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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』39
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪6
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 39
仏のたまはく、「その五つの悪とは、世間の人民、徙倚懈惰にして、あへて善をなし身を治め業を修せずして、家室眷属、飢寒困苦す。父母、教誨すれば、目を瞋らし怒りてコタふ。言令和らかならず。違戻し反逆すること、たとへば怨家のごとし。子なきにしかず。取与に節なくして、衆ともに患へ厭ふ。恩に負き義に違して報償の心あることなし。貧窮困乏にしてまた得ることあたはず。辜較縦奪してほしいままに遊散す。しばしばいたづらに得るに串ひて、もつてみづから賑給す。酒に耽り、美きを嗜みて、飲食、度なし。心をほしいままに蕩逸して魯扈牴突す。人の情を識らず、しひて抑制せんと欲ふ。人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪む。義なく礼なくして〔わが身を〕顧み難るところなし。みづからもつて職当して諫暁すべからず。六親眷属の所資の有無、憂念することあたはず。父母の恩を惟はず、師友の義を存せず。心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。
先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、死して後に神明さらに生ずることを信ぜず。善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信ぜず。真人を殺し、衆僧を闘乱せんと欲ひ、父母兄弟眷属を害せんと欲ふ。六親、憎悪してそれをして死せしめんと願ふ。かくのごときの世人、心意ともにしかなり。愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず。仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖をケ望し、長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。慈心をもつて教誨して、それをして善を念ぜしめ、生死・善悪の趣、自然にこれあることを開示すれども、しかもあへてこれを信ぜず。心を苦きてともに語れども、その人に益なし。心中閉塞して意開解せず。大命まさに終らんとするに、悔懼こもごも至る。あらかじめ善を修せずして、窮まるに臨んでまさに悔ゆ。これを後に悔ゆともまさになんぞ及ばんや。
天地のあひだに五道〔の輪廻の道理〕、分明なり。恢廓窈窕として浩々茫々たり。善悪報応し、禍福あひ承けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし。数の自然なり。その所行に応じて、殃咎、命を追うて、縦捨を得ることなし。善人は善を行じて、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。たれかよく知るものぞ、独り仏の知りたまふのみ。教語開示すれども、信用するものは少なし。生死休まず、悪道絶えず。かくのごときの世人、つぶさに〔述べ〕尽すべきこと難し。ゆゑに自然の三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを五つの大悪・五つの痛・五つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。
人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし念を正しくして、言行あひ副ひ、なすところ誠を至し、語るところ語のごとく、心口転ぜずして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを五つの大善とす」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 39
さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困りはてる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉も荒く口答えをする。その逆らうようすはまるでかたきを相手にするようであって、こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。
また物のやりとりにしまりがなくて、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押えつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。親兄弟や妻子など、一家の暮しむきがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。心にはいつも悪い思いをいだき、口にはいつも悪い言葉をいい、身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。
また古の聖者たちや仏がたの教えを信じない。修行により迷いの世界を離れてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることを信じない。善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家のものを傷つけようとさえ思っている。そのため身内のものから憎みきらわれて、そんなものは早く死ねばいいと思われるほどである。
このような世間の人々の心はみな同じである。道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬのである。それを哀れに思って教え諭し、善い心を起させようとして、生死・善悪の因果の道理が厳然としてあることを説き示すのであるが、これを信じようとしない。どれほど懇切丁寧に語り聞かせても、それらの人には何の役にもたたず、心のとびらを固く閉ざして、少しも智慧の眼を開こうとしない。そして、いよいよこの世の命が終ろうとするとき、心に悔いと恐れがかわるがわる起きるのである。以前から善い行いをせずにいて、そのときになってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。
この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、だれもこれに代わるものはない。まことに因果応報の道理は必然である。悪い行いをすれば罪はそのものにつきしたがい、決して捨て去ることはできない。善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、そして悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。この道理はだれも知るものがなく、ただ仏だけが知っている。そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているのであるが、信じるものは少ない。それでいつまでも生れ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである。このような世間の人々のありさまは、そのすべてを述べ尽くすことなどとてもできない。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第五の大善というのである」
- 註釈版
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仏のたまはく、「その五つの悪とは、世間の人民、徙倚懈惰[にして、あへて善をなし身を治[め業を修[せずして、家室眷属[、飢寒困苦[す。父母[、教誨[すれば、目[を瞋[らし怒りてコタふ。言令和[らかならず。違戻[し反逆[すること、たとへば怨家[のごとし。子なきにしかず。取与[に節[なくして、衆[ともに患[へ厭[ふ。恩に負[き義に違[して報償[の心あることなし。貧窮困乏[にしてまた得ることあたはず。辜較縦奪[してほしいままに遊散[す。しばしばいたづらに得るに串[ひて、もつてみづから賑給[す。酒に耽[り、美[きを嗜[みて、飲食[、度[なし。心をほしいままに蕩逸[して魯扈牴突[す。人の情[を識らず、しひて抑制[せんと欲[ふ。人の善あるを見て、憎嫉[してこれを悪[む。義なく礼[なくして〔わが身を〕顧[み難[るところなし。みづからもつて職当[して諫暁[すべからず。六親眷属[の所資[の有無、憂念[することあたはず。父母の恩を惟[はず、師友[の義を存[せず。心につねに悪を念[ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。
- 現代語版
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さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困りはてる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉も荒く口答えをする。その逆らうようすはまるでかたきを相手にするようであって、こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。
また物のやりとりにしまりがなくて、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押えつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。親兄弟や妻子など、一家の暮しむきがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。心にはいつも悪い思いをいだき、口にはいつも悪い言葉をいい、身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。
仏教の戒律の中で第五に挙げられているのが「不飲酒戒[」(酒を飲まない)です。これは{五善五悪1「#五悪を除き功徳を得る」}に書きましたように、五悪は五戒に背くことであり、この章の課題は不飲酒戒に背く悪≠ノ配当されると見るのが型なのですが、五善五悪全体の展開から鑑みると五戒に背く行為をとがめる≠ニいう単純な勧善懲悪[ではなく、破戒を手がかりとして「現にある巨悪の構造」を明かにする展開となっていることが解ります。
こう申しますのは、{仏教と飲酒の問題}にも書きましたが、殺生[・偸盗[(盗み)・邪婬[(みだらな性行為)・妄語[(嘘)・飲酒[≠フ破戒のうち、行為そのものを断罪するのであれば先の方が罪が重く後の方が軽いはずです。しかし五善五悪の展開を見ると、後になるほど悪の度合いが高く、痛みも重く深刻になります。実際、この章で述べられている第五悪も単なる飲酒ではありません。「酒に耽[り、美[きを嗜[みて、飲食[、度[なし」とあるような酒池肉林[に溺れて人生を崩壊させてしまう巨悪が第五悪です。しかもこの酒池肉林に至る前段階として殺生・偸盗・邪婬・妄語≠フ四悪が既に報い満ちていることが解るでしょう。
五戒を破れば、人はそのたびに供養を失い、至誠を失い、慈愛を失い、信用を失う、というように次々と大切なものを失ってゆくのですが、不飲酒戒を破って酒池肉林の生活に堕すれば、いよいよ自己そのものまで失ってしまいます。本当はどこか途中の段階で悪の蔓延[を防ぎ、真実人生に軸足を置いた生活を成り立たせていかなければならなかったのです。
そもそも仏教をはじめとした宗教は何のためにあるのかと申しますと、「我がままを正す」ためにあるのです。生まれたままの自分は未熟であり、物事の真実が解らず、すぐに悪い癖に染まってしまいますから、真実からの呼びかけに心をひるがえし、悪い癖を離れる必要があるのです。
「我がまま」な自分そのままでも人生が成就するのであれば、あらためて宗教を実践する必要はありません。しかし実際は、自分が思った通り、感じたまま、望んだまま、勝手気ままに振舞い、無反省に生きていくと、最終的にこの第五悪のように、あらゆる善を退け、悪い癖が身につき、多数の人に迷惑をかけて人生は破綻してしまいますので、これを正す必要があるのです。
さて、ここで問題となってくるのが「本覚思想[」です。これは「一切衆生悉有仏性[」として大成された思想で、全ての衆生は生まれついたときから本来は覚っている(本覚)のであり、本覚が発揮されないのは、五濁悪世の環境で身についた煩悩のせいである≠ニします。確かに「本覚」そのものは間違っていませんし、「一切衆生悉有仏性」は正しい覚りであります。あらゆる生命の根本は仏性であり、かつ生命(五蘊)を離れて仏性は存在しないのです。『華厳経』宝王如来性起品でも、あらゆる生命は本来仏性をそなえていて、美しい花園を自らの内に秘めている、と説きます。
しかし長年、これを安易に解釈してしまう人たちが多数いて、個人的・社会的怠慢[の言い訳になってしまったり、自然主義に陥り仏の真意が捻じ曲がって展開する結果となってしまいました。
実はこの問題の最大の誤謬点は、随自意説と随他意説の混同にあるのです。存在論・本質論で語るべき「一切衆生悉有仏性」という法の真実を認識論・実践論で語ってしまったり、認識論・実践論で語るべき「無根の信」を存在論・本質論で語ってしまうと、前者は現実追認の妥協思想や文明否定論になりますし、後者は奴隷根性を蔓延させ愚民政策の片棒を担ぐことになってしまいますが、どちらも仏の真意とは程遠い結果でありましょう。
仏性はあくまで可能性として「本来誰にでも仏になれる」と説いてあるのです。可能性を開発する環境と道程を経なければ絵に描いた餅でしょう。たとえば、皆さんは今の堕落した生活を変えて、これだけの勉強をすれば必ず試験に受かります≠ニ聞き、必ず試験に受かります≠ニいうことだけを拡大解釈して、本来俺は試験に受かる私なんだ=E下手な勉強などせず、今の自分勝手な堕落した生活のままでも良いんだ≠ネどと横着に受け止めたら、本来あった可能性も現実に結果が出ることはありません。
すべては因縁果報の道理によって動いているのですから、我執を離れ、智慧を開発し、徳を身につけてこそ成仏が果たせることは、宗旨・宗派が変っても同じ道理です。念仏者もこれを念頭に置いて生活することは当たり前なのですが、今の自分が認識している力(自力)に頼ってこれを果たすのではなく、あくまで「本願力回向の信心」とも「如来回向の信楽」とも言われる「無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで」一切衆生の上に報い続けた深い仏性のはたらき(他力)に人生の基軸を置き、その願いによって自分の生き方が転換されると同時に、転換し尽くせない自分も受容されてくるのです。
(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか? })。
- 註釈版
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先聖[・諸仏の経法を信ぜず、道[を行じて度世[を得[べきことを信ぜず、死して後に神明[さらに生ずることを信ぜず。善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信ぜず。真人[を殺し、衆僧[を闘乱[せんと欲[ひ、父母兄弟眷属[を害せんと欲ふ。六親、憎悪してそれをして死せしめんと願ふ。かくのごときの世人[、心意[ともにしかなり。愚痴矇昧[にしてみづから智慧ありと以[うて、生[の従来[するところ、死の趣向[するところを知らず。仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖[をケ望[し、長生[を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。慈心をもつて教誨[して、それをして善を念ぜしめ、生死・善悪の趣[、自然にこれあることを開示[すれども、しかもあへてこれを信ぜず。心を苦[きてともに語れども、その人に益[なし。心中閉塞[して意開解[せず。大命[まさに終らんとするに、悔懼[こもごも至る。あらかじめ善を修せずして、窮[まるに臨んでまさに悔ゆ。これを後に悔ゆともまさになんぞ及ばんや。
- 現代語版
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また古の聖者たちや仏がたの教えを信じない。修行により迷いの世界を離れてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることを信じない。善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家のものを傷つけようとさえ思っている。そのため身内のものから憎みきらわれて、そんなものは早く死ねばいいと思われるほどである。
このような世間の人々の心はみな同じである。道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬのである。それを哀れに思って教え諭し、善い心を起させようとして、生死・善悪の因果の道理が厳然としてあることを説き示すのであるが、これを信じようとしない。どれほど懇切丁寧に語り聞かせても、それらの人には何の役にもたたず、心のとびらを固く閉ざして、少しも智慧の眼を開こうとしない。そして、いよいよこの世の命が終ろうとするとき、心に悔いと恐れがかわるがわる起きるのである。以前から善い行いをせずにいて、そのときになってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。
この節も前節と同じで、破戒を手がかりとして巨悪の構造を明らかにする展開になっているのですが、前節が世間一般の五悪であるのに対し、ここではせっかく仏教とのご縁を頂きながら五悪に堕す≠アとを阻止するくだりとなっています。また仏教に対して、恩を仇[で返すような五逆を抑止する意味もあるでしょう。無智ゆえの悪は仕方がない面もあるのですが、仏教を学び修しながら五悪に染まり仏教に仇[をなすのは言語道断の罪悪でありましょう。しかしこの言語道断の悪行をしかねないのが私であり、あえて言うなら、この罪悪を犯し続けているのが私ではないか≠ニ懺悔されてこそ、この経が本当に自覚できるのです。
ちなみに「五逆」には単の五逆(いわゆる小乗の五逆)と複の五逆(大乗の五逆)がありまして、単の五逆は――
- 害母(殺母/故意に母を殺す)
- 害父(殺父/故意に父を殺す)
- 害阿羅漢(殺阿羅漢/故意に阿羅漢を殺す)
- 出仏身血(悪心出仏身血/仏の身体を傷つける)
- 破和合僧(破僧/教団を別立し分裂させて乱す)
複の五逆は――
- 塔寺を破壊し経像を焼き、三宝の物を奪い、或いはそれらのことを人に行わせ、またはその行為を見て喜ぶ。
- 声聞・縁覚・大乗の法をそしる。
- 出家者が仏法を修めるのを妨げ、或いはそれを殺す。
- 小乗の五逆のうち一罪を犯す。
- すべて業報はないと考えて十不善業(十悪)を行い後世を畏れず、また人にそれらのことを教える。
でありますから、基本的に複の五逆が念頭に置かれていることが解ります(参照:{五善五悪2 「#神々が罪を記録し閻魔王に報告する」})。
文全体については、注釈版と現代語版を読み合わせていけば内容は受け取れますが、「死して後に神明[さらに生ずることを信ぜず」という箇所は注意が必要です。これを常識的に受け取ると、有見[(すべての存在に固定的実体の存することを認め、それを永久に自分のものとして所有できると考える見解)という邪[まな見解となり、本来の仏教を損ねますが、私たち凡夫が受け取りやすい形で五悪の咎[を譬えているのです。これは「生[の従来[するところ、死の趣向[するところ」も同じで、もし「私の固定的実体である霊魂が存在してこれが輪廻転生[を繰り返す」と主張するのであれば、これも邪見[と言わざるを得ないでしょう(参照:{五善五悪2 「#資料」}、{魂という概念}、{後生の一大事について})。
では「人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くか」という問いの回答はどこにあるのでしょう。
それは、過去や未来という時間が存在するのではなく、今現に私が存在するということの中に無限の過去と無限の未来を宿していることの中身が答えとなります。
我ここにあり≠ニ自覚されれば、自分を今のように形成してきた無限の過去が見出され、同時に、これから自分はどう生きるべきか≠ニ無限に今を展開する未来が見出される。今の自分自身において無限の過去より今に至るまでの宿業が自覚され、同時に、今の自分自身において無限の未来より今に至るまでの願いが自覚されてくるのです。
重要なのは、過去も未来も全て「今ここに生きる私」において自覚される世界なのです。今こそ永遠、これが「生[の従来[するところ、死の趣向[するところ」と説かれる本意なのであり、決して輪廻転生を主張した言葉ではないということはよくよく心得ておかねばなりません。
- 註釈版
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天地のあひだに五道[〔の輪廻の道理〕、分明[なり。恢廓窈窕[として浩々茫々[たり。善悪報応[し、禍福[あひ承[けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし。数[の自然[なり。その所行[に応じて、殃咎[、命[を追うて、縦捨[を得ることなし。善人は善を行じて、楽[より楽に入[り、明[より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥[より冥に入る。たれかよく知るものぞ、独[り仏の知りたまふのみ。教語開示[すれども、信用するものは少なし。生死休[まず、悪道絶えず。かくのごときの世人[、つぶさに〔述べ〕尽すべきこと難[し。ゆゑに自然の三塗[の無量の苦悩あり。そのなかに展転[して世々[に劫[を累[ねて出づる期[あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを五つの大悪[・五つの痛[・五つの焼[とす。勤苦[かくのごとし。たとへば大火の人身[を焚焼[するがごとし。
- 現代語版
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この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、だれもこれに代わるものはない。まことに因果応報の道理は必然である。悪い行いをすれば罪はそのものにつきしたがい、決して捨て去ることはできない。善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、そして悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。この道理はだれも知るものがなく、ただ仏だけが知っている。そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているのであるが、信じるものは少ない。それでいつまでも生れ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである。このような世間の人々のありさまは、そのすべてを述べ尽くすことなどとてもできない。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に焼かれるようである。
前節で申しましたように、過去も未来も全て「今ここに生きる私」において自覚される世界≠ナすから、「善悪報応[し、禍福[あひ承[けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし」ということは因果応報でいずれ善悪の結果は自分の身に受ける≠ニいうような「不確かな未来」を言うのではなく、自分自身の生き様において自覚される「明白な今現在」でなければ本意を領解したものとは言えないでしょう。
すると「五つの大悪[・五つの痛[・五つの焼[」ということも、現当における報いとして痛[と焼[に分けるのではなく、あくまで今現在において自覚される内容でなければ本当の内容ではありません。
つまり、「生死休[まず、悪道絶えず」ということも、「展転[して世々[に劫[を累[ねて出づる期[あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず」ということも今現在の内容なのです。今私がこの場面において為す五悪のうちに、五痛(現世において受ける五悪の果報)も五焼(来世において受ける五悪の果報)も宿っている、との自覚が正しい領解となります。
- 註釈版
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人よくなかにおいて一心に意[を制し、身を端[しくし念[を正しくして、言行[あひ副[ひ、なすところ誠[を至[し、語[るところ語[のごとく、心口転[ぜずして、独りもろもろの善をなして衆悪[をなさざれば、身独[り度脱[して、その福徳[・度世[・上天[・泥オン[の道[を獲[ん。これを五つの大善[とす」と。
- 現代語版
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もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第五の大善というのである」
先に申しましたように、五戒を破れば、人はそのたびに供養を失い、至誠を失い、慈愛を失い、信用を失い、最後はいよいよ自己そのものまで失ってしまいます。本当はどこか途中の段階で悪の蔓延[を防ぎ、真実人生に軸足を置いた生活を成り立たせていかなければならなかったのですが、この節はまさにこれを述べたもので、最悪の状況に陥ってもどこかで自分を立ち直らせ、人生を真実ならしめてゆく精神を持つことを勧めるのです。精神が死んでしまっては人生はお終いだからです。
それというのも、第一悪から第四悪までは「身を端[しくし行ひを正しくして」とあるところ、この第五悪では「身を端[しくし念[を正しくして」と、「行」の代わりに「念」が入っていることからも解るでしょう。第四悪までの報いが心身を痛め尽くし、最後に残ったのは自分の人生を立て直す精神だけであり、これを失くせばいよいよ自己を失い、自分の人生は死んだも同然となってしまいます。こうした最悪の状態から本当に自己を見出し、自分の人生を成立させていくというのは並大抵のことではないだけに、もし絶望の淵からこうした精神を発揮することができれば、それは賞賛に値する内容と言えるでしょう。それゆえ、浄土は単に清らかなる環境≠言うのではなく「願土」、環境を浄める環境≠ニ言うということも領解できます。
先の本覚思想の問題でいえば、五濁悪世の環境で身についた煩悩のせいで覚りを得ることができない≠ニ嘆きここではないどこか≠ナ覚ろうとするのは正しくなく、今ある五濁悪世の環境にこそ浄土がはたらく≠ニ領解し、回向された本願を我が願いとして生きる、泥田に蓮華が咲くように、五悪の穢土においてこそ浄土の華が咲くのです。
重要なのは穢土を穢土と知らしめて浄土あり、浄土を浄土と願わしめて穢土あり≠ニいう関係性です。穢土と浄土は表裏一体であり、浄土に生まれることを願うその背には穢土の宿業がのしかかっているのであり、また穢土を厭い離れるその足元には浄土の功徳が宿り、行者の身に満ちて働き、新たな仏性の歴史と環境を創造し続けていくのです。
次章はこのことを重視した内容となっていますので、よくよく味わってみたいと思います。
[Shinsui]
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