う。
 原始仏教が問題にしたことは、生死からの解脱、苦悩の解決で、その道は迷いを転じて「涅槃」の「悟り」を開くことである。その人は煩悩を断って、自己の独立を成し遂げた「アラカン」である。
 初期の大乗仏教は、この世は形ある滅びて行く仮の世界であるとして、永遠に滅びることのない「法性真如」の世界を求めて「智慧と慈悲」を兼ね備えた「仏」を「覚り」とした。
 後期の大乗仏教の『華厳経』は、人生が苦であろうが、無常であろうが、私たち人間にとってはさらに問題ではない。人間は未完成である。人間自身を完成することこそ一大事である。その完成の道は「人は人によって初めて人になる」と、五十三人の師に育てられて、「智慧と徳」を成就した「仏」になることを説いている。
 親鸞が真実の宗教と称えた浄土教の『大無量寿経』は、さらに一歩を進めて、人間完成の道は人によるだけではない。「人は環境の産物である」と、自分がそこに置かれている歴史的現実に立って、主体的人間と環境を創造して止まぬ「無量寿国」の土徳の「四十八の願力」に乗じて、創造的世界の創造的前衛である「不退転の菩薩」となることを説いている。
 これを見ても求道の動機が何であるかが、如何に大切か解るであろう。

島田幸昭 著 [仏教のさとり(八葉通信4号)]より

 こうしたことは、[経典結集の歴史] にもあらわれていて、仏教発展の経緯において、多数の経典とともに多数の宗旨が生まれたことは、必然的な結果といえるでしょう。また、教えが同じでも宗派の違いが出てくることは、歴史的・地理的な関係で仕方ありません。課題としては、歴史的に枝分かれをした各宗旨宗派が、互いの違いを認めあいつつ、和合していくことが求められると思います。

 キリスト教やイスラム教については、ユダヤ教も含めて、一つの根から発生した兄弟の宗教ですが、これは――人類が本来的に原罪を持っていて、神との契約を守ることによって罪が許され、再び天国におもむく、という基本思想があり、そのとりなしをするのが神から使わされた使途・予言者・救世主と呼ばれる人たちです。これら原点のユダヤ教徒が信仰を強固にしていったのは、エジプトの巨大文明から脱出し、荒野に数十年間放浪した時代の困難の意味を問う体験であり、ここで原罪と贖罪の確信が得られた。もしくはそう確信せざるを得ない状況が、時代を経るごとに受難の物語として一般化していったのでしょう。

 こうした「原罪」という前提を持つ宗教と、「一切衆生悉有仏性」と観ることを尊ぶ仏教では、基本的な「真理の求め方」が違ってきますので、説かれた「真理」も違ってきてしまうのです。
 また、初期の仏教においても、「一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない」と『スッタニパータ』に書かれてある通り(※資料1▼参照)、真理は主張すべきものではない、との見解が貫かれています。他宗教との交流も、こうした姿勢で臨むべきでしょう。

◆ 理性の役割と限界

〉 また、宗教を信じることは、
〉 人間の理性の敗北ではないのかという気持ちも私自身は未だぬぐえません。
〉 浄土真宗で言うところの「凡夫」である私ごときが、
〉 数千年もの歴史を持つ宗教の整合性を追求することなど、
〉 ほぼ不可能であることは想像に難くないのですが、
〉 それでもなんとなく敗北感を感じてしまいそうなのです。

「宗教は理性の敗北から生まれる」ということが世間の常識になっているようですが、この常識通りの宗教もあれば、むしろ理性そのもののを宗教にした教えもあります。
 前者は、「理性は敗北した。宗教の本質は理性を否定したところにある」と説き、非合理な教えや、宗教的陶酔を求めるようになります。また後者は、「理性を押し進めていけば、宗教の本質が現われる」と説き、構築された理論に人を押し込めます。

 仏教はどうか? というと、「理性が働いた上で、理性の限界を突破したところに本質がある」と言えるでしょう。
 人間には、理性にとどまらず、もっと深い智慧・菩提心まで表出できる可能性があります。その深い力が引き出されるには、理性の力が限界に当って、その限界の理由を明らかにして初めてもっと深い心の存在を知ることが可能になります。理性が導き役になりますので、理論や道徳を踏まえながら、なお先を目指す心が菩提心です。

 これを、人間が成長する過程で説明しますと―― 人は生れながら本能を持っていますが、まず「欲望」を力に自己実現を図ります。他を責め支配し、他から奪い、自己の欲望を拡大させていきます。しかし他者との関係を確立し物事の道理をわきまえる必要に迫られ、欲望の他に「理性」が育ってきます。
 人間社会の潤滑な運営には合理的な面は欠かせず、特に現代社会は法律や社会規範を基本に交渉が行われ物事が決められますので、「理性こそ人間にとって最上のもの」という考えが一般に流布しているようです。また大方の人は、欲望と理性の狭間で迷いながらバランスを取って生活しているのではないでしょうか。

 ただし、理性を他者との関係のみに当てはめる人と、自らの行動や心の問題にも踏み込んで考える人がいます。前者は、本音は欲望、対人的には理性という矛盾した精神構造になり、実質上、欲望の奴隷状態で、これを仏教では「餓鬼」とか「外面如菩薩 内面如夜叉」といいます。現代社会では構造上こうした矛盾を抱えた人が社会や国の富を搾取し独占する傾向にありますが、当然こうした業は周りに悪影響を及ぼします。

 これに比べ、後者のように理性が自らに向けられたところから仏教が始まるのですが、そこに見出された自己の餓鬼性や畜生性(他者や思想に隷属する生き方)が地獄を生み出すことを知り、この三悪道・三途からの脱皮を図っていきます(ちなみに「三途の川を渡る」というのも、本来的には目覚めの意味で使われるべきでしょう)。ただ、理性はこの三悪道の状態に気づくことはできますが、解決に至る道を示してはくれません。なぜなら理性の目指すものは理想であり、これは常に現実と対立するからです。そしてこの緊張状態から脱却できず、結局のところ妥協的な生き方しかできなくなります。。

 この問題点を打破していくのが「信心・信楽」ですが、これは欲望でもない理性でもない、本来的な自己が誕生したことをいいます。「矛盾的な状態を共感する心」といいましょうか、「いのちの奥深い意味そのものが動き出す」とでもいいましょうか、対立を超えた心が「信心・信楽」といわれる心です。ただし、これは意識的に作動させることはできませんので、「如来より回向された心」とか「他力」という言い方をするのです。(※資料2▼参照)

 ですから、理性の役割を踏まえ、理性を超えたところに目標を持って学んでいただけばよろしかと思います。それは決して人間の敗北ではなく、むしろ人間はじめいのちへの讃歌ではないでしょうか。
『大無量寿経』はじめ浄土につらなる経釈論や法話は、まさにこの心に導く書であり言葉なのです。

◆ 経典等資料

※資料1

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888 反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

『スッタニパータ』より

※資料2

本能はすべてが未分化状態で、心が一つで衝動的に働きますが、理性はその働く方向が二つに分かれています。一つは純粋理性、一つは実践理性と呼ばれています。純粋理性は、頭にあるといわれている心で、ものを正しいか間違いかという角度から見て行く、いわゆる科学的に真理を知る心のことですが、実践理性は、胸にあるといわれている、道徳的な良心のことです。したがって純粋理性は、善の心の道具にもなれば、悪の道具にもなりますが、実践理性は良心そのもので、悪い心の道具にはなりません。悪い心に使われないだけでなく、悪い心と闘う心です。<中略> 同じ理性でも、純粋理性が強く発達して、実践理性はどうも発達が鈍いようですね。教育や環境のせいでしょうが、世間には地位も名誉もあるりっぱな人でも、心の貧しい人があります。
<中略>
 人間がどのようにして自己脱皮し、精神的に進化してゆくかということを、例を挙げて具体的に示したのが、『観無量寿経』の序分ですが、その脱皮してゆく過程を要約してあらわしたのが、善導大師の『二河白道のたとえ』です。ご承知のように、この『二河のたとえ』は、理性的自己の誕生から説き起こして、現に今生きている生活の場においての愛憎に当面しての悩みから、過去の自分の生き方への反省回顧から、現実の自己と厳しく対決して、それを媒介として、より深いより根源的な自己が誕生することを説いているのですが、何ぜこの真実の在り方を求める至心の心が、「行くもまた死せん。止まらばまた死せん。帰らばまた死せん。一種として死を免かれず」と、絶望の壁に突き当たったのか。その原因は外にあったのではない。真実を求める心そのものの中に、矛盾をはらんでおったのです。
 第一次の主体である本能は、自己反省はありません。ただ他を問題にします。あれが足らんこれが足らんとか、あれが悪いこれが悪い。右を見ても左を見ても碌なものは一つもない。碌な者は自分だけと思っているのですが、第二次の主体である理性は、環境ではない他人ではない、すべては自分である。「思うようにならぬ世の中」を、思うようにしようとする自分が悪いのである。愛したり憎んだりするのは、みなこの思うようにしようとする、わがままな心からである。この心がなければよいと、自分の中の悪と闘う心が、この道徳理性であり、至心です。・・・しかしこれは仏教の一年生です。
 この心がどこがいけないか。本能は「自殺か革命か」で、「倒すか倒されるか」ですから、これは相手を責めているのですが、理性は自分の中の悪を責めているのです。自分以外の相手を責めるか、自分の中の自己に背くものを責めるか、「相手変わって主変らず」、責める心が同じです。本能はあれがなくなれば、あいつが死ねば、自分が楽になるだろうという心ですが、理性はこの心が治れば、この性格が変れば、自分が救われるという、どちらも楽になりたい救われたいという心です。これが曇鸞大師のいわれる「自らの楽を求め、自身に執われる」我執が、その底に巣くうているからです。
<中略>
 至心は真実心に違いありませんが、まだその内に不純なものをはらんでいて、その在り方は理想主義から抜けきれません。理想主義というのは、その描いている理想は、現実を否定内容とした現実の投影で、夢であり、その眼は常にかなたをにらんでいて、足もとは「やせ馬の尻を叩く」奮闘努力型です。したがっていつも緊張していなければなりませんが、それは生き方に無理があるからです。仏教ではこれを自力というのです。しかし至心そのものは矛盾をはらんでいて不純ですが、この心は仏性の開発に重要な役割を持っているのです。そこでこの至心のことを引出仏性と呼んでいるのです。 それは至心は仏性には違いないが、まだ純粋な仏性ではない。我執の殻をかむっている。その殻を破って中の仏性を開花させる、仏性を引き出す仏性であるというのです。私は仏性とか如来とか、本願とか浄土といわれるものは、魂の地下水だと思っています。地下水は地球のどこにも行き渡っていますが、そのままでは自分のものになりません。「わが魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の」四十八願の願いを開発する作業が、聞法であり求道です。
<中略>
信楽は深心ともいわれているように、至心の心がさらに深まった心です。これを「如来廻向の信」といわれるのは、至心が破れてその内から、竹の子が皮を脱いで現われるように、さらに深い心が生まれて来るからです。この場合至心は理性のことですが、本能が破れて理性が生まれて来ると、その理性が純粋理性と実践理性の二つに分化したように、至心が破れて新たに生まれた信の中に、信仰と信心と信楽があります。
<中略>
 信仰は自己以外の神や仏に救いを求める宗教ですが、それは解らんから信ずるとか、人間の力の及ばない領域に当面して、そこに開けた信で、それらは自己反省の不足から来る理性の行きづまりによって、描き出した幻影に過ぎません。
<中略>
信心は今では「もう一人の自分」とか、根源的主体といわれています。性根のない私に性根が生まれたことです。「この世」は何しに来たところ。「自分を探しに来たところ」と、陶芸家の河井寛次郎先生もいっておられましょう。お釈迦さまの最後の遺誡が、「自灯明・法灯明」ですが、その本当の我れが生れたことを信心というのです。今日ではこれを主体性の確立といっています。・・・理性的立場の信は解らんから信ずるというものですが、仏智の信は解る信です。たとえば私は夫を信じますとか、私はわが子を信じていますという時の信は、真心の働きでしょう。相手のまことを照らし出すまことを信というのです。・・・はっきり明らかに解れば、信ずるという必要はありませんが、表は不純であっても、その底に動いているまことを知る心のことです。西田幾太郎博士の言葉を借りれば、「絶対矛盾の自己同一」の相が見える智慧のことです。但し真心の世界の話ですよ。
<中略>
親鸞聖人は信楽は「真実誠満の心」といっておられますが、それは如来の真実心が、衆生の上に花と開いたことをいわれるのでしょう。・・・信は衆生の任かすか任かさぬかというような、決断によるのではなく、はっと気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が開けているのです。仏の方が先手です。ここにもそのさとりがじっと待っている静的な涅槃か、われわれに直接働きかけてくる動的な浄土かの違いが現れているのだと思います。
 それでは信楽はどこに立って開ける心か。親鸞聖人は本願を信ずるといっておられますが、私はそれは至心が自己のめざめなら、信楽は歴史的自覚であろうと思っています。私たち人間は願いをかけられている存在です。・・・信楽は血の中に宿っている四十八の功徳を現実に具体化して、自己を成就し、自己の浄土を建設することです。それがそのまま弥陀の浄土を荘厳することになるのです。
<中略>
 さっき申しましたことをまとめて申しますと、人間は自覚的存在といわれているように、至心の心の起こった、そこから人間は始まるのですが、至心の心は、自分のした行為の反省によって、自分と自分の生きている環境を知って行くのですが、それは試行錯誤によるのです。それを仏教では後悔といっています。至心がさらに進化すると、した行為を通して自分の性格が解り、起こった現象において、ものの原理とか法則を知ってゆくようになる。また自分の習慣とか、社会の慣習などの行為的世界をです。これを自己反省の立場から慚愧といっています。それらを自己を苦しめ悩ますもの、自己を束縛するものとして、それを自己に対するものとして見れば、第二反抗期の心で、自殺か革命か、どちらかに走るのでしょうが、それを人間としての共通の運命、人間であることの宿命、人間の歴史的宿命、もっと深い所に地上の宿命、それらを自己の生きている場所として捉える。外の言葉でいえば、我執と愚かによって動かされ、形成されてきた行為的世界が見えてくる。この世の宿命が見えてくる。これを懺悔といい、この心はすでに至心を超えて、深い心といわれる信楽に転入しているのです。それがさらに信楽によって見出された浄土を、この五濁の世に、また自分の世界に、浄土を実現しようとする願いが発こってくる。これを欲生心というのです。

島田幸昭 著 『仏教開眼四十八願』18より

※資料3

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。これはこれ喩へなり。
 次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。

また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また「回向」といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化するをまた回向と名づく。

三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし。

善導大師著『観経正宗分散善義』 巻第四 上輩観 上品上生釈 回向発願心釈 + 三心結釈 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 大信釈 引文 に引用)

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
 また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。
 ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河を火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。<この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。私は今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北に逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう>と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。<わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない>と。
 こう考えた時、にわかに東の岸に、<そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう>と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、<そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚[よ]ぶ声がする。この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西に進んだ。
そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。
しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。以上は譬えである。

 次にこの譬えの意味を法義に合わせて示そう。
<東の岸>というのは、迷いの娑婆世界をたとえたのである。
<盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づく>というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大をたとえたのである。
<人影一つない広野>というのは、いつも悪い友にしたがうばかりで、まことの善知識に遇わないことをたとえたのである。
<水と火の二河>というのは、衆生の貪[むさぼ]りや執着の心を水にたとえ、怒りや憎しみの心を火にたとえたのである。
<間にある四、五寸ほどの白い道>というのは、衆生の貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこることをたとえたのである。貪りや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、信心のありさまはかすかであるから四、五寸ほどの白い道にたとえたのである。
また、<波が常に道に打ち寄せる>というのは、貪りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえ、また、<炎が常に道を焼く>とは、怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。
<道の上をまっすぐに西に向かう>というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである。
<東の岸に人の勧める声が聞え、道をたどってまっすぐに西へ進む>というのは、釈尊はすでに入滅されて、後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども、残された教えを聞くことができるのをたとえたのである。すなわち、これを声にたとえたのである。
<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。
<西の岸に人がいて喚ぶ>というのは、阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。
<間もなく西の岸にたどり着き、善き友と会って喜ぶ>というのは、衆生は長い間迷いの世界に沈んで、はかり知れない遠い昔から生死に迷い続け、自分の業に縛られてこれを逃れる道がない。そこで、釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来たれと招き喚ばれのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、仏とお会いしてよろこびがきわまりない。このことをたとえたのである。
 また、すべての行者よ、何をしていても いついかなる時でも、この他力回向の信心を得て間違いなく往生できるという思いがあるから、これを回向発願心というのである。
 また、回向というのは、浄土に往生して後、さらに大いなる慈悲の心をおこして、迷いの世界に還って衆生を救う、これも回向というのである。
 以上の至誠心と深心と回向発願心の三心が欠けることなくそなわれば、もはやすべての行が成就しないことはない。願と行がすでに成就しているので、往生しないという道理はない。また、この三心は、定善にも通じるのである。よく知るがよい。

※資料4

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈 より

▼意訳(現代語版より)
いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の譬[たと]えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一真実の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。
「清らかな信心がおこる」というのは、金剛のように堅固な真実の心を得ることである。如来の本願力によって回向されたすぐれた信心であるから、破壊されることはない。これを金剛のようであるとたとえたのである。

※資料5

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

親鸞聖人著『一念多念証文』20 より

▼意訳(現代語版より)
「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもないと、水火二河の譬[たと]えにしめされている通りである。このような嘆かわしいわたしどもも、二河にはさまれた一すじの白道すなわち本願のはたらきの中を一歩一歩と少しずつ歩いていくなら、無碍光仏と示された光明のお心に摂め取ってくださるから、必ず浄土に往生することができる。そうすれば、浄土のさとりの花に生れ、阿弥陀如来と同じく、この上ないさとりを開かせていただくのである。このことを根本としなさいというのである。これを、「致使凡夫念即生[ちしぼんぶねんそくしょう]」といわれているのである。水火二河の譬えの中に、「一歩二歩と行く」とあるのは、一年二年と過ぎていくことをたとえているのである。  諸仏が世に出られ、釈尊がさとりを開かれて教えを説かれた本意は、凡夫は弥陀の本願を疑いなく信じて、正定聚の位に至り、浄土に往生することを根本としなさいということなのである。



[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)