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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』32
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 弥勒領解1
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 32
仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「われいまなんぢに世間の事を語る。人これをもつてのゆゑに坐まりて道を得ず。まさにつらつら思ひ計りて衆悪を遠離し、その善のものを択びてつとめてこれを行ずべし。愛欲・栄華つねに保つべからず、みなまさに別離すべし。楽しむべきものなし。仏の在世に曼びて、まさにつとめて精進すべし。それ至心に安楽国に生れんと願ずることあるものは、智慧あきらかに達り、功徳殊勝なることを得べし。心の所欲に随ひて、経戒を虧負して、人の後にあることを得ることなかれ。もし疑の意ありて経を解らざるものは、つぶさに仏に問ひたてまつるべし。まさにためにこれを説くべし」と。
弥勒菩薩、長跪してまうさく、「仏は威神尊重にして、説きたまふところ快く善し。仏の経語を聴きたてまつりて、心に貫きてこれを思ふに、世人まことにしかなり。仏ののたまふところのごとし。いま仏、慈愍して大道を顕示したまふに、耳目開明にして長く度脱を得。仏の所説を聞きたてまつりて歓喜せざることなし。諸天・人民、蠕動の類、みな慈恩を蒙りて憂苦を解脱す。
仏語の教誡ははなはだ深くはなはだ善し。智慧あきらかに、八方上下、去来今の事を見そなはして、究暢せざることなし。いまわれ衆等、度脱を得ることを蒙るゆゑは、みな仏の前世に求道の時謙苦せしが致すところなり。恩徳あまねく〔衆生を〕覆ひて福禄巍々たり。光明徹照して空を達ること極まりなし。〔人をして〕泥&M017421;に開入せしめ、典攬を教授し、威制消化して十方を感動せしめたまふこと無窮無極なり。仏は法王たり、尊きこと衆聖に超えたまへり。あまねく一切の天・人の師となりて、〔人々の〕心の所願に随ひてみな道を得しめたまふ。いま仏に値ひたてまつることを得、また無量寿仏の声を聞きたてまつりて、歓喜せざるものなし。心開明なることを得たり」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 32
続けて釈尊が弥勒菩薩[と天人[や人々などに仰[せになる。
「わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏[の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう」
弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申しあげる。
「世尊[の神々[しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであリます。今、世尊が哀れみの心を持ってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって煩悩[を離れることができます。
世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。その智慧は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことがありません。今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊の前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります。世尊の恩徳はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽しておいでになリます。さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません。世尊は法門の王として、他の聖者がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました」
- 註釈版
- 仏、弥勒菩薩[ともろもろの天・人等に告げたまはく、「われいまなんぢに世間[の事[を語る。人これをもつてのゆゑに坐[まりて道を得ず。まさにつらつら思ひ計りて衆悪[を遠離[し、その善のものを択[びてつとめてこれを行ずべし。愛欲・栄華つねに保つべからず、みなまさに別離すべし。楽しむべきものなし。仏の在世に曼[びて、まさにつとめて精進[すべし。それ至心[に安楽国[に生れんと願ずることあるものは、智慧[あきらかに達[り、功徳殊勝[なることを得[べし。心の所欲[に随[ひて、経戒[を虧負[して、人の後[にあることを得ることなかれ。もし疑[の意[ありて経を解[らざるものは、つぶさに仏に問ひたてまつるべし。まさにためにこれを説くべし」と。
- 現代語版
- 続けて釈尊[が弥勒菩薩[と天人[や人々などに仰[せになる。
「わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏[の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう」
前章に続き「弥勒菩薩[ともろもろの天・人等に告げたまはく」ということですから、この章もいまだに本願を領解[できず、不信のまま迷っている衆生≠ノ合わせて教えが説かれます。そのため以下の内容は、今までに説かれたことと重複している部分が多く新鮮味は欠きますが、それだけにどうにかこの基本的だけは領解してくれよ≠ニいう仏の念の入れようがうかがえます。ですから聞法する私たちの側も念を入れて学ばせていただくことにしましょう。
<われいまなんぢに世間[の事[を語る。人これをもつてのゆゑに坐[まりて道を得ず。まさにつらつら思ひ計りて衆悪[を遠離[し、その善のものを択[びてつとめてこれを行ずべし。愛欲・栄華つねに保つべからず、みなまさに別離すべし。楽しむべきものなし>
(わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない)
「われいまなんぢに世間[の事[を語る」というのは、前章の「貪欲のありさま」「瞋恚のありさま」「愚癡のありさま」に説かれた三毒煩悩の具体例で、「人これをもつてのゆゑに坐[まりて道を得ず」というのは、三毒煩悩に浸った生活を続けていると苦悪に塗[れてばかりで、人生が成就しないことをいいます。そこで「まさにつらつら思ひ計りて衆悪[を遠離[し」と、様々な煩悩や苦悪の縛[りを離れ(厭離穢土[)、「その善のものを択[びてつとめてこれを行ずべし」と、浄土を願い求めること(欣求浄土[)を勧めるのです。そしてさらに「愛欲・栄華つねに保つべからず、みなまさに別離すべし。楽しむべきものなし」と、繰り返し厭離穢土を説かれますが、なぜ何度も説かれるかというと、人々は愛欲・栄華の魅力に骨の髄[まで蝕[まれていて、容易にこれを離れることができないからです。人々が物事をすぐに聞き分け善悪を正しく選びとることができるのならこれほど何度も説かれませんが、仏は私や人々の在り様[がよく解ってみえるだけに、しつこいほど厭離穢土・欣求浄土の基本を繰り返し何度も説いてみえるのでしょう。
<仏の在世に曼[びて、まさにつとめて精進[すべし。それ至心[に安楽国[に生れんと願ずることあるものは、智慧[あきらかに達[り、功徳殊勝[なることを得[べし>
(さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏[の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである)
訳語の「今は仏が世にいる」の「今」はどう解釈するのでしょう。もし釈尊在世中≠ニいう意味でしたら、この経典が説かれた時代は「まさにつとめて精進[すべし」のままで良いのですが、後世の私たちは無仏の時代ゆえに「つとめて精進[」しても覚りを得ることはできない、という意味になってしまいます。しかし漢字を見れば「曼」とあり、これは「のびひろがる」意ですから、「仏の在世に曼[びて」は釈尊在世により正しい教えが伸び広がったので≠ニいう意になります。私たちは仏教が伸び広がった時代に生まれ、教えにあうことが適うのですから、自分から覚りを求めて精進[すべきでありましょう。
次に「それ至心[に安楽国[に生れんと願ずることあるものは」とあります。自分から覚りを求めて精進[するその源[は、「至心[に安楽国[に生れんと願ずる」ということにあります。至心は真実心でありますが、{至心信楽の願}には至心[・信楽[・欲生[の三心が説かれていて、親鸞聖人は三心の関係を「利他回向[の至心をもつて信楽の体とするなり」・「真実の信楽をもつて欲生の体とするなり」等と丁寧にその深化・展開を読み解かれました。ですから「至心」だけでは成就しないのですが、ここでは自然の深化・展開を略し、三心の初動である「至心」をもって願生を説かれているのでしょう。
では「至心[に安楽国[に生れんと願ずる」とどうなるかと申しますと、願ずる過程において「仏願の生起本末[を聞きて疑心[あることなし」で、仏願が発こされた理由も、兆載永劫[の修行も、その果報としての仏徳も浄土も、本願の歴史全てが回向されて私の願いとなってくるのであります。仏を念ずれば念ずる心が仏であり、浄土を念ずれば念ずる心に浄土が至る。願う心そのものが信心であり、仏であり、浄土の催しなのです。これを「本願力回向の信心」といい、その功徳こそ「智慧[あきらかに達[り、功徳殊勝[なることを得[べし」という内容です。かの国に生まれんと願えば、願う心に仏の智慧が与えられるのです。
<心の所欲[に随[ひて、経戒[を虧負[して、人の後[にあることを得ることなかれ。もし疑[の意[ありて経を解[らざるものは、つぶさに仏に問ひたてまつるべし。まさにためにこれを説くべし>
(欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう)
これだけ浄土の功徳を説いた後、また「心の所欲[に随[ひて、経戒[を虧負[して、人の後[にあることを得ることなかれ」と念を押して厭離穢土が説かれます。それだけ私たちは貪欲にまかせた自堕落な生活をしているのであり、仏の戒めに背きやすい性質を備えているのであり、また、せっかく他人が信心獲得の道を歩んでいるのを知っても、智慧精進を馬鹿にして見過ごす傾向があることを仏は知って警告されてみえるのでしょう。さらには「もし疑[の意[ありて経を解[らざるものは、つぶさに仏に問ひたてまつるべし。まさにためにこれを説くべし」とまで仰るのです。経典の美しい体裁を崩してまで、何度も何度も同じようなことを繰り返し述べてみえるのですから、仏の念の入れようは半端なことではありません。本当にありがたいことであります。
- 註釈版
- 弥勒菩薩、長跪[してまうさく、「仏は威神尊重[にして、説きたまふところ快[く善[し。仏の経語[を聴きたてまつりて、心に貫きてこれを思ふに、世人[まことにしかなり。仏ののたまふところのごとし。いま仏、慈愍[して大道[を顕示[したまふに、耳目開明[にして長く度脱を得。仏の所説[を聞きたてまつりて歓喜せざることなし。諸天・人民[、蠕動[の類[、みな慈恩[を蒙[りて憂苦[を解脱[す。
- 現代語版
- 弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申しあげる。
「世尊[の神々[しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであリます。今、世尊が哀れみの心を持ってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって煩悩[を離れることができます。
世尊の念の入った導きにより、愚かな私たちもようやく「本願力回向の信心」を得ることができました。その上「もし疑[の意[ありて経を解[らざるもの」がいれば質問しなさい、とのお言葉をいただき、私たちの代表として弥勒菩薩がうやうやしくひざまずき、仏に自身の領解を申しあげます。なお、弥勒菩薩はどういう存在で、どうしてこの場にいて仏と言葉を交わしているのか、ということは次章で明らかにします。
<仏は威神尊重[にして、説きたまふところ快[く善[し。仏の経語[を聴きたてまつりて、心に貫きてこれを思ふに、世人[まことにしかなり。仏ののたまふところのごとし>
(世尊[の神々[しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであリます)
「仏は威神尊重[にして」ということは当たり前に思うかもしれませんが、説かれた法の内容以前に、法を説く人物の内容がどうであるかを最初に問うのです。現代社会は理屈社会で、立って話すか座って話すか、どういう姿でどういう声で話すのか、といったことは問わず、いきなり理屈や金銭の問題に入り、終われば自動的に解散というような粗末な会合がまかり通るようになってしまいました。しかし本当は、法を説いていただいた方への感謝として、まず師自身の立派なお姿を讃め、次に「説きたまふところ快[く善[し」と、法の内容全体を褒めるのです。
そして「仏の経語[を聴きたてまつりて、心に貫きてこれを思ふに」と、以下に自身の感想を述べることを伝え、「世人[まことにしかなり。仏ののたまふところのごとし」と世の人々のありさま、つまり前章の「貪欲のありさま」「瞋恚のありさま」「愚癡のありさま」に説かれた三毒煩悩の具体例は、自分も全くその通りに思うということを申し上げます。
<いま仏、慈愍[して大道[を顕示[したまふに、耳目開明[にして長く度脱を得>
(今、世尊が哀れみの心を持ってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました)
ここは言葉通りに頂けば良く、「慈愍[」は「いつくしみあわれむ」ということ、「大道[」は「偉大なさとり」や「菩提[」・「すぐれた教え」をいい総じて「仏教」のことを言います。しかしわざわざ「大道」とありますので、これは裏路地や小道ではなく、全ての人間が歩む大きな道という意を含んでお示しくださったのでしょう。ちなみに「大道」は、浄土三部経典ではこの箇所のみの表現です。
「耳目開明[にして長く度脱を得」とは、耳も目も開き、物事を明らかに見聞きできるようになった≠ニいうことですが、何をどう明らかにしたのでしょう。それは「長く度脱を得」ということですから、裏返してみれば自分は今まで長い間様々な衆苦の中に沈んでいることを知り、何故沈んでいたのか理由を知り、厭離穢土・欣求浄土で本当に耳が開き目が覚め、苦悪から抜け出ることができた≠ニ、仏に感謝申し上げたわけです。
<仏の所説[を聞きたてまつりて歓喜せざることなし。諸天・人民[、蠕動[の類[、みな慈恩[を蒙[りて憂苦[を解脱[す>
(世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって煩悩[を離れることができます)
世尊の教えをお聞きして喜ばない者はない、その者とは「諸天・人民[、蠕動[の類[」とあります。「諸天・人民」は貴族的な存在を含めて全ての人々≠ニ解りますが、「蠕動[の類[」は誰を指すのでしょう。辞書を調べると、「蠕」は「柔らかい虫がうごめく。うねうねと動く/くねくねと虫がからだをくねらせるさま」。「蠕動[」(一般には「ぜんどう」「じゅどう」と発音)は「虫がうごめくこと。少しずつ静かに動くこと」という意がありますので、現代語版では「小さな虫など」と訳されているのでしょう。しかし虫が「仏の所説[を聞きたてまつりて歓喜」する訳がありません。特にこの箇所の「仏」は「阿弥陀仏」ではなく「釈尊」ですから、言葉を介した「仏の所説」という意味になります(「阿弥陀仏」の場合なら人間以外にも拡大される)。たとえ結果として虫に利益が及ぶとしても、この箇所は、虫そのものが仏の教えを喜ぶ≠ニまで拡大解釈するわけにはいかないでしょう。あくまで世尊の言葉を理解する範疇[のことですから「人間」に他なりません。
そこで経典をもう一度見ますと、「蠕動[の類[」と「類」が入っていることに気づくでしょう。「類」とは「同等なもの。同類」という意味ですから、虫のようなもの≠言います。つまり、虫そのものを言うのではなく、くねくねと身体をくねらせるように、だらしなく生きている人間≠ニいう意味で、これはたとえば 親鸞聖人が「精進[なるこころもなし、懈怠[のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり」(『唯信鈔文意』6)と仰り、蓮如上人は「そもそも人界[の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる身が、いたづらにむなしく捺落[に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや」(『御文章』一帖8)と嘆かれた私自身の姿≠ナありましょう。私のような蠕動[の類[であっても「みな慈恩[を蒙[りて憂苦[を解脱[す」ることが適うのです。
- 註釈版
- 仏語の教誡[ははなはだ深くはなはだ善し。智慧[あきらかに、八方上下[、去来今[の事[を見そなはして、究暢[せざることなし。いまわれ衆等[、度脱[を得[ることを蒙[るゆゑは、みな仏の前世に求道[の時謙苦[せしが致すところなり。恩徳あまねく〔衆生を〕覆[ひて福禄巍々[たり。光明徹照[して空[を達[ること極まりなし。〔人をして〕泥オン[に開入[せしめ、典攬[を教授[し、威制消化[して十方を感動せしめたまふこと無窮無極[なり。仏は法王たり、尊きこと衆聖[に超えたまへり。あまねく一切の天・人の師となりて、〔人々の〕心の所願[に随[ひてみな道[を得しめたまふ。いま仏に値[ひたてまつることを得、また無量寿仏の声を聞きたてまつりて、歓喜せざるものなし。心開明[なることを得たり」と。
- 現代語版
- 世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。その智慧は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことがありません。今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊の前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります。世尊の恩徳はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽しておいでになリます。さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません。世尊は法門の王として、他の聖者がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました」
さらに弥勒菩薩の領解の文が続きます。なおこの章以後も弥勒菩薩は何度も登場しますが、菩薩自身の領解が長文で発せられるのはこれが最後です。ちなみに本願寺では蓮如上人によって独自の領解文(改悔文)が作成され現在に至るのですが、本来はこの弥勒領解の文を下地に作成すべきものでしょう。
<仏語の教誡[ははなはだ深くはなはだ善し。智慧[あきらかに、八方上下[、去来今[の事[を見そなはして、究暢[せざることなし。いまわれ衆等[、度脱[を得[ることを蒙[るゆゑは、みな仏の前世に求道[の時謙苦[せしが致すところなり>
(世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。その智慧は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことがありません。今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊の前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります)
弥勒菩薩は釈尊に「仏語の教誡[(教えと誡[め)ははなはだ深くはなはだ善し」と讃め、「智慧[あきらかに、八方上下[、去来今[の事[を見そなはして、究暢[せざることなし」とその智慧を褒めます。この仏の智慧は真実信心となって念仏者に恵まれます。
「八方上下[」とは、東・南・西・北の四方に東南・南西・西北・北東を合わせた「八方」と上・下を加えた「十方」で、「あらゆる世界」と訳されていますが、これは空間的に全ての世界≠ニいう意味と象徴的に八方上下と表した世界≠ニいう意味があるでしょう。例えば、本来世界の中心であるはずの安楽浄土が西方にあるということも、畢竟依[や人々の心象風景を象徴している(参照:{弥陀果徳 十劫成道「#西方≠ニは何を意味しているのか」})と解せるわけです。
また「去来今[」は過去・未来・現在の三世(時代)をいいます。この経典のはじめ(序分 発起序)にも「去来現[の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや」と阿難が世尊を褒めています。過去・未来・現在の三世の仏と仏が拝み合うことを般舟三昧[といいますが、過去の先祖に宿った仏と、未来の子孫に宿った仏と、現在の衆生に宿った仏、それも十方の仏と「事[を見そなはして、究暢[せざることなし」ということですから、三世十方の仏をよくよく見そなわす仏仏相念[の世界で、これこそが浄土の証です。
浄土では、過去の歴史や未来のこと、現在の生活の中から、真なるものと仮なるものを選り分けて真なるものを取り、尊むことができる、穢土の泥田に根がありながら浄土の華を選び取ることができるのです。このように真なるものを選び取る心の眼さえあれば、過去のことも未来のことも現在のことも、あらゆる世界のことも、全部が宝の山になります。いままではゴミの山だと思っていたものさえ信心の智慧によって宝の山に変るのです。
「いまわれ衆等[、度脱[を得[ることを蒙[るゆゑは、みな仏の前世に求道[の時謙苦[せしが致すところなり」というのは、今わたしや衆生が迷いを離れることができたのは、ひとえに目の前の世尊のおけがです≠ニいう意味なのですが、わざわざ「前世」を持ち出したのは、釈尊個人の前世にあった具体的な何か≠指すのではありません。霊魂不滅[・輪廻転生[を実相として語れば、それは外道であり仏教ではなくなります。ここに「前世」とあるのは、今現在の世尊の智慧や徳を褒める時現世の修行だけでは達成できない内容である≠ニいうことを言うのです。ではこれは大げさな表現なのかというとそうではありません。「今」は過去一切の集大成であり、同時に「今」は一切の未来を創造する原点です。私たちひとり一人の存在や善悪の有様にしても、現世だけでは語れないものでありましょう。
振り返ってみれば「一切の有情[はみなもつて世々生々[の父母・兄弟なり」(歎異抄5)で、一切衆生はすべて血縁によってつながり、仏縁や業縁など様々なつながりによってひとり一人が存在しているわけです。したがって、世尊が覚りを達成しこの『仏説無量寿経』を説かれたということも、現世における世尊の修行だけではとても成就できないことで、世尊以前のあらゆる修行も関わって、いわゆる「世々生々に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて」善を修し、「曠劫多生[のあひだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまゐらせて候ふ御恩」(親鸞聖人御消息27)が受け取られるわけですから、弥勒菩薩はじめ私たちは、目の前にみえる世尊一人の中に無量無辺の諸仏・菩薩の求道[とご苦労を身をもって解することができるわけです。
<恩徳あまねく〔衆生を〕覆[ひて福禄巍々[たり。光明徹照[して空[を達[ること極まりなし。〔人をして〕泥オン[に開入[せしめ、典攬[を教授[し、威制消化[して十方を感動せしめたまふこと無窮無極[なり>
(世尊の恩徳はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽しておいでになリます。さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません)
「恩徳あまねく〔衆生を〕覆[ひて福禄巍々[たり」とありますが、「福」は「神から恵まれた豊かさ」で、「禄[」は「神の恵みのおこぼれ。与えられたさいわい」、「巍」は「山がむっくりと、まるく盛りあがってそびえるさま」を言いますから、「福禄巍々」は、豊かに恵まれることが非常に顕著である意となります。ところで一般に言う「福禄」は資産拡大など世俗的繁栄の欲を満たすものですが、世尊よりもたらされる福禄は何でしょう。これはすぐ後に述べてあります。
まずは「光明徹照[して空[を達[ること極まりなし」という自利で、「光明」ははたらき≠いいます。仏の智慧が人々や世界中に「余すところなく」はたらき、「空の道理をきわめ尽して」みえるというわけですが、「空」はもとからっぽ∞空虚な≠ニいう意味で、これは仏教全体に及ぶ基本的な教理であります。たとえば声聞乗[においては、煩悩[がなくなった状態を「空」と考えていました(「煩悩」は身心を悩まし、煩[わせ、惑わし、さとりの実現をさまたげるあらゆる精神作用≠いう/参照:{百八煩悩})。大乗仏教ではこれを自他やあらゆる物事との関係性にも当てはめ、菩薩の行動原理としました。なお「空」については――「一切法は因縁によって生じたものであるから、そこに我体・本体・実体と称すべきものはなく空しいこと。それ故に諸法皆空といわれる。このように一切は空であると観見することを空観[という。空は虚無(偏空[)ではなくて、空を観じることは真実の価値の発見であるから、真空のままに妙有[である。これを真空妙有という。これに反して空の虚無的な理解を悪取空という」(総合佛教大辞典/法蔵館)等の解説がありますが、宗旨宗派によって空の説明は一様ではありません。したがって教理も大事ですが、自分自身がより良い生を願い求めることの中で空の概念を利用するということが本来の仏教でありましょう(参照:{空の概念と虚無の概念の違い})。ですからここでは、世尊は空のはたらかせ方が極まりなく、これにより自由無礙な活動ができることを褒めているのです。
「〔人をして〕泥オン[に開入[せしめ、典攬[を教授[し、威制消化[して十方を感動せしめたまふこと無窮無極[なり」とは、世尊は空の道理を自利にのみ用いず利他に転じられてみえることをいいます。これは意識して利他に転じたというより、自利がおのずと利他ともなることをいうのでしょう。
「泥オン[」(オンは三水[に亘)は「ニルヴァーナ」の音写で、吹き消す意があり、「涅槃[」・「滅度[」と訳し、「燃え盛る煩悩の火を滅尽して、さとりの智慧即ち菩提を完成した境地」をいい、大乗仏教ではここに「常・楽・我・浄」の四徳を加えた涅槃を提示します(参照:{弥陀果徳 道樹楽音荘厳}/{#常楽我浄の四顛倒}/{必至滅度の願})。
「典攬[を教授[し」とは、「典」は「ずっしりとした、貴重で基本となる書物」、「攬」は「集めて手に持つ。とりまとめて持つ」、「教授」は「学術・技芸などを教えること。養護・訓練とならぶ教育上の基本的な作用」ですから、多くの尊い書物や智慧の言葉を集め、肝要を選び取って人々に学ばせる∴モとなります。「威制消化[」は「仏の威光をもって、外道[を制伏し、邪見を消して教え導くこと」をいいます。人生を誤り破滅に導く教えはいつの時代にもありますが、こうした悪思想を消滅させるのは正論を言うだけでは適いません。身を持って体験したさとりの威光によって制することができるのです。
「十方を感動せしめたまふこと無窮無極[なり」とは、先のように人々をさとりに導く尊い教えを選び取らせ、人生を破滅させる悪思想を制する、このような仏の威徳を弥勒菩薩は「すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません」と褒めてみえるわけです。
<仏は法王たり、尊きこと衆聖[に超えたまへり。あまねく一切の天・人の師となりて、〔人々の〕心の所願[に随[ひてみな道[を得しめたまふ。いま仏に値[ひたてまつることを得、また無量寿仏の声を聞きたてまつりて、歓喜せざるものなし。心開明[なることを得たり>
(世尊は法門の王として、他の聖者がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました)
弥勒菩薩がひたすら世尊を褒め称える文が続きますが、これは他人ごとではありません。弥勒菩薩は阿弥陀仏と浄土の内容が解ったからこそ真実の領解を述べてみるのですから、私たちは菩薩の領解[に感化され、自分勝手な妄想的領解を真実なる領解に直していかねばならないでしょう。
「仏は法王たり、尊きこと衆聖[に超えたまへり」とあります。「法王」とは「法門の王」であり「仏を讃嘆していう語」ですが、比較された「衆聖[」は誰のことでしょう。たとえば「道[に九十六種あり、ただ仏の一道これ正道[なり、その余[の九十五種においてはみなこれ外道[なり」(涅槃経)とある外道の衆聖≠ナしょうか。それとも仏道の衆聖≠煌ワめて比較しているのでしょうか。
これは「無量寿仏の声を聞きたてまつりて、歓喜せざるものなし」とありますように、世尊が衆聖に超えて尊い訳は、無量寿仏について初めて語られたことを含めて褒めるわけですから、外道の衆聖≠ヘ当然のこと、仏道の衆聖¢S体も含めて「尊きこと衆聖[に超えたまへり」と褒めているのでしょう。この『仏説無量寿経』を説かれた仏こそが人類史上最高の聖者なのです。
「あまねく一切の天・人の師となりて、〔人々の〕心の所願[に随[ひてみな道[を得しめたまふ」とあります。多くの宗教者はこういう立派な教えがあるのだから、この教えに従いなさい≠ニ思想や形を押し付けているのですが、世尊は「心の所願[に随[ひて」、つまりひとり一人の内情に合わせ=Aそれぞれの人生を成就に導くということです。
「いま仏に値[ひたてまつることを得、また無量寿仏の声を聞きたてまつりて、歓喜せざるものなし。心開明[なることを得たり」という感激は私たちも同感するものでありましょう。仏法に値[うことで一番肝心なことは無量寿仏の声を聞きたてまつることであります。親鸞聖人も、「如来、世に興出[したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海[を説かんとなり」(『顕浄土真実教行証文類』行文類二 正信偈)と歎じてみえます。こうして名号に込められた功徳を讃め、本願力回向の信心を受け取ることが適えば、心開明[なることを得たり(みな心が開かれて、くもりが除かれました)と歓喜する私になることができるのです。
そこで、阿難を呼んでのところには、ほとんどのところで言葉どおりに受け取っていいのでありますが、この今、弥勒菩薩を呼んでのところは啓蒙と言いまして、啓蒙ということは蒙を啓(ひら)くと言います。だから、程度の低い人に似合うたように法を説くことを啓蒙するというのであります。
そこで、言うならば相手を見て法を説くと言います。だから、迷っておる人には迷っておるように、さとりの世界をそのまま説いたのではよう受け取らないから、そこで今度、迷った人の立場に立って話をするということですから、そこで、「仏、弥勒と諸天人等に言さく」と、天、人にこれから告げるんだと言っておるように、また、これは一般の人に聞いてもらいたいということですから、そこらは啓蒙的な文章だということを知っておかないと、昔の人は今までのところも、阿難を呼んでのところも、今度は弥勒を呼んでのところも同じ立場で受け取るものだから、そこで、今度はこれから出てくる(次に出てきますが)苦しみ悩んでおるのもしばらくの間であると。後に無量寿仏の国に生まれて「照らさざることなからん」と、こういう言葉がありますから、もうちょっとの辛抱だ、もうちょっとの辛抱だ。いのち終わり次第、お浄土に行って楽をさてもらうのだと、こういうふうに受け取るのであります。
だから、これは啓蒙でありますから、本当のさとってみたらそうではないのです。これは迷っておる人間に対して、一応そういうふうに程度を下げて説いておられるんだということを思ってください。そういう気持ちで読んでいかないと、この前の話が死んでしまいますから。
<中略>
私の眼で見ても上巻に説かれたお浄土というものが働く場所。泥田の中でなければ蓮の花が開かないように、こういう浅ましい日暮らしの真っ直中にこそ、この宗教が要るのだということを言いたいために、繰り返し巻き返し同じようなことをおっしゃっておるのだと、こういうことを一つ胸に持っておかないといけないということが一つ。
もう一つは何かと言いますと、これはさっき申しましたように、上巻と初めの仏、阿難に告げたまわくというところまでは、全部これは本当の宗教の中身を、さとりの世界をそっくり説いたのです。ところが、「仏、弥勒に告げたまわく」というところは、迷うておるそのところの人間に啓蒙的に説いたのです。だから、一般の人はそういう仏教の言葉、内容は解らないのです。
例えば、仏教では霊魂不滅ということを今でも考えておりましょう。真宗でもそうで、霊魂不滅ではありませんか。死んで魂が地獄へ行くのをお浄土へ行くとこうでしょう。ところが、こういうものは仏教ではないのです。お釈迦さまは「梵行すでに立(りっ)し、所作すでに成(じょう)ず。後の有を受けず」と、もう私は生きることが嫌なのです。絶対にどこにも生まれて来ぬ、来ぬではない、生まれないという。これが仏教でしょう。だから、灰身滅智(けしんめっち)と言ったのです。ちゃんと自分の身を滅ぼして、もう全部私が死んでしまうこと。そういうことをやったのだから。
ところが見なさい。それが日本に来れば、どうしてもこういうように程度が低いものだから、死んだら地獄に行くぞと、今度は極楽は立派な世界であるぞというように、脅かさなかったならば法を聞かなかったのだから。
だから、今日までの真宗の同行に尋ねてみても、このままずっと何万年も生きるのならば法を聞かなくてもいい。死んで地獄に行くのが恐ろしいから、今までは法を聞いたのです。私がずっと……今ではないですよ、今はちょっと病気になりましたからあまり出ませんけれども、私がずっと北海道から九州の果てまで歩いていって、みんなの気持ちを診察してみたのです。そうすると、みんな地獄は恐ろしいから参たのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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