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【Oの食卓に花束を】

仏教と飲酒の問題

― 不飲酒戒は守らなくても良い? ―

戒律の重要性と破戒の宿業

 現在、「浄土真宗には戒律がない」ということが、教団内ではあたかも教学の大前提であるかのごとく流布し、戒律を無視したり蔑ろにする風潮さえあります。そして努力して戒律を守ろうとする人がいれば、かえって「それは異安心ではないか?」と不審がられてしまうありさまです。
 このため例えば、「僧侶なのに結婚してもいいの?」「髪の毛を生やしてもいいの?」「お酒を飲んでもいいの?」などと問われた場合、先の無戒の理を言い、如来は持戒等の「万行の小善」を嫌い「名号不思議の信心」を勧めてみえるのです≠ネどと理由を挙げ正当性を述べることが多いのではないでしょうか。
 また、「浄土真宗は在家仏教ですから」と理由を挙げる場合もあります。すると確かに、結婚や髪の毛の問題は整合されるでしょう。しかし飲酒に関しては「在家」では言い訳になりません。五戒はあくまで在家者の戒律なのです。
 すると仏教徒として、念仏者として、飲酒などの問題はどう心得れば良いのでしょうか。

 凡夫・在家者にこそ厳しい戒律

 先に申しましたように、仏教には在家者が守るべき五つの戒があります。それは、不殺生戒(殺生をしない)、不偸盗戒(盗みをしない)、不邪淫戒(邪で淫らな性交渉をしない)、不妄語戒(嘘をつかない)、不飲酒戒(酒を飲まない)、の「五戒」です。 イメージ
 この中で、殺生は「己が身にひきくらべて」みれば戒めるのは当たり前ですし、盗みや邪淫や嘘は、他人を裏切り自分の人生を破綻させる行為ですから戒める必要はよく解るでしょう。もちろん、戒律を守り切った上で念仏するのではありませんが、浄土真宗は戒律を否定する教えである≠ニいうのは大きな誤解です。

 戒律が人生成就の上で重要であることは、その内容を知れば誰も否定できません。不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒を大事に守ろうと願わない人間に、一体どんな人生を成就できるというのでしょう。
 たとえば不殺生戒を大事にしないということは、人間を差別したり、戦争を引き起こす悪業を止める必要はない≠ニいうことに他なりません。身口意の業において不殺生戒を守らんと願う(願わしめられる)ことによって、様々な差別問題を解決する第一歩が踏み出せるのであり、兵器を用いる必要の無い社会が実現に向かうのです。その他の戒もみな、人生や社会の成就には欠かすことはできません。
 浄土真宗では本来、こうした戒の重要性を重々心得た上で、如来回向のはたらきにより、戒律を守り切れない自分や人間の業を見させていただくのです。最初から無戒では反省も懺悔も起きません。破戒の業を正直に見る中で、自分は聖人ではないし、他人は愚者ではない。ともに欠点の多い凡夫にすぎないのである≠ニ懺悔させてくことで、「泣いている本当の自分」が如来の願いに頷き、同朋社会が実現してゆきます。

 ただ「不飲酒戒」だけは疑問に思っている人も多いのではないでしょうか。出家者なら仕方ないが、在家信徒まで酒が飲めないなんて厳しすぎる≠ニ反発する人がいるかも知れません。先の四戒はおのずと懺悔の念がわくのですが、不飲酒戒だけは戒そのものに対して疑問を持つことになります。

 ところで、釈尊在世当時の戒律{パーティモッカ 波羅提木叉}を調べてみると、250の戒律(パーリ文では227)には重みに差があり、「四波羅夷法」、「十三僧残法」、「二不定法」、「三十捨堕法」、「九十二波逸提法」、「四波羅提提舎尼法」、「学法」、「七滅諍法」の8つの段階、その中で「飲酒戒」は5番目に重い「九十二波逸提法」の51番目に戒められています。ちなみに最も重い戒である「四波羅夷法」は、淫戒(淫らな行為をする)、盗戒(他人の所有物を盗む)、絶人命戒(故意に人の生命を奪う)、妄説得上人法戒/大妄語戒(上人法を自ら証知していないのに、悟ったと言う)の四つですから、やはり「不飲酒戒」を在家の五戒に入れるのは唐突な印象があります。

 このことについて『安楽集』では、いつの時代も菩薩行に対する誤解があり、戒相を守らない人が多いことを批判されています。例えば飲酒に関しては『梵網経』や『大方等経』を引き、「不飲酒戒」より厳しい「不沽酒戒」[フコシュカイ](酒を売買したり酒屋に行ってはいけない)等の戒を、特に「在家者に対する戒」として制定されていること、そしてその理由を以下のように示しています。

阿難が仏に申しあげていう。「世尊は、どういう人のために、このような戒を設けたもうのですか。」
仏が阿難に答えられる。「行に二種類ある。一つには在家の人の行、二つには出家の人の行である。出家の人には、わたしは上のような戒は設けない。在家の人に、わたしは今この戒を設ける。なぜかといえば、一切衆生はすべてこれがわが子であり、仏は一切衆生の父母である。よくないことをさえぎりとどめるならば、早く迷いを出て、さとりを得るからである。

『大方等経』より

 つまり、出家者は既に出家しているため迷いが少なく少々のことでは堕落しません。しかし在家者は世俗の生活に浸っているので迷いが多く、少しのことで道を踏み外したり堕落する危険性が高いのです。また仏は全ての人々の親としての自覚があるので、皆を早く迷いから覚めるための手を具体的に施さねばならず、いきおい戒も多く厳しいわけです。

 ここで見えてくる重要なことは、「仏・菩薩や聖道門の高僧ならば厳しい戒律を守ることができるが、私のような在家の凡夫は厳しい戒律を守ることができない。守れないような戒律は私には縁が無い」というような言い訳は本末転倒だということ。つまり、「罪悪尽重の凡夫だからこそ厳しい戒律が必要となってくる」ということが戒律の本意であったはずなのです。こうした道理を忘れ、凡夫だからという理由で堂々と「無戒」を誇ってしまえば、人生は破綻し、社会は穢れ、教えはたちまち外道に陥ってしまうことは誰の眼にも明らかでしょう。

 酒には三十五の過失がある

 世間には、「酒は諸悪の基」という諺がある一方、「酒は百薬の長」(食貨志下)と言われるように、少量に限り勧める医者もいます。また「酒は憂いの玉箒[たまばはき/たまははき]」、「酒は天の美禄[ビロク]」と、心を喜ばせストレス解消に役立つ得を挙げる諺もあります。
 仏教の慣習でも、酒のことを般若湯[ハンニャトウ]などと言い慣わして飲んだり、「酒有らば相招きて飲み、肉有らば相呼びて喫わん」『寒山詩集』(酒のあるとき、肉のあるときには親しい友を呼んできて、いっしょに楽しもう)との人情味溢れる言葉もあります。しかし総じて酒は過失を大とし、得を小とします。
 では飲酒にはどんな過失があるというのでしょう。

酒は人を怠けさせる。酒におぼれる者には六つの禍がある。財産が失われ、口論が増え、病気のもととなり、評判が悪くなり、性器をあらわす、知力がおとろえる。

『長部経典』三十一経

「性器をあらわす」とは南国ならではのいましめで寒地ではあり得ませんが、こうした部派の指摘が仏教の基本姿勢でしょう。大乗仏教になりますとさらに増え、たとえば龍樹菩薩は以下のように35の過失を挙げています。
 まず酒に三種類がある。一には穀物酒、二には果実酒、三には薬草酒である。果実酒とは、ぶどうやアリッタ樹の実などなら作られる酒である。薬草酒とは、種々の薬草を米麹やさつまいもの汁の中に混ぜ合わせてできた酒で、これは、ひづめのある哺乳動物の乳から作る酒と同じである。すべての動物の乳は、熱すると、中身は酒となるはずである。大まかにいえば、酒には乾性のものと湿性のものと濁り酒とがある。いずれにしても、酒は人の心を動揺させ、怠惰にしてしまう。このような性質をもったものが酒である。
 どんな種類の酒であっても、飲んではならない。これを「不飲酒戒」という。
 質問する
「酒は身体を暖めて冷えをなくし、健康によく、心を喜ばせる。どうして飲まないのだろうか」
 答える。
「酒は健康にとってためになることはきわめて少なく、ためにならないところが非常に多い。その理由から飲んではならない。たとえば、おいしい飲物の中に毒が混じっているようなものである。それは、どのような毒であろうか。仏が信者ナンディカに語られたところによると、酒には三十五の過失がある。それらは何か。
 一には、現世において財産がすっかりなくなってしまう。なぜならば、酒を飲んで酔うと、心に節度がなくなり、程度を考えずに費用をかけてしまうからである。
 二には、酒はもともとの病を起こす入口である。
 三には、争いのものとである。
 四には、酒に酔えば裸でいても恥ずかしいと思わない。
 五には、評判が悪く、人に尊敬されない。
 六には、智慧の働きを覆い、やがてその働きは影をひそめてしまう。
 七には、手に入れようとするものも手に入らず、すでに手に入れたものは散失してしまう。
 八には、秘匿しておくべきことを洗いざらい喋ってしまう。
 九には、さまざまのなすべき仕事をやめてしまって、完成することがない。
 十には、酔いは愁いのもととなる。なぜならば、酔っていると失敗することが多く、醒めてから恥じたり憂えたりするからである。
 十一には、体力が次第に衰える。
 十二には、肌のつやがなくなる。
 十三には、父を敬うことを知らなくなる。
 十四には、母を敬うことを知らなくなる。
 十五には、道の人を敬わない。
 十六には、バラモン(真の修行者)を敬わない。
 十七には、両親の兄弟や目上の人を敬わない。
 十八には、仏を尊敬しない。
 十九には、仏の教えを尊敬しない。
 二十には、修行者の集いを尊敬しない。
 二十一には、悪人と仲間になる。
 二十二には、賢人や善人を疎遠にする。
 二十三には、戒めを破る人となる。
 二十四には、恥を知らない。
 二十五には、六つの感官を制御しない。
 二十六には、色欲に走り、ものごとに精励しない。
 二十七には、人々に憎まれ、そのような人に会うことを喜ばない。
 二十八には、大切にすべき親族や知性ある人びとから鼻つまみになる。
 二十九には、悪事を行う。
 三十には、善い教えを捨ててしまう。
 三十一には、学者や智者から信用されない。なぜなら、酒は人を怠け者にさせるからである。
 三十二には、平安の境地(涅槃のさとり)に至ることを遠ざける。
 三十三には、精神異常をきたしたり無知になる原因を植えつける。
 三十四には、死後に悪道や地獄に堕ちる。
 三十五には、もし次の生存に人間に生まれたとしても、その生活は常に狂気と愚かさに満ちる。
 このように、酒には種々の過失がある。だから、酒は飲むべきではない。

『大智度論』巻十三

 この他『提謂経』や『分別善悪所起経』では三十六失が挙げられ、大経では、五悪の最後に――
 また物のやりとりにしまりがなく、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押えつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。

『仏説無量寿経』39 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 より

と、酒がからむ悪生活を挙げています。

 さらには、世間では友と語る上で酒は欠かせないもの≠ニされていますが、仏教では基本的に「飲み友だちは真の友人ではない」と喝破され、「葷酒の山門に入るを許さず[クンシュのサンモンにイるをゆるさず]」(臭気を発する野菜とか酒などを修行の道場に持ちこんではいけない/結界石)と禁じ、「定心を乱り、諸罪を犯すこと、飲酒よりも甚しきはなし」『塩山和泥合水集』(飲酒ほど静かな心を乱し、犯罪の種になるものはない)との諭しがありますので、飲酒の戒めはやはり重いものだと承わざるを得ません。

 浄土真宗における飲酒問題

 さて、こうした経緯がありながら、今ではごく一部の僧侶や体質的に飲めない人をのぞいて、ほぼ全ての日本の仏教徒は不飲酒戒を捨ててしまっています。これは本当はかなりの重大問題で、きちんとした道程を踏んでいなければ仏教が骨抜きになってしまいかねません。実際、そうした懸念は一部では当たっている節も見受けられるのですが、煩雑になりますので他宗旨の事情は今は問いません。ここでは浄土真宗における飲酒問題のみ経緯を検証しておきたいと思います。

 まず、大乗仏教の先駆的教典である『維摩経』では、「不飲酒戒」や「不沽酒戒」に対し以下のような姿勢を示します。

諸々の婬売宿に出入りしては、婬欲には罪過が伴うことを教え示し、もろもろの酒場を訪れては、のんべえたちに注意を与えてその本来の志をとり戻させる。

『維摩経』

 ここでは邪淫や飲酒の過失をただ単に説くだけではなく、一緒に世俗の泥にまみれてその罪過を教え諭す、という大乗的姿勢が見受けられます。同教典には「たとえば、蓮華は清らかな高原や陸地に生えないで、むしろ汚い泥の中に咲くように、大きな我見を起こすものでこそ、はじめて道を求める心も起り、悟りもついにうまれるであろう」と説かれていますので、そうした精神の一具体例がこうした世俗悪との付き合い≠ナありましょう。
「酒をやめなさい」と言ってもきかぬ相手には、仏は「飲みなさい」と勧める。無理に禁止をすれば対立が生まれます。仏は、酒が止めたくても止められない衆生の業に同感し、ともに迷い、ともに次の一歩を踏み出すのです。

酒を飲むのは罪になるでしょうか。(法然は)答えて言う。本当は飲んではならないけれども、この世のならいなので。

『百四十五箇条問答』

 法然上人は当然、<酒には三十五の過失がある>ことはご存知ですが、信心・念仏の功徳こそが大事なのであり、比べて飲酒は小さな問題として、消極的ながら許可する姿勢がうかがえます。

 また親鸞聖人は、先に述べた宿業の問題とともに、『大悲経』等を引いて、戒律は時代との整合性を鑑みなけれなければならない≠ニいう問題を提示されます。

将来末法の時代になり、仏の教えがなくなろうとするときには、わたしの教えを受けて出家した比丘や比丘尼が、子供の手を引いて、一緒に酒場から酒場へと遊び歩くであろう。そしてわたしの教えを受けながら、よくない行いをするであろう。このように酒という悪い因縁を持ったものたちであるといっても、この賢劫の時代には千の仏が世に出るのであり、みなその仏弟子となるであろう。
<中略>
賢劫の時代、弥勒から盧至如来まで仏が次々と世に出る間に、これらの修行者は仏のもとで相次いでこの上ないさとりを得ることができ、一人として残るものはいない。なぜなら、このようなすべての修行者の中で、わずか一声でも仏の名号を称え、ひとたび信を生じることがありさえすれば、その功徳は決してむなしいものとはならないからである。わたしは仏の智慧によって世界のすべてを知り尽くしているから、わかるのである。

『大悲経』

 さらに蓮如上人は、仏法に近づく方法として積極的に酒を活用されてみえます。

一、蓮如上人は、御門徒の人たちがくると、御酒をものませ、物をも与え、このようにもてなし、御門徒に有難くおもわせ、お近づけになって、仏法のことをおきかせになったことである。それであるから、このように、物を与えなさることも、御門徒の人々に信をとらせようための接待とおもえば、これもまた仏祖への報謝であるとおもうているよし仰せられた。

『蓮如上人御一代記聞書』末 212

 この他、寒い時期には熱燗、炎天の時期には冷酒を御門徒に振舞われたことが聞書に残っています。
 しかし『御文章』には、<寄合のときは、ただ酒・飯・茶>ばかり飲み食いして、みな退散してしまうありさまを、これは仏法の本意ではないのでよく思案しなさい≠ニたしなめてもみえます。

 また特に現代の僧侶は戒律を無視し続けて反省がなく、そのため「最近の真宗僧侶の方達の行動は目に余るものがあります」、「真宗義で説くところの僧侶とは愚者を体現する反面教師なのですか」などと批判が噴出し、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い≠ニ、仏法の信頼を損なってしまう結果となってしまいます。
(参照:{ロン毛で茶髪の青年僧について}
 こうした事態は蓮如上人の時代にも起こっていたようで、大酒飲み僧侶の失態に対しては、当然のことながら「言語道断で、すべきではない」と叱る手紙が残されています。

一 僧侶が、最近は、ひどく大酒を飲むという評判です。もってのほかのことで、そんなことはあってはなりません。酒を決して飲んではならないというのではありません。ただ、仏法を聞く場合につけ、門徒を導く場合につけ、杯を重ねれば、ともすればきっと狂態ばかりが出来[シュッタイ]するので、いけないわけです。このようなときには、僧侶は酒をさしとめられても、それこそが仏法を盛んにすることになるというべきでしょうか。もしも酒がやめられないならば、一杯ぐらいにしておくのが適当でしょう。これも仏法への志が薄いことによるのですから、酒をやめられないのも道理というものでしょうか。よくよく分別しなければいけません。

『御文章』四帖 8 より

 こうした勧告は一見、「酒は飲むとも飲まるるな」とか「人酒を飲む、酒酒を飲む、酒人を飲む」という道徳的な諺に近い印象が残りますが、ここでは深酒が止められないのも、仏法への志が薄いのも、人間宿業の道理≠ニ見抜かれています。念仏のいわれを聞き開き、仏徳を褒め称えた上で「ふかく思案あるべきものなり」と結ぶ蓮如上人の胸にはどんな思いがあったのでしょう。

 かつて「わかっちゃいるけどやめられない」と歌っていた植木等も、父親から「これは真宗の教えそのものだ」との後押しがあったとか。歌に自分を重ねてみれば、懺悔の発露も如来回向の賜物であったと気づきます。
 深酒はどのみち過失の多い恥ずべき破戒道でしょう。時にはせっかく食べた食事もろとも吐き出し、料理に込められた命や真心を無にし、胃や食道や喉に負担をかけることさえあります。しかし、五戒を守ろうと願いつつ、守れ切れない自分がここにいます。そしてそうせしめるのは自分の深い業であり人間共通の業です。こうした気づきを共にすることによって、懺悔とともに御同朋・御同行の道が開かれてくるのではないでしょうか。

[Shinsui]

 聖典等資料

 問ひていはく、いま世間に人ありて、大乗の無相を行じてまた彼此を存ぜず、まつたく戒相を護らず。この事いかん。答へていはく、かくのごとき計は害をなすことますますはなはだし。 なんとなれば、『大方等経』(意)にのたまふがごとし。「仏、優婆塞のために戒を制す。〈寡婦・処女の家、沽酒家・藍染家・押油家・熟皮家に至ることを得ざれ、ことごとく往来することを得ざれ〉と。阿難、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんらの人のためにか、かくのごとき戒を制したまふ〉と。仏、阿難に告げたまはく、〈行者に二種あり。一には在世人の行、二には出世人の行なり。出世人には、われ上の事を制せず。在世人には、われいまこれを制す。なにをもつてのゆゑに。一切衆生はことごとくこれわが子なり。仏はこれ一切衆生の父母なり。遮制約勒すれば、早く世間を出でて涅槃を得るがゆゑなり〉」と。

『大方等経』より

取与に節なくして、衆ともに患ひ厭ふ。恩に負き義に違して報償の心あることなし。貧窮困乏にしてまた得ることあたはず。辜較縦奪してほしいままに遊散す。しばしばいたづらに得るに串ひて、もつてみづから賑給す。酒に耽り、美きを嗜みて、飲食、度なし。心をほしいままに蕩逸して魯扈牴突す。人の情を識らず、しひて抑制せんと欲ふ。人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪む。義なく礼なくして〔わが身を〕顧み難るところなし。みづからもつて職当して諌暁すべからず。

『仏説無量寿経』39 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 より

諸の婬舎に入り、欲の過を示し、諸の酒肆に入り能く其の志を立つ。

『維摩経』

酒飲むは、罪にて候か。答う。まことには飲むべくもなけれども、この世のならい。

『百四十五箇条問答』

将来世において法滅尽せんと欲せんとき、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得たらんもの、おのれが手に児の臂を牽きて、ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん。わが法のなかにおいて非梵行をなさん。かれら酒の因縁たりといへども、この賢劫のなかにおいて、まさに千仏ましまして興出したまはんに、わが弟子となるべし。
<中略>
賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。なにをもつてのゆゑに。かくのごとき一切沙門のなかに、乃至ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの、所作の功徳つひに虚設ならじ。われ仏智をもつて法界を測知するがゆゑなり。

『大悲経』

一、蓮如上人あるいは人に御酒をも下され、物をも下されて、かやうのことどもありがたく存ぜさせ近づけさせられ候ひて、仏法を御きかせ候ふ。さればかやうに物を下され候ふことも、信をとらせらるべきためと思し召せば、報謝と思し召し候ふよし仰せられ候ふと云々。

『蓮如上人御一代記聞書』212 末

一 坊主分の人、ちかごろはことのほか重杯のよし、そのきこえあり。言語道断しかるべからざる次第なり。あながちに酒を飲む人を停止せよといふにはあらず。仏法につけ門徒につけ、重杯なれば、かならずややもすれば酔狂のみ出来せしむるあひだ、しかるべからず。さあらんときは、坊主分は停止せられてもまことに興隆仏法ともいひつべきか。しからずは、一盞にてもしかるべきか。これも仏法にこころざしのうすきによりてのことなれば、これをとどまらざるも道理か。ふかく思案あるべきものなり。

『御文章』四帖 8 より


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