平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
[index]    [top]
【仏教QandA】

結局、本尊とは何か?

― 法性法身と方便法身の関係 ―

質問:

また,ご本尊の質問で恐縮です。

千葉乗隆先生のご著書『真宗文化と本尊』に,本願を信知するたよりであれば,名号でも絵像でも木像でもかまわないとの記述がありました。また,お東の平野修先生のご著書『本尊の意義をたずねて』には,一度紙や木でできていることを認識すべきであるとの記述がありました。
 法性法身から方便法身の名号が顕現するとすれば,名号も紙や木などの「モノ」ではなく,「はたらき」かと存じますが,では,掛軸や絵像や木像は,それを信知させるための手段(象徴)と考えればよいのでしょうか。
ただ,親鸞聖人は,法性法身と方便法身は,別ではあるが,異ならないということをおっしゃっておられます。この辺が,すんなり入ってこないのです。
次の相互関係を,教えていただけませんでしょうか。

@法性法身(はたらき―無体物)
A方便法身(はたらき―無体物)
B名号・絵像・木像としての本尊(有体物)


今回の質問をした気持ちです。

既出の本尊関係のQ&Aは,拝読しておりますが,再度,簡潔にご指導いただきたいのです。
何となく,わかってはいるつもりなのですが,島田幸昭先生の言ではありませんが,現代の教育を受けた人間(私)が,とにもかくにも,まずは頭で理解したいのです。そして,自分の言葉で自分に説明させたく,お願いしたものです。
どうぞ,おくみ取りいただきたく,重ねてお願い致します。

返答

 ご質問を読ませていただくと、理論としてはほとんど解されてみえるようですので、間違いを指摘する箇所はありません。それでも「すんなり入ってこない」というのは、どこか微妙なところで納得できない、もしくは基本的な視点がそれているせいで領解できないのでしょう。
 ただこの本尊の問題は、迷信を捨て、自ら道を求める姿勢が本気になれば、領解が先行して理論がおのずと場を得る、という箇所であろうと思われます。ですから「頭で理解したい」というご希望も、純粋理論的な理解を試みるとかなり複雑になり、また得られる内容も限られてくると思います。
 また当HPでは、なるべく自説に偏らず、多くの資料を引用してお応えすることを旨としていますが、本尊と信心と帰命の問題に関しては、多方面から検討を加え、詳しい資料が残っていない仏像も視野に入れて返答しなければなりませんので、以前はいきおい複雑な記述になってしまいました。
 そこで今回は、枝葉末節を省き、本尊について要点のみを語ることにします。ただ、枝葉の部分も当然ですが大切ですので、今回の返答は踏み台にして、今後は自らの領解を深めていって下さい。
 また、「簡潔に」というご要望ですが、誤解を避ける為、どうしても説明は長くなりますが、最後にまとめを示しますので、そちらを参考にして下さい。

 仏像はさとりの表現

 回り道になるようですが、基本をおさえていただくために、まず仏像の成立過程(理由)を、ごくかいつまんで説明します。

 釈尊在世当時は、釈尊がさとりを開かれた第一号(過去仏はのぞいて)でありますし、舎利弗のような優秀な弟子たちも釈尊の境地をしのぐほどではありませんでした(小乗の悟りにとどまっていた)。そこで、出家・在家問わず道を求める者は、釈尊の徳行をお姿で拝し、お言葉を承って、自らの修行にはげみ、心の糧としていました。
 ただし釈尊は、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している([ブッダ最後の旅 1](#旅に病む――ベールヴァ村にて) 参照)ことからわかるように、釈尊のお姿を拝するのは、釈尊に隷属したり救いを負託するためではなく、<釈尊の求めた法(さとり)を私も求める>という自律した行為なのです。また、釈尊の姿形や声が仏なのではなく、釈尊のさとりが仏なのであり、「さとりを見るものが真の仏を見る」のです。

 釈尊滅後は弟子たちは遺教どおり「自灯明・法灯明」の道を歩むのですが、自らをよりどころとするには、私が法によってお育ていただかなければなりません。そこで、戒律を守り、釈尊の述べられた言葉を徐々に経典にまとめていきます。ただし当初は文字化されませんでしたし、初期の経典は釈尊のさとりの一部しか表現できませんでしたが、数百年かけてようやく『大無量寿経』に至り、完全に真実のさとりを顕すことができました。
 また、経典編纂とは別に、大衆向けに釈尊の物語が石に刻まれます。ところが初期のレリーフには釈尊は人間の姿としては登場せず、法輪や菩提樹や仏足跡によって象徴的に表されていました。釈尊の像を拝みたい希望は大衆には切なるものがあったでしょうが、釈尊の覚りをどう表現したらよいか方法が得られなかったのでしょう。その代わりとなるのが遺骨(仏舎利)を納めたストゥーパでした。

 仏滅後数百年、ようやく方法を得てガンダーラ(現パキスタン)とマトゥラー(中インド)で仏像が造られ始めます(西暦1世紀後半頃)。当時すでに大乗仏教が芽吹いていて、諸仏の思想もありましたが、仏像の基本はあくまで釈尊でした。菩薩像も出家前の釈尊がモデルです。このことは後で説明しますが、非常に重要な事柄なのです。
 なお、釈尊の姿は絵や写真が残っていた訳ではありませんので、表現としては三十二大人相を得たお姿([具足諸相の願] 参照)に集約されて仏徳(さとり)が表現されるようになりました。

 さらに、仏像の台座や印(手の形)によって釈尊のさとりの内容を表現するのですが、初期の仏像は出家主義の影響が強く、煩悩を断じた悟りの姿で表わされました。やがて大乗仏教が盛んになってからは、煩悩を断じないままが真の覚りであるという教えを受け、また人間の智慧や慈悲の心の成長について、さらに歴史や国土・社会が問題とされて、その願の成就した姿を印や光背に込めて仏像が形成されてきました。
 この変化は、仏教徒が釈尊のさとりをどれだけ理解し表現し得たか、その発達段階を示しているといえるでしょう。結果として言えば、『大無量寿経』はじめ浄土三部経によって釈尊の覚りを完全に顕したと同様に、阿弥陀如来像の出現によって釈尊のさとりを完全に像に表す術を得ることができた、と言えるでしょう。

仏、弥勒に語りたまはく、「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。このゆゑにわが法はかくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。

『仏説無量寿経』 巻下 流通分 弥勒付属 (47)より

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。 また、仏がたの教えを聞くことも難しい。 菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。 ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。 そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。 そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい」

 ところで、「仏像を拝みたい」という心理はどのように位置づけたらよいのでしょう。「教えを実行できないような大衆の低俗な宗教心に合わせて形を示した」のでしょうか。確かに「自灯明・法灯明」の原則からいえば、他者としての仏像を拝むのは偶像崇拝であり、事実、一般大衆が仏を拝む時の内容は、欲望の充足に過ぎな場合が多いようです。
 しかし本当の仏像は、他者として安置されてはいますが他者に留まっていません。「私の内側にはたらいてくださる仏の姿である」と、領解してほしいと思います。領解が正しければ、仏像は自我の小さな世界を打ち破るはたらきを示して下さいます。しかし領解が正しくなければ、その人にとって仏像はただの芸術品であり、迷信的な偶像であり、瞑想を促す像に過ぎません。さらに言えば、「正しい領解に導く姿が仏像である」という事実も重要です。心の深層に直接響く姿であればこそ、偶像崇拝的な拝み方では違和感が生まれるのですが、造り手に領解がなく、不完全に図像を模しているだけでは、導きの姿とはなりません。

 また仏像を拝むことによって、仏道が単なる理論ではなく「本当に覚られた人がみえるのだ」という歴史に力づけられることになるのです。自らも釈尊と同じように(出家在家の違いはありますが)仏道を歩み、同じように覚りを求める心をおこし(同発菩提心)、このような素晴らしい人間になっていこうと憧れを抱かせてくださいます。自我を打ち破くほどの表現をもった素晴らしい仏像を拝む時、求道心はより確かな形を得て人々を立ち上がらせます。

 つまり究極的に言えば、「仏像を拝むとは仏の内容を観ることであり、それはさとり(大菩提心)のはたらきそのものである」と結論づけられます。

 三種の仏と仏像

 仏の相には、「法身・報身・応身・化身」の四種があります。このうちの前三種の仏の関係を理解していただけば質問の答えとなるかと思います。

 ところで、真の仏とは何でしょう。先にも述べましたように、姿形そのものが真の仏ではありません。「さとり・菩提心」こそ真の仏であり、相そのものは真の仏ではないのです。しかし相を現わさない仏も真の仏ではありません。相に現われた「内容・はたらき」こそが真の仏です。私の側から言えば、仏の相を観ることによって、私の身心にはたらき続ける内容を味わうことが肝心なのです。
 真の仏は、必ずすぐれた相を表わします。法身・報身・応身のいずれも、形そのものは真の仏ではありませんが、真の仏は法身・報身・応身の相を現わすのです。この相をよく理解し、しかもそれぞれの相や物にとらわれないことによって真の仏を見ることができるわけです。

 まず「法身」(法性法身)についてですが、親鸞聖人は『唯信鈔文意』(4)に、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」と示されています。これは現実ありのままの道理をさとる智慧であり、全ての存在にあまねく満ちている法そのものですから、永遠普遍の相なき相です。これを「真」・「真如」ともいいます。しかし、法身は色や形や言葉にはならないために、人々がその存在を知ることはできません。(蛇足ですが、キリスト教が日本に伝わった当初、僧侶は絶対神を「法身・真如」と理解しました。これは当時のキリスト教では「誤解」とされましたが、本当に誤解であったのか再考が必要でしょう)

 さて、永遠普遍の真如であっても、人々の苦悩を無視して通り過ぎたのでは真の仏ではありません。法身にとどまるものは真の仏ではないのです。真の仏は形のない法身に留まらず、衆生済度のために姿形を現わして、大悲の誓願を起こし、行を重ね、名を示すことが必然となります。この誓願が成就し実を得た相が「報身」です。
『唯信鈔文意』には、「この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり」と示されました。

 この「衆生済度のために姿形を示す」という相が「方便法身」です。方便とは方法を得るということです。方法を得る智慧を持たないものは真の仏ではありません。真の仏は大悲を起こし必ず方法を得るからです。方法を得た段階は「方便法身」の身です。「方便」というと法性より劣っているようなイメージがあるかもしれませんが、「さとりの必然として方法を得る段階まで達した」ということですから決して二種の相に上下がある訳ではありません。法性は方便に活路を見出し、方便は法性に裏づけされて世の無明を破ってゆくのです。そして「尽十方無碍光如来」という名を得られたということは、単に法性法身が方便として現われ出たという段階ではなく、不可思議の大誓願と兆載永劫の修行が報いられた相ですから、阿弥陀仏は「報身」というべきでしょう。

 ところがこの「報身」も、姿形や理論だけでは机上の空論です。法性法身(真)が必然として方便法身をとり、歴史的に報いられた報身(実)をあらわしたとしても、この「真」と「実」が、人に入り満ちた相である「誠」となって現実生活に現われ出なければ、法は正しく語られることなく、神話的に想像された世界を迷走するだけです。
 法身・報身を生身の身心に満たした相が「応身」です。この応身の代表が釈尊で、事実としていえば、仏教の「教え」は教主である釈尊から始まっています。つまり、「真」は常にあり、「実」を現わすはたらきは永劫の昔よりはたらいているのですが、これを完全に身心に結実させた「誠」の内容が説かれるのは、応身である釈尊の出現を待たなければならなかった、ということです。

 仏教徒は、釈尊の説かれた内容や示された行動を元としながらも、その言葉や姿形にとらわれることなく、報身を礼し、その源が法身であることを見ていくのです。この三種の仏身を見るということが大切で、人々の(つまり私の)状況によって、言葉や姿形が現実にあらわれ、さらに言葉や姿形にとらわれないように導くことこそ仏のはたらきなのです。

 さらに、一見、真実誠が円成(完全に具ること)していないと見える人(その機を得ていない人)や、ダイバダッタやアジャセのような極悪の行動をした人でさえも、衆生済度に導く「化身」(権化の仁・仏がかりに姿をあらわした方)と見ることもできます。そうすると、私たちの周りは化仏であふれていることになり、「一切衆生悉有仏性」という『涅槃経』以後の諭しとも重なります。
 ただしこちらは、常に懺悔をともなって同朋として見るということであって、供養することはあっても、依りどころとして礼拝することはありません。また、固定した事実のように「この人は仏の化身である」と無自覚に断定する中では決して真の化身を見ることはできませんので、注意が必要です。化身もさとりの眼によってはじめて見ることができるのであって、私たちは仏願を信じ如来の眼をいただく中で化身を聞見させていただくのです。
『唯信鈔文意』には「この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて」と、先の言葉の後で述べてみえます。

 本尊のまとめ

 ここまでお話しすれば、「法性法身」・「方便法身」・「報身」の相互関係は、一応理解していただいたと思います。簡単に申しますと――「法性法身」と「方便法身」は一方の相だけでは真の仏ではありません。「法性法身」は「方便法身」の相を得てはじめて実を顕します。そして「方便法身」は「法性法身」の裏づけによって無限のはたらきを示すことができ、かつ固定概念や言葉や時代にとらわれた頑迷な論を避けることができるのです。

 さらに「方便法身」も、「報身」と「応身」の相を示してはじめて仏としてのいのちが成就します。「報身」は「応身」を得て歴史的事実となり、歴史的事実である釈尊のさとりは、報身を内容としているゆえに血肉となり、あらゆる時代に順じて機が熟し、一切衆生の無明を破くのです。

 つまり、「報身」として究極の誓願と名を得た如来は、「応身」である釈尊の存在を得て説かれるのであって、阿弥陀仏を離れて釈尊が存在するのではありません。阿弥陀如来の仏像も釈尊がモデルであるのはこういう理由です。ただし阿弥陀仏は釈尊のみにあるのではなく、あらゆる衆生の本願と成り切ってはたらこうとしているのです。

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり

『浄土和讃』(3) 讃弥陀偈讃

 ですから、釈尊のさとりの内容が「阿弥陀仏」(尽十方無碍光仏)であり、さとりが身に満ちている姿が「南無阿弥陀仏」(帰命尽十方無碍光如来)なのです。釈尊の肉体は今はありませんが、さとりは今も生きています。その生きてはたらくさとりの姿が南無阿弥陀仏なのです。それゆえ浄土真宗門徒の間でも、古くは阿弥陀仏と釈迦仏の並んだお姿を本尊とした例もありました。

 また、本尊を拝む時、そこに法身・報身・応身の三種の相を見ることで真の仏を見るのです。そして三種の相の究極こそ「南無阿弥陀仏」の名号であり、念仏せしむる心なのです。そしてその内容は、本願力回向の大菩提心であり、真実信心なのです。

 親鸞聖人は、「至心」とは「真実誠種の心」であり、「信楽」とは「真実誠満の心」であり、「欲生」とは、「願行覚知の心」であると示されました。この三心は「信楽」に集約できるのですが、ここにおいても、「南無阿弥陀仏」は「法身(真)」「報身(実)」「応身(誠)」の三種が入り満ちたさとりの相であることが理解できると思います。これは仏像や絵像も同様です。

 ですから、「本願を信知するたよりであれば,名号でも絵像でも木像でもかまわない」というのは、「応身」の現われである仏像や絵像には内容として「法身」「報身」を含んでいる、ということでありましょう。
 また、「一度紙や木でできていることを認識すべきである」というのは、姿形に執着すればそれは真の仏ではなく、さとりこそ真の仏であり、真の仏を見るためには、如来回向の大菩提心を得ることが必須である、ということでありましょう。そこには、仏像そのものを有難がる風潮や、欲望充足や安逸を求めて仏像を拝むような迷信的・逃避的な信仰をたしなめる姿勢が感じられます。

 さらに、「法性法身と方便法身は,別ではあるが,異ならない」という意は――衆生の事情に合わせて異なった相をしているので、別になっている理由をよく学び、この如来大悲のはたらきを礼すべきですが、真の仏はこの二種の相を具えているのであり、決して単独で存在しているのではない、ということです。そして衆生の中に仏性の歴史を刻んだ「報身」こそ、あらゆる時代において、あらゆる場所において、血肉となってはたらく真仏であり、それが阿弥陀如来なのです。
 親鸞聖人は、一つの事柄を複数に開いて分析し最後に一つの本質を示す、という論法をよく用いられますが、私たちも聖人の姿勢に習って学び思惟する必要があるといえるでしょう。

 資料

 ご質問にもありました島田幸昭師の著書から、本尊についての記述をいくつかご紹介しますので、あらためて参考にして下さい。

※資料『真宗開眼 二十の扉』

第二問 本尊の採用者は誰でしょう

 真宗の寺院に、本尊として安置してあるあの仏像は、いつの時代に、誰によって本尊に決められたのでしょうか。
 私が十六、七才の頃でした。父のうすとに坐って、夕べの礼拝をしていると、父はうしろをむいて「声に出して念仏せよ」という。私はなむあみだ仏なむあみだ仏と、二、三べん称えるけれども、すぐ止む。父はなぜせんかと、またいう。仕方なしに念仏する。何か気はずかしくて、また止んでしまう。その中に反抗心がむらむらとわいて来る。ひとに聞かせるためではあるまいに、何も声に出して念仏する必要はあるまい。仏さまは何でも知っておられるというではないかと。声に出して念仏することだけではない。あの両手を上下にして立っている姿が、何か虫が好かぬ。子供の頃から、「右の御手をあげなされては、来いよ来いよ。左の御手をさげなされては、必ず助ける。仏にすがれよ、弥陀にまかせよ」と、寺の説教で聞かされていたものですから、何も仏に助けてもらわなくてもよい。自分のことは自分でするよ。反抗期の私には、あの両手を上下にして胸をひろげている仏像が、いやでたまりませんでした。ところがその後、同じ阿弥陀仏にも、いろいろの姿をした像があることを知りました。坐禅をしている仏像や、また同じ坐像でも、両手を立像と同じように、上下にしているものや、また来迎図とよばれるものなど。
 それは私が安芸の国の奥地のある名刹へ、布教に行った時のことでした。本堂のななめ前に、こじんまりとした経蔵[きょうぞう]があり、扉が八文字に開かれている。その前には香烟[こうえん]がるるとのぼっている。内へ入って見ると、内は改造された位牌堂である。何と清潔な感じのする堂内であろう。そこには骨箱[こつばこ]一つなく、また位牌さえもない。まん中におずしがあり、その両側には、部厚い金襴表装[きんらんびょうそう]の過去帳が一冊づつ、見台の上におかれている。右の方には、明治以来の殉国戦病者[じゅんこくせんびょうしゃ]の名が記されている。出ようとして、もう一どおずしの中のご本尊を拝んだ。入った時には暗くてよく見えなかったが、りっぱな仏像である。私はその美しい姿に強く心をとらえられた。その時である。まるで電気にでも打たれたような、大きなショックを受けた。足利浄円[あしかがじょうえん]先生がいつもしておられたように、右手を胸の前で拝むようにしておられるではありませんか。これだ! 親鸞聖人がご自分のご本尊としたかった仏像は。これこそ南無阿弥陀仏という名号のいわれにかのうたお像[すがた]だ。思わずそう叫びました。
 ご住職に尋ねてみたら、「私はこの寺へ養子に来たもので、どういう因縁で、いつ頃からこの寺にあるのか知らぬが、先年、藤秀スイ(※)先生が来られて、この仏像は鎌倉初期の作で、中品[ちゅぼん]の修行中のお像[すがた]であるといわれた」と。やっぱりそうだ。法蔵菩薩は修行中の仏だ。
 今は真宗の本尊は阿弥陀一仏になっているけれども、本来は左右に、観音と勢至の二菩薩を伴なっている。それは弥陀のもっている徳の二面をあらわしたものであろう。その観音は両手に蓮台[れんだい]をささげている。それを片手であらわし、弥陀印にすれば、左手のようになる。また勢至は両手を胸の前で合掌しているが、それを右の手で弥陀印を結ばせたのが、この仏像ではないであろうか。
 不思議なことに、それから半年も立たぬ間に、同じような仏像を四体も見た。その中の一つはビルマから渡って来たもので、その腹のところに横にかかれている文字は、「釈迦は生きている」という意であると聞いた。あれを思いこれを思うに、どう考えて見ても、この仏像が真宗の本尊とならねばならぬように思われるのに、なぜ今の仏像が本尊におさまったのであろうか。もしかしたらたまたま日本に渡って来た最初の弥陀像が、浄土宗の本尊とされ、それがそのまま光背をすこし変えられただけで、いつの頃にか真宗の本尊に居坐[いすわ]ったのではないだろうか。
 それにしても、今の本尊に対して、何らの疑いの眼をもって見たような人は、かつてなかったのであろうか。それともたとえそんな疑問が、時に心の一隅[ひとすみ]に起こったとしても、いやしくも一宗の本尊に対して、弓を引くような、どうのこうのということはおろか、心に思うことさえ恐れ多いこととして、そのたたりではあっては大変と、かぶりをふって打ち消したのであろうか。それとも現在のままの仏像で何も言うことはないのであろうか。私の受信機が、まだ反抗期を卒業しておらず、どこか狂っているのかも知れない。いなこんなことを言わねばならぬことそれ自体が、はちが当って、狂っている証拠かもわかりませんけれど。

 (※註:スイ=王遍に翠)


第三問 本尊像は誰の姿でしょうか

 真宗の本尊として礼拝している仏像は、どなたの姿をかたどったものでしょうか。
 私は幼い時から、朝夕礼拝しているあの本尊は、西方十万億のかたなにある極楽世界の阿弥陀仏の写真だと、聞かされていました。しかしそんな所にそんな世界があろうはずもなく、またあのような姿をした仏が、おろうはずもありません。それは私が精神年齢が幼稚であったために、子供には子供なりにわかるように教えられたものにちがいありません。
 反抗期を過ぎた今、独り静かに考えてみる。仏像は何宗に限らず、みな仏像を本尊としている。しかし各宗はおのおの本尊とする仏像は異にしている。このことは国旗がその国を象徴しているように、本尊像はその寺なりその家が、何を宗としているか一見してわかるように、他の宗と区別するためのものにちがいない。仏像を見れば、すぐにそこが神道やキリスト教ではないことがわかる。同じ仏像でも、禅宗と天台宗ではちがい。念仏宗ではまたちがう。また念仏宗はみな阿弥陀仏とよばれている仏像を本尊としているが、各宗派はその光背[こうはい]で区別されるようになっている。浄土宗では原始的な舟後光[ふなごこう]であるが、その後に成立した浄土真宗の本願寺派(西本願寺派)では、舟後光の上部をとって、そこへ傘のような光輪[こうりん]ををつけている。またそれから分派した真宗大谷派(東本願寺派)では、舟後光を全部とって、光輪だけにしている。
 しかし肝心の仏像そのものは、何をあらわすのであろうか。昔からその結んでいる手の印によって、釈迦像、薬師像、弥陀像などとよばれて来た。しかしあのような姿をした薬師や弥陀が、どこかにおるとも思われない。仏像はそれがどんな印を結んでおろうが、すべて釈迦の像[すがた]ではあるまいか。それは頭の髪がちじんでいることや、その服装からしても、すぐにインド人であることが察せられ、また三宝帰依の第一の「仏に帰依する」は、その初期にあっては、釈迦仏に帰依することであったことでも、うなずかれる。
 それではなぜいろいろの異った釈迦像がつくられたのであろうか。恐らくそれは釈尊のさとりの内容を、象徴的にあらわしたものではないであろうか。つまり釈尊のさとった法を、弟子たちが何と見たかということによって、それぞれの宗が開け、その宗の立場から、おのおの異った釈迦像が造られることになったのではないであろうか。
 たとえば釈尊を煩悩を断じた大アラカンと見た弟子たちは、石の座に坐って、右手をのばして大地につけ、左手を上むけにしてももの上にのせている仏像をつくり、煩悩を断ぜずして涅槃を得たと見た弟子たちは、蓮華の座に坐って、坐禅している仏像をつくり、また五十二段のさとりを開いた仏と見た弟子たちは、五指をのばして、右手を上げ左手を下げている仏像をつくり、さらにまた南無阿弥陀仏をさとったと見て、浄土の経典をかいた弟子たちによって、二指をもって輪をつくって、弥陀印を結んでいる仏像がつくられたのではないかと思われるように。このことは三宝帰依の文を見ても、また真宗の本尊は昔から「釈迦・弥陀一体のお像[すがた]」と言い伝えられていることや、朝晩のお仏飯は、本尊にだけ二本供えることになっているのは、一本は釈迦、一本は弥陀と、日々の行持[ぎょうじ]の中にも教えられて来ていることでも、了解できるのではないでしょうか。
 釈迦像がなぜに薬師とか大日とか、また弥陀といい伝えられて来たのであろうか。それは釈尊のさとられた法に、人格的な色彩が強くみとめられるようになるに随って、そうなったのではあるまいか。
<中略>
また釈尊は聖道門[しょうどうもん]自力によって、この世で仏になったが、われわれはこの世では、釈尊と同じさとりは開けないと教えられていたことも、全くの誤りであったことにならぬでしょうか。
 真宗の本尊としている仏像は、釈尊のさとりが南無阿弥陀仏であって、釈尊は念仏第一号であることをあらわしているのではありませんか。私たちが朝晩礼拝しているあの仏像は、この世に生まれた「出世の一大事」は、この世で釈尊と同じさとりを開くことであり、そのさとりの内容と、さとる道ゆきを説いているものが、浄土の経典であることを象徴しているのとちがいましょうか。朝晩、本尊の前に坐って、尊顔[そんがん]を拝むたびに、もの言わぬ仏像の胸に宿る尽きぬ悲願を独り憶うのです。


第四問 本尊は名号でしょうか仏像でしょうか

 真宗の本尊は、名号でしょうか、仏像でしょうか。
 宗制には「本尊は阿弥陀如来」であると定められており、事実、本山を初めとして、末寺、檀家に至るまで、仏像が本尊としてまつられているにもかかわらず、真宗学の上では、本尊は名号であると教えられています。それで古来しばしば本尊は名号か仏像かということで物議をかもして来たのですが、私はいまだに納得のゆく、はっきりとしたいわれを聞いていませんが、一体これはどういうことなのでしょうか。
 学問上と実際のくいちがいは、真実と方便との関係と理解して、理想としては名号を本尊とすべきではあるが、歴史的現段階にあっては、一般信者の宗教的智能年齢が低いために止むを得ず、仏像にしているのであるということであろうか。たとえば日本仏教の伝持史[でんじし]を見ても、仏教が渡来した当時にあっては、専らあの端厳慈顔[たんごんじげん]の仏像が仏事をしていたようであります。したがって仏教の教義を究めた学僧よりも、りっぱな仏像をつくる仏師の方が、優遇されて、地位も高く、給料も多かったということです。それが歴史を経るにしたがって、だんだんと経典の深い意を知ろうとする方向へ、眼がむけられて来ているのと同じように。
 それともまた信心の立場では、名号に重きがおかれ、生活の立場では仏像が中心となると受けとるべきでしょうか。真宗の信心は、名号のいわれを聞き開くことであると、説かれているのだから、当然、名号に重きがおかれる道理であり、生活の立場では、称えるのは南無阿弥陀仏の名号でなければならぬが、礼拝の対象としては、たとえ外国語の南無阿弥陀仏という名号を、帰命尽十方無碍光如来という十字名号にかきかえてみても、一たん頭で翻訳してみねばならぬから、直接いのちにぴんと触れて来ない。やはりあの美しい智徳円満のお姿を見ると、文句なしに、何かたましいに触れるものがある。
 いや、名号本尊ということを説かれる意は、仏がいけないのではなく、絵像や木像がいけないのかも知れない。日本の国では、仏そのものよりも、木に刻んだ仏や、石に彫った仏の方が尊ばれる風習がある。たとえば壷坂の観音さまや、一畑の薬師さまというように、無理に壷坂の観音さまでなくても、どこの観音さまでも同じように、ご利益があり、薬師さまならどこの薬師さまでも、同じことでありそうなものなのに、そうは言われていない。それは「江南[こうなん]の橘を江北[こうほく]に植えたら、化して枳[からたち]となった」り、紅のつつじのある庭に、白のつつじを植えれば、白の花の間に、紅の花が咲くように、日本古来の呪物崇拝[じゅぶつすうはい]の素朴未開な宗教意識の地盤に、仏教が受け入れられたために、転化した現象にちがいないが、そうした偶像崇拝に落ち入ることをいましめて、蓮如さまが、「他流には名号よりも絵像、絵像よりも木像というなり。当流には木像よりも絵像、絵像よりも名号」といわれたのかも知れない。
 しかしそうばかりは片づけられないものがある。仏像はもちろん仏そのものを、形の上に象徴したものであるが、仏像だけではない。仏そのものに帰依をきらうというか、真宗の信心の上に、それを拒むものがあるようである。たとえば真宗学の安心問題の上に、「所帰人法[しょきにんほう]」という論題があって、帰依の対象は、阿弥陀仏という覚者か、それとも南無阿弥陀仏という名号かということが、論議されていて、阿弥陀仏という仏体ではない、南無阿弥陀仏という名号であるとされているのである。もちろん名号といっても、たんなる名前ではない。名体不二の名号であると、念をおしているのではあるが、その逆の名体不二の仏体とは、決していわない。それどころか帰依の対象を仏とすることは、異安心としてきらわれてさえいるのである。真宗学ではそういっているけれども、蓮如さまの言葉はあながちに、仏像を本尊とすることを拒まれたのではないのかも知れない。というのは「木像よりも絵像」がよい、「絵像よりも名号」がよいといわれるようにも受けとれる。しかしそういうことを言わねばならなかった蓮如さまの、胸の中にあったものは、何であろうか。時代であろうか、相手であろうか。それとも蓮如さま自身の信心によるのであろうか。
 小面倒なことになって来たが・・・・ああそうか、ひょっとしたら、この問題が今日まで迷宮に入っていたのは、二つの事柄がこんがらがっていたからかも知れない。一体、本尊とは何をさす言葉であろうか。真宗学では、所帰[しょき]は名号か仏体かというのであって、本尊とは言っておられない。所帰とは帰依の対象ということであろうが、本尊は帰依の対象ということもあるが、また礼拝の対象ということにも使われている。礼拝の対象となる本尊は、帰依の対象を象徴したものでなければならないはずであるのに、この二つは違っていてよいものであろうか。ともあれこのことを念頭におきながら、もうすこし問題をはっきりさけてゆこう。
 本尊も仏像が親しく所帰も仏の方が、人間の心理から言っても、また信心の道理からいっても、自然であるように思われるのに、なぜ礼拝の対象も仏像よりは名号が尊ばれ、帰依の対象も仏でなく、名体不二の名号としなければならぬのであろうか。
 言うところの名体不二の名号とは、どんな事実をさしていうのであろうか。まさか仏がそのまま名となり、名はそのまま仏であると言うのでもあるまい。しかし中には「一こえ一こえの念仏がそのまま私となった仏である」と、半金色の善導の念仏が六体の仏となり、熊谷蓮生房[くまがやれんしょうぼう]の九遍の称名が、そのまま九体の仏の姿となったという例をひいて、称える心はそまつでも、出て下さる念仏が尊いと真顔で語っていた老人もあった。
 名体不二の説明に、全体施名[ぜんたいせみょう]とか全徳施名[ぜんとくせみょう]と説かれている。全体施名とは、仏が六字の名号となって、名号の上に仏が現われているということであり、全徳施名とは、仏の全ての功徳が六字の名号の上にあたえられていると、説明されているが、どうも私たちには、もっと具体的に説明してもらわねば、その言われる意味内容が理解できぬ。昔の人はせっかちであったのか、それとも子供のようん、ちょっとした顔色やわずかな動作によって、相手の意中を察することが、今日の私たちよりも勝れていたのか、くどくどと説明することを、文句はいらぬとか、理屈を言うなときらい、言[こと]あげせぬことをむしろ誇りのようにして、以心伝心とか、感応道交[かんのうどうこう]といって、直観を尊ぶ風習があったようである。したがって師のさとりを追体験して、その極意を会得するためには、容易ならぬ苦労と、永年の修行を必要とした。それもただ永い年月と辛苦だけではなく、弟子の受信機によって、師のさとりがどうにでも受けとられる危険性があった。さきの老人を笑えない。それで師の教えが正しく伝えられているかどうかということよりも、弟子の一人ひとりの体験が重んぜられた事情が、この辺にもあったのであろうか。
 名はものを示し現わす言葉であって、ものそのものではない。名と体は明らかに二つである。それが不二であるといわれるのは、山とか川とかいうような対象的な名であろうはずはなく、またたんに自覚をよび起こすという名でもないであろう。たとえば「わが名を称えよ」というひとことの中に、大悲の心が全現しているといっても、名は大悲心を現わしていても、大悲心そのものではない。また仏の名を称えれば、仏は我と共にあるとか、一念に仏の全ての徳があたえられるといっても、仏を他者として仰ぎ、浄土をかなたに見ているのでは、名体不二とも、名徳一如ともいえないであろう。それでは名は仏の存在を知らせ、功徳をあたえる、たんなる方法に過ぎぬことにならぬであろうか。
 名体不二といえるのは、昔の宗学者が仏体即行[ぶったいそくぎょう]といっているように、仏自体が衆生の自覚を通して、名告り行ずることの外にはあり得ないであろう。すなわち名号はたんなる名前ではなく、親鸞のいうように、仏自らの「なのり、さけぶ」相であり、衆生において、常に仏自らを表現し具体化することではないであろうか。したがって名号に功徳があるのではなく、念仏する心にあるのであろう。もしそうであるならば、仏の名を称え、仏の徳を行じているそのことが、仏自らの顕現であり、それはそのまま仏体に帰依している事実ではないであろうか。
 仏に帰依することをきらったのは、念仏の外に仏を求め浄土を願う、信仰の観念化をいましめるためではなかったであろうか。それとも逆に自らが、仏とはどこかにいる人間以上の力をもつスーパーマンと思い、浄土とは、自らが空想しているような世界が、宇宙のどこかにあると観念化していたために、よび声一つに重きをおいたためであるのかも知れない。それというのも、聖道仏教に対する往生浄土教が、もともと出家仏教の変形であったために、現実を軽視し無視して、ネハンとか空とかいう方向にひきずられて行った、その余波を受けて、仏や浄土を夢のように彼方に描いたからではないのであろうか。
 一般信者の現実は、僧侶の学問とは違った方向を独り歩いている。たとえば僧侶の決めた規則では、本尊の前以外で経を読んではならぬということであるが、本山の事実は、祖師堂で読経しているではないか。また本尊をまつってある阿弥陀堂よりは、親鸞聖人をまつってある祖師堂の方が建物も大きく、行事もそこが中心となっている。また門信徒のものが本山に参ることを、「ご真影様へお礼をして来る」といって、本尊も「名号よりは絵像、絵像よりは木像」をとり、帰依の対象も名号ではなく、常に「仏さま」「阿弥陀さま」である。形を超えた真実は、常に人の上に形をとって働くものである。仏教は釈迦の徳において伝わり、真宗は親鸞という人を通して弘まっている。この生きた事実を無視して、形を否定し、ものを抽象化する方向をとって来た今日までの真宗学は、出発点からその在り方を改めねばならぬのではないであろうか。歴史的現実に根をおろさぬものや、それを無視するものは、何ものといえども、その存在は永く許されない。これは地上の千古の鉄則であるのだが。
 本尊の前に坐って、いつも実際とくいちがって、独走し から廻りをしている真宗学に、何か納得のいかぬものを感ずるのです。


第五問 本尊の両手は何を象徴しているのでしょうか

 真宗の本尊としている仏像の両手は、何をあらわしているのでしょうか。
 私がまだ小学校へ通うている頃でしたでしょうか。「仏さまはどうして両手をあのようにしているのでしょうか」と尋ねたら、いつも私の家へ遊びに来る、父の碁友だちが「お金をもって来い。お賽銭をあげーよと、いっているんだ」と、笑いながらいう。わたしはじょうだんだろうとは思いながらも、「地獄のさたも金次第」というが、仏さまでもお金が要るのかなあと、思ったことがありました。その後説教で、あの仏像全体が召喚[しょうかん]の姿であり、右の手は「来いよ、来いよ」、左の手は「必ず救う」ということをあらわしていることを聞きました。ところが真宗学を学んでいる中に、次から次へと、新たな不審がいろいろとわいて来ました。
 第一に、右手は上求菩提[じょうぐぼだい]で、本願成就をあらわし、左手は下化衆生[げけしゅじょう]で、凡夫救済をあらわすものであり、右手のしもの三指[し]は三学を、かみの二指は円満成就を、そして左手のしも三指は三毒の煩悩を、かみの二指は円満具足をあらわしているといわれているのですが、まず右手です。三学とは戒定慧[かいじょうえ]のことであり、広くいえば六度のことですが、三学も六度もみな菩薩一般の行願であて、何も弥陀に限ったことはない。それではどこにも弥陀の特殊性はあらわれていないことになる。あの両手をもって弥陀印とされているのだから、両手の上に、他の仏と区別される、弥陀の特徴が出ておらねばならぬ。それは左手の三毒煩悩を具足している凡夫を救うというところに、あらわれているというかも知れぬが、そこにもまだ問題がある。右手を施無畏印[せむいいん]とよぶに対して、左手は与願印[よがんいん]と名づけられている。そうすると三毒の煩悩を具足するようにということになるが、ちょっとおかしい。また弥陀の本願は、煩悩具足の凡夫を助けたいという願いであって、衆生にその自覚を要求する願いをあらわしているのであるとしても、何かもう一つ「願いを与える」という意としっくりしないものがあるようである。
 独り尊像を拝みながら、静かに五劫思惟[ごこうしゆい]のお意を憶う。右手は上求菩提、他の言葉でいえば願作仏心[がんさぶっしん]である。左手は下化衆生、それは度衆生心である。この両手をもって南無阿弥陀仏ということを表示しているいちがいない。そうとすれば右手で阿弥陀仏ということを、左手で南無ということを解説しているのではないであろうか。この眼をもって弥陀の本願を説く『大無量寿経』を見れば、その四十八願の中の信心の願には「至心信楽欲生我国」とある。親鸞はこれを「三心の願」とよび、この三心によって、その著『信の巻』に、親鸞独自の信境[しんきょう]を明らかにしている。そこには真宗念仏の信は「浄土の大菩提心」であると断じて、善導の『二河の譬[たと]え』を例証しながら、この三心を人間進化の三段階であるとしている。即ち凡夫から菩薩へ、退転の菩薩から不退転の菩薩へ、さらに仏位へと、三重の脱皮を遂げながら、本願力に導かれて、転入深化[てんにゅうしんか]してゆく菩提心の三段階であると説かれている。親鸞自らはこれを「三重の出体」という。この親鸞の教示によっても、左手の三指を、至心と信楽と欲生心の三心を象徴するものと見ることはできないであろうか。
 また弥陀の特殊性としての本願成就の内容を尋ねてみれば、そこには弥陀自身と衆生と国土の三シュ【禾云】の荘厳が説かれている。これによって、願作仏心をあらわす右手の施無畏印は、自と他と浄土の三厳成就[さんごんじょうじゅ]を象徴するものといえぬであろうか。こうみて来るとあの弥陀印を結んでいる仏像全体が、法蔵菩薩の願心成就の南無阿弥陀仏のいわれをあらわしていることになるであろう。このことはまた泥田でなければ開かぬ蓮花[れんげ]の座の上に立っていることでも、了解できるであろう。さきに第二問において不審として提起した、右手の位置が、今の仏像よりも、胸の前で拝んでいる仏像の方が、宗義[しゅうぎ]にぴったりすると思ったことも、あながちに見当ちがいとはいえないのではないであろうか。
 こうした浄土の菩提心である法蔵菩薩の願心を象徴したはずの仏像が、なぜ「大悲召喚[だいひしょうかん]の像[すがた]として説かれるようになったのであろうか。もともと浄土教はその名が示すように、土を浄める教え、すなわち環境社会を浄めることを通して、人間の成就をその願いとした仏教の根本精神を、その本領[ほんりょう]として来たものであった。しかもそれは自利と利他の人間関係の場においての人間完成を説く大乗仏教を、その内面に向かってさらに深めて生まれて来たものであったのが、現実を罪悪視し、この世を厭[いと]う出家仏教の影響を受けて、往生浄土教と変化したためではないであろうか。殊に日本においては、浄土教発生の当時、平安朝時代からすでに往生浄土教として発展して来ているのである。
 そのためにか弥陀像も初期のものは、直立に近いものであったが、室町時代に入り、さらに江戸時代に来るにしたがって、その姿は一そう前のめりになり、右手は手首から外側に傾けられるようになっている。それらはすべて念仏宗が、往生浄土教ということに定着したために、弥陀の性格が菩提心から大悲召喚ということに変って来たからではないであろうか。
 私は朝夕、本尊の前に合掌念仏しながら、足下の仏の座から始めて、仏像の一つ一つの相好[そうごう]を見上げながら、無見の頂相[ちょうそう]に至るまで、その一つ一つが何をあらわし何を教えているのであろうかと、この仏像を刻んだ仏師の心をおもい、またこういう仏像を最初に作った人の深い願いに、心の耳をすまさずにはおれぬのです。

『真宗開眼 二十の扉』 より



[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)