平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

ご本尊の形態について

名号・絵像・木像の違い

質問:

ご本尊の形態について
浄土真宗のご本尊は,寺では木造本尊,家庭では尊像や名号ということですが,この違いの理由を教えてください。
よろしくお願い致します。

返答

 ご質問で、「寺では木造本尊,家庭では尊像や名号ということですが」と書かれていますが、これはそうした決まりがある訳ではありません。寺院で名号を本尊とすることはできますし、木像本尊を安置する家庭もあります。しかし、おっしゃるように、ほとんどの寺院では木像を安置していますし、家庭では絵像が一般的です。これは教団の文化的・歴史的な経緯が関わっているようですが、ここでは仏像の本質の話をしましょう。

 以前、仏像の歴史については、[釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル)] におきまして、また浄土真宗における名号(尊号)と阿弥陀如来像の関係については、[阿弥陀如来像(仏像・絵像)は偶像か?] に詳しく述べておきましたので、まずはこの2つを読んでみて下さい。

 また、教学シリーズNo.2『真俗二諦』(梯實圓著/本願寺出版社)の「浄土真宗の本尊論」を読まれると、さらに詳しく理解できます。

 ちなみに、この章の「結び」には――

 浄土真宗の本尊は、弥陀一仏に帰命する一心一向の宗義に依って方便法身(真実報身)である阿弥陀仏一仏と定められているが、具体的には名号をもってその徳をあらわした名号本尊と絵像もしくは木像をもって仏徳を標示した形像本尊とがある。
 名号本尊には、十字、九字、(もしくは八字)、六字の三種(四種)があり、いずれも方便法身尊号とよばれるが、親鸞聖人は十字名号を重視されたようである。帰命尽十方無碍光如来という十字名号には、十方の衆生をさわりなく救うて涅槃の浄土に生まれしめるという阿弥陀仏の絶対無碍の救いのいわれが標示されているからである。なお蓮如上人が、名号本尊の中心を六字名号におき、多くの名号本尊を下付された事情についてはすでにのべたごとくである。
 形像本尊は、歴史的にみても、方便法身尊号たる十字名号の徳を形像化したもので、方便法身尊形(あるいは尊像)とよばれている。その形像の造像様式は、安阿弥(快慶)様の影響が強いようであるが、真宗の本尊としてそこに標示されている法義は臨終来迎の義意ではなくて、第十八願成就の方便法身のもつ摂取不捨という絶対無限の救済力のいわれである。その意味では『大経』の法義をあらわすというべきである。
 しかしこの仏を等足立像としてあらわすのは、『観経』の住立空中尊をかたどっているとみるべきである。それはどこまでも弘願(第十八願の法義)の教主であり、その姿は煩悩具足の凡夫を本として一切衆生を平等に救わんとする救急の大悲をあらわしており、善導大師は、それを立撮即行の相といい、大悲招喚の相とみられたすでにのべたごとくである。
 したがって、その両手の印相も、一般的には来迎印とか、施無畏、与願印の一種とみるべきであろうが、真宗の宗義にしたがって領解するとすれば、智暹師がいわれるように、「方便法身遍照摂取の相」すなわち摂取不捨印とみるべきであろう。すでに親鸞聖人が「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」といわれたように、一切衆生を善悪、賢愚のへだてなく、平等に摂取して捨てないという阿弥陀仏のいわれを形像化しているのが真宗の本尊である。したがって、その印相も「念仏衆生、摂取不捨」という阿弥陀仏の仏意を標示されていると領解すべきであろう。

と、示されています。

 このように、浄土真宗のご本尊は、如来が「十方の衆生を救い取って捨てない」というはたらきを間違いなく顕した「帰命尽十方無碍光如来」、「南無阿弥陀仏」、「南無不可思議光仏」という名号を第一にしますが、その願いをより分かりやすい形にしたのが絵像や木像などの尊像です。
『蓮如上人御一代記聞書』(69)には―― 「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像 よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」とありますが、これは名号と絵像と木像の上下関係を述べたものではなく、「より間違いのない形は名号」と受取るべきでしょう。つまり、聖道門のように<本尊と一体になる修行>に用いるものではなく、浄土宗のように<臨終来迎像>として用いるものでもありませんから、そうした誤解を避ける意味から名号を第一としたと考えられます。

 ですから、<如来の摂取不捨のはたらきより、真実信心を得さしめる形>と領解する中では、尊像も間違いなく尊号(名号)と同じお示しなのです。

 さらに言いますと、いくら「絵像よりは名号」といいましても、漢字が読めない人にはその意が伝わりません。寺院では本尊によく木像が使われますが、これを単に「他宗旨のまねだ」とか「伽藍仏教だ」と断じることは避けるべきでしょう。現に、漢字圏以外の信徒からは「名号より絵像や木像の方が、如来のお心をありがたく味わえる」という意のことを聞きます。

 一般家庭では名号や絵像が中心になりますが、これは本山より下付されたものを用いますので、ご縁の寺院に相談して下さい。木像を本尊として安置する際には、本来は本尊として適正な形かどうか詳しく調べる必要があります。そうしたこともあり、一般家庭では絵像や名号を用いる事をお勧めする事が多いのです。


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