「自分の国」とは自分自身のことですか?
前節で、<私は私の国の王であり、自分の国を護り育て、輝く国にしていかねばなりません。
確かに「自分の国」は究極的には「自分自身」に他なりません。 これは「身土不二」ということの内容なのです。しかし「それなら解る」と早合点すると浄土の存在意義が理解できません。わざわざ「身」と「土」を分けた意義はどこにあるのでしょう。それは、割り開かなければ「自分自身」の内容が明らかにならず、他者との関係を築いたり、「歴史的経緯」や「智慧と徳」の展開が望めないので「自分の国」と表現されてきたのです。
しかし「自分の国」という言葉は一般にはあまり馴染みがありません。そこで私なりに自分の国を発見するたとえを考えてみたのですが、たとえば、自分自身が生まれてきたことによって父親は私の父親になり、母親は私の母親になった≠ニいう事実があります。私は二人兄弟の長男ですから、父親は私が生まれる前は父親ではありませんでした。私が生まれたから父親は父親になり、母親も母親になったのです。そして次に弟が生まれたのですが、弟が生まれたことによって私は兄になりましたし、弟にとっては、私が存在している関係で弟という立場を得たのです。私以外の人間にとっては、弟は弟ではなく、息子であったり友人です。つまり、私が存在することによって成立する世界が一つあるということ。それはあらゆる人にとっても、その人が存在することで成立する国を持つということに他なりません。
さて、この「自分の国」があるという事実は、それだけが問題なのではなく、事実を認識することによって独自の世界が確保されることが重要なのです。この確保された世界によって私は独自の世界観を持つことができるのです。しかも、私がどんな世界観を持とうが、誰もこれに異議を唱えることはできません。もし異議を唱える人がいて他人の指図があっても、自分がそれを認めなければ拒否することができるのです。これは一々の生命に与えられた最高の宝であり、同時に重い責任でもあります。
このように、自分には自分の国がある。このことが解ると、相手にも相手の国があることが解ります。すると格段に自他が理解しやすくなり、特に相手の感情の道すじを理解できるようになります。同時に、相手との交流が義務的なものではなく、楽しく有意義なふれあいになっていくのです。
この「自分の国」というものに対し他にはどんな表現が為されていたのか≠ニ考えてみますと、たとえば「ため」や「余地」を想像してもらえば良いでしょうか。単に効率よく作業をこなしたり、論理に合わせて判断を下すだけでは機械と同じです。物事を判断する時、何度も自分の心身の奥にその内容を深く巡らせて考える「ため」があるから人間的な判断ができるのです。この「ため」の大きさが人間の深さや幅となるのであり、「ため」の内容が自覚され周囲にも認識されると「自分の国」と言える内容に広がっていきます。
時々、他人の話す内容をきちんと味わうことなく、次々と自分の論理だけで話を進め、得意になって自説を披露している人を見かけることがありますが、これでは相手が入り込む余地がありません。こうなると相手がどんな嫌な思いで聞いているかさえ気付かない場合もあります。対話するということは、相手の国と自分の国が響きあうことに他ならないのですが、こうした経験を紡ぐ前提には、自分が響きを受けて共鳴する国を持つ必要があるのです。「自分の国」を自覚することがいかに大切かこれでも解るでしょう。
以下このことを、浄土経典の内容と、私自身の経験の両面で説明させて頂こうと思います。
「自分の国」については、ある意味理解し辛くても仕方ない%燉eなのかも知れません。なぜなら現在の仏教界では、ほとんど課題とされない概念だからです。しかし浄土教、特に『仏説無量寿経』(大経)を領解するためには「自分の国」の状態に敏感になり、つねにつぶさに観察しておくことが必須となります。逆に言えば、「自分の国」を意識せず浄土を理解することは絶対に不可能なのです。
なぜならこの大経の下巻「往覲偈」には――
その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、とあり、<わが国もまたしからん>(自分の国もこのようにありたい)と願わしめることが、阿弥陀仏の浄土に生まれる(生まれようと願う)ことの具体的な内容だからです。「真実信心」も「往生」の意味もここに尽きますので、まずは「自分の国」を見いだしておかねば、正しく往生を願う心が起きるはずがありません。丁度、大学で何を学ぶのかはっきりしないまま大学に入っても、遊び呆けて暮らすことになるのと同じです。
菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う。
<中略>
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、
さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
ところがこの重要な箇所を、ただ単に諸仏から褒められている安楽国≠ニ、まるで他人事のように見過ごし、信心や往生の何たるかを聞こうとしない人が多いので始末に困ります。浄土を褒めるか否かは誰の問題なのでしょう。自分の問題としてこれを読まねば、呼べども聞かず、聞けども動かずの獅子身中の虫≠ニなってしまいます。
上記の「往覲偈」の一節をを解説しますと――
<かの厳浄の土>とは阿弥陀仏の浄土・極楽・安楽国土のことで、「厳」は
<思議しがたきを見て>(思いはかることもできないほどすばらしいことを知り)とは「不可思議」のことですが、思議できない≠アとを知るのではなく思議し尽くせない≠アとを知るのです。この二つは似て非なるもので、その境地は天と地ほどの開きがあります。
なぜなら、次に<よりて無上心を発して>(菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし)とあるからです。思議を止めてしまったところに<無上心>つまり「無上菩提心」はありません。「無上菩提心」は卒業なしの道心であります。
このことは、曇鸞大師の著された『往生論註』を拝読させて頂くと、下巻・観察体相章から頻繁に<いづくんぞ思議すべきや>(どうして思いはかることができようか)と結んでいますが、卒業なしの道心≠ェこう読ませるのでしょう。
つまり<無上心>があるがゆえに<思議>するのですが、これで思議し終えた≠ニ坐り込むことは「生悟り」であり、どうせ思議し尽くせないから≠ニ手を離すことと同様、正定聚の菩薩の態度とは言えません。ちなみに前者の態度は邪定聚であり、後者の態度は不定聚で、ともに阿弥陀仏の浄土に往生(真実報土に化生)することはできないのです。
正定聚の菩薩とは真実信心の行者であり、真実信心の行者は無上菩提心を起している(起こそうと願う)ことが必須であります(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})。そして阿弥陀仏よりふり向けられた無上菩提心によって阿弥陀仏の国の清浄・荘厳なる姿が示され、人間本来の無上菩提心が具体的に自分に成りきっていく(無上心を発す・横超の菩提心が回向される)ことで、<わが国もまたしからん>(自分の国もこのようにありたい)との願いが起こってくるのです。
それは取りも直さず、自分の国がその場しのぎの業によって汚された国≠ナあることが見えたことを意味します。そしてこの泣いても泣ききれぬ宿業の重さを「刹土」と背負った私の国は、宿業の悪を徳に転じて浄め、真心の願いを軸として自分の国を再編成し、輝く世界を建設しようと、どこまでもどこまでも新たなる地平を目指して歩まざるを得ない事態である、と喜び勇んで懺悔することになります。
これが、<十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。/厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし>(わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。/菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる)の内容です。真実信心の姿は、喜びも大きいが悔いも大きい。つまり、大抵は喜びよりも恥ずかしいが先立って、落ち着いてなどいられなくなるほど心身が活発に動くようになるものです。
<十方より来れる正士>とは、「正定聚・不退転の菩薩」であり、真実信心を頂いた念仏者です。<われ>は阿弥陀仏で、阿弥陀仏は念仏者の願いを全て知ってみえるのです。念仏者の願いは<厳浄の土を志求し>ということですから、驚くことに阿弥陀仏の国と同じ清浄・荘厳の国土をつくりたい≠ニ願っているのです。
そんな恐れ多いことを私が願うわけがない≠ニ否定しようにも、こんな凄い願いが誰の胸の中にも宿されていて、
実はこれが機法一体の南無阿弥陀仏≠フ内容に他なりません。阿弥陀仏が願って造られた浄土と、自分の造りたい国は寸分違わず同じなのです。願いが同じであれば結果も同じ、同じでないのは、自分が未熟であり、自分の願いの深さに気付いていないからです。
また阿弥陀仏の浄土は既に一切衆生を往生せしめる実績(徳)があるのですが、自分の国はまだ本来の実績がありません。せっかくの阿弥陀仏の願いなのに、種(可能性)を宿したまま逃げ回ってばかりいる私の姿はお恥ずかしい限り≠ナす。
すると真剣になれ!≠ニのお声が、足元から聞こえてきます。
誰の声か?
他人の声ではありません。
我ならぬ清らの我れの我れにありて
穢悪の我れを我れに知らしむ(池山栄吉)
私と成り切った清浄なる我=i仏性)が、罪悪深重の凡夫≠ニしか言いようのない穢悪の私のありさまを、求道の主体≠ナある自分に、真剣になれ!≠ニ知らしめるのです。これが「至心」の内容であり、やがてこの至心の種が「信楽」と身に満ち、信楽を体として「欲生」と展開していきます。(参照:{至心信楽の願})
このように、私の外に阿弥陀仏が存在しているのではありません。私に成り切られた法蔵菩薩(仏性)が私の国の中で修行を続けてみえ、私が様々な物事に触れるたびに南無阿弥陀仏となって姿を現されるのです。
法蔵とは
どこに修行の場所があるか
みんな私の胸のうち
なむあみだぶつ(栃平ふじ)
これを現代流に論じますと、「私を筆頭に、全ての人間は生命の進化をなぞって生まれ、人類の歴史を通した真心の智慧≠身に
では<厳浄の土を志求>して造った「自分の国」は、どこに打ち建てれば良いのでしょう?
その答えがやはり往覲偈の――<一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、/もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん>(すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、/さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである)にあります。
<一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとし>は、諸行無常なる現実世間のことです。この諸行無常なる現実世間に<もろもろの妙なる願を満足して、かくのごときの刹を成ぜん>と、阿弥陀仏はお勧めになられるのです。「刹」は一般的には寺院を指しますが、ここでは仏国のことであり、その前段階となるのが問題の「自分の国」に他なりません。この「自分の国」は本来、永遠に存在するものではなく、諸行無常の現実世間にあります。しかし、無常の世間に無常ではない真実の願土を打ち建てよ、必ずできる≠ニ、阿弥陀仏から驚くべきお墨付きをいただくのです。
法蔵菩薩は仏土として取ったこの穢土を浄める行として、四十八願を建てられたのです。さきに「清浄に無量の妙土を荘厳すべし」とあったのは、一人の衆生に一つの国がありますから、数限りない衆生の一つ一つの国をりっぱに成就して行くことです。阿弥陀仏の国は、衆生によって成り立っていますから、その中に住んでいる衆生の生活がりっぱになり、一人ひとりの国がりっぱにならねば、阿弥陀の浄土はりっぱになりません。阿弥陀の浄土は、死後の世界ではありません。皆この世です。経には法蔵菩薩は「我れ世において速かに正覚を成就したい」といっており、親鸞聖人も「法蔵菩薩はシャバの世界の王なり」といっておられます。ただこの世という意味が、私たちの使っているのと違っています。
<中略>
一般にいわれている世界は、その人その人の、ものの見方とか、ものの感じ方という、主観的なものですが、私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。具体的に申しますと、私が二十二の時、腸出血六回という、重い腸チフスをしたことがあります。その回復期に、私は第一の宗教体験をしたのですが、それから一週間位たって、この世は重々無尽の世界であることをさとりました。
たとえば私を中心とすれば、そこに父があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界ががらっと変る。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。在り方の関係が変るだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変る。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の国の住人である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の国の住民である。私の国が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の国が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それはその人が、周囲の人の胸にどう映っているかという所に現われている。何とこの世は不思議な世界だなあ。しかし何と厳粛な世界であろうか。ははあ、仏教で一仏一土、一つの国に二仏並び出ずというがこのことか。この世はお釈迦さまの世界で、無勝国土という。このシャバ世界には、仏はお釈迦さまだけであるというが、解釈の間違いである。お釈迦さまを中心とすれば、この世はお釈迦さまの世界であるが、私を中心とすれば、この世は私の世界である。これは責任重大だぞと思いました。病気は奇跡的に治りました。これからの命は貰いものである。粗末にしてはならん。さあどう生きたらよいか。その時から私の求道は地についたものになったのです。私が一人の人には一つの世界があるというのは、そういうことです。この発見があったから、後にこの「修行して仏土を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし」という経が読めたのです。
{無三悪趣の願} 参照
浄土教以前の教えでは、ややもすると「諸行無常の世間を捨てたところに覚りがある」という観念に執われ、人間社会の出来事に真剣に取り組まない傾向も見受けられました。世間を離れて覚りはない≠ニ、これを正し始めたのが大乗経典であり、その成果が『華厳経』に実を結ぶのですが、浄土経典によっていよいよ「如来回向」の歴史的経緯と、社会創造の方法までもが明記されたのです。
(参照:{浄土理解の相違点})
名と利に 世にすむ人のなさけなや 人に使われ財に使われ
前節で経典(仏説無量寿経・往覲偈)等に示された「自分の国」を紹介しましたので、本質論としては理解していただけたと思いますが、実践論として現実に「自分の国」を見出すにはどうしたら良いのでしょう。またそれが実生活にどういう影響を与えるのでしょう。
たとえば、「自分の国」を見出すにはまず、「自分が主体的に生きる」こと。
他人の評価や点数や金銭など、他者の価値基準を鵜呑みにしたり、それらの奴隷になっている人がいますが、これを仏教では「畜生」といい三悪道の一つに数えています。他者の意見や教えは参考にするに留め、まずは「自らを依りどころとする」こと。自分が信じられないような人間は、どんなに境遇が恵まれていても、その人生は虚しいだけです。「自灯明」は自分の人生を生きる基軸となります。
またこれは、全ての場において自分がその場の王として考え、王として発言し、王として行動することでもあります。奴隷根性で他者や欲望や理論に従ったり、野次馬根性で文句を言ったり、個人的利益に固執して言い訳ばかりするような幼稚な精神からは早く脱却しなければなりません。そうした作業を経た上で、再度周囲との関係を冷静に観察してみましょう。
次に必要なのは、「決めた道を一度、自分の限界までやり遂げようとする」こと。
生きる基軸である自分を知るためには、どうしても、言い訳できない場(特に得意分野)で、今の自分の限界まで力を出し切る必要があります。恥を恐れ、余裕を見せるために精一杯の力を示さず、妥協ばかりしている人には自分の国を見出すことは困難です。なぜなら、自分の国は自分の意識している範疇に留まってはいないからです。この意識的範疇(自力)を超え、存在の背後にある自分の国を見つけるためには、どうしても今の自分の限界を見極める必要があるのです。
そして最後に、この「主体的にやり遂げた内容をじっくり観察し、受け入れ、そして観察している自分に気付く」ことです。
せっかく限界までやり遂げてみたのですから、ここでも言い訳などせず、ここで為したことのどんな詳細に到るまで、あらゆる結果が自分の責任である≠ニ、明らかに勇気を持って受け入れるのです。ああすれば良かった、こうすれば良かった、私はもっとできたはずだ、などという言い訳は吐かず、「こうなる全ての原因を背負った自分」、「これ以上はできない自分」、そして「これ以下のこともできない自分」、を見出すのです。さらには同時に、自分を見出そうとしている「今の自分」にも気付いておかねばなりません。仏教に
以上のことを経れば、単に「自分自身」と曖昧に語られていたものが、「自分の国」として広く具体的な姿として開かれますので、肝心な「内容」が見えくるはずです。他人や自分に言い訳ばかりしているうちは、自分が自分の国の主になることはできませんので、自分の国は自覚できず、あって無きが如し状態に留まっています。
また、もう一つ一般的な例を挙げてみますと、例えば――誰しも上手に嘘をついてその場をやり過ごす経験があるかと思います。
嘘が発覚しなければ対外的には儲けたと思っているでしょう。しかしこの時、自分の国では地盤が一斉に崩れ、痩せ、後にどんな立派な建物を建てても砂上の楼閣で長く保つことはできなくなります。「自分の国」の状態に敏感でなければ、この乱れた国土からあらゆる凶悪な出来事が次々発生することになります。例えば「あの人はここ≠ニ指摘はできないが、何となく冷たい」とか「不誠実で信用できない」、「長く一緒に居ると嫌な気分になる」等の噂が立ち、人は去り、やがて人相まで悪くなってしまいます。逆に誠実に自分を成就させていこうとすれば顔が輝き、三十二大人相者となることも夢ではなくなります。
(参照:{具足諸相の願}、 {ロン毛で茶髪の青年僧について「#姿形が大切」})
ですから、まず「自分の国」を発見し、正直に様々なインフラを整備しなければなりません。
正直であることが清浄の基本です。この清浄の地盤の上に輝かしい楼閣を次々と建っていくこと、これが自分の国を成就させるということなのです。
<もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん>とは、自分のそんな願いを代弁し、励ましまで頂いたお言葉なのです。
このように自分の国を成就させていれば、自分がどんな環境に飛び込んでも「自分の国」の実績(徳)が自ずと働きをみせてくれるようになり、物事は発展的に運び、失敗も生かされ、家庭も整います。特に家庭は小さな社会環境ですから、自分の国の状態がよく現れます。この家庭環境が整えば、やがて地域社会にまで影響を与え、
(参照:{家柄に込められた先祖の真心})
そのときに世尊、しかも頌を説きてのたまはく、
「東方の諸仏の国、その数恒沙のごとし。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
南・西・北・四維・上・下〔の仏国〕、またまたしかなり。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華・
宝香・無価の衣を齎つて、無量覚を供養したてまつる。
咸然として天の楽を奏し、和雅の音を暢発して、
最勝の尊を歌歎して、無量覚を供養したてまつる、
〈神通と慧とを究達して、深法門に遊入し、
功徳蔵を具足して、妙智、等倫なし。
慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ〉と。
恭敬して繞ること三ゾウして、無上尊を稽首したてまつる。
かの厳浄の土の微妙にして思議しがたきを見て、
よりて無上心を発して、わが国もまたしからんと願ず。
時に応じて無量尊、容を動かし欣笑を発したまひ、
口より無数の光を出して、あまねく十方国を照らしたまふ。
光を回らして身を囲繞すること、三ゾウして頂より入る。
一切の天人衆、踊躍してみな歓喜す。
大士観世音、服を整へ稽首して問うて、
仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑みたまふや。やや、しかなり、願は
くは意を説きたまへ〉と。
〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。
諸仏は菩薩に告げて、安養仏を覲せしむ、
〈法を聞きて楽ひて受行して、疾く清浄の処を得よ。
かの厳浄の国に至らば、すなはちすみやかに神通を得、
かならず無量尊において、記を受けて等覚を成らん。
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。
菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍じ、
恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。
もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
キョウ慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。
声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。
たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごと
し。
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
たとひ一切の人、具足してみな道を得、
浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、
力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。
仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る。
寿命はなはだ得がたく、仏世また値ひがたし。
人信慧あること難し。もし〔法を〕聞かば精進して求めよ。
法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、
すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。
たとひ世界に満てらん火をもかならず過ぎて、要めて法を聞かば、
かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流れを済ふべし〉」と。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈 27
意訳▼(現代語版 より)
そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、その国々の菩薩たちは、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見る。
南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花とかぐわしい香と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養したてまつる。
みなともに美しい音楽を奏で、みやびやかな音色を響かせ、すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
「実にみ仏は神通力と智慧をきわめ尽し、深い教えの門に入り、すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます」 と。
うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏してこの上なく尊いこの仏を礼拝したてまつる。
その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う。
そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
そこで観世音菩薩は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。
どうぞ、そのお心をお説きください」 と。
仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。
これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」
仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧めになる。
「この仏の教えを聞き、求めて修行し、速やかに清らかな世界を得るがよい。
無量寿仏の清らかな国に往ったなら、すぐさま神通力を得て、無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。
そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
もし人が功徳を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
清らかに戒を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
以前に仏を仰ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。
おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
過去世に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。
ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。
そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。
その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。
もし教えを聞くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。
教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそわたしのまことの善き友である。
だからさとりを求める心を起すがよい。
たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」 と。
私が本気で仏教を聞きだした十七、八の頃には、講師は「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を観むる」と、自力の禅宗も他力の念仏も、道は違ってもさとりは一つと説き、村人もそれに同調して、仏教もキリスト教も、宗教は皆究極の真理は一つであるといっていた。
しかし宗教を求める動機が違い、道が違えば、さとりも違う。
原始仏教が問題にしたことは、生死からの解脱、苦悩の解決で、その道は迷いを転じて「涅槃」の「悟り」を開くことである。その人は煩悩を断って、自己の独立を成し遂げた「アラカン」である。
初期の大乗仏教は、この世は形ある滅びて行く仮の世界であるとして、永遠に滅びることのない「法性真如」の世界を求めて「智慧と慈悲」を兼ね備えた「仏」を「覚り」とした。
後期の大乗仏教の『華厳経』は、人生が苦であろうが、無常であろうが、私たち人間にとってはさらに問題ではない。人間は未完成である。人間自身を完成することこそ一大事である。その完成の道は「人は人によって初めて人になる」と、五十三人の師に育てられて、「智慧と徳」を成就した「仏」になることを説いている。
親鸞が真実の宗教と称えた浄土教の『大無量寿経』は、さらに一歩を進めて、人間完成の道は人によるだけではない。「人は環境の産物である」と、自分がそこに置かれている歴史的現実に立って、主体的人間と環境を創造して止まぬ「無量寿国」の土徳の「四十八の願力」に乗じて、創造的世界の創造的前衛である「不退転の菩薩」となることを説いている。
これを見ても求道の動機が何であるかが、如何に大切か解るであろう。
島田幸昭 著 [仏教のさとり(八葉通信4号)]より