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質問:
インド仏教はアショカ王によって全国土に広められ、それにより戒律や教義上の対立を引き起こしたとありましたが、これについてもう少し詳しくしりたいです。
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仏教にとってアショーカ王は教えの実践者として、また法を広めた聖王として、大功労者であるのは間違いないのですが、その業績が多大だからと言って、決して問題が起きなかったわけではありません。
しかし問題点を述べる前に、その偉大な業績を称えるのが順序と思いますので、まず後世に聖王とされる程になった、王の足跡を追ってみましょう。
◆ アショーカ王の足跡
アショーカ王が、マウリア王朝第三代の王位に就いたのは、西暦前268年のことと言われておりますが、即位8年目にインド史上最大の統一帝国を建設する野望を果たします。しかし、その最後の仕上げであるカリンガ(当時非常に裕福だった)を征服する戦争は悲惨をきわめ、10万人の戦死者を出し、15万人が捕虜となってインド各地に送られ、その数倍の人々が戦禍を被ったとされています。
悲惨な現状を目の当たりにし、アショーカ王は、武力による征服から、法による征服へと政策を転換します。また、統治の理念や事業を法勅として岸壁や石柱に刻み、謎の多いインドの歴史に、ようやく光の当たる事跡を残したわけです。
それによりますと、まず、人間や動物に対する不殺生、不障害を述べ、武力行使の中止を宣言します。また、バラモンたちの行う動物を犠牲にする儀式への疑問と、楽しみのための狩猟も差し控えるように述べられます。
次に、両親や長上への尊敬と従順、友人親族への尊敬と正しいとり扱い、宗教者に対する敬意と布施、貧者や身寄りの無い者など弱者の保護、使用人の正しいとり扱いなど、人間関係の倫理も強調します。
そうした他人に対する慈悲の心は、アショーカ王自らも実践し、並木道、休息所、井戸、薬草や施療院の設置、囚人の特赦等を行います。
そして、万人が自らに課すべき自制、柔和、報恩、信仰、ダルマに対する敬意を述べます。つまりアショーカ王は「ダルマの征服」という法治国家を目指したわけで、そのため、『法大官』の制度を設置し、ダルマが各地の行政面に生かされているか監視し、王自らも各地を巡行してその促進に努めたといいます。
また、自らは仏教に帰依し、熱心な仏教徒であることを明言し、師と仰ぐ仏教僧がいたことが知られています。
王は仏教の聖地を巡礼し、比丘・比丘尼の理想、実践の道在家者の守る七種の法門も示しています。特に教団の本拠地には、教団の和合を乱す者は還俗して教団を追放するよう警告までしています。
その他、「ブッダ最後の旅 第六章」でも書きましたが、仏舎利塔を開き、あらためて舎利を分け、八万四千の仏塔を建てたといいます。
アショーカ王が仏教を保護したもうひとつの理由としては、インド統一によって多くの民族・種族を抱え、また他国との公益・交流も進めていたため、その必然として国家理念を確固とした教えにする必要があったためと思われます。部族や血族のみで結束していた時代は、その土地独特の宗教や慣習に従えば事済みますが、多様な価値観が入り乱れるようになると、それらを超えた普遍性が求められる訳です。
逆に言うと、仏教が不必要な国家や弾圧する権力者が出てきた時というのは、その国がきわめて極小の価値観で済む体制であり、普遍性を持たない狭い文明であったということを表しています。
ただし、アショーカ王は仏教を国民に押し付けたりはせず、ヒンドゥー教、ジャイナ教、アージーヴィカ教などにも布施し、外護しています。
◆ 波紋を呼んだ統一政策
このような偉大な業績を果たしたアショーカ王でしたが、その理想を追う行動が、様々に波紋を生んだことも確かです。
例えば、経典の第三結集の経緯について、南方伝承が伝えるところによりますと――
アショーカ王は八万四千の精舎を建立し、僧院に多大の供養をなして自ら教法の相続者であるという。しかし、モッガリプッタ・ティッサ長老は、資具の寄進は教外者のなすべきことで、自身の後継者を出家せしむるものこそ、教法の相続者であると説く。そこでアショーカ王は、子のマヒンダと娘のサンガミッターを出家せしめ、二人は具足戒を受ける。アショーカの仏教僧伽に対する供養のために外道らが七年間精舎に住して布薩を行っ た。しかし長老らはその布薩に出席しなかった。仏滅二三六年に賊住比丘は六万に達し、阿育園に住して教法を損なった。アショーカは僧院の混乱を収拾するために、アホーガンガ山に引退していたモッガリプッタをパータリプトラに招く。彼は一千比丘を招集し、分別論者を正統として、他の異端論者を還俗せしめ、『論事』を編集した。
とあり、王の仏教への傾倒、多大の供養が、結局僧院の混乱を招いてしまいます。
この論事の編集は『第三結集』と呼ばれるものですが、南伝では、こうして国王公認の正法が確立されて、インド各地に伝道師を派遣させたという伝承が残っています。特に南方仏教教団はこれを重要視し、今でもこれを歴史的事実として敬い、これこそ正統性を持った教法という主張をするのですが、北伝その他の伝承とも食い違いがあり、このあたり、教団の分裂がかなり進んでいた、という見方ができるわけです。
これはどういう訳かというと、当時、インド各地で地道に仏教の開教に努めていた高僧が多くいたが、仏教の特徴として、教えには広範な内容があり、その地方に受け入れやすい、もしくは布教に従事した僧の傾向が強く出ていたものと思われます。
そこにインド全般を政治的に統一したアショーカ王が出現したため、上座部系と有部系がこれを自派の正統性を主張する材料にしたかったため、伝承に違いが生じ、結果として、分裂を決定的にしてしまったようです。
つまり、政治の統一を、仏教界の統一にまで浸透させたかったアショーカ王の野望が生んだ計算違いの分裂と言うわけです。
しかし、アショーカ王によって、仏教は飛躍的な発展を遂げ、世界宗教としての文化的な基礎が形作られ、マウリア王朝が滅びた後も、その文化は進展を続けます。そして仏教教団は、僧院の建造・開窟、経済的安定、教学の整備、造塔が行われ、仏教美術や仏像製作へと文化が開花してゆきます。
ということで、教義上の対立を決定的にしてしまったアショーカ王ですが、結果として仏教の発展に多大な寄与があったことは確かです。
蛇足になりますが、現代社会の国際化、グローバル化も同じような危険を孕んでいて、全体を無理に統一させることが、必ずしも平和への道とは限らず、発展の裏にむしろ世界各地で内乱を招いている現状は、歴史を超えた警告のようにも思われます。
【参考: 世界宗教史叢書7仏教史T/奈良泰明著/山川出版社 ・ 世界の歴史6古代インド/佐藤圭四郎著/河出書房新社叢 ・ 大法輪選書18絵図入り仏教入門】