還浄された御門徒様の学び跡 |
「原始仏教者が念仏して自身を観、人生を観じている間に、寿命無量を感じ光明無量を感じ、ついには本願を感じたのではないか。然れば本願を感得したのは念仏である。
しかし本願を感得した念仏は、一転してそれ自身を本願の中に見出したのである。
南無阿弥陀仏の念仏こそ本願力回向の念仏であり、大悲の本願の中に南無阿弥陀仏の道を見出すことである」 (金子大榮師)
大経の発起序には次のように説かれています。
唯念大聖 我心念言 今日世尊 住奇独法 今日世雄 住佛所住 今日世眼 住導師行 今日世英 住最勝道 今日天尊 行如来徳 去来現佛 佛々想念 得無今佛 念所佛耶
『仏説無量寿経』 巻上 序分 発起序 出世本懐【3】
現代語訳
「そうです、世尊、わたしが思いますには、世尊は、今日世の中でもっとも尊いものとして、とくにすぐれた禅定に入っておいでになります。また煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄雄しいものとして、佛のさとりの世界そのものに入っておいでになります。また迷いの世界を照らす智慧の眼として人々を導く徳をそなえておいでになります。また世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。過去・現在・未来の佛がたは互いに念じあわれるということでありますが、いま世尊もまた仏がたを念じておいでになるに違いありません」
早島鏡正先生によれば、
「去来現佛 佛々想念」されるとは、梵本には《過去・未来・現在の諸々の如来・応供・正等覚者を等随観しておられる》とあり、《等随観する》とは、《繰り返し繰り返し観察する》ことで、《三世の諸仏を佛住という禅定の中で繰り返し正法の世界を憶念する》ことである。すなはち、三世の諸仏がそれによって佛となられた正法の世界に入り、諸仏のこころをこころとする確信を得る」ことだと言われています。
無量寿経には
「《乃往過去久遠無量》のはるかな昔、過去五十三の如来が出現され、そして法蔵菩薩が五劫、十劫のむかし四十八の願を世自在王如来の前で誓われ、いますでに願いを成就され、無量寿佛として、今現に西方においでになる」とあります。
無量寿・無量光のほとけ、阿弥陀仏。
原始念仏者が禅定という境地の中で感得した念仏・本願。
そして過去佛としての原始念仏者。(このようにいってよいかわからぬが)
不可思議無央数劫の昔より変わらない真理・真如・法・正法・仏法・念仏。
「大行とは佛の御名を称することなり。この行はあらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえ、すみやかに衆生に功徳を円満させる真如一実の功徳が満ちた法である。ゆえに大行となづく」と言いきられた親鸞聖人。
曽我量深先生は次のように言われています。
「つまり仏教三千年の歴史は『大無量寿経』流伝の歴史である。念仏の歴史の中に『大無量寿経』というものが段々完成してきたのである。
『大無量寿経』というものは、念仏の歴史、念仏のほうが『大無量寿経』よりも根本的である。
はじめに『名号』があった。
すなはち『大無量寿経』に先立って『名号』があった。
さうして本願があって『大無量寿経』があった」
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて…」歎異抄第一条にはこのように書き出だされています。その誓願に揺さぶり動かされてほとばしりでる念仏は、わが声にしてわが声にあらずといえましょう。
大峯 顕先生は著書(教学シリーズbT「今日の宗教の可能性」本願寺)で次
のように言われています。
「誓願の不思議を信ずることと、名号の不思議を信ずることとは別じゃない。なぜなら阿弥陀仏が十方の衆生を救うということは、なにによって救おうというのかというと、名号によって救おうとした。南無阿弥陀仏の名号によって救おうとした、それが本願です。本願というものの実体です。いったい、本願といっても、それは名号というものを介さないことには私たちにつながる道はありません。阿弥陀さんの本願というような形もないものにどっちを向いてつながるのか。つながることはできはしません。
本願のことを心でいろいろ考えたから、我々はそれにつながるというようなことではないのです。我々はもっと具体的なものによってつながるのです。
具体的なものとはなにかというと、南無阿弥陀仏をとなえるということです。わたしの口をついて出るところの称名念仏、それは私の言葉ではなくて、仏の言葉です。仏が言葉になってわたしの口のところにきている。…」
「南無阿弥陀仏というのは、仏自身が自分を言っている言葉なのです。その仏の名乗りが、私に反響しているのを南無阿弥陀仏の称名といいます。私の方からいくら呼んだところで、仏さんにはとどきません。名号は仏の方から私を呼んでいる言葉なのです。
『はじめに言葉ありき』 ヨハネ福音書
『はじめに名号があった』 金子大榮師
ここでは言葉は、人の生活の道具ではなく、人間の思惟の境界を超える深い神秘、智慧の深淵に私たちを包みこんでいまます」
まだむつかしいが、お念仏のおいわれがおぼろげながらわかるような気がしている
中村 元「原始仏教」
奈良康明「釈尊との対話」
仏の功徳と名号の関係について、少し補足引用します。
律宗の用欽 元照の弟子なり のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。以上
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文【57】
意訳▼
律宗の用欽がいっている。
「今もし、弥陀一仏の尊い名号を心に念じ口に称えれば、その仏の因位から果位に至るまでの無量の功徳がこの身にすべてそなわるのである」
法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。以上
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文【60】
意訳▼
法相宗の祖師、法位が『大経義疏』にいっている。
「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号を称えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」
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