平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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初めまして。三願真仮とはどういう意味なんでしょうか?
説明しろと言われてもどう答えたらいいのか分からないので教えて下さい。
よろしくお願いします。
単に「三願」といった場合は、阿弥陀如来の四十八願({ご本願を味わう}参照)の中の、往生の因を誓う三願(第十八・十九・二十願)を指したり、教行信証の四法が三願にもとづくとする四法三願(第十七・十八・十一願)、衆生を引摂する弥陀の大悲をあらわす三願(第十一・十八・十九願)、衆生往生の因果が弥陀の願力によることを証明する三願的証(第十八・十一・二十二願)等ありますが、「三願真仮」と言われれば、最初の「往生の因を誓う三願」を指すとみてよいでしょう。ただし「三願真仮」という熟語はありませんので、辞書などには載っていないと思います
内容を簡単に説明しますと―― 阿弥陀如来の浄土に往生する真実の因は「第十八願」であり、これは如来回向の信心を正因とすることが誓われています。これに比べ「第十九願」は自力の菩提心と諸善万行を因とし、「第二十願」は自力の称名念仏を因としていますが、後の二願の因は方便であり、慢心自力の衆生を第十八願に導く仮の願である、という解釈から「往生の因に真と仮がある」と見るのです。
三往生(三三法門) | |||
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三経 | 大経『仏説無量寿経』 | 観経『仏説観無量寿経』 | 小経『仏説阿弥陀経』 |
三願 | 第十八願 | 第十九願 | 第二十願 |
三門 | |||
三蔵 | |||
三機 | |||
三往生 | |||
第十八願の |
これは 親鸞聖人の「三願転入」という宗教体験を通して述べられたものですが、単に聖人個人の体験に留まらず、浄土三部経全体の構造まで明らかにする内容であり、浄土真宗教学の根幹をなす教えにもなっています。
ただし、一切衆生は必ず第十九願から転入すべきなのか、初めから第十八願に直入できる人もいるのかどうか。また「順序から言えば第十八願から展開する面も見逃せないはずである」等、様々な説があります。しかし「第十八願の真実信心が往生の正因である」ということは肝要であり、ここを外す教えは真実ではありません。
以上、概略を述べてみましたが、詳細を知りたい方は以下を参考にして下さい。
浄土とは、如来の願いに報いて成就した世界のことをいいます。ですから、願いの内容によって浄土の出来具合も違う訳ですが、阿弥陀如来の願いは無上であり、諸仏に超えて勝れていますので特に「本願」といい、この本願の成就した弥陀の浄土に往生することは古来より仏教徒の憧れの的でした。しかも、自力の菩薩・聖者でさえ、八地以上の境地を得るために、自分の修行の成果を捨ててまで弥陀の浄土に往生することを願われたのです。
このような素晴らしい阿弥陀如来の浄土に往生するための因は三願あり、この三つの願の導きによって 親鸞聖人は真実報土に生まれる真実信心を獲得されました。
具体的に記載しますと――
親鸞聖人は、自力聖道門を捨てて法然門下に入る段階では、まだ第十九願に留まってみえましたが、やがて第二十願に入り、最後に第十八願に転入されました。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三願転入【68】
現代語訳▼
このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、久しく、さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、永く、双樹林下往生から離れ去り、自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心をおこした。
しかしいまや、その方便の真門からも出て、選択本願の大海に入ることができた。速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、難思議往生を遂げようとするのである。必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、まことに意味深いことである。
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。
このように聖人自身の宗教体験を基に往生の生因である三願の真仮を明かされたのです。
ここで転入の過程を整理してみましょう。
仏教でいう「自力」とは文字通り自分の力を指しますが、「他力」は如来の本願力をいい、これは自力と対立する力ではなく、自力を包んで自力を超えた真実普遍に順じたところの力をいいます。そのため、「如来の先手」という味わいをいただくことができるのです。
先の文に「果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな」というお味わいがありますが、称名念仏(南無阿弥陀仏を称える)の大切さが強調されていることには注意が必要です。私たちは阿弥陀如来の先手のおはたらきとして第十八願を尊ぶわけですが、勤め励んで称える念仏を忘れてはならないのです。
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし
『仏説観無量寿経』 流通分 【32】より
現代語訳▼
もし念仏する人がいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となり、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生まれるのである。
哲学者や文学者など文化人と言われる人たちの中には、称名念仏のことを「親鸞教学では必要無いのではないか」と言う人もいますが、これは「宗教音痴も甚だしい」と言わざるを得ません。文法を知っただけで文学が分る気になっているようなものでしょう。
「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」導かれたのは第二十願であり、第十八願ではありません。人や論釈が直接導くことができるのは第二十願までであり、その先は言葉や理屈では導けないのです。真実信心は「味を聞く」しかありません。
つまり、私が直接に人を導けるのは第二十願の自力念仏までで、「念仏称えましょう」とお勧めし、その味を聞き、味を語るだけです。第十八願へ導こうと焦って論を披露しても、相手はすぐに理解することは難しく、無理をすれば理屈が迷走するだけに終ってしまいます。もし相手が「納得した」としても、納得したところは自力の範疇に過ぎません。納得があっても無くても味わえるのが南無阿弥陀仏のはたらきです。この壁は道理や理屈で打ち破ることはできないのです。
道理 理屈で聞くじゃない
味にとられて 味を聞くこと
南無阿弥陀仏
名号は ふしぎな慈悲で
合点がいらぬ
合点いらぬが 南無阿弥陀仏
(浅原才市)
第二十願から第十八願への導きは、「南無阿弥陀仏」の直接のはたらきによるしかありません。仏智の不思議のみが雑毒の信心を純化し第十八願に導くことができるのです。そして第十八願に導かれた人たちは、懺悔のうちにその味わい(領解)を述べる喜びを得、この喜びが自力の念仏者にも及び、如来の導きの同行者となって自他に寄り添うのです。
まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 真門釈 結示【67】
これは、先の「三願転入」の前にある文ですが、よくよく味わいたいお心です。現代語訳▼
いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』に、「自力のものは仏の恩に報いる思いがなく、行を修めてもおごり高ぶる心がおきる。それは、いつも名誉や利益を求めているからであり、<わたしが>というとらわれの心におおわれて、同じ念仏の行者や善知識に親しみ近づくことがないからであり、好んでさまざまな悪に近づき、自分および他人が本願の名号をいただいて浄土に往生する道をさまたげるかあである」といわれている。
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力念仏に帰することなく、自力の心にとらわれているから、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。
往生の因を誓う三願と、浄土三部経の関係についても触れておきましょう。
阿弥陀如来の本願が述べられていたのは『仏説無量寿経(大経)』であり、第十八願には往生の正因となる三心が顕されています。({聞法ノート 第一集 15 本願の三心}・{ご本願を味わう 第十八願 至心信楽の願}参照)
この『大経』の三心(至心・信楽・欲生)と、『仏説観無量寿経(観経)』に述べてある三心(至誠心・深心・回向発願心)が同じか否かということについて、親鸞聖人は善導大師の文を参考に、「
問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。「発三種心即便往生」といへり。また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕【15】より
現代語訳▼
問うていう。『無量寿経』に説かれる至心・信楽・欲生の三心と『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心の三心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密 の義がある。[
その顕 とは、定善・散善のさまざまな善を[ 顕 すものであり、往生するものについて上・中・下の三輩の区別をし、至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生まれるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。[
その彰 とは、阿弥陀仏の弘願を[ 彰 すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。[
このようなわけで『観無量寿経』には、「わたしに清らかな世界をお見せください」と説かれている。「清らかな世界」とは本願成就の報土である。
また「わたしに極楽の世界のすがたを想い描く方法をお教えください」と説かれている。これは往生のための仮の手だてのことをいうのである。
また「極楽世界のすがたとわたしの心が一つになり、観が成就する方法をお教えください」と説かれている。これは他力金剛の信心のことをいうのである。
また「清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきり想い描くがよい」と説かれている。これは本願成就の尽十方無碍光如来を信知すべきであるということである。
また「極楽世界のすがたを想い描くためのさまざまな方法を説く」と説かれている。これは定善の十三観をいうのである。
また「そなたは凡夫で、能力が劣っている」と説かれている。これは悪人が浄土に往生すべきものであることを彰すのである。
また「仏がたには特別な手だてがある」と説かれている。これは、定善・散善のさまざまな善が説かれるのは、他力念仏に導き入れる仮の手だてとしての教えであることを顕すのである。
また「仏の力によってその世界を見ることができる」と説かれている。これは、仏の力、すなわち他力によって往生することを顕すのである。
また「釈尊が世を去られた後の世の衆生は」と説かれている。これは、未来の衆生すなわち凡夫こそまさに浄土に往生すべきものであることを顕すのである。
また「経典に説かれることと合致するなら、粗々は極楽世界を見たということができる」と説かれている。これは、定善を成就することが難しいことを顕すのである。
また「この身のままで念仏三昧に入ることができる」と説かれている。これは、定善の観察が成就して得られる利益は他力の念仏三昧であることを顕す。すなわち定善の観察を方便の教えとされるのである。
また「至誠心・深心・回向発願心の三心をおこして往生する」と説かれ、また「三種の行を修める人々があって、みな往生することができる」と説かれている。この二つの文によって考えると、上輩・中輩・下輩の三種類の人について、それぞれ定善の自力の三心・散善の自力の三心・弘願他力の三心があり、また真実報土への往生と方便化土への往生とがある。
これによって、まことに知ることができた。すなわち『観無量寿経』には顕彰隠密の義があることを。『無量寿経』の三心と『観無量寿経』の三心が同じであるか異なるかを述べるにあたっては、よくこのことを考えなければならない。この二つの経は顕の義によれば異なるが、彰の義によれば同じである。よく知るがよい。
『観経』に顕れた「定善・散善」は、「それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない」のですが、これは「他力念仏に導き入れる仮の手だてとしての教え」であり、如来の真意はこの密意にあるのです。({聞法ノート 第一集 21 定善・散善}参照)
また、『大経』・『観経』の三心と、『阿弥陀経(小経)』の一心との関係についても、やはり「この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし」と明かされています。
また問ふ。『大本』(大経)と『観経』の三心と、『小本』(小経)の一心と、一異いかんぞや。
答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。二十願なり 機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕【37】
現代語訳▼
また問うていう。『無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と『阿弥陀経』に説かれる一心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。いま方便真門の誓願についてみると、行と信がある。また真実と方便がある。その願とは植諸徳本の願(第二十願)である。その行には二通りの名がある。一つには善本であり、二つには徳本である。その信とは至心・回向・欲生の心である。この行を修めるものに、定心のものと散心のものとがある。そして往生とは、難思往生であり、その仏とは化身である。その浄土とは疑城胎宮である。 『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思の往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々に世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは顕彰の義をあらわすものである。『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」とと説かれている。「執」の言葉は心がしっかり定まって他に移らないことをあらわしている。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた経典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。
以上のように、浄土三部経全てにわたって如来が彰そうとされてみえるのは、「信心が最も要である」ことであり、信心とは「金剛の真心」であり「大信心」であることも明かされます。
三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。三経一心の義、答へをはんぬ。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕 【37】より
現代語訳▼
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入る因とする。そのため三経のはじめには、「如是」と示されているのである。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。いまこの三経をうかがうと、みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。その真実の心とは他力回向の信心である。この信心は、たぐいまれな、もっともすぐれた、真実の、清らかな心である。どうして信心の大海には入ることが難しいのかというと、この信心は仏力によっておこるからである。しかし、真実の浄土に往生することはとてもやさしい。それは本願のはたらきによってただちに往生できるからである。いま、『無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と『阿弥陀経』に説かれる一心とが同じか異なるかを論じようとするのは、このことをあらわすものである。これで三経に説く教えはみな他力の信心をかなめとするということについて答えおわった。
以上が浄土三部経の大要ですが、先のまとめにも書き添えましたように、『無量寿経』の三心(究極としては一心)は第十八願に顕され、第十九願の三心は『観無量寿経』、第二十願の一心は『阿弥陀経』に顕されている内容ですから、三願転入は三経の転入でもあるわけです。
ただここで考えなければならないのは、第十八願に転入した後は、第十九願と第二十願は捨て去ってしまってよい願なのかどうか、という問題です。
信心だけの問題であれば、信心獲得後は確かに後の二願は必要ありません。しかし真実信心が現実に展開する面として再度この二願を味わえば、第十九願の自力の菩提心は、第十八願を経験した後には如来回向の菩提心に転じられ、第二十願の「わが名号を聞きて」も、勤め励んで称える念仏から、如来のお心を聞く念仏に転じられていく、という面も否定できないのではないでしょうか。
転入は第十九、第二十、第十八と、後戻るのですが、本願では第十八、第十九、第二十と、直線的に進行方向に並べられています。虚心に本願の文を見ると、それは転入の三願というよりは、むしろ展開の三願のように思われるのです。三願転入は、不純な信が次第に深められて、純粋になってゆく、迷いからさとりへという方向ですが、これは信の有っている半面の働きです。信は内に向かって、限りなく自己そのものを純化してゆくと同時に、「信は道の元、功徳の母」といわれているように、信の内に有っている徳を、外に向って形をとって、現実に具体化する働きを有つものです。三願転入は信心の問題ですが、三願展開は生活の問題です。四十八願ではむしろ三願展開の問題が重要とされているようです。
それでは親鸞聖人には、三願展開の思想はなかったかと申しますと、三願展開という言葉はありませんが、そういう思想は有っておられたように思います。今引きました「信は道の元、功徳の母」という『華厳経』の言葉に目を著けられたり、信心獲得の獲得を「因位の時うるを獲という。果位の時に至ってうるを得という」と註釈しておられますが、これは心に獲ることと、身に即くことで、哲学用語でいえば、自覚と自己形成に当るのでしょう。自己形成の思想はあったことはあったと思いますが、あの時代ですから、まだはっきりしたものではなかったのではないでしょうか。あの時代ばかりではありません、これは日本仏教の伝統のようです。今日でもほとんどの学者が、自覚で止まっています。私は自己形成を説く人に会ったことがありません。東大の有名な教授でしたが、仏とはどういうものかという、仏の定義を「自覚覚他、覚行円満」といわれています。その覚行を、自覚に至るまでに永い修行が要る。また他をさとらしめるにも、永い間の修行が要る、それを覚行というといっています。この覚行は、自覚のあとの自己形成のことなんです。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』{至心信楽の願}より
このように、如来の真実意を喜び求められた先人たちの姿勢に学び、言葉に依らず、「仏意測りがたし」と聖人の求められたお心をつぶさに求め続けていきたいと思います。