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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』33

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 弥勒領解2

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 33

 仏、弥勒菩薩に告げたまはく、「なんぢがいへることは是なり。もし仏を慈敬することあらば、実に大善なりとす。天下に久々にしていましまた仏まします。いまわれこの世において仏となりて、経法を演説し、道教を宣布して、もろもろの疑網を断ち、愛欲の本を抜き、衆悪の源を杜ぐ。三界に遊歩するに拘礙するところなし。典攬の智慧は衆道の要なり。綱維を執持して昭然分明なり。五趣を開示していまだ度せざるものを度し、生死と泥オンの道を決正す。弥勒まさに知るべし、なんぢ無数劫よりこのかた菩薩の行を修して衆生を度せんと欲するに、それすでに久遠なり。なんぢに従ひて道を得、泥オンに至るもの、称り数ふべからず。なんぢおよび十方の諸天・人民、一切の四衆、永劫よりこのかた五道に展転して、憂畏勤苦つぶさにいふべからず。乃至今世まで生死絶えず。仏とあひ値うて経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり。快きかな、はなはだ善し。われ、なんぢを助けて喜ばしむ。なんぢいままたみづから生死老病の痛苦を厭ふべし。悪露不浄にして楽しむべきものなし。よろしくみづから決断し、身を端しくし行ひを正しくして、ますますもろもろの善をなし、おのれを修めて体を潔くし、心垢を洗除し、言行忠信にして表裏相応すべし。人よくみづから度してうたたあひ拯済し、精明に求願して善本を積累せよ。一世に勤苦すといへども須臾のあひだなり、後に無量寿仏国に生れて快楽極まりなし。長く道徳と合明して永く生死の根本を抜き、また貪・恚・愚痴の苦悩の患へなく、寿一劫・百劫・千万億劫ならんと欲へば、自在に意に随ひてみなこれを得べし。〔浄土は〕無為自然にして泥オンの道に次し。なんぢら、よろしくおのおの精進して心の所願を求むべし。〔仏智を〕疑惑し中悔して、みづから過咎をなして、かの辺地の七宝の宮殿に生れて、五百歳のうちにもろもろの厄を受くることを得ることなかれ」と。弥勒、仏にまうしてまうさく、「仏の重誨を受けて専精に修学し、教のごとく奉行して、あへて疑ふことあらじ」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 33

 釈尊が弥勒菩薩[みろくぼさつ]に仰せになる。
「そなたのいう通りである。仏を敬愛[けいあい]することは実に大きな功徳となる。仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着[しゅうちゃく]を根本から抜き去り、すべての悪の[みなもと]を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている。教えを取りまとめる仏の智慧はすべてのさとりの道のかなめであり、教えは筋道を固くたもってはっきりしている。そしてこれを迷いの世界の人々に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである。
 弥勒よ、知るがよい。そなたは、はかり知れないほどの遠い昔から菩薩として修行をし、人々を救おうと願い、今日まで限りない時を経てきた。そしてその間、そなたによって仏道に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い。しかしながら、そなたをはじめ、さまざまな世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、みなはるかな昔から迷いの世界に生れ変り死に変りして[うれ]え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。そして、今もなお迷いの世界にとどまり続けている。このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏[むりょうじゅぶつ]のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。わたしもそれをともに喜びたい。
 そなたたちは、今こそ生・老・病・の苦しみを離れようと思うがよい。この世は[みにく][けが]れに満ちていて、楽しむべきものは何もない。すすんで決断して、身も行いも正しくし、より多くの善い行いをし、身をつつしんで心の汚れを洗いきよめ、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。そして自分が迷いを離れるとともに他の人々をも救い、往生してさとりを得ることをひたすら願って、功徳を積むがよい。一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである。それから先はずっとさとりにかなって智慧が明らかとなり、永遠に迷いの世界から離れ、ふたたび貪りや怒りや愚かさのために苦しむことはない。寿命は一[こう]でも百劫でも、あるいは千万億劫でも、自由自在に得ることができる。まことにその国ははからいを離れた世界であり、涅槃[ねはん]のさとりに至るのである。だから、そなたたちはそれぞれに努め励んで、往生を求めるがよい。疑いを起して途中でやめ、すすんで罪をつくることとなり、その国土のほとりにある七つの宝でできた宮殿に生れ、五百年の間、仏を見たてまつらないなどのわざわいを受けるようなことがあってはならない」
 そこで弥勒菩薩がお答えした。
「世尊の懇切丁寧な教えをいただきましたからには、ひたすらさとりを求めて仰せの通りに修行し、決して疑うようなことはございません」


 弥勒の領解をなぞり補う

註釈版
 仏、弥勒菩薩[みろくぼさつ]に告げたまはく、「なんぢがいへることは是なり。もし仏を慈敬[じきょう]することあらば、実に大善なりとす。天下[てんげ]久々[くく]にしていましまた仏まします。いまわれこの世において仏となりて、経法[きょうぼう]を演説し、道教[どうきょう]宣布[せんぷ]して、もろもろの疑網[ぎもう]を断ち、愛欲の本を抜き、衆悪[しゅあく][みなもと][ふさ]ぐ。三界[さんがい]遊歩[ゆぶ]するに拘礙[くげ]するところなし。典攬[てんらん]の智慧は衆道[しゅどう][かなめ]なり。綱維[こうゆい]執持[しゅうじ]して昭然分明[しょうねんぶんみょう]なり。五趣[ごしゅ]開示[かいじ]していまだ[]せざるものを度し、生死[しょうじ]泥オン[ないおん]の道を決正[けっしょう]す。
現代語版

 釈尊が弥勒菩薩[みろくぼさつ]に仰せになる。
「そなたのいう通りである。仏を敬愛[けいあい]することは実に大きな功徳となる。仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着[しゅうちゃく]を根本から抜き去り、すべての悪の[みなもと]を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている。教えを取りまとめる仏の智慧はすべてのさとりの道のかなめであり、教えは筋道を固くたもってはっきりしている。そしてこれを迷いの世界の人々に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである。

 この節は、前章後半にある弥勒菩薩の感謝の言葉に対し、世尊が応答し、菩薩の領解[りょうげ]を補って法が説かれます。

<なんぢがいへることは是なり。もし仏を慈敬[じきょう]することあらば、実に大善なりとす>
(そなたのいう通りである。仏を敬愛[けいあい]することは実に大きな功徳となる)
「是」は「正しい、善い、素直、満足すべき状態にある」ということですから、仏は弥勒菩薩の領解にそなたの述べたことは正しい∞そなたは仏意を素直に正しく受け取っている≠ニ褒めているのです。これは他人事ではありません。私自身も、仏法を聞いた上は自らの領解を師に申し上げ、この領解で間違いはないのでしょうか≠ニ、お[うかが]いをたてねばならないのです。このことについて蓮如上人は――
一 前々住上人[ぜんぜんじゅうしょうにん](蓮如)、法敬[ほうきょう]に対して[おお]せられ[そうろ]ふ。まきたてといふもの知りたるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度[ひとたび]たねを[]きて手をささぬものに候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり。人に直されまじきと思ふ心なり。心中[しんちゅう]をば申しいだして人に直され候はでは、心得の直ることあるべからず。まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』106
(現代語版: 蓮如上人[れんにょしょうにん]法敬坊[ほうきょうぼう]に、「まきたてということを知っているか」とお[たず]ねになりました。法敬坊が、「まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです」とお答えしたところ、上人は、「それだ。仏法でも、そのまきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてまきたてである。心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。まきたてのような心では信心を得ることはできないのである」と仰せになりました)
と、「まききたて」を警戒してみえます。
 ところで、世尊が目の前にみえればこの弥勒菩薩のように師に領解を述べれば良いのですが、私たちは誰に領解を述べれば良いのでしょう。
 まず読経の時に仏像を拝して述べるということが第一にありますが、聞書には「人」(他の人)に述べるとあります。これは常識的に言えば「御同行」である僧侶・門徒衆を指すでしょう。尊敬する師がいればその方に聞けば良く、また道を同じくする人たちに述べても良いわけです。
 しかし本当は、僧侶や門徒衆に限定する必要はありません。たとえ相手が浄土真宗をよく知らない人でも、仏教を知らなかったり宗教に関心がない人でも構わないのです。他人に自らの領解を語る時は、仏教の専門用語を使う必要はありません。領解はいわば人生観ですから、仏教の教理を使う必要もなく、一般の言葉を用いて人生を語れば良いのです。周囲の人たちは私の生活態度を逐一[ちくいち]見ているわけですが、この私の生活態度≠サのものが私の偽らざる領解ですから、周囲の声は「御同行」の声でもあります。
 さらに言えば、「事実に聞け」ということを申します。自分の領解・人生観が正しいかどうかは、自らの[]りようが答えを出しています。なぜなら領解の内容こそ今の自分自身だからです。今の自分自身を受け取ることができず、言い訳ばかりする日々であるならば、それは他人や境遇ではなく領解・人生観にこそ問題があるのです。
 そこで世尊は「もし仏を慈敬[じきょう]することあらば、実に大善なりとす」と説かれます。最高の智慧と功徳を具えた仏を敬愛すれば、敬愛を行う側に最高の功徳がもたらされることは能所不二[のうしょふに]の道理で全く当たり前のことなのです
 そこでこの「仏」の内容をあらためて検証するくだりが以下の内容です。
天下[てんげ]久々[くく]にしていましまた仏まします。いまわれこの世において仏となりて、経法[きょうぼう]を演説し、道教[どうきょう]宣布[せんぷ]して>
(仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ)
 例えば「礼讃文[らいさんもん]」において「三帰依文[さんきえもん]」の前後をはさんだ序には、「人身[にんじん]受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生[こんじょう]にむかって[]せずんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん。大衆もろともに至心[ししん]三宝[さんぽう]帰依[きえ]したてまつるべし」とあり、また後には「無上甚深微妙[むじょうじんじんみみょう]の法は、百千万劫[ひゃくせんまんごう]にもあい遇うことかたし。われ今見聞し受持することをえたり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん」とありますが、本当に仏に遇うことは難しく極めて[まれ]なことなのであります。とことが今、仏は世に出られ、皆に法を説き、教えをひろめられるわけですから、経典は本当に稀有[けう]な場を述べているのです。
<もろもろの疑網[ぎもう]を断ち、愛欲の本を抜き、衆悪[しゅあく][みなもと][ふさ]ぐ。三界[さんがい]遊歩[ゆぶ]するに拘礙[くげ]するところなし>
(さまざまな疑いを断ち切り、執着[しゅうちゃく]を根本から抜き去り、すべての悪の[みなもと]を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている)
 仏の説かれたところは――「もろもろの疑網[ぎもう]を断ち」とは、仏や菩薩や御同朋のまごころを疑う心を断ち切るということ、「愛欲の本を抜き」は、執着[しゅうちゃく]を根本から抜き去ること、「衆悪[しゅあく][みなもと][ふさ]」とは、様々な悪の元をみな閉じふさぐことをいい、仏法にはそうしたはたらきがあることを述べています。
 そして、「三界[さんがい]遊歩[ゆぶ]するに拘礙[くげ]するところなし」とあります。三界は欲界・色界・無色界(参照:{論註・荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」})をいいますが、こうした世界は仏道を歩む上で様々な妨げがあるのです。しかし仏は、迷いの世界に「遊歩[ゆぶ]する」、障りなく歩み「各地をめぐって説法教化する」ことができる、とあります。仏は智慧と徳を満足させてみえることにより、相手が解り世の中が解り人々の信頼を得ることができますので、どんな世界に行っても人々を導くことが適うのです。
典攬[てんらん]の智慧は衆道[しゅどう][かなめ]なり>
(教えを取りまとめる仏の智慧はすべてのさとりの道のかなめであり)
典攬[てんらん]」は{弥勒領解1#3}にもありましたが、「典」は「ずっしりとした、貴重で基本となる書物」、「攬」は「集めて手に持つ。とりまとめて持つ」意です。こうした多くの尊い書物や言葉が一人格に結実し用いられるものが智慧であります。これこそは「衆道[しゅどう][かなめ]」であるというのですが、これは単に仏教の衆道というだけではなく、森羅万象・文化文明の要として存在し用いられる智慧であることを意味します。仏はこの一番大事な肝心要[かんじんかなめ]を覚り述べ伝えてみえるのです。
綱維[こうゆい]執持[しゅうじ]して昭然分明[しょうねんぶんみょう]なり>
(教えは筋道を固くたもってはっきりしている)
「綱維」は「教法の大綱」ということであり、「執持[しゅうじ]して」とは先の「衆道[しゅどう][かなめ]」として軸足[じくあし]がぶれないことを言います。「昭然分明[しょうねんぶんみょう]」とは、「昭然」は「あきらかなさま」、「分明」は「他と区別がついて、はっきりしていること」をいいます。
五趣[ごしゅ]開示[かいじ]していまだ[]せざるものを度し、生死[しょうじ]泥オン[ないおん]の道を決正[けっしょう]す>
(そしてこれを迷いの世界の人々に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである)
五趣[ごしゅ]」とは地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]・人間・天上の「五悪趣[ごあくしゅ]」のことです。一般的には六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)が用いられますが、修羅[しゅら]は餓鬼や天に含めて五趣と呼びます。「趣」とは、「衆生が自分のつくった業(行為)によって導かれ[おもむ]く生存の状態、または世界」であり、特に地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]は三悪道といいます。(参照:{無三悪趣の願})。ちなみに天・人・修羅[しゅら]の世界を「三善趣[ぜんしゅ]」と呼ぶ場合もありますが、ここでは地獄・餓鬼・畜生・人・天の世界全てを「五悪趣」と定めています。この「五悪趣」を「開示[かいじ]して」とありますところは、「迷いの世界の人々に開き示して」と訳してありますが、「迷いの五悪趣世界のありさまを事細かに人々に開き示して」という意も含まれているでしょう(参照:{釈迦指勧 浄穢欣厭})。
いまだ[]せざるものを度し」の「度」は「渡す」意で、「無常と苦の此岸から、常住であり、楽である彼岸へ渡すこと。迷いの此岸から、さとりの彼岸に渡し救うこと。さとりの世界、仏の世界へ導き入れること」をいいます。
生死[しょうじ]泥オン[ないおん]の道を決正[けっしょう]」の「生死」は「無常と苦の此岸」であり「迷いの世界」、「泥オン[ないおん]」(オンは三水[さんずい]に亘)は「ニルヴァーナ」の音写で吹き消す意があり、「涅槃[ねはん]」・「滅度[めつど]」と訳し、「燃え盛る煩悩の火を滅尽して、さとりの智慧即ち菩提を完成した境地」をいい、大乗仏教ではここに「常・楽・我・浄」の四徳を加えた涅槃を提示します(参照:{弥陀果徳 道樹楽音荘厳}{#常楽我浄の四顛倒}{必至滅度の願})。この「生死」と「涅槃」の道を「決正[けっしょう]す」、つまり世間と世間を越えた出世間≠「はっきりと分けている」ということですが、これはどういう意味でしょう。それは「生死」と「涅槃」は言葉も世界もまるきり正反対のようでありながら、「生死即涅槃[しょうじそくねはん]」で、表裏一体となって私たちに提示されているのです。迷いの世界といっても覚りの世界の裏づけがあってはじめて迷いの世界の何たるかが解るのであり、覚りの世界といっても迷いの世界があるがゆえに願いとして存在しているのです。さらには、「娑婆[しゃば]を娑婆と知らしめて浄土があり、浄土を浄土と願わしめて娑婆がある」といいますように、浄土があるゆえに私たちは苦悩の現実に生きる意味があるのであり、苦悩の現実があるゆえに浄土の存在意義があるのです。ただしこれは、「生死」と「涅槃」の別、「娑婆」と「浄土」の別を「正しく明かす」、見極めて初めて適うことであり、「生死」と「涅槃」、「娑婆」と「浄土」を混同してしまっては元も子もありません

 未来仏をたよる信仰を批判

註釈版
弥勒まさに知るべし、なんぢ無数劫[むしゅこう]よりこのかた菩薩[ぼさつ]の行を修して衆生を度せんと欲するに、それすでに久遠[くおん]なり。なんぢに従ひて道を得、泥オンに至るもの、[はか]り数ふべからず。なんぢおよび十方の諸天・人民、一切の四衆[ししゅ]永劫[ようごう]よりこのかた五道に展転[てんでん]して、憂畏勤苦[ういぼんく]つぶさにいふべからず。乃至今世[ないしこんぜ]まで生死絶えず。仏とあひ[]うて経法を聴受[ちょうじゅ]し、またまた無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を聞くことを得たり。[こころよ]きかな、はなはだ善し。われ、なんぢを助けて喜ばしむ。
現代語版
 弥勒よ、知るがよい。そなたは、はかり知れないほどの遠い昔から菩薩として修行をし、人々を救おうと願い、今日まで限りない時を経てきた。そしてその間、そなたによって仏道に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い。しかしながら、そなたをはじめ、さまざまな世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、みなはるかな昔から迷いの世界に生れ変り死に変りして[うれ]え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。そして、今もなお迷いの世界にとどまり続けている。このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏[むりょうじゅぶつ]のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。わたしもそれをともに喜びたい。
 ここは昔から意味がとりにくい箇所≠ニされています。と言いますのは、仏は最初「そなたによって仏道に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い」と弥勒菩薩を褒めておきながら、すぐ後に「みなはるかな昔から迷いの世界に生れ変り死に変りして[うれ]え苦しみ続けてきた」のであり「今もなお迷いの世界にとどまり続けている」と、まるで前言を撤回したかのような言い方がなされているからです。
 この矛盾を島田幸昭師は――
 先におっしゃった言葉と後におっしゃったことが食い違うておる。矛盾しておるというふうに言っておられるのでありますけれども、これはこういうふうに受け取ればよかろうと思います。と言いますのは、弥勒菩薩が自分もさとり、相手もさとらそうと永い間修行してきたが、そのおまえに従ってネハンをさとり、世間を越えたそういう煩悩のなくなった人もたくさんおる。けれども、まだ弥勒を入れて十方の諸天人民の一切の四衆が、四衆というのは四つの人を分けたのでありまして、四衆というのは男の坊さんと女の坊さんと、今度在家の男の人と女の人と、信者という。男の信者と女の信者とこれを四衆と言っておりますから、そういう人たちがまだ迷いから逃れておらない。こういうことでありますから、そこで、強いて言えばここら辺りはそういうはっきりとネハンをさとったと、言うならば、ネハンをさとった人はたくさんおるけれども、そうでない人もたくさんおる。こう二通りに受け取るべきか、
そうではなく、ネハンをさとったと言っておるけれども、そのネハンのさとり方がただ単に人生というものは、浅ましいものだなというようにそういうこの世を越えた、そういう人生を見る。言うなら常識の世界をもう一遍退一歩して、なんと我々は浅ましいものだなと、こういうような何か今までと違った静かなそういう心が出てきたという。けれども、表面はやっぱり迷うておるのだとこういう意味で受け取ればどうであろうか。
 例えば、西田博士が「我が心 深き底あり 喜びも 憂いの波も とどかじと思う」と、こういう歌を作っておられます。「我が心 深き底あり」、私の中に深い深い静かな心があって、それで「喜びも 憂いの波も とどかじと思う」と、だから、うれしい時にはうれしい。悲しい時には悲しいけれども、ただうれしい悲しいだけではない。そのうれしいことも悲しいこともそういう心の届かない、もっと静かな心が生まれておるということを言っておられるのではないか。
 親鸞聖人で言うならば、「不断煩悩得涅槃」という。煩悩はあるのだから現在迷うておる。けれども、心底には静かな心がある。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

と解いて下さいましたが、これだけではどうも[]に落ちないところもあるでしょう。

 そもそも弥勒菩薩[みろくぼさつ]とはどういう存在なのかというと――「現在は菩薩のままその浄土の兜率天[とそつてん]で天人のために説法しているが、釈迦仏の予言によって、その寿が四千歳(人間の五十六億七千万年)尽きた時、この世に下生して龍華樹[りゅうげじゅ]の下で成仏し、三会[さんね]において説法する約束である。その時は仏の資格を得るから弥勒仏とも称される」(佛教語大辞典/東京書籍)、「弥勒下生経(三本ある)や観弥勒菩薩上生兜率天経などに、弥勒菩薩は現在は兜率天[とそつてん]の内院にあって衆生を教化し、釈迦牟尼仏[しゃかむにぶつ]の入滅から五十六億七千万年の後に娑婆世界[しゃばせかい]に下生して、華林園の竜華樹の下で仏陀のさとりを開き、釈迦牟尼仏の説法に洩れた衆生のために三回の説法の会座をもつという(竜華三会[りゅうげさんね])。釈迦牟尼仏のあとを補う未来仏であり、補処[ふしょ]の弥勒と呼ばれ、弥勒仏とも称する。インド以来、弥勒菩薩に対する信仰として、兜率天に生まれて、下生の時まで弥勒菩薩のもとで修行しようと願う兜率願生や、入定して弥勒の下生の時を待とうとするものがある。/弥勒の三会は竜華三会[りゅうげさんね]ともいわれ、釈迦の教化に洩れた衆生で、仏滅後の正像末の三時において善い行いをして功徳を積んだものは、この会に参加することができて、さとりを開くことができると信じられ、古来僧侶の間にこれを待つ信仰が行われた」(佛教大辞典/法蔵館)等と説明があります。

 つまり弥勒菩薩は現在は兜率天[とそつてん]で説法していますが、釈尊の跡継ぎとして五十六億七千万年後の娑婆[しゃば]に出現する未来仏であり、その頃の人民には煩悩が少なく十善を行う世となり、ここに至って弥勒が成仏する。そしてその際、釈尊の説法に洩れた衆生のために三回の説法を行うとされ、この会に参加するためには今善い行いをして功徳を積む必要がある、というわけです。
 この弥勒菩薩の存在について、皆さんはどう思われますか。
 実は日本においては、阿弥陀浄土教が隆盛するまではこの弥勒仏信仰の方が盛んだったことは、各所の文献や仏像において確認することができます。それは、この世の絶望的な状況に対して真の救済が為されていなかった、そうした時代における仮の救済方法≠ナあったと思われます。しかしこれは解決の先延ばし策でしかありません。
「釈尊の説法に洩れた衆生」というのは他ならぬ罪悪深重[ざいあくじんじゅう]煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の私たち衆生≠ナありましょう。この私が本当に済度され成仏を果たすためにはどうしたら良いのか。弥勒信仰では、結果が出るのは五十六億七千万年後です。比べて阿弥陀仏は既に十劫の昔に成仏し、今現在も説法を続けている仏≠ナあります(参照:
{弥陀果徳 十劫成道 })から、私たちは本願成就の歴史を聞き開き、弥陀成仏の因縁果報を疑いなく信じ、仏の功徳を褒め称える身となれば、即得往生住不退転[そくとくおうじょうじゅうふたいてん]で、信心獲得と同時に正定聚不退転[しょうじょうじゅふたいてん]の身となり、滅度[めつど]に至る人生が得られる、このことは疑いようのない真実であります。
 親鸞聖人はこのことについて――

弥勒の妙覚[みょうがく]のさとりはおそく、われらが滅度[めつど]にいたることは[][そうら]はんずるなり。かれは五十六億七千万歳のあかつきを[]し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸頓[ぜんとん]のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。滅度といふは妙覚なり。
『親鸞聖人御消息』13 より
弥勒[みろく]菩薩が妙覚[みょうかく]のさとりを開くのは遅く、わたしたちが滅度[めつど]に至るのは間違いなく速いのです。弥勒菩薩は五十六億七千万年後の明け方を待ち、わたしたちは竹の内側の薄い[まく]を隔てるくらいのわずかな時を待つばかりです。さとりを開くのが遅いか速いかでいえば、弥勒菩薩も速いのですが、私たちは速い中でももっとも速いのです。滅度というのは妙覚のことです。
(現代語版)

と、比較して念仏の道を勧めてくださいました。
 また島田幸昭師は――
弘法大師がどう言われたかいうと、お釈迦さんに生まれ遅れること、千年か。今度は弥勒菩薩に先立つこと、まあ、五十六億か。だから、中途半端で、そこでわしは奥の院、高野山の奥の院に行って、そこで弥勒の出生を待つ。こう言うて今でもじょうに入っておるということになっておるでしょうが。そういうことに対する爆弾宣言。「五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん」、いつ出て来るか、出て来んような、弥勒菩薩の出現待つ、大馬鹿者じゃがな。手を合わせ、手を合わせ、手が合わされてみたら、この念仏の行者が弥勒と同じ。親鸞その人が第二のシャカですよ。しかも親鸞じゃない、どんな人にも、手が合わされた人はこの世でみな弥勒と同じよ。如来と等しいの。そういうこと、
それに対して、いったいこれ八十五の時に作ったんですよ。一番最初が「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ 正像の二時はをはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」でありましょう。これは何かいうと、栂尾の明恵上人や、高尾の明恵上人が、解脱上人、笠置の解脱上人、こういう人たちに対する仏教が堕落した。仏教が堕落した。原始のシャカに帰れ、原始のシャカに帰れという、復古精神という、こういう復古精神に対して、なぜか爆弾宣言をした。いつの時代にも、こういう、昔は良かった、昔は良かったいう、いうことに、もう、釈迦如来隠れましまして二千余年経っておるじゃないか、もう時間も、もう今を昔に返すことはできんの
そういうと今度はそれに対して反対に、英雄待望論という。そういう第二の釈迦出て来いと言う人たちに対する爆弾宣言が今の五十六億七千万であって、そういういつ出て来るか、出て来ん、当てにする、大馬鹿者じゃというこの親鸞のこの意気を見なさいや、親鸞聖人の。そこに親鸞聖人が本当に人間の生きる道はここにあるということをおっしゃったのですから。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

と、復古主義や英雄待望論を退けられました。この二つはいつの時代にもあり、特に乱世になると、こうした人々を迷わす思想や宗教が台頭してきますので注意が必要です。
 実際私たちは、こうした仮の教えに留まって迷いを重ね、はるか未来に希望を託すしか道がなかったのですが、浄土教においては、今私の足元に浄土の功徳が顕現し、信心となって我が心に至り、身に満ち、我が人生を荘厳している≠ニ喝破されました。

 なお経には「またまた無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を聞くことを得たり」とあります。「又復[またまた]」ということは、弥勒菩薩に従っている衆生も過去には無量寿仏の名を聞いたことがあると≠「うことになります。これは、一見すると浄土教に無縁の人でも、それは隠れているだけで、本質としては浄土の功徳を蔵している≠ニいう衆生の真実が見抜かれているのでしょう。

 闇取引のものさし≠捨てる

註釈版
なんぢいままたみづから生死老病[しょうじろうびょう]痛苦[つうく][いと]ふべし。悪露不浄[おろふじょう]にして楽しむべきものなし。よろしくみづから決断し、身を[ただ]しくし行ひを正しくして、ますますもろもろの善をなし、おのれを[おさ]めて体を[いさぎよ]くし、心垢[しんく]洗除[せんじょ]し、言行忠信[ごんぎょうちゅうしん]にして表裏相応[ひょうりそうおう]すべし。人よくみづから度してうたたあひ拯済[じょうさい]し、精明[しょうみょう]求願[ぐがん]して善本[ぜんぽん]積累[しゃくるい]せよ。
現代語版
 そなたたちは、今こそ生・老・病・の苦しみを離れようと思うがよい。この世は[みにく][けが]れに満ちていて、楽しむべきものは何もない。すすんで決断して、身も行いも正しくし、より多くの善い行いをし、身をつつしんで心の汚れを洗いきよめ、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。そして自分が迷いを離れるとともに他の人々をも救い、往生してさとりを得ることをひたすら願って、功徳を積むがよい。

「(この世は)悪露不浄[おろふじょう]にして楽しむべきものなし」ということですが、「露」は「露呈[ろてい]発露[はつろ]」と熟されますように「透明にすけて見えること。あらわす。あわられる」意です。「悪露」は悪が透けてあらわれ出る≠アとで、これが「不浄」なのですから、「悪露不浄」とは「醜悪さがあわわれて汚いこと」をいいます。

 では何が悪なのでしょう。

そんか とくか
人間のものさし
うそか まことか
仏さまのものさし
(相田みつを)
 結論から言えば、「善悪を量りにかける」こと自体が仏教では「悪」なのです。迷った人間はいつも、自分の損得や都合、身びいきを通して物事を量りにかけ、善悪の判断をしています。先師はこれを「闇取引のものさし」といってみえますが、凡夫は自分がこうした[ひず]んだものさし≠持っていることにも気づきません。さらにこの[ひず]んだものさしを正当化するため虚しい努力を続け、常に他人と争っているありさまです。親鸞聖人はこれを――「煩悩具足[ぼんのうぐそく]の凡夫、火宅無常[かたくむじょう]の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄 後序)と仰ってみえます。

 仏教一般では、自分が大事に抱えているこの闇取引のものさし≠捨てさせ、我執のない出世間のものさし≠ノよって善悪を量るのですが、「ただ念仏のみぞまこと」ということは、「四十八願に照らして願いに生きる」ということがものさしになる、これが念仏のものさし≠ナあり出出世間のものさし≠ナありましょう。歎異抄の「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」ということも、善悪を捨てて生きるのではありません。人間は常に善かれ≠ニ思って決断し生きているのであり、そう思わなければ生きる力も湧いてきません。「ますますもろもろの善をなし」から「精明[しょうみょう]求願[ぐがん]して善本[ぜんぽん]積累[しゃくるい]せよ」とあるのはこれを言います。しかしその際、自分のものさしの狂いをよくよく認識することが大事なのであり、そのためには日々本願力回向のものさし≠ノ自分のものさし≠[たく]し、懺悔し、願いに生きること、これが「ただ念仏のみぞまことにておはします」という真意でしょう。

 ただし、ここで間違っていけないのは、念仏のものさし≠直接物事に押し当ててはいけないということです。これをやると我執よりさらに頑迷な法執が前面に出てしまます。この法執によってつくられたものさし≠ヘ「教条主義」であり、我執の正当化にさらに力を与えてしまいます。実際、宗教者の頑迷なものさしによって過去どれほど世の中が汚れ破壊されてきたか、枚挙に暇がありません。念仏のものさし≠ヘあくまで自分の闇取引のものさし≠捨てるためにあるのであり、他人を批判したり、命令したり、直に政治を動かす指針として用いるものではありません。たとえば、経典にはこう書いてあるが、現実はそうなっていない。だからこれを変えるべきだ≠ニいう言い方は本当の仏教ではありえないのです。こうした教条主義は意外と僧侶の中にもありますので、よくよく注意しなくてはならないでしょう。

 欲楽に執着する衆生のための仮の教え

註釈版
一世に勤苦[ごんく]すといへども須臾[しゅゆ]のあひだなり、後に無量寿仏国[むりょうじゅぶっこく]に生れて快楽極まりなし。長く道徳と合明[ごうみょう]して永く生死の根本を抜き、また[とん][]愚痴[ぐち]の苦悩の[うれ]へなく、寿一劫[いのち いっこう]・百劫・千万億劫ならんと[おも]へば、自在に[こころ]に随ひてみなこれを得べし。〔浄土は〕無為自然[むいじねん]にして泥オンの道に[ちか]し。なんぢら、よろしくおのおの精進して心の所願を求むべし。
現代語版
一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである。それから先はずっとさとりにかなって智慧が明らかとなり、永遠に迷いの世界から離れ、ふたたび貪りや怒りや愚かさのために苦しむことはない。寿命は一[こう]でも百劫でも、あるいは千万億劫でも、自由自在に得ることができる。まことにその国ははからいを離れた世界であり、涅槃[ねはん]のさとりに至るのである。だから、そなたたちはそれぞれに努め励んで、往生を求めるがよい。

たとえ一生涯苦労したとしても、後の世の永さと比べればほんの短い間なのだから、現世ではひたすら努力して往生を求めなさい≠ニいう勧めですが、これはもちろん一時しのぎの甘言に過ぎません。欲楽に執着し続け、迷いの[]めない衆生に対し、彼等を真実信心に導入させるための仮の教えなのです。ですから真実信心獲得の後には、こうした一時的な教えはさっさと捨てなくてはならないのですが、どうもこうした仮の教えを真実実相として説いているのではないか、と思われる僧侶もみえますので注意が必要です。
 こうした懸念について、曇鸞大師は――

 王舎城所説[おうしゃじょうしょせつ]の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生[さんぱいしょう]のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提[むじょうぼだい]の心を[おこ]さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心[がんさぶっしん]なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心[どしゅじょうしん]なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取[せっしゅ]して有仏[うぶつ]の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること[ひま]なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持[じしんじゅうじ]の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること[ひま]なし。
『往生論註』105
聖典意訳: 王舎城[おうしゃじょう]において説かれた《無量寿経[むりょうじゅきょう]》のうえを考えてみると、往生を願う上・中・下の三類の人の中で、その修行には優劣があるけれども、いずれもみな、無上菩提心[むじょうぼだいしん]すなわち他力の信心をおこさないものはない。この無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度[さいど]しようとする心である。衆生を済度しようとする心とは、衆生を[おさ]めて仏のまします浄土に生まれさせる心である。こういうわけであるから、彼の安楽浄土[あんらくじょうど]の往生を願う人は、かならず無上菩提心すなわち信心を起こさねばならぬ。もし人が、この信心をおこさずに、ただかの浄土の楽しみを受けることが絶えまのないということを聞いて、楽しみを貪るために往生を願うような者は、また往生はできぬのである。そこで、「自身の住持[じゅうじ]の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと[おも]うが故なり」といわれたのである。「住持の楽」とは、彼の安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によってたもたれて、楽しみを受けることが絶えまがないということである。
と警鐘を鳴らしてみえます(参照:
{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})。

 ではどうすれば良いのかと申しますと、親鸞聖人は「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末[しょうきほんまつ]を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(『顕浄土真実教行証文類』信文類三65)と仰せられました。これは先にも申しましたように、本願成就の歴史を聞き開き、弥陀成仏の因縁果報を疑いなく信じ、仏の功徳を褒め称える身となる≠ニいうことです。このように、私たちが正定聚不退転[しょうじょうじゅふたいてん]の身を住持[じゅうじ]する≠ニいうことが浄土の一切なのであり、死後の問題などは、正定聚の菩薩としては当然の結果として解決されてゆくのです(参照:{後生の一大事について})。

 真仏土と仮身土

註釈版
〔仏智を〕疑惑し中悔[ちゅうげ]して、みづから過咎[かぐ]をなして、かの辺地[へんじ]の七宝の宮殿[くでん]に生れて、五百歳[ごひゃくさい]のうちにもろもろの[わざわい]を受くることを得ることなかれ」と。弥勒、仏にまうしてまうさく、「仏の重誨[じゅうけ]を受けて専精[せんしょう]修学[しゅがく]し、教のごとく奉行[ぐぎょう]して、あへて疑ふことあらじ」と。
現代語版
疑いを起して途中でやめ、すすんで罪をつくることとなり、その国土のほとりにある七つの宝でできた宮殿に生れ、五百年の間、仏を見たてまつらないなどのわざわいを受けるようなことがあってはならない」
 そこで弥勒菩薩がお答えした。
「世尊の懇切丁寧[こんせつていねい]な教えをいただきましたからには、ひたすらさとりを求めて仰せの通りに修行し、決して疑うようなことはございません」

 前節に引用しました曇鸞大師の「楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし」ということがこの「七宝の宮殿」のありさまです。これは「自力」や「疑いの罪」によって真実報土に生まれる(化生)ことが適わない人々で、他にも「七宝の獄」・「七宝の牢獄[ろうごく]」という言い方がされます。
 念仏の道にご縁をいただいた方々は、既に浄土の功徳を頂いているわけですからそれだけでも尊いのですが、この尊さを本当に生かすためには、如来の真意を正しく信知させて頂き、全員が真実報土(真仏土)に生まれてほしいのです。
 如来の願海には「真」と「仮」がありますから、その果報も「真仏土」と「仮身土」に分かれます。なぜ「仮」があるのかは、先に述べました通り欲楽に執着し続け、迷いの醒めない衆生に対し、彼等を真実信心に導入させるため≠ノ設けられたのです。真仏土は如来の本願と
兆載永劫[ちょうさいようごう]の修行が報いた浄土ですから無量の功徳がありますが、仮身土は衆生の様々な業因によって成立しますので、報いた国土にも様々な欠陥があり、功徳も自力のうちに閉じてしまっています。こうなっては、無量寿仏を拝することができず、浄土も見えず、菩薩衆も見えず、無量寿仏の「今現在説法」が聞こえず、菩薩の法式(菩薩の日課)が解らないまま虚しく過ぎてしまうのです。
 親鸞聖人は、このように如来の本願を疑い自力の念仏を行じるありさまを――

自力称名[じりきしょうみょう]のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる
『正像末法和讃』65
自力諸善[じりきしょぜん]のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける
『正像末法和讃』67
本願疑惑[ほんがんぎわく]の行者には 含花未出[がんけみしゅつ]のひともあり 或生辺地[わくしょうへんじ]ときらひつつ 或堕宮胎[わくだくたい]とすてらるる
『正像末法和讃』69
七宝の宮殿[くでん]にうまれては 五百歳のとしをへて 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益[うじょうりやく]はさらになし
『正像末法和讃』72
辺地七宝[へんじしっぽう]の宮殿に 五百歳までいでずして みづから過咎[かぐ]をなさしめて もろもろの[やく]をうくるなり
『正像末法和讃』73
と和讃などに詠まれ、自力を翻して本願力回向の信心に入ることを勧めます。
 なお真実信心は、如来の本願と兆載永劫の修行の歴史を聞き開いて信知し、名号(南無阿弥陀仏)に施された功徳を讃嘆することによって、仏の方より自ずと成就する信心であるということは、幾度も述べさせていただいた通りです。
 最後に、「五百歳[ごひゃくさい]のうちにもろもろの[わざわい]を受くる」の「五百歳」について、先師は「五悪趣という迷いのこと」・「お浄土におっても自分で殻をつくる。ちょうどいうならばサザエの自慢みたいに、ちゃんとサザエは自分でこうやってふたをしましょう。あれと同じこと。広いお浄土におりながら、自分でこうやって殻をこしらえる、疑う。それをいうのです」と示されましたが、これは全く私自身の問題であると懺悔させられた次第です。

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