平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
丁寧なお返事感謝有難う御座いました。まだ少し質問がありますので宜しければお願い致します。
02_08_18.html
>>>親鸞聖人の示された本尊は、聖道門的な浄土教の究極『真身観』でさえ仮の姿としてとらえられ、また「九品の浄土におわす」とされる阿弥陀仏も姿に差別があり方便化身で真実ではなく、ただ「善悪・賢愚のへだてなく救う」と誓われた本願力を信じせしめるはたらきのみを真実とみられました。そのため名号、特に十字名号を重視されていましたが、浄土真宗も歴史を重ねる中、信徒や寺院が増え、絵像や木像が必要となってきました
>> 方便であるはずの文字や絵をなぜ本山から下付されたものを用いねばならないのでしょうか?
> これには二つ理由があります。
「方便であるはずの文字や絵」だからこそ、我流の絵像や名号は避けるべきでしょう。
本山から下付される名号や絵像は、教えに適った形(摂取不捨の相)をもとに、手間をかけ、きちんとした作業で作られていますので、まずは安心してお勧めできるのです。
これは少し驚きました。「教え(経典)に適った形(摂取不捨の相)だから<働き>がある」
しかし「個人で作ったものでは<働き>が無い」とお考えですか?
>もうひとつは、経済的な理由です。
法を施する組織として教団があり、その中心に本山があります。歴史的に実に多くの法施と布施の営みがあり、その流れの中で私たちが法を味わうことができているのです。そして今、名号や絵像の問題を語り合うことができるのです。こうした流れを自分のところで断ち切らないようにすることも、念仏者の勤めではないでしょうか。
気持ちはわかりますが、教団維持のため(経済的な理由)であれば
信者に対してお布施はお布施としてお願いすべきものであって、
本末転倒ではないでしょうか?
>> (自分で書いたり、何も無しでただ念仏する(他力に任せた生活を行う)のでは何か問題があるのでしょうか?)
>>「本質は自己のはからいを捨てさせ絶対他力の境地(無我)へと導く<働き>であるけれど、なかなか理解が及ばぬ庶民のための方便として名号(文字)や絵、像を仮に用いる」ということだと理解しました。>「自己のはからいを捨て去る」ことは、逆に求道心が無限の根を持つことを意味します。「なかなか理解が及ばぬ庶民のため」どころか、あらゆる聖人も俗人も智慧のある者も無い者も、そして私自身にも、無限に理解を深める最高の術として名号や仏像が与えられている、ということを味わって頂きたいと思います。
ここはよくわかりませんが、仏像によって、どう理解を深めることができるのですか?
>「自分で書いたり、何も無しでただ念仏する」というのでは広がりがもてません。
ここは「一人だけで閉じて行う」という意味に誤解されているようですが、
「佛教について正しく語り広め、方便を正しく生かしていくこと」
が重要であって
「特定の形態や製法の像や文字に拘る必要は無いのでは?」という主旨です。
また上座部佛教のように「全ての後代の教え(当然、念仏も含む)を邪教だ」
として退けるのでは狭すぎると思いますが、
「特定の本尊と念仏の組み合わせのみが正しい方便である
と主張するとしたら、それも狭い考え方ではないか?」
と思われましたので質問致しましたが、如何なものでしょうか。
〉 これは少し驚きました。「教え(経典)に適った形(摂取不捨の相)だから<働き>がある」
〉 しかし「個人で作ったものでは<働き>が無い」とお考えですか?
真宗教団でも、初期の頃は各地で様々に独自の本尊を造っていましたが、この統一を計るとともに、教学における迷信性、特に<善知識だのみ>の打破に熱心に取り組まれたのが蓮如上人でした。これによって教団が爆発的に拡大するとともに、本尊を下付する制度が浸透し、結果として中央集権的な体質になっていきました。
ご質問の真意は、おそらくこの体制・体質に疑問があるのでしょう。
しかし、個人で本尊を作るということは、かなりの仏教理解と技量が問われます。そして実際に本尊製作に携わるのは、実際の歴史をふまえてご縁をいただけばよろしいかと思います。
例えば、私自身について言えば、傲慢な思い込みかも知れませんが、仏画を描く技量的な問題には充分応え得る長年の経験があります。また、教学についても、基礎的な問題については、ある程度お応えできる勉強がしてあります。しかし個人的に絵像を描いてそれを本尊として拝んだり、人に与えたりはしていません。おそらく一生しないと思います。
前回述べましたことは、<個人で作った本尊や市販の本尊には、教えに適った形になっていないものがある>という事実をふまえてお話させていただきました。その上、本尊を、仏壇を買った時の「おまけ」や商品のひとつのように扱っている現状があり、実に嘆かわしく思います。
十字や九字(八字)・六字の名号本尊は、親鸞聖人のお示しも残っていて、本尊として間違いの無い形ですが、絵像や木像の形像本尊であれば、[釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル)] にありますように、三十二相を具える必要があります。
さらに申しますと、ご本尊には、<摂取不捨のはたらきを形に現わして衆生に礼拝せしむる>ということ等が求められるのです。厳密には、「正確に形が現わされていなければ、助業として礼拝すべき本尊のはたらきは無い」となりますが、そこまで言い切るつもりはありません。
しかし、とにもかくにも皆さまに「拝みたい」という欲求を起こさしめるご本尊を安置していただきたい。そのためには、本尊を製作するための研鑚を怠らない人によってつくっていただきたいのです。もちろん、本山以外でも、本山と同じくらいの自覚をもって研鑚してみえる方がいればそこで製作されることは構わないでしょう。
しかし単なる商品やおまけとして扱うような購入の仕方はしてほしくない。物としての本尊の出来具合も問題なのですが、本尊をいただく心がまず問題になる、と思うのですが、いかがでしょうか。
〉 気持ちはわかりますが、教団維持のため(経済的な理由)であれば
〉 信者に対してお布施はお布施としてお願いすべきものであって、
〉 本末転倒ではないでしょうか?
他宗教・他宗旨の中には、全信者から収入の一定の割合を布施(献金)として集めているところもあるようですが、本願寺派はそこまでの中央集権体制にはなっていません。
ですから、本山へのお布施は、様々な法縁に積極的に参画する中で供していただきたいと思います。ご本尊の下付もそのひとつでしょう。例えば、蓮如上人は十字名号や六字名号をたくさん書かれ、全国の信徒に下付されました。本山から本尊を受けることは、この歴史を受け継いでいるのです。
強制はしませんし、本山製作以外の本尊でも立派な形像を持つものもあります。ですからを他を否定するつもりは毛頭ありませんが、私たちの教団が、人々に法縁を深めるために一生懸命していることですから、「ぜひ本山でお受け下さい」と、お勧めしているのです。
長い歴史の中で、本山はご門徒さんたちの多大な熱意によって支えられてきました。代々供せられた有形無形の報謝・布施は、さらなる法施として転じ、仏教文化としても大きな成果をあげて現在の本山があるのです。
〉 ここはよくわかりませんが、仏像によって、どう理解を深めることができるのですか?
色も形もない「この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて」<尽十方無碍光如来>と名のられた――この如来の真意を聞き開いていくことが、念仏者の大きな勤めですが、<如来の本願が仏の名号となって私たちに与えられ、称えしめられる>ということを味わう中で、教学を分析的・理性的面だけで追求すると先細りになってしまいます。経典が法蔵菩薩の物語として書かれた意義を考えると、現実における感受性・直観力を豊かにしておくことも必要でしょう。念仏がそうした面もはぐくむ、ということはよく見聞きするところですが、仏像は大いにその助けとなっていると思います。
仏教は文化としても勝れた面を持ち、伝統はそれに磨きをかけてきました。仏像や声明の奥深い世界を見聞きしたり、浄土荘厳に渾身で勤める姿は人々に感動を呼びます。そうした心を尽くした荘厳の中で聞く法話や話し合いでは、まさに浄土の徳に護られ、心の底の底までさらけ出して参じることができます。
さらに、「帰命尽十方無碍光如来」と拝む中で、普遍的な衆生済度のはたらきは言い尽くされているようですが、身放の光明(光明無量の願 参照)についての表現は、名号で衆生に示すにはやや難解な気がします。
仏教は人間の上に真の人格を形成し、人生成就の花を咲かせるよう導く教えです。現実の私たちに、仏徳讃嘆を為さしめるためには、やはり人格的表現の仏像でしか示し得ないところも多々あるのではないでしょうか。教学の積み重ねに魅せられる人もいれば、釈尊や親鸞聖人の人格に魅せられる人も多いはずです。
これは私ごとになりますが、学生の頃、仏教理解が不十分で、何かと反発をおぼえた時期がありました。しかしその時でも、仏像の持つ暖かい人格性や、懐の深さにはいつも魅了されていて、そのため仏教そのものへの反発を憶えたことはありませんでした。私の他にも、仏像の魅力から仏教に導かれた人も多いでしょう。
さらにそうした時期、本山に参詣した折、休憩所で休むあるご門徒さんの顔を見た途端に「うーん」と唸ってしまったことがありました。実に<本当の人間の顔がここにある>と思ったのです。そして、<こうした顔を作り出す教えとはどういうものなのか>と、真剣に法を聞くきっかけを与えて下さいました。後に「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ」という如来の本願第二十一願を読んだ時、このことを思い出しましたが、念仏のある環境の中では、仏像や人間の一瞬の姿の中に、浄土無限の徳を垣間見ることも可能なのではないでしょうか。
参照: [具足諸相の願]
〉 ここは「一人だけで閉じて行う」という意味に誤解されているようですが、
〉 「佛教について正しく語り広め、方便を正しく生かしていくこと」
〉 が重要であって
〉 「特定の形態や製法の像や文字に拘る必要は無いのでは?」という主旨です。
〉
〉 また上座部佛教のように「全ての後代の教え(当然、念仏も含む)を邪教だ」
〉 として退けるのでは狭すぎると思いますが、
〉 「特定の本尊と念仏の組み合わせのみが正しい方便である
〉 と主張するとしたら、それも狭い考え方ではないか?」
〉 と思われましたので質問致しましたが、如何なものでしょうか。
前回アップしました中で、#ひそかに仏意を推する の章にも書かせていただきましたが、親鸞聖人も、一光三尊の阿弥陀仏像や、木辺の錦織寺にある坐像の阿弥陀仏を礼拝されていたことが伺え、初期の真宗教団は、各地の門徒が独自に本尊を製作していました。
そうした種々相の中から、次第に内容の詳細が検討されて現在のような形像と本尊論が確立されていきました。これは、歴史的に多くのご門徒さんや僧侶たちの味わいの上に確立されたものですから、その重みを尊ぶことは大切なことです。
「特定の形態や製法の像や文字に拘る必要は無いのでは?」ということですが、こだわるというより、仏教の究極の形を模索し続けてきた結果が、現在浄土真宗で採用されている文字であり、形態なのです。
例えば、山に登る時、山裾は広大ですが、登れば登るほど幅は狭くなります。しかしその狭さを嘆く人はいません。努力して登ってきた結果の狭さだからです。仏教は広大無辺な裾野を持ちますが、その広大な底を土台として立ち上る果ての頂上は一点に集約されていきます。
なお、<本山で製作した本尊でなくても良いのではないか>という事については先に述べた通りです。
第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなはち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。名号はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体なり。これを行ずれば西方の往生を得、これを信ずれば無上の極証をうるものなり。
『教行信証大意』より
▼意訳
第二に、真実の行というのは、先の『大無量寿経』で明らかにするところの浄土の行である。これがすなはち南無阿弥陀仏である。これは第十七の諸仏咨嗟の願に顕されている。名号は他の諸々の善法を収め、諸々の徳本をそなえている。つまり様々な仏行の根本であり、すべての善の総合体なのである。念仏を称えれば西方浄土の往生を得て、これを信じれば無上の覚りのしるしを得るのである。
阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。
『御文章』 二帖 9 より
▼意訳(蓮如の手紙/国書刊行会より)
阿弥陀如来は、過去・現在・未来のあまたの仏にとって根本の師であり、その師である仏にお従いするならば、お弟子である他の仏たちがこれを喜ばれないはずがありません。こうしたいわれがあることをよくお心得ください。
そして、南無阿弥陀仏というお念仏の行そのものには、一切のもろもろの神々、仏、菩薩も、そのほかのすべての善い行いや修行も、ことごとくみなこもっています。ですから何の不足があって、もろもろの修行や善い行いに心をとめなければならないのでしょうか。すでに南無阿弥陀仏というお名号は、すべての善い行い、すべての修行の全体なのですから、いよいよたよりになるというものです。
親鸞聖人は「畢竟依を帰命せよ」と詠まれていますが、仏教における畢竟・究極の文字としての本尊は、「十字・九字・六字の三種の名号に集約された」と言っても過言ではありません。漢字圏以外の地域で伝道するためには新たな創作が必要かも知れませんが、私たちにとっては三種の名号は畢竟の尊号となります。なおこれは「浄土真宗の究極」ではなく「仏教の究極」が仏の名号であって、「万善万行の総体」がここに顕われているのです。
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。<中略>この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。円融と申すは、よろづの功徳善根みちみちてかくることなし、自在なるこころなり。無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。真実功徳と申すは名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。
親鸞聖人著 『一念多念証文』より
▼意訳(現代語版より)
総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。<中略>この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無碍の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。
ここで「一乗」というのは、阿弥陀仏の本願のことである。「円融」というのは、すべての功徳や善が満ちみちて、欠けているものがなく、そのはたらきが自在であるという意味である。「無碍」というのは、衆生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、そこなわれないことをいうのである。「真実功徳」というのは、名号のことである。この名号には、一実真如のすぐれた理が欠けることなくそなわっているから、世親菩薩は大宝海にたとえておられるのである。一実真如というのはこの上なくすぐれた大いなる涅槃のことである。涅槃とはすなわち法身である。法身とはすなわち如来である。宝海というのは、どのような衆生も除き捨てることなく、何ものにもさまたげられることなく、何ものも分け隔てることなく、すべてのものを導いてくださることを、大海がどの川の水も分け隔てなく受け入れることにたとえておられるのである。
この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、法蔵菩薩と名乗られて、何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、阿弥陀仏のことを報身如来というのである。この如来を、世親菩薩は尽十方無碍光如来とお名づけ申しあげられたのである。この如来を南無不可思議光仏ともいう。そして、この如来を方便法身というのである。方便というのは、すがたをあらわし、み名を示して、衆生にお知らせくださることをいうのである。すなわちそれが阿弥陀仏なのである。この如来は光明である。光明は智慧である。如来の智慧は光というすがたをとるのである。智慧はまた、すがたにとらわれないから、この如来を不可思議光仏というのである。この如来は、すべての数限りない世界に満ちみちておられるから、無辺光仏という。このようなことから、世親菩薩は尽十方無碍光如来とお名づけ申しあげられたのである。
では、仏教における畢竟の尊像、「万善万行の総体」はどういう形になるか、というと、以前より述べてきた経緯になるのですが、私論として言えば、まだ造形を追及する余地は残っていると思います。
ただし、本尊の役割は、教学と同じで、普遍的な道を現実の時代や地域に広めることですから、「特定の時代や地域だけに通用する」というものでは意味を為しません。そのために長い歴史の中で練りに練り上げた本尊論が必要となります。そうした本尊論を学んだ上で、なおそれを超える本尊論が打ち出せ、信徒の同意が得られるのであれば、ぜひ新たに挑戦してほしいと思うのです。これは皮肉ではなく、畢竟を求める心が言わしめている、とご理解下さい。
独り尊像を拝みながら、静かに五劫思惟のお意を憶う。右手は上求菩提、他の言葉でいえば願作仏心である。左手は下化衆生、それは度衆生心である。この両手をもって南無阿弥陀仏ということを標示しているにちがいない。そうとすれば右手で阿弥陀仏ということを、左手で南無ということを標示しているにちがいない。そうとすれば右手で阿弥陀仏ということを、左手で南無ということを解説しているのではないであろうか。この眼をもって弥陀の本願を説く『大無量寿経』を見れば、その四十八願の中の信心の願には「至心信楽欲生我国」とある。親鸞はこれを「三心の願」とよび、この三心によって、その著『信の巻』に、親鸞独自の心境を明らかにしている。そこには真宗念仏の信は「浄土の大菩提心」であると断じて、善導の『二河の譬え』を例証しながら、この三心を人間進化の三段階であるとしている。即ち凡夫から菩薩へ、退転の菩薩から不退転の菩薩へ、さらに仏位へと、三重の脱皮を遂げながら、本願力に導かれて、転入深化してゆく菩提心の三段階であると説かれている。親鸞自らはこれを「三重の出体」という。この親鸞の教示によっても、左手の三指を、至心と信楽と欲生心の三心を象徴するものと見ることはできないであろうか。
また弥陀の特殊性としての本願成就の内容を尋ねてみれば、そこには弥陀自身と衆生と国土の三種の荘厳が説かれている。これによって、願作仏心をあらわす右手の施無畏印は、自と他と浄土の三厳成就を象徴するものといえぬであろうか。こうみて来るとあの弥陀印を結んでいる仏像全体が、法蔵菩薩の願心成就の南無阿弥陀仏のいわれをあらわしていることになるであろう。このことはまた泥田でなければ開かぬ蓮華の座の上に立っていることでも、了解できるであろう。さきに第二問において不審として提起した、右手の位置が、今の仏像よりも、胸の前で拝んでいる仏像の方が、宗義にぴったりすると思ったことも、あながちに見当ちがいとはいえないのではないであろうか。
こうした浄土の菩提心である法蔵菩薩の願心を象徴したはずの仏像が、なぜ「大悲召喚の像」として説かれるようになったのであろうか。もともと浄土教はその名が示すように、土を浄める教え、すなわち環境社会を浄めることを通して、人間の成就をその願いとした仏教の根本精神を、その本領として来たものであった。しかもそれは自利と利他の人間関係の場においての人間完成を説く大乗仏教を、その内面に向ってさらに深めて生れて来たものであったのが、現実を罪悪視し、この世を厭う出家仏教の影響を受けて、往生浄土教と変化したためではないであろうか。
<中略>
私は朝夕、本尊の前に合掌念仏しながら、足下の仏の座から始めて、仏像の一つ一つの相好を見上げながら、無見の頂相に至るまで、その一つ一つが何をあらわし何を教えているのであろうかと、この仏像を刻んだ仏師の心をおもい、またこういう仏像を最初に作った人の深い願いに、心の耳をすまさずにはおれぬのです。
島田幸昭著 『真宗開眼二十の扉』 第五問 より
(ここから以下は、今後の課題とせねばならない点を、先哲に学びながら述べてみます)
形像本尊は、時代とともに少しずつ形を変えてきました。それは、釈尊の成仏を励みとし、親鸞聖人のお示しに感激しつつ、一切衆生の人生を荘厳する教えを現実に展開するため様々な試行錯誤が為された歴史、と見ることができます。私たちは、先人たちの思いを心静かにたずね、真意を受け継ぎながらも、皆といっしょに新たな一歩をここから踏み出していくべきなのかも知れません。
それゆえ、「方便法身」と「真実報身」が全く同じか否か、ということも議論の余地が残っていると言えるでしょう。
阿弥陀仏の「浄土」は、因位の法蔵菩薩が建てた本願が報いられ、果位において成就した「真実報土」です。それならば阿弥陀仏自身も、因位の法蔵菩薩が建てた本願が報いられ、果位において成就した「真実報身」でなければ浄土の主体とは成り得ないはずです。「方便法身」は単に「法性法身」が私たちのために「仮に」形や色を示しただけの存在ですが、「真実報身」は法蔵菩薩の四十八願と兆載永劫のご苦労が報いられた、という「歴史を背負ったお姿」です。このご苦労の報いが具体的には何を言うのか、もっと現実の歴史をよく見ていくと、阿弥陀仏は唯一「真実報身」と定めるべきで、「方便法身」などという軽い言い方は避けるべきではないと思うのですが、いかがでしょう。
たとえ宗祖や曇鸞大師が「方便法身」とおっしゃっても、言葉には依りかからず、師の本意を命がけで尋ねて言葉を定め直すことも必要でしょう。誰も完璧な人間など居りません。論釈には誤謬がつきものです。完璧な書といえるのは唯一『仏説無量寿経』のみでしょう。私たちが本当に依るべきは仏の言葉に顕れた内容だけで、菩薩や大師の言葉は参考です。これは親鸞聖人自身も仰ることなのですから、聖人の言葉に依るのではなく、聖人の菩提心を受け継いでゆくべきでしょう。