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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』47

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 流通分1 弥勒付属 特留此経

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 47

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。仏のたまはく、「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切の所有を見せしむ。まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし。わが滅度ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありてこの経に値ふものは、意の所願に随ひてみな得度すべし」と。仏、弥勒に語りたまはく、「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。このゆゑにわが法はかくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 47

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい、すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」
 釈尊が仰せになる。
「わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来、わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい」


 本当の幸せ

註釈版
仏、弥勒[みろく]に語りたまはく、「それかの仏の名号[みょうごう]を聞くことを得て、歓喜踊躍[かんぎゆやく]して乃至一念[ないしいちねん]せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利[だいり][]とす。すなはちこれ無上の功徳を具足[ぐそく]するなりと。このゆゑに弥勒、たとひ大火[だいか]ありて三千大千世界[さんぜんだいせんせかい]に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]し、受持読誦[じゅじどくじゅ]して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩[ぼさつ]ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道[むじょうどう]においてつひに退転[たいてん]せず。このゆゑにまさに専心[せんしん]信受[しんじゅ]し、持誦[じじゅ]し、説行[せつぎょう]すべし」と。
現代語版
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい、すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

 いよいよ『仏説無量寿経』を結ぶ「流通分[るずうぶん]」に入ります。流通とは流布弘通[るふぐずう]、仏法があまねく広がり、いつまでも伝わること≠ナあり、「流通分」というのは、経典を三部に分けて解釈するうちの最後の部分。教えを後世に流布伝持させるため、経典が弟子に与えられたことを記す部分≠いいます。これを弥勒[みろく]に与えるわけですが、弥勒菩薩は「補処[ふしょ]の弥勒」ともいい、釈尊の後継者を象徴しています。真の念仏者はこの補処の弥勒と同じ立場でありますから、弥勒に付属[ふぞく]される言葉はすなわち念仏者ひとり一人に付託[ふたく]される内容だと解るでしょう。実に責任重大と言わねばなりません。

 経典を読みますと、まず「それかの仏の名号[みょうごう]を聞くことを得て、歓喜踊躍[かんぎゆやく]して乃至一念[ないしいちねん]せんことあらん」とあります。学びを重ねるとこうしたことは当たり前のこと≠ニ読み飛ばしてしまいがちですが、今一度中身を尋ねてみたいと思います。
かの仏の名号[みょうごう]を聞く」とは、無量寿仏の名のり叫びを聞くこと、「南無阿弥陀仏」を聞くということですが、単に「ナモアミダブツ」という音声を聞くのではありません。無量寿仏の徳の限りない内容を聞き学んでゆくということです。

 法相[ほっそう]祖師[そし]法位[ほうい]のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を[しょう]するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名[ぶつみょう]を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定[けつじょう]して[うたがい]なし。称名往生[しょうみょうおうじょう]これなんの[まど]ひかあらんや」と。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二60 大行釈 引文 より

意訳▼(現代語版 より)
法相宗の祖師、法位が『大経義疏[だいきょうぎしょ]』にいっている。
「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根[ぜんごん]を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号[みょうごう][とな]えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」

 このように、仏名には仏の内容が込められていますので、仏名を[たた]えるということは仏徳を称えることに他なりません。ではどうしたら仏徳を称えることができるのかといいますと、親鸞聖人は――

しかるに『経』(大経・下)に「[もん]」といふは、衆生、仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]を聞きて疑心[ぎしん]あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向[ほんがんりきえこう]の信心なり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)65 信一念釈 より


意訳▼(現代語版 より)
 ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。

と示してくださいました。

仏願の生起本末」とは、この『仏説無量寿経』に如実に説かれた連綿と続く本願の歴史≠ナあり血と汗と涙をくぐった清浄なる寿[いのち]の歴史≠ナあります。無量寿仏は衆生一切の辛苦を背負って法蔵菩薩となり、本願を建て、衆生一切と共に兆載永劫[ちょうさいようごう]の修行をし、願いを成就させ、今一度我が胸に宿って修行を完成される。この経緯[いきさつ]を経典に聞き、我が胸に思い至ることが「仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]を聞きて疑心[ぎしん]あることなし」という事実なのです。

法蔵とは
どこに修行の場所があるか
みんな私の胸のうち
なむあみだぶつ
(栃平ふじ)

 実際、この『仏説無量寿経』を聞き学んでいきますと、確かに我が胸の奥深くで躍動している何かは、この経典の内容そのものだ!≠ニ、気づくことがあるのではないでしょうか。また、私の身心全てがこの経典に共感している≠ニ感じさせられます。「歓喜踊躍[かんぎゆやく]」とは、こうした感動を言うのでしょう。

 また、「名号」が現れた事実を言えば世尊が名を付けられた≠フですが、宗教的真実は無量寿仏自身の名告りを世尊が見出された≠フです。無量寿仏は名号とともに世尊の前に姿を現され、世尊の説法によって衆生に披露されたのですが、説法されるはるか以前から無量寿仏は限りない功徳を積まれてみえ、その寿命を無量無辺[むりょうむへん]に広げ、阿僧祇劫[あそうぎこう]に保ち、十方恒沙の諸仏如来となって衆生とともに歩みを進めてみえたのです。
 こうしたことが理屈ではなく自分自身の人生において証明される≠ニいうことが最も重要なのですが、これが「乃至一念[ないしいちねん]せん」と顕されている内容であり、特に「行の一念」・「弥勒付属[みろくふぞく]の一念」とも称されているのです。そしてこの一念の内容は、
{第十八願}に説かれている「至心・信楽・欲生」を合わせて「一念」とし、本願においては「乃至十念」と一念が一生相続して行く相を誓われた≠フですが、ここではその初心をたたえて「一念」をとしたのでしょう。

 次に、「まさに知るべし、この人は大利[だいり][]とす。すなはちこれ無上の功徳を具足[ぐそく]するなりと」とあります。真実信心の躍動はこうした「大利を[]」る、「無上の功徳を具足[ぐそく]する」というのですが、具体的には何を大利とし、何を功徳と称するのでしょう。

 大利・功徳は、今流行りの言い方で言えば「本当の幸せ」ということになるでしょう。人間は何が幸せか解らずどうやって幸せになるのか方法が解らない。ユリウス・ハンマーは「外からやってくる幸福は乾いたもみがらのように軽い」と言っています。すると、本当の幸せとは何かを明かにし、幸せに至る道程を示すことが大利・功徳であると言えましょう。
 しかし「本当の幸せ」と言い切ってしまうと、この言葉が使用されてきた癖が影響して真意を外してしまうことになりかねません。「他力」や「極楽」という言葉さえ世間で誤用されているのですから、「幸せ」も、感覚的にとらえてしまうと反動が起こります。
 なぜなら、人間は幸せを求めるのと同じくらい不幸せを求める癖を持っているからです。実はこれが人間の闇の最たるもので、自分自身を裏切る感情が常に起こり、身心を病む根本原因となっているのです。しかも、これを排除しようとすればするほど反動は大きくなってしまいます。すると、自身を裏切る心も含めて受け入れていかねば「大利・功徳」とは言えません。

『哲学概論』を読んだところが、大昔の人はこの世界が水からできておったものだと考えた人、あるいは石からできておった、土からできておった、木からできておった。こういうふうに考えておったということを『哲学概論』に書いてあるのです。私はこれを見ながら、これは博士なのですけれどもその博士がなんと親切のないことだなと思うたのです。
 そうではないのです。これは何かいいたいものがあるのです。いいたいものがあるのだけれども、自分の気持ちをはっきりといい表すことができないものだから、あれを石とか水とか木とかいっておるのであります。仏教でいうならば、潤いとか、熱とか、四つに表現しておるのであります。だから、それと同じようにいわれた言葉だけに引っかかって、何がいいたいのか、自分ではいいたいものをはっきりよういい表すことができないもの、そういうものがあるのです。いうてもいうてもまだいい足りないものがあるのです。何か自分のものでないものがある。それと同じように、大昔の人は幸せになりたいということは、実は幸せになることが大事なことなのです。ところが、文字に捕らわれた、幸福という言葉に捕らわれたのです。西洋でありますからハッピーというのでしょうか知りませんが、そうではないのです。
 実は、幸せは幸せになりたいという本願の一つで、願いなのでありますけれども、何が幸せかが解らないのです。そうでしょう。お金があったら幸せか、いい婿さんをもろったら幸せかと思う。つかんでみればこれではなかった、つかんでみればこれではなかったとなるのです。本当の幸せは何か。それを表すのです。だから、ここでも大利ということは「大」という字を使っておることは、これは大きいということではないのです。ただ単に大きいという意味ではない。本当のもの、本当の幸せ。
 そうすると、どんなものかというと、ここでは何かというと、親鸞聖人は「一念大利無上なり」とおっしゃいますが、ここでは何かというと、その次にまたありまして、「大利を得とす」。「一念に無上の功徳を具足する」とおっしゃっておる。親鸞聖人では「不可称不可説不可思議の功徳」とおっしゃるこれでありますが。
 それならば、一体無上の功徳とはどんなものだろうか。<中略>無上の功徳とは何かというと、これはこの経を聞く者は無上道において終に退転せずという。そうすると、これは不退転の位を得ることが一念大利、これが無上の功徳である。不退転、こういうことであります。
 そうすると、親鸞聖人ではどうおっしゃるというと、今までは仏になることが目的だったの。ところが、法然上人では仏になることが目的ではないのです。お浄土に生まれることが目的になっておる。往生浄土教でしょう。お浄土に生まれて何をするのか、解らないでしょう。結局夢で空想みたいもので、想像でしょう。そこが違うのです。
 親鸞聖人では「無上の妙果成じ難きにあらず」で、仏になることが難しいのではないのです。「まことの信楽、まことに獲ること難し」現在信心決定した人は正定聚不退転の菩薩になる、これが無上の大利。一体そうすると、信心決定したことによって今晩死んでも思い残しない、これだけの内容を持っておるものが信心。これを無上の功徳という。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 また『往生論註』には、器世間荘厳功徳成就の十七種のうち「荘厳一切所求満足[いっさいしょぐまんぞく]功徳成就」の章がありますが、「衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切能[]く満足す」とありますように、仏願は結局のところ衆生の願いそのものなのです。私たちひとり一人が本心から楽しく願い求めること全てが満足する、これが大利・功徳に他なりません。

 すると、最後に残るのは自分は自分の本心が本当に解っているのか≠ニいう問題です。この問題を解決し、本心が解り、本心が満足する道程がみえる境地を「正定聚[しょうじょうじゅ]」とも「不退転[ふたいてん]」とも言うのです。 島田幸昭師は正定聚の第一「歓喜地」を「生きて甲斐あり死んで悔いのない道が見つかる、これにもまして大きな人間の喜びがどこにあるであろうか」と称えられました(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})。私たちは、本心からの願いが事実として成就することを永遠に求めつつ、願いそのものの成就を今ここにおいて完成させてゆくのであり、後者の成就を正定聚とも不退転ともいうのです。

 次に「このゆゑに弥勒、たとひ大火[だいか]ありて三千大千世界[さんぜんだいせんせかい]に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]し、受持読誦[じゅじどくじゅ]して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩[ぼさつ]ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道[むじょうどう]においてつひに退転[たいてん]せず」とあります。
 無量寿仏の本願成就のいわれを明かしたこの経典は、どんな困難があってもこれを聞き開き、説かれている通りに修行すべきである、というわけですが、「修行」と聞くと浄土真宗には修行はないはずだ≠ニ反論する人もいるでしょう。衆生の修行によってではなく信心によって正定聚に至るのだ≠ニ。
 しかし、そもそも修行のない宗教などありえません。まして仏教は啓示宗教ではなく自覚の宗教ですから、浄土真宗にも修行は当然あるのです。ただし、念仏の修行は私の修行ではありません。法蔵菩薩となった無量寿仏の修行が私に回向されてくるのです。私に至り届いた法蔵菩薩が正定聚の菩薩なのであり、私は我が胸に宿るこの法蔵菩薩を念じる(信心)ことで念必定の菩薩となるのです。
 では、具体的にどのような修行が為されるのかと言いますと、たとえば――

我ならぬ [きよ]らの我れの 我れにありて
穢悪[えあく]の我れを 我れに知らしむ
(池山栄吉)
という歌があります。法蔵菩薩はまず至心によって罪悪深重の我≠我に知らしめてゆくのです。そして信楽を通して無量寿仏のいのちが「不可称不可説不可思議の功徳」となって我が身に満ち、欲生を通して全人類の集う場が自覚され、呼び覚まされ、回向された無上菩提心が世界にはたらき出してゆくのです。以上のことから、「このゆゑにまさに専心[せんしん]信受[しんじゅ]し、持誦[じじゅ]し、説行[せつぎょう]すべし」と、念を入れてこの経典の真意が広く伝播することを勧めているのです。

 ただ一人でも良い

註釈版
仏のたまはく、「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]およびその国土の一切の所有[しょう]を見せしむ。まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし。わが滅度[めつど]ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来[とうらい]の世に経道滅尽[きょうどうめつじん]せんに、われ慈悲をもつて哀愍[あいみん]して、特にこの経を[とど]めて止住[しじゅう]すること百歳[ひゃくさい]せん。それ衆生ありてこの経に[もうあ]ふものは、意の所願[しょがん]に随ひてみな得度[とくど]すべし」と。
現代語版
 釈尊が仰せになる。
「わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来、わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」

 私たちはここまで経典を読んできて何を領解できたのでしょう。仏は「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]およびその国土の一切の所有[しょう]を見せしむ」と仰っておりますように、まずは無量寿仏と国土(浄土)の全てを見させていただいたのです。

 これは霊山現土(#人類共通の記憶)においても「その時阿難、すなはち無量寿仏を見たてまつるに、威徳巍々[いとくぎぎ]として、須弥山王[しゅみせんのう]の、高くして一切のもろもろの世界の上に出づるがごとし。相好[そうごう]〔より放つ〕光明の照曜[しょうよう]せざることなし。この会の四衆[ししゅ]、一時にことごとく見たてまつる。かしこにしてこの土を見ること、またまたかくのごとし」と説かれていますので、阿難のみならず在家・出家・男・女の別なく、全ての衆生が仏の説法を聞くことによって浄土一切を見ることが適うわけです。しかもこれは、経典が説かれた時点の王舎城耆闍崛山[おうしゃじょうぎしゃくっせん]に集う人々限定≠ニいう意味ではなく、『仏説無量寿経』に説かれた内容を聞けば≠ニいうことに他なりません。
 ただし「聞く」といっても、文字面をなぞったり耳に入れるだけでは充分ではありません。先ほども引用させていただきましたように、「仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]を聞きて疑心[ぎしん]あることなし」ということ。本願が建立されねばならなかった人類の宿業を識り、人類の血と汗と涙を通って本願が成就した歴史を鑑み、我が身において信心が身に満ち、働くことを領解してゆくことが「聞く」という意味です。

 次に「まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし」とありますが、「まさになすべきところのもの」(当に為すべき所の者)とは何を為さんとする人のことでしょう。現代語版では「この上にまだ尋ねたいことがあるなら」と訳してありますが、原文には本来「この上に」という意味はありません。ですからこれは、今説かれた内容を聞き開き、当来において必ず浄土に生まれたいと願う者はと訳すべきでしょう。「まさに」とは「当来」であり、これは[まさ][きた]るべき、約束された、確実な未来≠いうからです。
 無量寿仏とその国土を見、浄土に生まれようと願う者は、[まさ][きた]るべき、約束された、確実な未来において往生は適うのですから、もし『仏説無量寿経』の法を聞き逃した箇所や、疑問があれば、遠慮なく質問しなさい≠ニ諭されます。なぜなら、「わが滅度[めつど]ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ」で、世尊が滅した後にも疑念が残れば、問いに応えてくれる仏はいないため真実報土に化生できず、化土に胎生することになってしまいますので、浄土の功徳は限定的なものになってしまうからです。
 ちなみに「将来」は[まさ]に来たらんとする、実現に向かって歩んでいる、可能性のある未来≠ナあり、単に「未来」といった場合は、[いま]だ来たらず、先延ばしに迷った、実現の可能性のない未来≠いいます。

 続いて、「当来[とうらい]の世に経道滅尽[きょうどうめつじん]せんに、われ慈悲をもつて哀愍[あいみん]して、特にこの経を[とど]めて止住[しじゅう]すること百歳[ひゃくさい]せん」とあります。
 先に示しましたように、「当来[とうらい]」は[まさ][きた]るべき、約束された、確実な未来において≠ナすから、「当来[とうらい]の世に経道滅尽[きょうどうめつじん]せん」とは、やがて仏教は必ず滅ぶぞ≠ニいうことです。
 これは、正法(教行証すべてが具現する時代)・像法(教と行が存在しているが[さとり]を得る者はない時代)・末法(教えのみがあって行と証が欠けた時代)の三時(正法五百年、像法一千年、末法一万年)を過ぎると、人類全てにおいて宗教心がなくなり、自分の欲をかなえることばかり望むようになり、道を求める心は絶え、自堕落に怠けて嘘の人生を積み重ねてゆく者ばかりとなる経道滅尽[きょうどうめつじん](法滅)の時代がやってくる、との予告が為されていることからきています。
 この経道滅尽の時代が「当来」という確実な予告≠ノよって行われているということには注意を向けなくてはなりません。仏は一体ここにどんな思いを込められたのでしょう。

 それはおそらく、人類の行く末に対する強烈な危機感でありましょう。
 人間は大脳が発達することにより様々な文化文明を造り出すことができるようになりました。しかし理性は洗脳されやすく、悪思想に毒されたり破壊的な衝動に駆られてしまう傾向にあります。こうした人間の業を知れば知るほど、どんなに尊い教えもやがて誤解を受け、にせの教えがはびこり、正法を真面目に学ぶ者がいなくなるのではないか≠ニ予見されるわけです。実際、現代社会に生きる私たちのありさまを[つぶさ]に見てみると、時代が進めば進むほど人々の資質は衰え、偉大な文化・文明や宗教までも数値化して理解し、記号化された血の通っていない言葉がはびこってゆきます。そして人々は、生きる指針を持たなくても平気で過ごすようになる反面、金銭の蓄えがない者は不安に駆られて生きています。また人々は、先人たちや周囲の心配りに感謝する心がない癖に、周囲から軽んじられると激怒し、自分の要求ばかり押し付けあって生きています。
 このような傾向が、この経典が編纂へんさんされた当時にもあったのでしょう。末法は一万年続く≠ニいう予告は現時点では希望的観測にさえ思えてきます。心ある人たちは、「今は既に法滅の時代に入りかけているのではないか」と危機感を募らせているではありませんか。

 この危機感から生まれたのが「われ慈悲をもつて哀愍[あいみん]して、特にこの経を[とど]めて止住[しじゅう]すること百歳[ひゃくさい]せん」という宣告ではないでしょうか。現代語版では「わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう」と訳されていますが、とてもそんな悠長ゆうちょうな内容ではないでしょう。
 特に「百歳[ひゃくさい]」と限定を加えられたのは、人類全体が切羽詰せっぱつまっている、まごころが消えかかっている、正法が消えかかっている、そんな時、たった一人でも良い、お前だけはこの教えの真髄しんずいをつかんでくれよ≠ニ私に叫んでみえるのです。そして、教えが滅ぶ寸前の今、今、今、念仏者一人ひとりによって正法を復活させてゆく。大経に百歳護られたたった一人の、生涯をかけた求道によって新たな時代が切り開かれてゆくのです。

 真の値打ちが解る

註釈版
仏、弥勒に語りたまはく、「如来の興世[こうせ][もうあ]ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道[きょうどう]、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法[しょうぼう]・諸波羅蜜[はらみつ]、聞くことを得ることまた難し。善知識[ぜんぢしき][]ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた[かた]しとす。もしこの経を聞きて信楽受持[しんぎょうじゅじ]することは、[なん]のなかの[なん]、これに過ぎたる難はなけん。このゆゑにわが法はかくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順[しんじゅん]して法のごとく修行すべし」と。
現代語版
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい」

 注釈版には「如来の興世[こうせ][もうあ]ひがたく、見たてまつること難し」とあり、これを現代語版では「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい」と訳してあります。すると、如来がお出ましになった世を過ぎて生まれた私たちは無量寿仏を見たてまつることはできないのでしょうか。もしそうであるなら、この経典は何のために書かれたのでしょう。お前たちは遅く生まれて残念だったな≠ニ悔しがらせるために編纂されたのでしょうか。

 そうではありません。『阿闍世王授決経』には「如来はつねにいますけれども、至心を持たぬ衆生には、如来を拝見できがたい」と説いてありますように、「如来の興世[こうせ][もうあ]ひがたく」とは、世尊が世にお出ましになられた、その値打ちが本当に解る人は中々いない≠ニいうことなのです。
 仏教の値打ちはどこにあるのか。釈尊が覚りを開いて多くの教えを説かれた、その真意はどこにあるのか。仏教を学ぶ人は多く、教えを聞く人は多いが、その真髄をいただいた人はごくわずかです。その一人、親鸞聖人は「如来、世に興出こうしゅつしたまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」と覚られました。一人の天才の領解は言葉によって周囲に波及し、人類全体の領解となります

 世尊が世にお出ましになられた本当の値打ちが解れば、その人は無量寿仏を見たてまつることが適うのです。そして多くの仏がたの教えが究極として何を示しているか聞くことができ、菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜ろくはらみつの行が本当はどのようなものかを聞くことが適います。すると、出会う一人ひとりにおいて善知識ぜんぢしきを見出す眼が開き、どんな人からも無言の説法を聞くことができ、そうした教えを信じたもち続けることができるのです。なぜなら、無量寿仏に出遇った人はみな、自分がこの世に生まれてきた値打ちが解るからです。これは他の何にも代え難い喜びでありましょう。
 こうした値打ちが解るということは、実に「[なん]のなかの[なん]、これに過ぎたる難はなけん」であるのに関わらず、念仏者は今既にこれを適えることができている。それは、世尊が仏となリ、「さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至った」ことによってようやく実現できたのであり、自分の手柄では決してありません。

いくたびか お手間かかりし きくの花
(加賀千代)

 愚痴無智ぐちむち罪悪深重ざいあくじんじゅう煩悩熾盛ぼんのうしじょうの私がこの法を信じてたもち続けているというのは、決して当たり前のことではないのです。

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