平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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いただいたご質問を承りますと、私もかつて同じような不信感を持ったことがありまして、「こんな机上の空論のような教えが浄土真宗なら何の役にも立たない」と真剣に怒りをおぼえたことがありました。
幸い私は多くの良き師を得て、浄土真宗の肝要を聞かせていただき、今では浄土真宗こそ真実の道である旨を慶ばせていただいております。しかし仏教の辿ってきた歴史の中には、今回頂いたご不審の因縁が多々ありますので、こうした問題点についても触れながら、一つ一つの問いにお応えさせていただこうと思います。
〉 「阿弥陀様に救われる」と聞きますが、その言葉だけではよく分かりません。
〉 ‘救い’って何ですか?浄土真宗では、念仏して浄土に生まれて仏となることをもって‘救われる’ というのですか?
仏教の救いは、他宗教の救いとは全く違います。仏教の基本は「自灯明・法灯明」であり、他を依りどことせず、自らを依りどころとし、自らの尊さを自覚し、自覚した尊さを現実に発揮することを目指すのです。他を依りどころとすれば奴隷的人生に堕してしまいますが、「一切衆生悉有仏性」・「天上天下唯我独尊」と目覚めれば、たとえ自らの中に深く底のない無明があっても、無明を見る眼が生れますので、無明は力を失ってしまうのです。こうした過程において、老病死などの苦悩から解放され、我執を脱皮し、正しい人生観のもと、生きて甲斐あり死して悔いなき人生を全うする、こうした目覚めや道を求める心の起ったことが仏教で言う救いなのです。
ただし、まだ自らの尊さを自覚していない人や、自覚できても発揮されていない人のために、智慧と徳を成就した先人たちが言葉などで道を示したものが「法」です。「法」は言葉となった「教え」も大事ですが、「今現在私に直接語りかけて下さる深き声」が本当の法であり依りどころなのです。この今現在響く深い法の主体を「阿弥陀仏」と申しあげるのです。
つまり、自らの尊さは法の尊さと一体であり、これを機法一体の南無阿弥陀仏と申しますが、「救われる」というのは、こうした深い歴史性と普遍性をもった人生の羅針盤が見つかることをいい、この羅針盤を真実信心ともいうのです。正しい羅針盤があれば、他を依りどころとする必要もなく、闇夜でも自らの意志で進路を進めることができます。
諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。
『仏説観無量寿経』16 正宗分 定善 像観 より
意訳▼(現代語版 より)
仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏になるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。
仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり
『唯信鈔文意』4 より
意訳▼(現代語版 より)
仏性はすなはち如来である。この如来は、数限りない世界のすみずみまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性である
〉 本によっては「死んで後に阿弥陀仏の浄土に往生する」ともあり、「浄土往生は死んでからの話ではない。この世において浄土に往生する」ともあります。
〉 一体どういう事ですか?どちらが本当なのですか?
「往生」は本質的には「今・この現実」の問題です。『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」とあり、また親鸞聖人は「本願を信受するは、前念命終なり・・・即得往生は、後念即生なり」とあり、死後や臨終に往生を願うのは「不定聚・邪定聚の菩薩」つまり信心が開いていない未熟な信で、今ここでの往生こそ「必定の菩薩」つまり正定聚・不退転の菩薩として真実信心が開いた念仏者の信です。真実は「今ここ」での往生ですが、未信の人も排除しないので「死後」の往生を願う心も仮に受け入れているのです。しかしあくまで仮ですから、ここから早く真実の浄土に往生できるように導くのが如来の真意です。即得往生が真実の往生で、臨終往生は仮の往生なのです。
自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる
信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
『正像末和讃』 誡疑讃 65,66
往生とは人生観が定まることをいい、諸仏の境地である覚りの世界が見聞きできるのです。行動はまだ未熟であっても、覚りの響きが聞こえた人が正定聚・不退転の菩薩なのであり、これを即得往生といいます。
「覚り」というと、私たちとは縁遠い高貴な世界、という観念が一般に広まっていますが、日本語に直せば「まごころがわかる」ということです。浄土とは、このまごころを通して見た世界の真の姿なのです。人が社会にあるまごころの響きを聞きわけ、「まごころのある人間に成りたい」と願う、そのことが即ち「往生する」という意味です。
ですから、往生は個人の能力に関係なく誰でもかなうのですが、人間はまごころが徹底せず、偽りを喜ぶ性質が抜け切りません。また、深いまごころを汲む活動を怠ると、浅はかな心や、硬直した価値観や、自己保身の理屈に縛られてしまいます。そこで、「往生した菩薩が、往生を願う」というのです。つまり「信じたら往生する」とか「願ったから往生する」という取引があるのではなく、願いと往生は即であり一体なのです。
願いは「場所的自覚」と申しまして、そうなった者がそう成りたいとまごころを起こす、例えば親であるから真の親に成りたい、教師であるから真の教師に成りたい、総じて言えば、人間であるから真の人間に成りたいと願う、その場所的自覚が往生なのです。
しかし、願いというのは実際には「これで成就した」ということはできません。もし「私は完成した人間だ」とか「私は親として間違っていない、悪いのは子どもだ」と言えば、それは傲慢な言葉であり、願いが朽ちた頑固者の態度に過ぎません。
「いつか本当の人間らしい人間に成りたい」とか「いつか本当に人を導ける教師に成りたい」という願いは、永遠に完成することは無いのですが、まごころの願いは取り下げることもできません。ですから「せめて死ぬ時までに」とか「せめて最期は先祖や有縁の人達に褒められて死ねるようになりたい」というまごころの言葉が出るのです。自分の身を恥じれば「往生は死後」と言わざるを得ないのです。
これは、願いの深さを「死後」と表現するのであって、本当に死後に往生するのではありません。言葉を丸のみして「往生は死後である」などと理屈で言ったのでは、言葉が抜け殻になってしまいます。経典はまごころ言葉であり、理屈だけで解釈してはならないのです。
私という柿
熟するのは
私の 死後になりそうだな
何しろ この柿
熟するのに
まだながい年月が
かかるので
(榎本栄一)
経典では、聖者の死については「滅度」と表現してあります。
滅度は煩悩が無い状態をいうのではなく、煩悩に勝った境地をいいますが、浄土教では、煩悩がありながらその障害を転じ、浄土の菩提心が私の一生に報い回向された状態をいいます。これは、人間が人間として生まれた目標を達成することでもあります。島田幸昭師のよく言われる「生きて甲斐のある、死んで悔いの残らない人生」を達成することが人間としての目標でありましょう。この生き甲斐を見出した境地を「正定聚」とも「不退転」ともいい、その境地によって「死んで悔いの残らない人生」を生き切ること、完全燃焼の一生をおくることを滅度といいます。
正定聚という境地に住すれば、滅度に至ることは当然でありましょう。死の問題は生の問題を真摯に求めていく中で副次的に解決がついてしまうのです。虚しくない一生を生き切ることが、尊い死を迎えることにつながります。これは死に方の良し悪しをいうのではなく、一生の深さ広さに手の合わさることをいうのです。逆に、死の問題が解決しても生の問題は解決がつきません。生きることはそれほど複雑であり、また深いのです。(参照:{必至滅度の願})
(ジャン・エラクル)
〉 阿弥陀様が私たちを願ってくださっている。とか、いつも働きかけてくださっている。
〉 と言いますが、一体何をわたしたちに願い、働きかけているのですか?
〉 浄土に生まれさせることと仏にさせることですか?そうであれば、はっきり言ってそんなに嬉しいとは思わないです。実社会においてどういう意義があるのでしょうか?
「一体何をわたしたちに願い、働きかけているのですか?」ということにつきましては、浄土真宗の教え (四十八願の詳細) に詳説してありますので参考にして下さい。要は、「人間として歴史や社会を担いながらいかに生きるべきか」という身心に宿る問いを「願い」という形で知らせてくださっているのです。
阿弥陀仏は、私たちの背後といいましょうか、私の感覚でいえば背骨に宿り、一切衆生の仏性や智慧や徳のありたけを、私に示そうと働きかけて下さってみえるのです。私の内に深い歴史の力が宿っているのです。この力を「他力」といい、この他力が本来の力を発揮するために私たちは聴聞させていただくのです。ですから「他力」といっても、「他を依りどころとせず」の他とは違い、私と成りきった菩提心の歴史の本質をいうのです。
生命は過去の歴史や社会の経験全てを一々の個人に宿すようにできています。そしてその尊い働きは目前に投影されて、例えば「西方に浄土あり」と見えたり、「無量光明土」と見えたり、建物や広場や池に願いの成就を見、鳥の声や波の音が仏の声となって聞こえてくるのです。経典は、この響きに注目せしむる導師的な指でありましょう。
こころのなかの
井戸を
こつこつと
掘り下げて行ったら
底から
阿弥陀仏が 出てきた
(榎本栄一)
西洋でいう「社会」や「環境」は、仏教では「器世間」といいます(辞書によっては“自然環境”と説明があるが、最終的に意味を持つのは社会環境)。この器世間は大別すると衆生世間と如来世間があり、一般的な意味の世間は「衆生世間」であり、「娑婆」とも「堪忍土」とも言われ、身近な例で言えば「渡る世間は鬼ばかり」と題されるような世間です。
そしてこの衆生世間の奥底にあって全てを支えているまごころの世界を「如来世間」とも「浄土」ともいいます。これは深い覚りの世界であり、一切衆生の奥底に伏流している仏性が作り上げてきた世界で、所謂「渡る世間に鬼は無い」と言われる世間です。私たちが目にしている社会は、この「衆生世間」が「浄土」に支えられて存在しているのです。
しかし人々は、浅い心で「衆生世間」ばかり気にして、社会の流転に生きる方向を見失い、流され誤魔化し暮らしています。そこで浄土は、衆生に世間の尊さを示し、生きる方向を示し、世間の奥底に響いているまごころの尊い声を聞かせようと働きかけています。私たちは、世間の表面に執着せず、世間を支えている深く尊い流れを見ることが、本当に自分の人生を意義あらしめることになるのであり、これが経典の示そうとされる真意でしょう。
また、この深き響きを聞きながら、表面の衆生世間を「仮の世」と捨てるのではなく、浄土の響きを表面の衆生世間に汲み上げて活かすこと、仮の世に真実に報いた世界を打ち立てて生活を続けていくことが経典の示そうとされる真意でしょう。浄土は社会的に生きる人生の真の姿でもあるのです。
ですから、世間を出て覚るのではなく、世間に生き世間において覚り世間において活動すること、つまり世自在王仏を理想の師とし、法蔵菩薩の精神を我が一心の精神とし、阿弥陀仏の徳を基軸として貫いて生きてゆくことが、回向の宗教といわる浄土真宗の基本姿勢です。
こうした覚りの世界である尊い浄土がどのようにできたのか、今ある私たちの尊い身心はどのようなご苦労の果てに報いられてきたのか、その道筋を綴り切った経典が「真実の教」といわれる『仏説無量寿経』です。私たちは、先祖の胸を通し、まごころを通し、願いに報いられて存在しているのであり、尊い報いを種として宿して生れ、この人生の上に仏性の華を咲かせ、菩提心を人々と相続していこうと決心する、その決心が信心なのです。(参照:{法身と報身の違い})
「浄土に生まれさせることと仏にさせることですか?」というのは、往相回向と還相回向の問題ですが、往相は如来の願いが私の願いとなること、還相は、正定聚・不退転の菩薩が阿弥陀仏の浄土から独り立ちし、自らの世界を清浄・荘厳ならしめる成仏の歩みを進めることをいいます。阿弥陀仏の浄土は一切衆生の人生勉強の場であり、永遠の理想道場ですが、「私も阿弥陀仏のような国をつくりたい」と独立を願ってこそ浄土の本領が発揮されるのです。いつまでも阿弥陀仏に頼り切っていることが往生の本意ではありません。親は子の独立を願い、教師は生徒に一人前の人間になってほしいと願っています。同様に、阿弥陀仏も、生徒が独立した仏となってほしいのであり、安楽浄土と同じような学びの世界を現実に造ってほしい、と念仏者全てに願ってみえるのです。
ですから、たとえ自分が独立心を持って人々の導きを保つことができるといっても、それは自分の努力の結果ではなく、自立せしむる力によって自立させてもらうわけです。
自ら 立たしめらるる 生命あり
自立と言えど おかげなりけり
(向坊弘道)
このことは、たとえば「往覲偈」にも――
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。
菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍じ、
恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈 27 より
意訳▼(現代語版 より)
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。
そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである
と顕わされた通り、各々が自立した後も、浄土は一生の学びの場であり、そうした独立心のある人間ほど阿弥陀仏の浄土の素晴らしさが身に染みてわかるのです。
(参照:{浄土理解の相違点})
〉 仏教は「仏になる教え」と聞きますが、‘仏’って何ですか?
仏とは、人間としての華が開いた人のことをいいます。人間として生れてきた甲斐のある人が仏です。人はみな尊い仏の子であり、仏の子が成長して本当の大人になれば当然仏に成るわけです。
仏になるためには、まず人生の羅針盤が定まるっていること、つまり智慧が開ける必要があります。これを往相といいます。そして智慧が開けた人のことを「正定聚の菩薩」とも「不退転の菩薩」ともいいます。一般に「菩薩」と呼ばれるのはこうした41段の歓喜地以上の境地を得た人のことをいいます。(参照:{五十二位と、親鸞聖人・蓮如上人の教学の違い})
これは人生の矛盾が見え、浄土が見える人のことをいいます。「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」と言われた親鸞聖人も当然菩薩でありましょう。この位になると試行錯誤の修行が終り、生きる方向が決定するのです。これは行動の一つ一つが全て成仏への道に繋がることをいいます。ただ41位の段階ではまだ人生経験が不足していますので、ここから還相が始まるのです。
仏というのは、覚りの智慧が開けた菩薩が、智慧を用いて徳を積む、つまり得られた人生観に基いて実績を積んでゆく果てに得られる位が仏です。智慧は一瞬に開けることもありますが、徳は行為を通しますから一足一足しか進みません。それでも四十八願のいわれを聞き開いて生活することによって、人は必ず四十八位の「不動地」以上にまで進むことが適うのです。これは本願に感動しつつ人生を歩むので、必ず仏の導きが得られるからです。常に私と成り切られた阿弥陀仏の声が私を導くのです。
なお、他宗旨では往相も還相も自分の努力や決断で行わなければなりませんが、南無阿弥陀仏をたたえ進む道では、阿弥陀仏の歴史の力が私に回向され、道を誤れば背後から声が聞こえ、その度に新たな目覚めを与えてくれるのです。
また浄土教では、往相と還相は時間的に別にあるのではなく、南無阿弥陀仏の功徳の中で同時に回向されるのです。これは{自己探究は危険?}にも書きましたが、往相だけはたらく時間は生活がおろそかになりがちで非常に危険であり、魔の入る隙があるので、念仏はそうしたことのないように練り上げられた功徳を持っているのでしょう。
〉 真宗では、亡くなった方(先祖)に対してお参りはしないと聞きました。しかしお寺さんから「お亡くなりになられた方は、阿弥陀様と同じ仏となられました」と聞きました。亡くなった方が阿弥陀様と同じ仏様であるなら、お仏壇で仏様になった亡き方(先祖)に対して手をあわせてもよいのではないでしょうか?仰る通りだと思います。
ただし、「○○に対して」ということでしたら、ご先祖だけでなく阿弥陀仏に「対して」もお参りはしません。阿弥陀仏と対面して私が阿弥陀仏に頭を下げたのでは「信仰」という外道の信であり、それは本当の仏教(つまり浄土真宗)ではありません。信心は主体をあらわすのであり、主体である我一心が一切を含むのです。南無阿弥陀仏は対象ではありません、私と成り切って下さった阿弥陀仏を尊み敬うこと、南無阿弥陀仏の内容を聞き開いて覚ることが信心なのです。
どこか遠くや、目の前に阿弥陀仏が存在しているのではありません。それは投影された仏であり、阿弥陀仏の本体は歴史的本質として一切衆生の胸に宿り続けているのです。この歴史的本質を私の本質として自覚し発揮させることが信心の生活です。阿弥陀仏はご先祖様方々のむねを通って私たちに成り切られてみえるのですから、ご先祖様も仏として信受できるのであり、阿弥陀仏は常にご先祖様の思いや汗や涙のご苦労ととともに姿を現わして下さるのです。私たちは阿弥陀仏の功徳を通して先祖の尊さを知るのですが、これは同時に、先祖を尊ばずして阿弥陀仏に出遇うことはできないことも意味するのです。先祖のご苦労を通さずに見た仏は少なくとも阿弥陀仏ではありません。これは経典に明記されている通りです。
私たちに聞こえる声は、耳で聞く声と、内に響く声があり、仏の声は内にも響くのですが、仏の声にも様々な種類があり、法身と報身は似て非なる声で響きます。この声の聞き分けができることが念仏の功徳の一つでありましょう。どういうことかまだ解らないかも知れませんが、一度聞き分けてみれば後は自然に解ります。本願成就のいわれを聞き開き、生命の歴史をつぶさに学んでいけば、やがて報身の声を聞くことができ、同時にそこに法身の声も含まれていることが解るのです。肝要は報身の声を聞くことで、これはどこでも誰でもでき、しかも最も身近で肝心な声なのです。
〉 仏がどういうものなのかよく分からないし、少なくとも私は自分が仏様になりたい とは思えません。そもそもなぜ浄土生まれ、仏になければならないのですか? その意義は?
今まで説明させていただく中で、少しは思いが変られたでしょうか。しかし、こうした問いが発せられるのにも、僧侶や教団に責任があるからと言わざるを得ないでしょう。歴史的に言いますと、教団が人々に覚りをもたらしてきた時代は短く、時の権力に迎合し愚民政策にのってしまった時代が長く続きました。また信徒を組織の一員として利用し、戦いに赴かせた時代さえあったのです。
こうした時代の体質がいまだに尾を引いて、人々を尊み励ますことをせず、「お前たちは何もできない愚者だ」、「凡夫は凡夫になり切ればよい」などと、人や社会を馬鹿にしたような教えに固め上げ、これをあたかも浄土真宗であるかのように説く僧侶がいますので、南無阿弥陀仏の精神が枯渇しかかっているのです。
仏教は、尊い人間にその本来の尊さを発揮させる道行を示す教えであり、そのための道場が浄土なのです。阿弥陀仏の浄土はあらゆる生活の場が道場に成るということを示されているのです。
ところが日本の仏教界は長年「浄土に往生しさえすればいい」という誤った考えで教えを説いてきました。丁度「有名大学に入りさえすればよい」という受験事情と同じで、「大学に入って何をするのか」という問いを忘れたまま入学して学生時代を遊び呆けて暮らすように、「とにかく往生すりゃいい」という安易な考えで手法ばかり教えるので、「浄土真宗の教学には社会性が無い」とまで批判されるような現状になってしまいました。
経典には、何のために往生するのか、往生したら何をするのか、そこに落とし穴はないのか、ということがこと細かに書かれているのですが、どうしてこれを真っ先に示さないのか不思議でなりません。親鸞聖人の依りどころとされた『仏説無量寿経』を、もっともっと深く深く読み解いていかなければ、社会に覚りの功徳を展開することは適いません。「訳の分からないところになど往生できない」という不信感が生れるのは当然のことでしょう。
先にも書きましたが、信仰と信心は違います。訳も分からない世界に飛び込んでいくことは信仰であり、これが現在の世界を混乱に陥れているのです。
信仰は、仰いで信ずることですから、神や仏を他者として、向こうに観るという形式ですが、その心は、神仏は尊い、人間は浅ましく力のないものということです。救済の宗教はみなこの信仰の部類に入ります。その中には未開時代の原始宗教から、今日の高級な宗教といわれているものまで含まれます。
信心は、「心」は主体性を意味する言葉で、自己の誕生を現わします。自分には浅ましい自分と尊い自分とが、矛盾的に同居していることを自覚して、尊い人間になりたいと願う、本来の自己が誕生したことを現します。‥‥その心を仏性とも信心とも言うのです
(島田幸昭)
自己の内面や社会を見つめると、「煩悩具足の凡夫である自分」や「五濁悪世の現実社会」が確かに見えます。しかし、見えた対象は浅ましくとも、煩悩や濁世を見ている眼そのものは尊いのです。これを仏性といい、私たち生命の本質はここにあるのです。肉眼は対象は見えますが眼自体はみえません。しかし心の眼は見ている対象と見ている眼を同時に見ることができるのです。「煩悩即菩提」という言葉がありますが、こうした矛盾的な存在が同時に見えることをいいます。
(栃平ふじ)
そしてさらに深く見ていきますと、見ている眼の背後、仏性の背後には、仏性を育ててくれた菩提心の遥かなる歴史が見えてくるはずです。これが阿弥陀仏の本質であり、阿弥陀仏を仏たらしめている精神であり、このはたらきを「法蔵菩薩の修行」と呼ぶのです。そしてこのはたらきの内容が解かるまごころを信楽というのです。この信楽を人生の要として、清浄・荘厳の人生を歩むことが仏道の軸でしょう。
良き師に出遇い、先人たち一切衆生の苦労を尊みつつ、私独自の国を見つけ、国を浄化し、縁に応じて創造性を発揮し、私でなければ歩めない唯一無二の人生を歩み、新たな歴史を刻んで自他を輝かす人生を送る――これが仏になる意義である、と私自身は領解させていただいております。