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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』35
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪2
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 35
仏のたまはく、「その一つの悪とは、諸天・人民、蠕動の類、衆悪をなさんと欲へり、みなしからざるはなし。強きものは弱きを伏し、うたたあひ剋賊し、残害殺戮してたがひにあひ呑噬す。善を修することを知らず、悪逆無道にして、後に殃罰を受けて、自然に〔悪道に〕趣向す。神明は記識して、犯せるものを赦さず。ゆゑに貧窮・下賤・乞丐・孤独・聾・盲・オンア・愚痴・弊悪のものありて、オウ・狂・不逮の属あるに至る。また尊貴・豪富・高才・明達なるものあり。みな宿世に慈孝ありて、善を修し徳を積むの致すところによるなり。世に常道の王法の牢獄あれども、あへて畏れ慎まず。悪をなし罪に入りてその殃罰を受く。解脱を求望すれども、免れ出づることを得がたし。世間に、この目前に見ることあり。寿終りて後世に〔受くるところの苦しみは〕もつとも深く、もつとも劇し。その幽冥に入り、生を転じて身を受くること、たとへば王法の痛苦極刑なるがごとし。ゆゑに自然の三塗無量の苦悩ありて、うたたその身を貿へ、形を改め、〔生死輪廻して〕道を易へて、受くるところの寿命、あるいは長く、あるいは短し。魂神精識、自然にこれに趣く。まさに独り値ひ向かひ、あひ従ひてともに生れて、たがひにあひ報復して絶えやむことあることなかるべし。殃悪いまだ尽きざれば、あひ離るることを得ず。そのなかに展転して出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。天地のあひだに自然にこれあり。即時ににはかに善悪の道に至るべからずといへども、かならずまさにこれに帰すべし。これを一つの大悪・一つの痛・一つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを一つの大善とす」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 35
釈尊が仰せになる。
「第一の悪とは次のようである。天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている。
善い行いをすることを知らず、五逆十悪の罪を犯して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない。それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、身心の不自由なものや、才知の劣ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。また身分の高いものや、裕福なものや、才知のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈しみ、親に孝行を尽すというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。
世の中には法令に定められた牢獄[があるのに、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのような苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄[や餓鬼[や畜生[の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであって、そのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてたとえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した罪が消えない限り、互いに離れることができない。こうして地獄や餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。世の中にはこのような因果の道理がある。たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛[、第一の焼[という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第一の大善というのである」
- 註釈版
- 仏のたまはく、「その一つの悪とは、諸天[・人民[、蠕動[の類[、衆悪[をなさんと欲[へり、みなしからざるはなし。強きものは弱きを伏[し、うたたあひ剋賊[し、残害殺戮[してたがひにあひ呑噬[す。
- 現代語版
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釈尊が仰せになる。
「第一の悪とは次のようである。天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている。
仏教の戒律の中で第一に挙げられているのが「不殺生戒[」です。殺生というのは一般的に銃や刀を使って人命を奪ったり動物の生命を奪うこと≠ニ理解されているようですが、もしそうなら世間のほとんどの人間は不殺生戒を守ることはできません。みな菜食主義になれば良い≠ニの意見もあるでしょうが、肉食は人類共通の宿業であり、皆が改めるのは容易なことではなく、また農業においても虫の駆除は必要です。自分はしなくても他人にさせていれば同じでしょう。このように、自分が生きるためには他の命を犠牲にしなくてはなりませんが、これ自体は必要悪ですから罪には問いません。人々が守れないような戒律は不要だからです。では何を罪悪とするのでしょう。
この経では、「強きものは弱きを伏[し」とあります。これは力を武器に相手の存在を虐[げるということでしょう。相手にも生命があり、命がけで生きているのだ≠ニいうことに思いが至らず、その尊厳を無視するということを殺生というのです。仏教徒は食前に「いただきます」等と拝んでから食事を頂くのですが、これは食材となっていただいた生命を蔑ろにせず、仏道に励む糧とさせていただくことを自他に告げているのです。
しかし多くの人々、「諸天[・人民[、蠕動[の類[」ですから、天人的な人格や所作[が整っている人でも、一般の人々でも、またくねくねと身体をくねらせるように、だらしなく生きている人間≠ナも(参照:{弥勒領解1#2})、みな「衆悪[をなさんと欲[へり、みなしからざるはなし」、いろいろな悪を犯そうと欲[し、皆その通り、然[るべく悪を為している。この衆悪の第一として「強きものは弱きを伏[し」と、弱肉強食・畜生世界さながらの根性が挙げられていますが、これが「殺生」の本質なのでしょう。
先ほども申しましたが、自分が生きるためには他の命を犠牲にせねばなりません。しかしこのことを当たり前だ≠ニ開き直り、弱者を虐げても恥じたり懺悔することなく、生命の尊厳を顧みないこと、こうした「殺生」に慣れてしまうことを「第一悪」としているのです。これは生きること自体から発生する悪ですから、ある意味仕方がない軽い癖£度のものなのですが、軽いからといってこの癖を野放しにしておけば、いずれ自他の身の破滅につながってしまいます。殺生を正当化する自分の根性に自分の人生を任せてはおけないのです。こうしたことは仏は既にお見通しなのですから、私の悪根性を開いてはっきりと示し、これを依りどころとしないように導いて下さるのでしょう。
では「殺生」という悪の根源が実際にどのように展開するのかというと、「うたたあひ剋賊[し、残害殺戮[してたがひにあひ呑噬[す」と少し難解な用語が並んでいますが、「剋賊[」は「殺害する」ことであり、「残害殺戮[」は「そこない殺す. 敵を残酷なやり方で殺す. 大量殺戮[する」こと、「呑噬[」は「のみこみ,かみつく」ことです。これを現代語版では「互いに傷つけあい殺しあっている」と単純に訳していますが、漢文の印象としては相当強烈な文字が並んでおりますので、この意を汲めば、互いに殺害し、むごたらしく殺し合い、さらに恨みをぶつけて襲い、侵略しあう≠ニでも訳した方が良いでしょう。この経典をここまで読んできた中で、突然のようにおぞましい文字が列挙されていますので戸惑うところですが、これらの文字が指し示すところこそまさに「無慚無愧[のこの身」であり人類の血塗られた歴史≠サのものでありましょう。
- 註釈版
- 善を修することを知らず、悪逆無道[にして、後に殃罰[を受けて、自然[に〔悪道に〕趣向[す。神明[は記識[して、犯せるものを赦[さず。ゆゑに貧窮[・下賤[・乞丐[・孤独・聾[・盲[・オンア・愚痴[・弊悪[のものありて、オウ・狂[・不逮[の属[あるに至る。また尊貴[・豪富[・高才[・明達[なるものあり。みな宿世[に慈孝[ありて、善を修し徳を積むの致すところによるなり。
- 現代語版
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善い行いをすることを知らず、五逆十悪[の罪を犯して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない。それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、身心の不自由なものや、才知の劣ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。また身分の高いものや、裕福なものや、才知のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈しみ、親に孝行を尽すというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。
「悪逆無道[」を現代語版では「五逆十悪[」と訳してありますが、
- 「五逆」とは――
- 五種の重罪のこと。五逆罪ともいい、また無間地獄[へ堕ちる業因[であるから五無間業、五無間罪ともいう。一般には小乗の五逆をあげて示す。@殺父[。父を殺すこと。A殺母[。母を殺すこと。B殺阿羅漢[。阿羅漢(聖者[)を殺すこと。C出仏身血[。仏の身体を傷つけて出血させること。D破和合僧[。教団の和合一致を破戒し、分裂させること。大乗の五逆は@塔寺を破壊し、経蔵[を焼き三宝の財宝を盗むこと。A声聞・縁覚[・大乗の教えをそしること。B出家者の修行をさまたげること。また、出家者を殺すこと。C小乗の五逆。D因果の道理を信じず、十不善業をなすこと。(『浄土真宗聖典注釈版』巻末註)
- 「十悪」とは――
- 身口意[(からだ・言葉・心)の三業の中で、とくに著しい十種の悪い行為のこと。@殺生[(生きものを殺す)。A偸盗[(ぬすみ)。B邪淫[(よこしまな性の交わり)。C妄語[(うそいつわり)。D両舌[(人を仲たがいさせる言葉)。E悪口[(ののしりの言葉。あらあらしい言葉)。F綺語[(まことのない飾った言葉)。G貪欲[(むさぼり・我欲)。H瞋恚[(いかり)。I愚癡[(おろかさ・真理に対する無智)。このうちで前三が身業、中四が口業、後三が意業である。また、これらを離れるのが十善である。(同)
ということで、特に五逆は恩を仇で返し善宝を破壊する行為ですから、これを犯すと、「後に殃罰[を受けて、自然[に〔悪道に〕趣向[す」(後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない)ことは当然の道理でしょう。ただし誰かが五逆を犯した者を地獄に落とすのではありません。悪逆無道・五逆十悪を犯していること自体が既に無間地獄に趣いているということなのです。そして懺悔せねばこの報いによって確実に身心や生活が蝕[まれていきます。
しかし人々の中には、悪逆無道を犯していながら罪悪の報いをすぐに感じない鈍感な人たちもいます。最悪の結果になるまで気づかず、破滅して後にようやく悔いても遅いわけですから、経は懇切丁寧に「神明[は記識[して、犯せるものを赦[さず」(天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない)と、倶生神[(もしくは同生神[・同名神[)を持ち出して抑止します。この神は、「人が生まれるとともにしたがって、その人の善悪の行為を記録して閻魔王に報告する神」です。もちろんこれは仏教本来の教えではありませんが、一般常識的に解りやすい形で五逆十悪を抑止[することができるため、方便として用いているのです(↓資料参照)。
ですから「ゆゑに貧窮[・下賤[・乞丐[・孤独・聾[・盲[・オンア・愚痴[・弊悪[のものありて、オウ・狂[・不逮[の属[あるに至る」ということも、次の「また尊貴[・豪富[・高才[・明達[なるものあり。みな宿世[に慈孝[ありて、善を修し徳を積むの致すところによるなり」というところも本来の仏教の教えではありませんが、同じく方便として仮に説かれているのです。
ではこうした方便は全く嘘なのかといいますと、そうではありません。
貧窮・下賤等の問題を個人的な、いわゆる自己責任論的な意味で用いてしまえば、外道の宿命論的な因果一貫の業論≠ノなってしまいます。しかし、「衆縁によって成り立つ自己」という立場に立って貧窮・下賤等の現実を引き受けてゆけば、これこそ宿業を背負って浄土の大地を歩む菩薩の姿でしょう。五濁悪世の問題を自分の問題として鑑み、本願の催しに依って人生観を確立し自己形成してゆくことが真の念仏生活なのです。
- 註釈版
- 世に常道[の王法[の牢獄[あれども、あへて畏[れ慎[まず。悪をなし罪に入りてその殃罰[を受く。解脱を求望[すれども、免[れ出づることを得がたし。世間に、この目前に見ることあり。寿終[りて後世[に〔受くるところの苦しみは〕もつとも深く、もつとも劇[し。その幽冥[に入り、生を転じて身を受くること、たとへば王法の痛苦極刑[なるがごとし。
- 現代語版
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世の中には法令に定められた牢獄[があるのに、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのような苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。
前節では神明[の譬えによって悪逆無道[の抑止[を期していましたが、そのまま素直に随う人たちばかりとは限りません。神明を無視している人たちには効果がないからです。そこでこの節では「王法[の牢獄[」と、誰でも解る牢獄の苦痛を譬えに用い、現世のみならず来世はさらに「たとへば王法の痛苦極刑[なるがごとし」と、少々脅しに近い言い方で五逆十悪[を抑止[していきます。これも仏教本来の教えではありませんが、前節同様、一般常識的に解りやすい形で説かれているのです。
- 註釈版
- ゆゑに自然の三塗無量[の苦悩ありて、うたたその身を貿[へ、形を改め、〔生死輪廻[して〕道[を易[へて、受くるところの寿命、あるいは長く、あるいは短し。魂神精識[、自然にこれに趣[く。まさに独[り値[ひ向かひ、あひ従ひてともに生れて、たがひにあひ報復して絶えやむことあることなかるべし。殃悪[いまだ尽きざれば、あひ離るることを得ず。そのなかに展転[して出づる期[あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。天地のあひだに自然にこれあり。即時ににはかに善悪の道に至るべからずといへども、かならずまさにこれに帰すべし。これを一つの大悪・一つの痛[・一つの焼[とす。勤苦[かくのごとし。たとへば大火[の人身[を焚焼[するがごとし。
- 現代語版
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このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄[や餓鬼[や畜生[の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであって、そのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてたとえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した罪が消えない限り、互いに離れることができない。こうして地獄や餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。世の中にはこのような因果の道理がある。たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛[、第一の焼[という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
悪逆無道[を抑止する文はまだ続きまして、いわゆる「輪廻転生[」の業論が持ち出されます。この内容を常識的に読んでしまうと―― 悪逆を犯した者は、この世でも死んだ後も、業にしたがって霊魂が幾度も生れ変り死に変わり、三途の苦しみを無限に受け続け、憎しみあった者同士はまた次の生でも報復しあい、その罪が重なってまた三途の苦しみを受け続けるので、今すぐに善悪の結果が出なくても、また現世で結果が出なくても、来世では必ず報いが現れる、と受け取れます。
これは何度も言いますように仏教本来の教えではありません。本当は、自分は今ここで、二度と生まれてこない一度きりの人生を生き切る≠ニ腹に据えてこそ真実の人生観が確立できるのですが、当時の一般常識に即して五逆十悪を抑止しているのです。そして同時に、こうした方便は全く嘘なのかといいますとそうではなく、「衆縁によって成り立つ自己」という立場に立って鑑み現実を引き受けてゆけば、これも宿業を背負って浄土の大地を歩む菩薩の姿となります。
たとえば「たがひにあひ報復して絶えやむことあることなかるべし。殃悪[いまだ尽きざれば、あひ離るることを得ず」とありますが、これは長い歴史において繰り返された最も醜悪なもの、報復合戦や戦争の有様でありましょう。自己保全のため他の命を蔑ろにし、他民族を殺し、報復しあって紛争が拡大してゆくのです。そして紛争解決のためさらに巨大な軍事力を用いて戦争となり留まるところを知りません。たとえ争い疲れて一時的に紛争が収まっても火種は無限にありますから、根本的な解決が為されない限り、機会を得れば争いが再発します。
これは個人においても、組織においても、民族や国家や宗教においても同様でしょう。この苦しみは「たとへば大火[の人身[を焚焼[するがごとし」とある通りです。
このように、私が生きる≠ニいうことに執着し、開き直って他を蔑ろにする≠ニいう殺生の悪、これが「第一悪」なのであり、その現当における報いを「一つの痛[・一つの焼[」と呼ぶのです。
- 註釈版
- 人よくなかにおいて一心に意[を制し、身を端[しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独[り度脱[して、その福徳[・度世[・上天・泥オン[の道を獲ん。これを一つの大善とす」と。
- 現代語版
- もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第一の大善というのである」
「殺生」が地獄に趣く第一の悪とすれば、殺生の反対である大善は何かと申しますと「供養」であります。ただし、供養といっても追善供養[のような間に合わせの供養ではありません。真実の供養は「恭敬供養[」といって、敬虔な気持ちで相手を敬い丁寧に物心をささげて役立てていただくことを言います。特にその心根としては、どんな命も軽んじたり馬鹿にすることなく、相手の人格を尊重し、相手の深いまごころを学ぶことが本当の供養です。ものや人を粗末に扱うことが殺生なら、ものや人を大切に生かすことが供養で、ごく単純に申しますと、「殺生」により自他を地獄に趣かせ、「供養」により自他を浄土に趣かせる≠フであり、裏から言えば地獄のインフラ[infrastructure]は殺生によって行われ、浄土のインフラは供養によって為される≠ネのです。
もちろんこの供養は自意識として功利的に行うものではなく、本願力回向のはたらきによって然[らしめられた供養であります(参照:{衆生往生果1#3 })。
「福徳[・度世[・上天・泥オン[の道を獲ん」は、前章の最後に大方の説明をしましたが、「長寿」が「上天[」に変っています。「上天」は、色界で「夜魔天[」以上の空中に層をなして住む空居天[=Aもしくは無色界に属する非想非非想処天(有頂天)≠指し、存在世界の最頂を言います(参照:{眷属荘厳3 #2})。
「これを一つの大善とす」というのは、真の供養は自力の相対的な善(小善)ではなく、如来の催しとして行ずる善ゆえに「大善」というのです。
私も母から聞いたのでありますけれども、昔から、人間が生まれるというと、右の肩か左の肩かちょっと忘れましたけれども、善の神と悪の神がそこにいつもおられて、善いことをしたら善の神がいいところへ丸を付ける。悪いことをしたら悪の神がそこへ記しを付ける。こういうようにして、死んだときに差し引き、善かったらお浄土へ参る、悪かったら地獄へ行くと、こういうことを言っておりました。
やがてそれが閻魔さんに替わってくる。閻魔さんが付けておいて、それを差し引き悪いことをしたらそれが「浄玻離の鏡」に映って、罪であると。こういうことでありますけれども、ここではただ単に「神明を記識する」という、神さまが生きている間にした悪いこと、いいことを記しておいて、それを差し引き、罪を決めるのだと、こういうことになっております。
昔の人はこれをどのように言っておるかといいますと、はっきりと出てきたのは、この『大無量寿経』が生まれてくる以前が『華厳経』でありますから、『華厳経』に神明に、神さまが付くということについて、二人の神さまが付くという。一つは同生神(どうしょうじん)という神さまと、同名神(どうみょうじん)という神さまが、皆どの人にも付くのだと説かれているのであります。
ところが『華厳経』ではただ名前だけであって、内容がはっきりしておらない。それに対して、後になればシナにいろいろな解釈が出てきまして、同生神というのは女の神さまである。同名神は男の神さまであるとか、こういうことが言われているのであります。仏教から申しますと、同生神の「生」というのは何かというと、生まれながらにして持っているということでありますから、仏教では人間の機の深信といいます。法に対して機と言いますが、今までこの機には三つあります。一つは「性得(しょうとく)の機」といって、生まれながらにして持っている根性。いわゆる本能でありますけど、仏教では本能とは言わないで煩悩と言います。それに対して、自力で計らう、「自力計度(けたく)の機」と言います。もう一つは法を受ける機、「受法の機」と言っております。これは何かといいますと、生まれながらにして身についた機であります。だから、欲とか三毒の煩悩ですね。貪欲(とんよく)とか、瞋恚(しんに)とか愚かとか、こういうものが生まれながらにして持っている機であると言います。
法現の機とは、南無を機として、動機として、そこを場所として法が働く、現れる。だから、お浄土とか仏とかいうものは、人間の南無の手の合わされたここを場所として、法が現実に働くのです。だから、法現の機という。こういうものを昔の人は忘れている。だからそれほど仏教というものが消極的になっておるということで、今までの人は全部、「性得の機」と「自力の機」と「受法の機」としか言いませんけれども、私は「法現の機」というものがあるのだと。それを日本で初めて言い出されたのが親鸞聖人。こういうふうに思うのでありますけれども、なんぼ親鸞聖人がそんなことをおっしゃっても言葉がないですよ。
話がえらく横に行きましたけれども、それなら神さまは一人でいいではないか。閻魔さまは一人でしょう。閻魔さまは、ちゃんと閻魔帳に「おまえは生きている間にこういういいことをした。いつこういう悪いことをした」と、閻魔さまは一人しかおらないではないか、なぜ二人の神さまがいるのかと、こうなりましょう。そこで問題です。
なぜこういうことを考えたのかというと、本当に仏法というものは人間の平生我々の心にある。我々の心に思っておっても、言えと言われても言い表すことができない。はっきりとそれを言い表してくださったものが、このお経だと。さとられた方が唱えたお経だと、こうとらえております。
どういうことかといいますと、私はいつも言うのでありますが、実は、昔の言葉で言えば「罪を憎んで人を憎まず」と言いましょう。同じ悪いことをしても、したことは悪いけれども、人を憎んではいけないということがありましょう。そうすると、何か。本人は境遇にだまされてしたのだから、知らずにしたのだから気の毒なものだと、こうなりましょう。それを突き詰めてみればどうなるかというと、これは不道徳ならば責めなくてはならない。自分がちゃんと悪いと知っておりながらしたのならば、それをとがめなければいけない。けれども自分が、これが正しいことだと思ってしたのなら愚かだから、責めてみようがないではないですか。
だから、私たちはそういうように解っていてするのならば、「あなた、そういうことをしてはいけないではないか」と言って、相手をとがめることはできますよ。けれども、解らずにすることが多いのですから。無明と言いますね。わからずにすることもある。愚かだから責めることはできない。
だから、ちゃんとこういう二つのものが、こちらは理性のもの、こちらは本能的なものと、そういう点において、私はやはり同生神と同名神と二つということは、どうしても私は両方のものがなければならないと思う。同じ悪と言いましても、とがめることのできる悪と、とがめることのできない悪があるでしょう。ただ悪いことをしたというだけではいけない。こういうことをはっきりとそういうことまでも分けておるという所に、神さまがいいこと、悪いことを記すと書いてありますけれども、それを『華厳経』にはこのように細かく分けているということが、非常に私たちは日常生活の中に考えねばならないことがあるわけであります。
もう一つほかのことで言うならば、こちらの人が言えば「それは仕方のないことだ」と言う。こちらの人は「それはいけないことだ」と、こういうこともありましょう。だから、両方の意見を参考にするということでもあると同じように、やはり二人の神さまがいるということでいいと思うのであります。
これは本来の仏教そのものではないですけれども、だからこれは、ここだけはシナ人ではないですよ、それは誰が書いたかわかりませんけれども、インドから来てシナに来て書いたのかわかりませんが、シナの事情というものをよく知って、シナ人のそういうものの細かい、非常に厳密なところも知って、その上で本当のお念仏というものが、現実の我々の生活の中にどう働くかということを、はっきりとこういうふうに悪の中に、本当の我々の日常生活の中に我々が知らずして生活しておる、その中に仏法がどう働くのかと。こういうことをかんで含めるように、言葉は難しいですけれども、書かれた人から言うならば本当に至れり尽くせりの気持ちをもって書いてくださったものが五悪段だと、こう思っております
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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