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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』48
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 流通分2
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 48
その時に、世尊、この経法を説きたまふに、無量の衆生、みな無上正覚の心を発しき。万二千那由他の人、清浄法眼を得、二十二億の諸天・人民、阿那含果を得、八十万の比丘、漏尽意解し、四十億の菩薩、不退転を得、弘誓の功徳をもつてみづから荘厳し、将来の世においてまさに正覚を成るべし。
その時に、三千大千世界、六種に震動し、大光あまねく十方国土を照らす。百千の音楽、自然にしてなし、無量の妙華、紛々として降る。仏、経を説きたまふこと已りて、弥勒菩薩および十方より来れるもろもろの菩薩衆、長老阿難、もろもろの大声聞、一切の大衆、仏の所説を聞きたてまつりて、歓喜せざるはなし。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 48
釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。
そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。
釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。
- 註釈版
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その時に、世尊、この経法[を説きたまふに、無量の衆生、みな無上正覚[の心を発しき。万二千那由他[の人、清浄法眼[を得、二十二億の諸天・人民、阿那含果[を得、八十万の比丘[、漏尽意解[し、四十億の菩薩、不退転[を得、弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[し、将来の世においてまさに正覚を成るべし。
- 現代語版
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釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。一万二千那由他[の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果[を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢[のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。
世尊自身の教説としてのまとめ≠ヘ前章で済みましたが、今章は説法が終わった後にこの経典がどのようにして人々に浸透していくか≠ニいうことが記されます。これは流通分としてのまとめであり、経典最後の締めくくりとなっています。
世尊がこの『仏説無量寿経』を説き終わると「無量の衆生、みな無上正覚[の心を発しき」とありますが、一切衆生は無上菩提心[を発[こす=Aこれがこの経典自身の持つ共通の功徳です。
同発菩提心[についての詳細は三輩往生({上輩}〜{下輩})に説かれていますが、今一度この三輩の共通点を述べますと――
まずは「願生」(心を至してかの国に生れんと願ずる)で、私が浄土に生まれようと願う≠アと。次に「無上菩提心[を発[す」こと。そして第三は「一向[にもつぱら無量寿仏を念じたてまつる」ということです。これら共通点が生じた訳は、全てが本願力回向のはたらきによるものである≠アとです。行者個人の理性や意思で起こすものではありませんから共通しているのです(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})。そしてこの本願力回向のはたらきこそ法灯明の依りどころそのものであり、このはたらきによって成就した真実信心が自灯明の依りどころとなるのです。
つまり、仏教一般では「自灯明[・法灯明[」を人生の依りどころとしていたのですが、浄土教によって「報身灯明」が人生の依りどころであり、これこそが全ての人間にとって真実の依りどころであることが明らかとなったのです。
こうした共通の報い≠ノ続いて個別の報い≠ェ記されます。それが「万二千那由他[の人、清浄法眼[を得、二十二億の諸天・人民、阿那含果[を得、八十万の比丘[、漏尽意解[し、四十億の菩薩、不退転[を得」です。
「清浄法眼[」とは「声聞の修道[階位である四果[の最下位、須陀オン果[(予流果[)に入って得る四諦[の理をさとる智慧の眼」であり、「阿那含果[」は「不還[」と漢訳され「再び迷いの世界にもどらない者の意。声聞の修道段階である四果の第三位で、欲界の煩悩をすべて断ち切って、再び欲界に還ってこない位」。「漏尽意解[」は「煩悩[を滅し尽くして智慧を得、声聞の修道階位である四果の最高位、阿羅漢果[に達するという意」であり、「不退転[」は「仏道を修行して証果を得ることに定まり、再び下位に退転しないこと。信一念の時浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏になることが決定しているともがら」(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})を言います。
なお「四果[」は「四向四果[」とも「八輩[」とも言われます (参照:{百八煩悩})。
- 四向四果[:
- 聖者の四つの位。小乗仏教における四つの修行目標(向)と到達境地(果)。
(1)預流[・須陀オン[
(2)一来[・斯那含[
(3)不還[・阿那含[
(4)阿羅漢[
右(上)の四つにそれぞれ向[と果[を立てる。すなわち、小乗における修行階位を、或る境地に向かって修行していく段階(向)と、それによって到達した境地(果)とに分けて説いたもので、預流向[・預流果[・一来向[・一来果[・不還向[・不還果[・阿羅漢向[・阿羅漢果[の八つをいう。
預流向は三界(欲界・色界・無色界)の見惑[(八十八使)を断じつつある見道十五心の間をいい、見惑を断じ終って、第十六心である修道に入ると、これを預流果という。
一来向は欲界の修惑[の九品[のうち、六品の修惑を断じつつある位をいい、それを断じ終った位を一来果という。
不還向はさきの修惑の残り三品を断じつつある位で、これを断じ終るとき、不還果という。ここでは再び欲界に還ることがないので不還の名がある。
阿羅漢向は阿羅漢果に至るまでの位で、阿羅漢の境地(阿羅漢果)に至ると、一切の見惑、修惑を断じ、迷いの世界に流転することなく、ニルヴァーナ(涅槃)に入ることができる。なおこの外に煩瑣[な解釈がある。古くは『長阿含経』などに出てくる。
(仏教語大辞典/中村元著・東京書籍)より
「見惑[」は「思想的・観念的な迷い」ですから、『仏説無量寿経』を聞いた者は必ず無上菩提心[を発[こし、少なくとも予流果[を得、人生の道理を正しく認識することが適うわけです。そしてこの上、如来の本願力が私の信一念と成った時は、正定聚[・不退転[を得、仏の智慧が開けて浄土の内容を直接領解することが適うのです。仏としての功徳は足らなくとも、仏としての自覚ができ、智慧が開けているので、仏としての真の歩みが解ってくるのです。つまり往生即成仏で、即得往生すればすでに成仏を果たしているからこそ、仏本来の道が足元から開かれ、真の仏としての真の行が始まっていくのです。このことを親鸞聖人は、「如来とひとし」と言われました。
ちなみに、学者の中には「浄土に生まれれば姿形や内容が皆同じになる」と主張する人もいるようですが、この主張が間違いであることはここを見ても明らかでしょう。如来の本願力は一切衆生に共通に回施されるのですが、回施された本願力の受け取り方や、宗教的な動機が違えば結果が異なってくることは理屈としても事実としても明白でありましょう。
これは「弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[し」とあることからも証明されます。「弘誓[の功徳」(衆生済度の誓願を立て、その誓いに応じて修行し、種々の善根功徳を積むこと)は如来の誓願ですから共通ですが、「みづから荘厳[し」は行者ひとり一人の問題です。「信心はひとつ」という言葉にとらわれて千差万別の現実を受け入れない愚はそろそろ改めねばなりません。ただし、「将来の世においてまさに正覚を成るべし」とありますから、究極的な結果を言えばやはり共通であることは間違いありません。
- 註釈版
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その時に、三千大千世界[、六種に震動[し、大光[あまねく十方国土を照らす。百千の音楽、自然[にしてなし、無量の妙華[、紛々[として降[る。仏、経を説きたまふこと已[りて、弥勒菩薩[および十方より来れるもろもろの菩薩衆[、長老阿難[、もろもろの大声聞[、一切の大衆、仏の所説[を聞きたてまつりて、歓喜[せざるはなし。
- 現代語版
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そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。
釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩[をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。
「その時に、三千大千世界[、六種に震動[し」云々とありますが、これと同様の記述が{法蔵修行} にもあります。「法蔵比丘[、この頌[を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動[す。天より妙華[を雨[らして、もつてその上に散[ず。自然の音楽、空中に讃めていはく…」という箇所です。重誓偈を説き終えた法蔵比丘がいよいよ兆載永劫[の修行を始めるにあたりこうした瑞相が現れたことと同様です。
「六種に震動[」とは、「如来の出現や説法を讃えて、動[・起[・湧[(形の震動)と震[・吼[・覚[(音の震動)の六種の瑞相[(めでたいしるし)があらわれることをいう」のですが、これは、実際に大地が揺れたり、天から光が差してくることを言うのではありません。聴衆ひとり一人の胸の内に大地を揺らすほどの感動が沸き起こってくる≠ニいうことを言うのです。またその聴衆の感動は単に個人的な感情ではなく、全世界のあらゆる人々を救い、全生命がその本分を果たす道が開かれた≠ニいう内容を示してもいるのです。これは歴史を超えて伝わる感動でもあるでしょう。
説明が重なりますが、法蔵菩薩は一切衆生の胸(本心・精神)に宿って修行され、やがて修行を成就し、功徳は衆生の身心に入り満ちて下さる(つまり、そうした人類の歴史を浄め貫く精神や、真実の精神が報いた身に「法蔵菩薩」・「阿弥陀仏」と名がついた)わけですから、本来これは全ての衆生に開かれた感動なのです。ですから誰でも仏縁に遇い、きっかけが整えば、法蔵菩薩の感動は全て私たちの経験ともなっていきます。つまり私の足元の大地は打ち震え、日常生活に華が咲き、<この人生は必ず成就する>という確信に満ちた歌声が「全ての私」に聞こえてくるのです。そしてこの『仏説無量寿経』流通分の総仕上げにおいて再び「六種に震動[し」とありますのは、法蔵菩薩の修行が現実に成就し、その功徳が今まさに私たちひとり一人に至り届いていることを讃えているのです。
最後に「仏、経を説きたまふこと已[りて、弥勒菩薩[および十方より来れるもろもろの菩薩衆[、長老阿難[、もろもろの大声聞[、一切の大衆、仏の所説[を聞きたてまつりて、歓喜[せざるはなし」とあります。ここは別に不審な点はなさそうですが、注意深く読むと問題点が見つかります。
そうすると、そこにおった阿難尊者やもろもろの菩薩や十方から来た菩薩たちが、みんな喜んで一切の大衆が喜んで「歓喜せざるはなし」と、一人もいいご縁に会うたというて喜ばない者はなかったと、これでお経は終わっておるのであります。
ここでちょっと申したいことは、最後にこれだけ。初めにここに集まった人が大比丘衆が一万二千人と雲のごとくに菩薩が集まったというだけであって、今の比丘もおらなければ、そういう諸天人民も書いてないのです。それで最後になって、いろんな人が出てくる。一体これはどういうわけなのだろうかという問題があるのでありますけれども、時間も過ぎましたから、こうさせていただきます。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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確かに『仏説無量寿経』1には、聴衆は「大比丘[の衆、万二千人と倶[なりき<中略>大乗のもろもろの菩薩と倶なりき」とあり、「大比丘[の衆」と「大乗の菩薩」のみでしたが、経の最後には「もろもろの大声聞[、一切の大衆」が加わっています。普通なら気づかない点ですが、皆様はどのようにお考えでしょう。
これには様々な理由が考えられるのですが、まず第一には仏の説法が素晴らしいので途中から聴衆が増えた≠ニいう理由が考えられます。
また第二には、仏の説法の途中から聴衆の胸のうちに変化がおき、実際にはここに居ない一切衆生の本音が聞こえて同朋意識が生まれた≠ニいう理由。第三には経典編纂の前後で衆生を見る眼が変った≠ニいう理由。そして第四には、現在、経典の内容を本当に領解できる人間は「大比丘[の衆」と「大乗の菩薩」のみだが、その功徳を受け入れるのは「もろもろの大声聞[」にまで広がり、究極的には「一切の大衆」を正覚に至らしめることが充分可能な内容であることを示す%凾フ理由が考えられますが、皆様はどのように理解されるでしょうか。
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