仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 霊山現土
仏説無量寿経 41
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ起ちてさらに衣服を整へ、合掌し恭敬して無量寿仏を礼したてまつれ。十方国土の諸仏如来は、つねにともにかの仏の無着・無礙なるを称揚し讃歎したまへばなり」と。ここにおいて阿難起ちて衣服を整へ、身を正しくし面を西にして、恭敬し合掌して、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつりてまうさく、「世尊、願はくはかの仏・安楽国土、およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を見たてまつらん」と。 この語を説きをはるに、即時に無量寿仏は、大光明を放ちてあまねく一切諸仏の世界を照らしたまふ。金剛囲山、須弥山王、大小の諸山、一切のあらゆるものみな同じく一色なり。たとへば劫水の世界に弥満するに、そのなかの万物、沈没して現れず、滉瀁浩汗としてただ大水をのみ見るがごとし。かの仏の光明もまたまたかくのごとし。声聞・菩薩の一切の光明、みなことごとく隠蔽して、ただ仏光の明曜顕赫なるを見たてまつる。 その時阿難、すなはち無量寿仏を見たてまつるに、威徳巍々として、須弥山王の、高くして一切のもろもろの世界の上に出づるがごとし。相好〔より放つ〕光明の照曜せざることなし。この会の四衆、一時にことごとく見たてまつる。かしこにしてこの土を見ること、またまたかくのごとし。 |
仏説無量寿経 41釈尊はさらに阿難に仰せになった。
「阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほめたたえておられるのだから」
そこで阿難は、仰せの通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正して西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるかに無量寿仏を礼拝して申しあげた。
「世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」
この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろくすべての仏がたの国々をお照らしになった。すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、すべてのものが等しく金色に輝いた。ちょうど、この世の終わりに際して大洪水が世界中に満ちあふれるとき、さまざまなものがみなその中に沈み去って、見わたす限り一面にただ水ばかりが見えるように、無量寿仏の光明のために声聞や菩薩などのすべての光明はみなおおい隠されてしまい、ただその仏の光だけが明るく輝いたのである。
そのとき阿難は、無量寿仏のお姿が、ちょうど須弥山がすべての世界の上に高くそびえているように、実に気高く、そのお体から放たれる光明がすべての世界を残らず照らすようすをまのあたりに見たてまつった。ただ阿難だけでなく、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、ここに集まっていたものはみな同時に見たてまつり、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界を見たのである。
この『仏説無量寿経』もいよいよ実際に信心獲得の場面が説かれる段となりました。ちなみに『仏説無量寿経』の巻上には、阿弥陀仏が本願を起こし浄土を建設するすべての経緯、「弥陀成仏のいわれ」が説かれ、巻下には、衆生ひとり一人が無量寿仏の本願一乗海に入り浄土の覚りを開くこと、「信心のいわれ」が説かれているのですが、この段以前は釈尊の懇切丁寧な説明を受ける形となっていました。しかしこれ以降は、釈尊も聴衆も同じ浄土を観ながら言葉を交わす段となるのです。
釈尊はさらに阿難に仰せになった。
「阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほめたたえておられるのだから」
そこで阿難は、仰せの通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正して西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるかに無量寿仏を礼拝して申しあげた。
「世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」
釈尊は浄土の歴史と信心獲得の経緯を説かれた後、無量寿仏を礼拝するよう阿難に勧めます。阿難は素直に座を立ち、丁寧に無量寿仏を礼拝するのですが、ここで万人が願うことを口にします。それは、偶像や理念を拝むのではなく、本物の仏を拝みたい。本体に向かって礼拝したい≠ニいうことです。
多くの宗教では、礼拝対象をただ信ずるのみである≠ニし、正体を解ろうとはしませんでした。下手に解ろうとする者が出ると
これは『仏説観無量寿経』でもそうです。
そしてこの『仏説無量寿経』では、阿難は多聞第一ですから、聴衆の代表者という立場でありましょう。その阿難が浄土と無量寿仏を目の当たりにするということですから、私たちも同じ経典を読み、無量寿仏を礼拝させていただき、「世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」と願えば、その願いはたちまちに適うということに他なりません。これは曇鸞大師の五念門で言えば「礼拝門・讃嘆門・作願門」に相当する内容です。
阿難の願いどおり、無量寿仏は大いなるはたらきを示し、世間を輝かせました。大事なのは、この時釈尊は何も術を施していないということです。なぜ大事なのかと申しますと、釈尊が直接関与しなくとも、仏法を領解し礼拝・讃嘆・作願をなせば、私たちも阿難やこの時の聴衆と同じように無量寿仏と浄土を実際に観察することができるということに他ならないからです。私は罪悪深重の凡夫だから浄土を観るのは無理だ≠ニあきらめる必要はありません。仏のまごころが解ればそれが仏を観るということなのであり、まごころの広がりも浄土として確認できるのです。
では「
(「須弥山世界」参照:{#天王と浄土の菩薩・声聞})
それでは「声聞・菩薩の一切の光明、みなことごとく
浄土における「声聞・菩薩の一切の光明」とは、人々が様々な願いをかけることをまごころの面から言っているのです。人々の願いは、お金を儲けることであったり、友人や恋人を持つことであったり、結婚して自分の家庭を持つことであったり、名誉を得ることであったり、あるいは美容や健康を願う人もいるでしょう。さらには、精神的に強くなりたいとか、優しい人間になりたい、度量の大きな人間になりたいと願う人もいるでしょう。
それぞれの願いを吟味しますと、確かに願い求めることには理由があります。お金がないために悲惨な暮らしを強いられたり、友人や恋人がいないことで寂しい思いをしたり、家庭の温かさや健康の大切さも切実なものがあるわけです。
しかし「本当にこの一つで満足できますか?」と問われると心細くなるでしょう。ところが「これ一つを外したら後がいくら適っても本当には満足しない」ということ、この肝心要を「本願」として見出し、願いそのものを成就した仏が無量寿仏なのです。そしてあれもこれもじゃない、本願一つを成就すれば、後は何も要らないということが証明される、このことが即ち「声聞・菩薩の一切の光明、みなことごとく
先に「ただ
ここで重要なのが「この会の
ちなみに、この『仏説無量寿経』を今読まれてみえる皆さんも、かつてこの場に集うていたのですが、覚えてみえるでしょうか。記憶にない≠ニ仰るかも知れませんが、脳の表面にある記憶ではありません。血の記憶≠ニでも呼ぶべき深いまごころの蔵の中に納まっていて、経典を読むことによって
ただしこれは、
また「かしこにしてこの土を見ること、またまたかくのごとし」とは、浄土は決して往生し切ってしまう世界ではなく、あくまで宿業の闇あってこその浄土であることを言っているのです。浄土と穢土は内容的には十万億国土の隔たりがあるのですが、衆生の迷いが去れば穢土と浄土は裏と表であり、表裏は一体(もしくは不二)であります。穢土を穢土と知らせて浄土あり、浄土を浄土と願わしめて穢土があるのです。
弥陀大悲のむねのうちに、かの常没 の衆生みちみちたるゆゑに、[ 機法一体 にして南無阿弥陀仏なり。われらが[ 迷倒 のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。[ 『安心決定鈔』6
だから、それがただ話として書いておるのか、実際にそれが私たちに解るものか。これが問題でしょう。だから、もっともっと私らはお経というものを大事にして、本当の命懸けでこうやって、これはいい加減にごまかすために書いたのではないのです。こういうふうに本当のご信心はこういうものだぞ、本当の念仏はこういうものだぞ、また本当の幸せはここまで来なかったならば、人間に生まれた生まれがいはないのだぞという。そういうことをさとったお方が遺言として書き残してくださったのでありますから、一言一言(いちげんいちごん)、一言一言(ひとことひとこと)大事におっしゃったことを勝手に受け取らずに、おっしゃることをそのまま受け取るようなそういう体制をつくること。
<中略> 「仏はどこにおいでますか」、「仏は私に成り切っておられます。けれども私は仏ではありません」というが、足らないところはどこにあるのかというと、十劫の昔に私がおろうがおるまいが関係なしに、十劫の昔にできた阿弥陀仏のことをいわれないのです。だから、そこで間違いを起こすのです。そこを親鸞聖人は不了義経(ふりょうぎきょう)だという。「了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経に依らざれ」という。不徹底。徹底した全体が解っておる人の説いた教えならばいいけれども、全体が解らずに一部分一部分だけしか説かない人の話を聞けば間違いを起こすのです。 <中略> 仏さまとは働きそのものだという。ほとんどみんなこうやって、お医者さんがいうた福井の米沢さんという人が「阿弥陀仏とは働きそのものだ」という。そういうことをまねをして、自信がないものだから猿まねで皆まねをする。お医者さんがいうたことを坊さんがまねをするのです。あれは医者根性ではないか。医者根性でものを見ておるのです。自分がお医者さんだからです。 <中略> 実は、この世界はちゃんと親鸞聖人が、他力とはどういうことかというところで、不二の法門ということをおっしゃる。不二の法門に「入る」ということはさとるという意味でありますが、これは今でいうならば、これは矛盾ということです。どう矛盾か、生死すなわちネハンなりとさとることができる。これは無碍でしょう。無碍とは生死すなわちネハンなりとさとることができる。煩悩だ煩悩だと思うたが、煩悩即菩提、菩提とは仏性のこと。だから見なさいね。こういう矛盾の世界が解ること。そうすれば、表を見れば差別の世界だが眼が開いてもっと深いところを見れば、みんなその人その人が尊い仏性が皆あるのです。一色ではありませんか。この世界は皆仏性で一色になりましょう。そうすると、そういう高い低いが皆見えなくなるのです。高い低いが見えなくなって、仏性というものだけであなたを見る。 それなら、そこで止まってしまうのではない。眼を開けてみればやっぱり業が違う、顔が違えば根性が違う、根性が違うのは業が違うから、これも見えてこないといけないのです。だから、ちゃんとそのことは一番最初にありましたように、お浄土という世界は高い山もなければ低い山もないと書いて、谷もなければ川もないのです。ところが、川を見たいと思えばすぐ川が見える。山を見たいと思えば山が見える。ちゃんと書いておりましょう。 ちゃんとこのように私たちはどんな人をも尊敬し、どんな人をもそういうように尊ぶことができるが、さあそれならば皆同じように付き合うことができるか、できませんよ。やっぱり人によれば心底から嘘がいえない人もおるのです。ところが、仏性があってもこの人は心底から嘘がいえない人だけれども、この人は時と場合によって手のひらを返すように上手にいうてみたり、こっちに行っては上手いい、こっちに行っては上手いい。そういうことが解らなければ本当の生活ができないではありませんか。だから、これは死んで向こうではないのです。ちゃんと皆ただ単なる例えではない。差別がありながら平等、平等がありながら差別があるのです。 <中略> みんなの今いうとるものは、いわゆる男女差別とか人種差別とかいいましょう。差別とは差別、差別というとるけれども、あれは区別と差別と違うだけではない。差別というておることは軽べつということなのです。差別が悪いのではないの、軽べつすることが悪いのです。<中略>侮辱することがいけないのです。そうでしょう。それをちゃんとお経はいうのです。どんな人にも差別があるのです。どんな人も差別があるが、その差別が消えてみんな平等としてみることができる。一色という。一色とは平等のこと。 『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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