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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』38

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪5

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 38

 仏のたまはく、「その四つの悪とは、世間の人民、善を修せんと念はず、うたたあひ教令してともに衆悪をなす。両舌・悪口・妄言・綺語、讒賊闘乱す。善人を憎嫉し、賢明を敗壊して、傍らにして快喜す。二親に孝せず、師長を軽慢し、朋友に信なくして、誠実を得がたし。尊貴自大にしておのれに道ありと謂ひ、横に威勢を行じて人を侵易し、みづから知ることあたはず。悪をなして恥づることなし。みづから強健なるをもつて、人の敬難せんことを欲へり。天地・神明・日月を畏れず、あへて善をなさず、降化すべきこと難し。みづからもつて偃ケンして、つねにしかるべしと謂ひ、憂懼するところなく、つねに驕慢を懐けり。かくのごときの衆悪、天神記識す。その前世にすこぶる福徳をなせるによりて、小善扶接し営護してこれを助く。今世に悪をなして福徳ことごとく滅しぬれば、もろもろの善鬼神、おのおのともにこれを離る。身独り空しく立ちて、またよるところなし。寿命終り尽きて諸悪の帰するところ自然に迫促してともに趣きてこれに頓る。またその名籍、記して神明にあり。殃咎牽引して、まさに往いて〔悪道に〕趣向すべし。罪報自然にして従ひて捨離することなし。ただ前み行いて火カクに入ることを得て、身心摧砕し精神痛苦す。この時に当りて悔ゆともまたなんぞ及ばん。天道自然にして、蹉跌することを得ず。ゆゑに自然の三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して、世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを四つの大悪・四つの痛・四つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて、一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを四つの大善とす」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 38

 さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。
 あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。しかも自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。また自分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである。
 このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。自身は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである。
 このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。だから、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、しばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきりとなり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。そうして寿命が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に集まってきて、その人とともに次の世に至る。また天の神がその行いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ行くのである。罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛み苦しむことになる。そのときになってどのように後悔しても、もはや取り返しはつかない。まことに因果の道理は必然であって、少しのくい違いもないのである。
 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第四の大悪、第四の痛、第四の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第四の大善というのである」


 言葉による悪は犯すことが容易

註釈版
 仏のたまはく、「その四つの悪とは、世間の人民[にんみん]、善を修せんと[おも]はず、うたたあひ教令[きょうりょう]してともに衆悪[しゅあく]をなす。両舌[りょうぜつ]悪口[あっく]妄言[もうごん]綺語[きご]讒賊闘乱[ざんぞくとうらん]す。
現代語版
 さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。

 仏教の戒律の中で第四に挙げられているのが「不妄語戒[ふもうごかい]」(嘘をつかない)です。この章では「両舌[りょうぜつ]悪口[あっく]妄言[もうごん]綺語[きご]」とありますから、「妄語」だけでなく言葉に関連する悪行全てを問題視しています。

 身口意[しんくい](からだ・言葉・心)の三業の中で、とくに著しい十種の悪行を「十悪」といいます。

  1. 殺生[せっしょう](断生命):生きものを殺す。
  2. 偸盗[ちゅうとう](不与取、劫盗):ぬすみ。
  3. 邪婬[じゃいん](欲邪行、婬イツ、邪欲):よこしまな性の交わり。
  4. 妄語[もうご](虚誑語、虚妄):うそいつわり。
  5. 両舌[りょうぜつ]離間語[りけんご]、破語):人を仲たがいさせる言葉。二枚舌。
  6. 悪口[あっく](麁悪語、悪語、悪罵):ののしりの言葉。あらあらしい言葉。
  7. 綺語[きご]雑穢語[ぞうえご]、非応語、散語、無義語):まことのないかざった言葉。染心から発する言葉。
  8. 貪欲[とんよく](貪、貪愛、貪取、慳貪):むさぼり・我欲。
  9. 瞋恚[しんに](瞋、恚害):いかり。
  10. 愚癡[ぐち](邪見):おろかさ・真理に対する無知。
 これら十悪のうち4〜7の四項目に関わる悪を「第四の大悪」とするのですが、経典の流れで言えば、生きること自体から発生する殺生[せっしょう](第一悪)、自堕落で贅沢な生活を望む偸盗[ちゅうとう](第二悪)、衣食足りて犯す邪婬[じゃいん](第三悪)と、後になるほど悪の度合いが深く重くなっていきましたので、これら三つの悪よりさらに悪質なものが言葉による悪ということになります。ではなぜ殺生や偸盗・邪婬より悪の度合いが深いのでしょう。

 それは、言葉による悪は誰でも容易に起こすことができ、なおかつ悪の影響は甚大だからです。愚かな人はちょっとした嘘くらい許される≠ニか気分が悪ければ荒々しい言葉を発しても大丈夫=E誰でも状況に合わせて二枚舌を使うものだ=E上司や権力者に取り入るためには心にもない[][へつら]いの言葉を述べるのが当然≠ニいうように言葉をぞんざいに扱っていますが、これほど恐ろしいことはありません。なぜなら、言葉と行為はほぼ同じ作用や影響を自他に与えるからです。身行となると躊躇[ちゅうちょ]する悪も、言行だと容易に犯してしまいがちです。

 たとえば殺人ということも、実際に凶器を振りかざすのは躊躇する人でも、「殺してやる」と言ってしまうことはあるでしょう。これは法律的には罪の度合いが異なりますが、宗教的と申しましょうか、自分の人生の問題としては全く同じ重さの悪になります。
 先の十悪で言えば、妄語[もうご]を犯せば自分の人生自体が嘘偽りとなり、両舌[りょうぜつ]を犯せば人生の基軸を失い、悪口[あっく]を犯せば性格も荒々しくなり、綺語[きご]を犯せば真心のない虚飾の人生で終わってしまいます。こうしたことが「うたたあひ教令[きょうりょう]してともに衆悪[しゅあく]をなす」とありますように、お互いに教えそそのかしている。個人としては衆悪は望んでいないのに、組織としての体裁が最優先されると、傲慢な考えが支配し、嘘偽りがまかり通ってしまいます。特に閉鎖した環境では衆悪が倍加されることがよく起きるのですが、こうした中で自浄作用を発揮するためにはどうしても法や戒律の鏡に自らの姿を映す必要があるのです。これは前章でも申しましたが、戒律を完全に守らせることが戒律の本意ではなく、戒律が鏡になって我が身の浅ましさ≠知り、懺悔に導く。そうした意味でも戒律は重要なのですが、現在の浄土真宗教団の中では五戒を尊ぶ伝統が薄れ、ひどい時には無戒を誇るようなありさまですから、顛倒も甚だしいと言う他ありません。

 相手がひれ伏すことを望む悪

註釈版
善人を憎嫉[ぞうしつ]し、賢明[げんみょう]敗壊[はいえ]して、[かたわ]らにして快喜[けき]す。二親[にしん][きょう]せず、師長[しちょう]軽慢[きょうまん]し、朋友[ぼうう]に信なくして、誠実[じょうじつ]を得がたし。尊貴自大[そんきじだい]にしておのれに道ありと[おも]ひ、[よこさま]威勢[いせい]を行じて人を侵易[しんい]し、みづから知ることあたはず。悪をなして恥づることなし。みづから強健[ごうけん]なるをもつて、人の敬難[きょうなん]せんことを欲へり。 天地・神明[じんみょう]・日月を[おそ]れず、あへて善をなさず、降化[ごうけ]すべきこと[かた]し。みづからもつて偃ケン[えんけん]して、つねにしかるべしと[おも]ひ、憂懼[うく]するところなく、つねに驕慢[きょうまん][いだ]けり。
現代語版
 あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。しかも自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。また自分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである。
 このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。自身は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである。

 言葉は何を為す時にも要めとなるものです。歴史上、人類の文明は言葉なくして成立しませんでしたし、今後も言葉が重要な要素となることは疑いありません。宗教も同様で、中には「言葉のいらぬ世界が仏の世界」と言う学者もいるのですが、これは本当ではなく、特に浄土は「ものみな名のる世界」であります。『仏説阿弥陀経』では名の由来を示して浄土の内容を明らかにしているのですが、浄土のように真実が自然に顕現する言葉ばかりなら良いのですが、人間はどうしても言葉を捻じ曲げて使用してしまいます。言葉は善を促すのも便利なかわり、不誠実に使われると悪影響も大きくなりますから、今章ではこの点の懺悔を促しているのです。

 中でも、「善人を憎嫉[ぞうしつ]し、賢明[げんみょう]敗壊[はいえ]して、[かたわ]らにして快喜[けき]す」(善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる)とは何と愚かで浅ましい姿でしょう。まるでドラマや映画に登場する意地悪な敵役のようですが、これは具体的に誰のことを言っているのでしょう。さらには「二親[にしん][きょう]せず、師長[しちょう]軽慢[きょうまん]し、朋友[ぼうう]に信なくして、誠実[じょうじつ]を得がたし」(両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている)とありますが、これは近所に住む人や遠い凶悪犯を指しているのでしょうか。
 もしそう思っている人がいれば、その人こそ尊貴自大[そんきじだい]にしておのれに道ありと[おも]ひ、[よこさま]威勢[いせい]を行じて人を侵易[しんい]し、みづから知ることあたはず」(自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない)と指摘される人間と言わざるを得ません。仏教で問うているのはいつも自分自身の問題であります。この肝心な自分を棚に上げ、他人を非難してばかりいる人がいますが、言葉において最も避けるべきはこうした「尊貴自大[そんきじだい]」を根として横暴をふるうことでしょう。

 これは宗教者も同様で、「我は正義のうちにあり、汝は虚偽のうちにある」、「自分こそが正しい。お前らはみな間違っている」と自説を朗々と披露し、一人[えつ]に入っている僧侶もいるのですが、このため大衆から大いに顰蹙[ひんしゅく]を買っていることも解らず、威張り散らして恥じることがありません。またこういう人に限って、中身の大半は他人の説の受け売りであったり、権威に縛られた堅物であったりしますが、傲慢な人間は誰からの指摘も受け入れず、相手がひれ伏すまで口角泡を飛ばして[ののし]るありさまです。誠意をもって真実を領解しようと言葉を交わすのではなく、相手をやり込めるためだけに言葉を発している人は、嘘偽りも二枚舌も、あらあらしい言葉も、まことのないかざった言葉も、平気でつくことができるのです。

 私は世界中の宗教者がもう少し謙虚な態度で、相手を尊び、共に学ぶ姿勢を持って言葉を発していたならば、現在のように戦争や紛争が絶えない状況にはなっていなかったのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

 短時間で膨らむ言葉の罪悪

註釈版
かくのごときの衆悪[しゅあく]天神記識[てんじんきし]す。その前世[ぜんせ]にすこぶる福徳[ふくとく]をなせるによりて、小善扶接[しょうぜんふしょう]営護[ようご]してこれを助く。今世[こんぜ]に悪をなして福徳ことごとく滅しぬれば、もろもろの善鬼神[ぜんきじん]、おのおのともにこれを離る。身独り空しく立ちて、またよるところなし。寿命終り尽きて諸悪の帰するところ自然[じねん]迫促[はくそく]してともに[おもむ]きてこれに[いた]る。またその名籍[みょうじゃく]、記して神明[じんみょう]にあり。殃咎牽引[おうぐけんいん]して、まさに[]いて〔悪道に〕趣向[しゅこう]すべし。罪報自然[ざいほうじねん]にして従ひて捨離[しゃり]することなし。ただ[すす][]いて火カク[かかく]に入ることを得て、身心摧砕[しんしんさいさい]精神痛苦[しょうじんつうく]す。この時に当りて悔ゆともまたなんぞ及ばん。天道自然[てんどうじねん]にして、蹉跌[さでつ]することを得ず。ゆゑに自然の三塗[さんず]の無量の苦悩あり。そのなかに展転[てんでん]して、世々[せせ][こう][かさ]ねて出づる[]あることなく、解脱[げだつ]を得がたし。痛みいふべからず。これを四つの大悪[だいあく]・四つの[つう]・四つの[しょう]とす。勤苦[ごんく]かくのごとし。たとへば大火の人身[にんじん]焚焼[ぼんじょう]するがごとし。
現代語版
 このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。だから、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、しばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきりとなり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。そうして寿命が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に集まってきて、その人とともに次の世に至る。また天の神がその行いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ行くのである。罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛み苦しむことになる。そのときになってどのように後悔しても、もはや取り返しはつかない。まことに因果の道理は必然であって、少しのくい違いもないのである。
 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第四の大悪、第四の痛、第四の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 この節も「第一悪」の{#神々が罪を記録し閻魔王に報告する}{#社会法規に譬えて}{#報復合戦の醜悪さ}とほぼ重複しますし、漢文は難解な漢字が使用されていますが、現代語訳すれば解りやすい内容だと思います。
 とにもかくにも、自分の為した身口意の行業はいつかどこかで必ず結果が現れるものであり、因縁果報[いんねんかほう]の道理は誰も逃れることができないことは解り切った話なのに、いつまでたってもこの明々白々な道理を本気で理解せず、ごまかしの人生を歩む者が絶えないことは痛ましい限りです。また、小さな炎も火を消さなければやがて大火事となるように、小さな罪も懺悔することなく時を経ればやがて大きな苦痛となって身にふりかかってくることは、文字通り火を見るより明らかな道理でしょう。特に言葉の悪は犯すことが容易であり、頻繁に犯しがちですから、周囲の人々を巻き込んで罪悪が短時間で雪だるま式に増えてしまい、一巡して自分に果報が戻ってきた時には、自分一人では受け止めることができない程巨大になり、苦痛も甚だしいのです。

 ただし、悪を厭離すべき最大の理由は、遠い未来に苦痛を受けることを回避するためではなく、「今・ここにおいて生きる我自身」の問題として悪を厭離するのです。『中部経典』4.31には「過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ」とありますように、肝心なのは「今なすべきことを努力してなせ」ということに他なりません。「悪を為す」ということは、この肝心な今を破綻させているわけです。
 つまり「今なすべきこと」に関して、悪を為せば必然的に過去は執われとなり、未来は煩いとなりますから、過去も未来もともに煩悩となってしまいます。ひるがえって善を為せば、必然的に過去は智慧の泉となり、未来は善の見定めとなりますから、過去も未来も今を生かす力となるのです

 言葉の徳を我が身に頂く

註釈版
人よくなかにおいて、一心に[こころ]を制し、身を[ただ]しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪[しゅあく]をなさざれば、身独[み ひと]度脱[どだつ]して、その福徳[ふくとく]度世[どせ]上天[じょうてん]泥オン[ないおん][どう][]ん。これを四つの大善とす」と。
現代語版
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第四の大善というのである」

 前節のような苦痛を回避し、今を生かすためには、言語に関する智慧を開発し、皆からの信頼を得ていかなければなりません。なぜなら、言葉には本来、多くの徳が込められているのであり、誠実に用いることによってその徳を我が身に頂くことができるからです。
 第四悪の特徴は、両舌[りょうぜつ]悪口[あっく]妄言[もうごん]綺語[きご]讒賊闘乱[ざんぞくとうらん]す」(二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起す)ということですから、「第四の大善」としてはまず言葉の悪を誡め、「一心に[こころ]を制し」:傲慢で権勢欲にとらわれた心を自制し、嘘をつかず誠実に言葉を用いようと心がけ、「身を[ただ]しくし行ひを正しくして」:実際に誠実に言葉を用い行動をともなわせていき、「独りもろもろの善をなして衆悪[しゅあく]をなさざれば」:周囲や他人の甘言に騙されず、たとえひとりになろうとも自分自身は誠実に言葉を用いていれば、「身独[み ひと]度脱[どだつ]して」:本願力回向のはたらきによって言葉に込められた徳を見出し、常に言葉によって学びを深めることができ、さらに「その福徳[ふくとく]度世[どせ]上天[じょうてん]泥オン[ないおん][どう][]」:正直な言動により皆からの信頼を得、筋の通った言動で人々に道義をもたらし、温和な言動によって皆に和睦[わぼく]をもたらし、誠実な言動によって人々にも嘘偽りをつかせないようにする(参照:
{大経36「#贅沢心を制する大善」})と領解できます。

 資料

第四の悪は昔から仏教では五戒を保つというのは大体殺すこと、殺生と盗むこと。邪淫という、男女の淫らな行い。それに対して妄語と言いまして、言葉の悪であります。その言葉の悪が第四の悪であると言われておりますが、確かに始めの方は非常にそういうことが出ておるのであります。だから、諸々の悪をなして饒舌は二枚舌でありますから、人の悪口を言う。そして、妄語でありますからありもせんことを言う。綺語は言葉を飾る、お上手を言う、腹にもないことを言うと、こういうことで、妄語ということがありますけれども。
 ずっと後を読んでみれば、そういうことは枝葉であって、これは何のためにそういうことをするのかというと、動物にはない、今度はもっと人間としての悪であって、これは威張る。そういう衣食足りて、今度は男女の問題が叶うてくれば、今度は一つの権勢という、そういう威張るというものが出てくる。だから、もう大体世の中を見ましてもそうであって、お金ができれば、一番先に家を建てる。そして、今度はその次にはおいしいものを食べるとか、今度は食べること着ることが十分になれば、すぐさま今度は別荘をつくって女をこしらえる。こういうことであります。今もそういう政治界の問題でもそれが出ておりますけれども、それに対して、第四の悪はそういう名誉とか威張る。そういうことが第四の悪であるという。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

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