「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味でしょうか。
仏語は一般的に厳しい言葉が多いのですが、「日日これ好日」、「毎日毎日いい日」ということですから、ずいぶん優しい響きに思えます。そのせいかこの言葉は茶席でも持てはやされているようですが、これは「毎日いい日であるように」という祈りのような言葉なのでしょうか。それとも「仏滅・友引・三隣亡といった日柄にとらわれるな」という迷信打破の言葉なのでしょうか。
この言葉の本意はどこにあるのでしょう。
これは禅門七書のひとつに数えられている『碧巌録』にある語ですが、140人の名だたる禅匠が登場して法戦を闘わすのですから実に面白く、禅の宗旨では「法の深浅を明らかにするための必読書」といわれています。
またこの「日日是好日」を言った『雲門』は、気位が高く真意を見抜くことの難しい人とされ、下手に注釈をすると注釈をした方の境涯が知れると言います。それでも多くの注釈文がありますので、いまさら私のような門外漢の念仏者が解説することでもないのですが、失笑を承知でこの語に当たろうと思います。
挙す。雲門垂語して云く、十五日以前は汝に問わず、十五日已後、一句を
自ら代って云く、日日これ
『碧巌録』 第六則 本則
十五日というのは、その日が十五日の上堂の日であったことを示しています。そして「それ以前は問わない」ということですが、このあたりが出家・禅の宗門ですね。
念仏の宗旨ですと過去をしっかり問う、もっと言うと「はるか過去から問いかけられている」ことから法の場が始まります。在家者は家族を引きずり、過去を引きずり、悩みを引きずっています。そのためどうしても行動が遅くなりますが、在家である以上それを力にする必要があり、そこからの呼び覚ましを行動に結び付けて行くしか道はありません。
対して出家者は文字通り家を捨てる、過去を捨てて修行に励むので行動が早い、般若というのも直観的な智慧です。
そして「十五日已後、一句を道いもち来れ」、「これからどうするか、ひとこと言ってみろ」というのですが「これから」というより「今現在はどうなんだ」という問いでしょう。これに対して誰も答える者がいなかった。一説には20年間誰も答えられなかった、といいます。問いを発した相手が雲門だったせいでもあるでしょうが、弟子の返答も聞いてみたかったですね。
誰も答えないから雲門は自分で答えを出します。それが「日日是好日」です。今現在、自身の境涯・消息が「日日これ好日」なのです。この一句には「往相」、「脱落心身」、「還相」の三句を蔵していると言われます。
「往相」とは、作り上げた相対分別・自らのはからいを捨てて仏にまかせ切ることをいい、そこに「脱落心身」という絶対的な境地が現れるのですが、そこにとどまってしまうことが一番危険です。そこでその絶対的な境地に背を向け現実に還ってくる。「日日是好日」は特にそうした還相面を言ったもの、と解されています。
本則はここまでですが、さらにこれを評した「頌」が続き、より意味が明らかにされます。
一を
『碧巌録』 第六則 頌
「一を去郤し、七を拈得す」の「一」とは絶対平等の世界で、ここに留まらず、「七」、すなわち現実の千差万別の世界を受け入れる。そこに全ての「いのち」が「引き換えることのできない尊厳」を有していることを「上下四維等匹なし」と顕します。
その様子を生活行動の中で見てみると「徐ろに行いて踏断す流水の声、縦に観て写し出す飛禽の跡」という三昧の状態になります。つまり、流水の音も鳥の声も自分と一体となって聞くことができ、しかもなお、それに夢中になって自らの歩みを忘れつまづくようなことはない。自由無碍な創造生活を送ることができる訳です。
ところが「これこそ究極の悟った生活だ」と喜んでいると、そこに「喝」が入るのでしょう、「草茸茸、煙羃羃」ですから、「そんな三昧の生活は、草が生い茂ったようでむさ苦しく、煙がぼうぼう漂っているみたいに見通しが利かない」と批判が入ります。
さらに、「空生巌畔、花狼藉」とあります。「空生」とは解空第一の
最後に「動著すること莫れ、動著せば三十棒」とあります。「動くんじゃない、動いたら三十回棒で叩くぞ」というのですが、これは反語であると解釈されていますから「空見に留まるな、動け動け、動くまで性根を叩きなおしてやる」ということでしょう。
これは重要な示唆を含んだ言葉で、多くの宗教者が「教学のための教学」に留まってしまい、絶対と相対が対立したまま、現実に打って出る境涯を持ちえていません。こうなると、自分の獲得した境涯に安穏としてしまい、人々が抱える苦悩に鈍感になり、社会的な問題も「次元の低いこと」と馬鹿にし、結局関心が薄くなってしまいます。
また逆に、自分たちの教学を固定・絶対化し、現実をその理想に合わせるべきだ、と無理な行動に走ったり、それを信徒に押し付ける教団も多々あります。
宗教によって自己が自由無碍になることは尊いことですが、「日日是好日」という語は達観したことを誇り、そこに留まっている人を完膚なきまでに叩きのめします。
念仏の宗旨をいただく人々も、「信心をいただいた」という場に留まり、それを誇り、他人をそこに引き込むことを布教伝道と見誤っては、いのちの見通しが立ちません。「いのち まいにち あたらしい」という本願寺の標語もあるように、日々が新たな出会いで満ちています。
さらに「動け」と言われた自分がどこに動くのか、何をいのちの軸として生活するのか。その方向性は? 在家仏教は歴史を通じた呼び覚ましを軸に、その成就に生きる方向性を見出します。
私たちはどこまでも現実から問いかけられ続ける存在なのでしょう。