平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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現在、私は仏教について哲学的側面から見ている部分が多いのですが、 その場合「仏・菩薩」と呼ばれている存在について、その必要性が良くわからないのです。
経典の中で述べられていることは多くの点で非常に論理的で、 信心抜きにしても(失礼)哲学的に参考になるのですが、 それが何故「阿弥陀仏」や「無量寿仏」という、半ば擬人化された上位存在のようなもので語られなければならないのか、いまいち良くわかりません。
これはいわゆる「方便」というものなのでしょうか?
そもそも私たちが「仏・菩薩」というものに対して、一般的に「何か凄い上位存在」と感じていることが間違いだったりするのでしょうか。
ご指摘の通り、仏教には高度な論理性・哲学性があり、これはこの教えの魅力の一側面を表しています。しかし側面は側面。本質そのものではありません。論理の積み重ねや哲学的追求のみでは、仏教の目標である成仏を果たすことはできまないのです。
如来の真実義を解するためには、「義に依りて語に依らざるべし」と言われます。このことは、たとえば、月をさしている指に譬えることができます。
人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。
『大智度論』より
意訳▼(現代語版 :『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本)【71】聖道釈・二門通塞 より)
人が月を指さして教えようとすつときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。
その人は《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。
論理や哲学はこの指にあたるもので、いくら論理の整合性や哲学の深化を追求しても、如来の真意を解すことはできません。経典で論理や哲学を駆使して示すのは、論理や哲学を超えた覚りの境地や、覚りの側から開かれる道なのです。論理や哲学の側から開かれる道ではありません。
経典は、覚りに至った仏が、振り返って、覚りに至っていない人やその方向を知らない人、もしくは覚りという境地があることすら知らない人に向かって言葉が発せられているのです。つまり、理論や感情の中で迷っている私達のために、覚りの側からアプローチされたものが仏説なのであり、私達の状態にあわせて様々な方法(方便)を用いながら確実に成仏できる道を示されているのです。
この様々な方法の中には、迷っている人の常識に合わせた説き方をされている部分もあれば、覚りそのものの本質を顕した部分もあります。前者は割と理解しやすいのですが、後者は理解することは難しく、領解が不十分だと外道の教えと混同する危険もあります。このような誤解は「インテリ」と呼ばれている人たちでさえ例外ではなく、むしろ学問が邪魔をする場合さえあります。学問は大切なのですが、自ら道を求めることのない勉強は時として雑音になります。
覚りは常に私達の迷いを打ち破るはたらきとして存在しているのであり、これは深い無明を照らす如来の光明として顕します。ここにおいて仏が存在を示すのです。
仏・菩薩の存在ということも、無相・有相にかかわらず固定的実体としてとらえてしまうと外道の教えに堕してしまいます。しかし、<覚りの側からの呼びかけ>と知り、しかも<私たちのために急務として用いている働きである>ということを、深い懺悔として味わっていければ、仏が私たちに成り切って覚りの功徳を顕すことができるのです。
文字や相は仏の本質ではありませんが、文字や相が顕れないのは仏として完全ではありません。なぜなら、仏を念じず仏の功徳を讃えることなく成仏する道は、私達には難しくて歩み尽くせないからです。私達を無視するような仏は、仏としての本懐を遂げているとはいえないでしょう。
もっとはっきり言えば、方便として相を顕わそうとしないような法性に引きこもったままの仏など、そもそも存在しているとは言えないのです。また、生身の衆生の中で働こうとしない仏など、実際には「絵に書いた餅」のような存在です。このような仏を想定して、これにとらわれている限り、私達は仏をみることはできません。
真の仏は、形を超えた覚り(真)が、言葉や形として現われ(実)、私に働き身に満ちた主体(誠)として存在しているのです。こうして至り届いた仏心は、如来から回向された菩提心ですから、信心の正体は「真実誠満の心」であるということができます。こうした「実」のことを「方便」といいますから、ご質問の<これはいわゆる「方便」というものなのでしょうか?>と言われた「いわゆる」の意味が同じであれば、一応は「その通りです」とお答えさせていただきます。ただし如来は、方便のみではなく、真と実と誠が一体となっていますので、一面のみ知って仏の全体とすると誤解が生じます。
以上のことからも分かりますように、私達は仏を敬いながら仏意を尊び、相や文字そのものに執着しなければ、仏を念じることは成仏に最も適した行となります。
【35】『浄土五会念仏略法事儀讃』にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもつて、焉に仏、願力を事として衆生を度したまふ。乃至 如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。乃至
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文より
意訳▼(現代語版より)
『五会法事讃』にいわれている。
「そもそも、如来が教えを説かれるときには、その相手に応じて、詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。それは、まことのさとりにたどりつかせるためであり、不生不滅の真実のさとりを得たものに、これらの教えを与える必要はない。この念仏三昧は、真実でこの上なく奥深い法門である。阿弥陀仏の四十八願成就の名号をもって、その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。(中略)さて、如来は常に三昧の中にあって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。・・・」
したがって、最初は「阿弥陀仏」や「無量寿仏」を「半ば擬人化された上位存在のようなもの」としてとらえがちですが、如来の本願を聞き開くうちに、対象としてではなく、<私の中で、私とともに歩んで下さる如来である>と味わえるようになるでしょう。具体的には、私の身心の底深い闇の中で、名のり叫び続けてみえる働きに気づくことができたら(機)、それが「南無」と働く仏の正体なのです。この存在は同時に一切衆生を仏に導く誓願も背負ってみえますので、これを「阿弥陀・無量寿」等の名で表し(法)、機と法が一体となり「南無阿弥陀仏」の声となって顕れる、ということも実感できることでしょう。「阿弥陀仏は名詞であり動詞でもある」と言われる理由もここにあります。
つまり「我が身の浅ましさ」に深く懺悔する時、その懺悔こそが如来のはたらきなのです。なぜなら私達には深い懺悔などできる道理がないからです。そして、「懺悔したから成仏に導く」のではなく、懺悔そのものが如来なのです。この懺悔から始まる菩薩行が私達の課題となります。
({作礼致敬の願} 参照)
また、大乗仏教では、「声聞・縁覚の二乗に堕ちることを避ける」ということが大きなテーマとなっています。そのためにも仏(固定的実体ではなく)を念じることは大切な行なのです。これは{法無我と仏の存在は矛盾する?} に詳しく書いてありますので、参考にして下さい。
仏を念じるということは、仏徳を念じ称えることであり、それは仏の願いとその成就を学ぶことによって適います。しかし、「仏は無上の存在だから、仏としての成就が果たされれば願行は必要なくなってしまうのではないか」という疑念が私達の側で生じます。この私の疑いを破くために仏は菩薩となって行をやり直すのです。つまり一切衆生の成仏を願う初心を菩薩の願いとして「因」で顕し、成就した願いをもって今も私達とともに歩んでみえる姿勢を「果」として明らかにしてみえるのです。
この因果を示す最も代表的な仏と菩薩が「阿弥陀仏」と「法蔵菩薩」の関係で、衆生済度の願いが成就しなければ正覚を取らない、という菩薩の願いは、本質のところは仏の願いであり、私達に回向された信心(金剛の菩提心)の正体でもあります。具体的には{浄土真宗の教え} の「ご本願を味わう 四十八願の詳細」に連載してありますので一度御覧下さい。
さらに、一切衆生の済度が成就した浄土の功徳を示すために「観世音菩薩」や「勢至菩薩」などの姿を示し、浄土が人々にはたらく慈悲と智慧のはたらきを明らかにしていきます。
以上は質問の意に添ってお応えしましたが、もともと「菩薩」は、成仏を目指す行者のことを指し、大乗仏教では「上求菩提・下化衆生」といいまして、覚りをを求めつつ衆生を教化する自利利他の行をする人のことをいいます。ですから、本来的に言えば仏教徒はすべて菩薩でありましょう。また大乗仏教的に言えば、自利のみに固執しない求道者が菩薩であり、修行段階に応じて51段の位を設けたり、「退転の菩薩」と「不退転の菩薩」に分けたりするのです。
({五十二位と、親鸞聖人・蓮如上人の教学の違い} 参照)
なお、「実践のない理解は邪見を増長する」といいます。実践の基本は「信」です。『涅槃経』には「信あって解なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信と解とまどかにそなわってこそ行のもととなる」とあります。
自らの努力を誇らず、如来のはたらきにによって我執が崩れるとき、学びと実践が如来の菩提心に順じ、成仏への扉が開くことになります。逆に、無明・邪見は人生を狂わす元です。ぜひ信と解をそなえて苦難の人生を歩んでいただきたいと思います。
【65】しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 信一念釈 より
▼意訳(現代語版より)
ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末 を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至 」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は[ 二心 がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなはち清らかな報土に生まれるまことの因である。[
金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに五悪趣 ・[ 八難処 という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を越え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。[