仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 十方来生
仏説無量寿経 46
弥勒菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、この世界において、いくばくの不退の菩薩ありてか、かの仏国に生ぜん」と。仏、弥勒に告げたまはく、「この世界において六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにかつて無数の諸仏を供養したてまつること、次いで弥勒のごときものなり。もろもろの小行の菩薩および少功徳を修習せんもの、称計すべからず。みなまさに往生すべし」と。仏、弥勒に告げたまはく、「ただわが刹のもろもろの菩薩等のみかの国に往生するにあらず、他方の仏土〔の菩薩等〕も、またまたかくのごとし。その第一の仏を名づけて遠照といふ。かしこに百八十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第二の仏を名づけて宝蔵といふ。かしこに九十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第三の仏を名づけて無量音といふ。かしこに二百二十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第四の仏を名づけて甘露味といふ。かしこに二百五十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第五の仏を名づけて龍勝といふ。かしこに十四億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第六の仏を名づけて勝力といふ。かしこに万四千の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第七の仏を名づけて師子といふ。かしこに五百億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第八の仏を名づけて離垢光といふ。かしこに八十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第九の仏を名づけて徳首といふ。かしこに六十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第十の仏を名づけて妙徳山といふ。かしこに六十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第十一の仏を名づけて人王といふ。かしこに十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第十二の仏を名づけて無上華といふ。かしこに無数不可称計のもろもろの菩薩衆あり、みな不退転にして智慧勇猛なり。すでにかつて無量の諸仏を供養したてまつりて、七日のうちにおいてすなはちよく百千億劫に大士の修するところの堅固の法を摂取す。これらの菩薩みなまさに往生すべし。その第十三の仏を名づけて無畏といふ。かしこに七百九十億の大菩薩衆、もろもろの小菩薩および比丘等の称計すべからざるあり、みなまさに往生すべし」 P--81と。仏、弥勒に語りたまはく、「ただこの十四仏国のなかのもろもろの菩薩等のみまさに往生すべきにあらざるなり。十方世界無量の仏国より、その往生するものまたまたかくのごとし、はなはだ多くして無数なり。われただ十方諸仏の名号と、および〔それらの仏国の〕菩薩・比丘のかの国に生ずるものを説かんに、昼夜一劫すともなほいまだ竟ることあたはじ。われいまなんぢがために略してこれを説くのみ」と。 |
仏説無量寿経 45
弥勒菩薩 がお尋 ねした。[
「世尊 、この世界から、[ 不退転 の位にある菩薩がどれくらい[ 無量寿仏 の国に生れるでしょうか」 釈尊が弥勒菩薩に[ 仰 せになる。[
「この世界からは、六十七億の不退転の位にある菩薩がその国に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである。その他、行の劣った菩薩やわずかな功徳しか積んでいないものも数えきれないほどいるが、どのものもみなその国に往生するであろう」
釈尊が続けて仰せになる。
「この世界のものだけが無量寿仏の国に往生するわけではない。他の仏の国からもまた同様に数多くその国に往生するのである。
第一に遠照仏 の国からは、百八十億の菩薩がみな往生するであろう。 第二に[ 宝蔵仏 の国からは、九十億の菩薩がみな往生するであろう。 第三に[ 無量音仏 の国からは、二百二十億の菩薩がみな往生するであろう。 第四に[ 甘露味仏 の国からは、二百五十億の菩薩がみな往生するであろう。 第五に[ 龍勝仏 の国からは、十四億の菩薩がみな往生するであろう。 第六に[ 勝力仏 の国からは、一万四千の菩薩がみな往生するであろう。 第七に[ 師子仏 の国からは、五百億の菩薩がみな往生するであろう。 第八に[ 離垢光仏 の国からは、八十億の菩薩がみな往生するであろう。 第九に[ 徳首仏 の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。 第十に[ 妙徳山仏 の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。 第十一に[ 人王仏 の国からは、十億の菩薩がみな往生するであろう。 第十二に[ 無上華仏 の国には、数えきれないほどの菩薩がいて、みな不退転の位にあり、すぐれた智慧をそなえている。すでに数限りない仏がたを供養し、普通なら百千億劫にもわたって修めなければならない尊い行を、わずか七日のうちに修めたほどのすぐれた菩薩であるが、これらの菩薩もみな往生するであろう。 第十三に[ 無畏仏 の国には、七百九十億のすぐれた菩薩たちをはじめ、行の劣った菩薩や修行僧も数えきれないほどいるが、みな往生するであろう」[
続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「この十四の仏の国のものだけが往生するわけではない。数限りないすべての仏の国からも同じようにその国に往生するのであり、その数は実に限りなく多い。わたしが、ただそのすべての仏がたの名とそれぞれの国から無量寿仏の国に生れる菩薩や修行僧の数をあげるだけでも、夜となく昼となく、一劫 という長い間をかけても説き尽すことはできない。今はそなたのために、そのほんの一部を説いたに過ぎない」[
ここを読んで違和感を持たれた方も多いでしょう。なぜなら『仏説無量寿経』22では、「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり」と説かれているからです。安楽浄土に生まれる者はみな
この一見矛盾した内容を解いてみると、まず第一に、この直前の章まで「胎化得失」が説かれていたことが思い起こされるでしょう。「かの国の人民に
第二に、世尊は相手の立場に立ち、敬虔な気持ちを尊重して「小行」・「少功徳」と説かれた≠ニ解釈することもできます。真実信心は他力回向の信心でありますから、決して「小行」・「少功徳」ではありませんが、菩薩自身が背負った宿業の深さと、敬虔な態度を尊んでこのように説かれ、「小行」・「少功徳」の自分であっても浄土に生まれることが適う≠ニ、懺悔の只中で味わうことができるように配慮されている。こう解釈できるわけです。
反対に、俺は真実信心者である≠ニ傲慢な態度をとり、回向された信心を自分の手柄でもあるかのように誇った者は、そんな俺だからこそ無量寿国に往生できるのだ≠ニの慢心が出ますので、これを抑えるためにも一文を加えられたのかも知れません。
第三に、弥勒菩薩は五十一位の等正覚であるが、まだ四十一位・初地の菩薩もいるから、そうした正定聚・不退転の菩薩のことを「小行」・「少功徳」と言っている、と解釈することもできます(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})。しかし経典をよく読めば、不退転の位にある菩薩は六十七億、そうでない「小行」・「少功徳」の退転の菩薩は「
なお、浄土に菩薩衆が集う内容については、「往覲偈」(『仏説無量寿経』26〜『仏説無量寿経』27b)を参照してください。
「わが
ですから「わが
ならば、他の十三仏土はどういう覚りでどの経典に依るものか、ということが問われますが、実は一々の仏名と菩薩の数の意味を具体的に明かすことは難しいのです。経典が編纂された当時のインドでは、仏名を聞いただけで皆ある程度察しがついたのでしょうが、今となっては推測するしかありません。
しかしその中で、「その第十二の仏を名づけて
この短い補足文、どこかで聞いたことのある内容です。
『阿弥陀経』には、「もしは一日もしは二日もしは三日もしは四日、もしは七日」とあります。そうすると、ここで何かといいますと、お浄土に生まれるということは、「信の一念、即得往生」という。こういう考え方と、今度は一生涯一生を尽くしてお浄土に生まれるという、即得往生と便得往生という。これは、時間をかけて徐々に一足一足日暮らしを通してお浄土に生まれていくという。「即」と字を「便」と字で即便往生。お経には即便往生とあるのを親鸞聖人が即得往生と便得往生と二つ分けておられる。だから、一念に往生するという考え方と十念、一生涯尽くしてお浄土に生まれるという二つの考え方あるのであります。
<中略> どういう行かというと、今までは何をしていいのか解らないのです。何のために人間に生まれて来たのか解らないのです。それが初めて、自分の中にあるお浄土の種を花として開かすこと。内にある功徳を生み出す。それをいうのです。だから、ちゃんと字引を繰ってみれば、徳とはどういうものかというと、内にあれば徳という。外に現れれば行という。だから、南無阿弥陀仏はこの功徳が現れて、生活を通して私の上に、この世の上にお浄土の花を開かしていく、それが行でしょう。これが真実の覚行という。これが正因、欲生という。欲生とはそういうもの。だから、こういうことで今ありました、「かつて無量の諸仏を供養しておって、七日の中においてすなわち百千億劫の長い間菩薩が修行した堅固の法を身に付けておる人」だと、こういっております。 <中略> そうすると、一体「無量の諸仏を供養する」とはどういうことなのかといいますと、前に申しましたように、私はただ単にお花を供える、供養は供えることですからお供えすることぐらいに思うたのです。そうではないのです。この前の菩薩の法式というところで申しましたように、第一に諸仏の前に立って自分の無始以来の宿業を懺悔する、第一ですよ。同時に相手を尊敬する。相手を褒めたたえていく、第二番目。第三番目はあなたの長い間ご修行なさったその全財産を精神的な財産、無形の財産を私に聞かせてくださいと法を請うということ。だから見なさいね。そうすると、そういうような無量の諸仏を供養、出会う人ごとから、『阿弥陀経』では、「これより西方十万億の仏道を過ぎて」とありましょう。十万億の仏道を過ぎるとは何かというと、この人からもお育てにあずかりこの人からもお育てあずかる。どの人からもお育てにあずかっていくという。それによって私がだんだんと功徳が身に付くという。この人の徳をもらっていき、この人の徳をもらって来るというのでありますから、そのことをここで説いておられるのでしょう。けれども、これはなぜわざわざここで説いておられるのかというと、これは何もただ第十二の無上華という仏さまだけではない。どこの国の仏さまであろうと、この世のものであろうとみんなこういうように信心決定した人は、たくさんなそういう諸仏を供養して、いろんな人からお徳をもらった。徳とは何か。人生とはこういうものですよ。こういうことを理解、智慧が一つと、もう一つはその徳が身に付くという。仏とは智慧と徳です。今までは皆、仏とは「智慧と慈悲」だといっておりますけれども、これは特別な考え方で、これは「智慧と徳」です。 『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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そして、ここに挙げられた十四の仏国以外にも、
この無限の数から鑑みますと、もはや仏教や宗教という範疇さえ超えていることが解るでしょう。つまり、無量寿仏国に生まれるということは、特定の法縁ではなく、無縁の大悲によるものであり、教えを理解させよう≠ニか覚らせよう≠ネどという押し付けがなくとも、どんな世界においても、苦悩あれば苦悩が活き、まごころから学び感謝するつながりによって人間そのものが本当に成就してくるのです。
私は以前{一万年の旅路}というネイティヴ・アメリカンの口承史を読んだことがあるのですが、驚いたことに、名称は異なりますが彼等は既に無量寿国に相当する世界を既に認識していました。彼等も私たちも、人類の尊き創造的世界の同朋なのでしょう。こうした人生成就の肝要が仏教によって無量寿仏国という名を得、経によって願いの詳細まで示されているのです。
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