還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 14

仏のすがた(仏の三身)

【浄土真宗の教え】
『大般涅槃経』/ 『金光明経』第三・三身品/ 『唯信鈔文意』4 等

 仏のすがた

「仏の身はさとりであるから、永遠の存在であってこわれることがない。
智慧よりなる堅固な身であるから、恐れもなく、病も泣く永遠不変である。
だから仏は永遠に滅びない。さとりが滅びない限り、滅びることはない。
このさとりが智慧の光となって現れ、この光が人々をさとらせ、仏の国に生まれさせる」

「月が隠れると人々は月が沈んだといい、月が現れると、人々は月が出たという。けれども月は常に住して出没することがない。
仏もそのように、常に住して生滅しないのであるが、人々を教えるために生滅を示す」

「仏がこの世に現れたことも、又かくれたことも、因縁を離れてあるのではない。人々を救うにに良い時が來ればこの世に現れ、その因縁が尽きればこの世から隠れる。
仏に生滅の相があっても、まことに生滅することはない。
この道理を知って、仏の示す生滅と、すべての移り変わりに驚かず,悲しまず、まことの悟りを開いてこの上ない智慧を得なければならない」

『大般涅槃経』

 仏の三身 「法身・報身・応身」

  1. 法身の仏とは法そのものを身とするものである。この世のありのままの道理と、それをさとる智慧とが一つになったものである。
    法そのものが仏であるから、色もなく、形もない。色も形もないから、来るところもなく、去るところもない。来るところも去るところもないから満ち満ちて大空のようにすべてのものの上に行き渡っている。
    人が思うからあるのではない。人が忘れるから無いのではない。喜ぶときに来るのでもなく、人の怠るときに去るのでもない。仏そのものは、人々の心の動きを超越して存在する。

  2. 報身の仏とは、形のない法身の仏が、人々の苦しみを救うために形をあらわし、願を起こし、行を積み、名を示し導き救う仏である。
    この仏は大悲をもととし、いろいろな手だてで限りなく人々を救い、すべてのものを焼き払うように、衆生の煩悩の薪を焼き払い、ちりを吹き払う大風のように、衆生の悩みのちりを吹き払う。

  3. 応身の仏とは仏の救いを完成するために、衆生の性質に応じてこの世に姿をあらわし、誕生し、出家し、成道し、さまざまの手段をめぐらして衆生を導き、老いと病と死を示して人々を戒める仏である。

『金光明経』第三・三身品

 浄土真宗の阿弥陀さま

 ご本尊の阿弥陀如来は方便法身(真実報身)として、『仏説観無量寿経』正宗分・定善・華座観に説かれる<住立空中尊>とされ、等足空中立像として、正面を向き、衆生に寄り添って念仏するすべての衆生を救いとってやまないお姿である。

法性法身
さとりそのものである法性真如を本身とする仏身で、あらゆる限定を超え、衆生の認識を超越した存在。
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」『唯信鈔文意』

方便法身
「この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり」『唯信鈔文意』

すなはち絶対的な法性法身がかたちを示し、阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめる姿を方便法身という。

[釈勝榮/門徒推進委員]

 編集註

 なお、方便法身と真実報身の違いは {法身と報身の違い} に掲載してあります。
 また以下も参考にして下さい。
 {釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル) }
 {阿弥陀如来像(仏像・絵像)は偶像か?}
 {ご本尊の形態について}― 名号・絵像・木像の違い ―
 {ふたたび本尊について}― 仏像に刻まれた深い願い ―
 {結局、本尊とは何か?}― 法性法身と方便法身の関係 ―
 {仏・菩薩の必要性}― 大乗仏教の本質として ―

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