『往生論註』巻上
ここから総説分の解釈に入ります。まず「五念門」が説かれていますが、この五念門こそは天親菩薩から曇鸞大師へ、そして親鸞聖人へと貫かれた往還二回向の柱であり、浄土真宗教学の要となるものです。
ちなみに後世、善導大師は『散善義』において「五正行」を説きますが、「五念門」が念頭にあったことは確かでしょう。ただし「五正行」は「行」に重きが置かれておりますが、「五念門」は信心そのものの内容を問う説であり、深さで言えば「五念門」の方がはるかに深い内容となっています。また聖人が法名を「綽空」・「善信」から「親鸞」と名を変えられた事実は、自らの体験と教学研鑽の中で、善導・法然流から天親・曇鸞流に路線変更された証しであり、私たちは「五念門」と「五正行」の深浅の差を明らかに解することで、浄土の真実を領解することになるのです。
『浄土真宗聖典(註釈版)』より
こうして並べてみると、順番等が違うだけで「五念門」も「五正行」も同じ内容に見えます。しかし説く側に立って読み直してみると、内容が全く違うことに気付くでしょう。順番が違う理由も説く者の立場の違いがそうさせているのであり、浄土真実を解する上で重要な違いと言えましょう。
具体的に言えば、「五念門」は<畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得>た行者、つまり既に即得往生を果たし阿弥陀仏と直接出遇うことが適った菩薩が、浄土に立場を置いて、未信の者を浄土に招き入れる説です。対して「五正行」は、これから往生を目指し阿弥陀仏と出遇おうとする行者が、穢土において、経典の言葉だけを頼りに未信の者を導く説といえましょう。「五正行」には浄土を体験した裏付けが欠けているのです。
なぜなら、「五正行」は第一に「読誦正行」が挙げられ、浄土の経典を読誦することを勧めます。何も知らない人間にはまず経典を読んでもらわなければ話になりません。経典を読んだ後はその内容を観察する「観察正行」です。観察して浄土の内容が解ったから「礼拝正行」し、そして「称名正行」で如来や浄土の徳を称え、やがて口業の他の「讃嘆供養正行」を行う。おそらく理詰めで言えば「五正行」の方が納得されやすいでしょう。しかしこれらの内容は常識的な実践論の範疇を超えません。
比べて「五念門」には「読誦」はありません。「五念門」は、「読誦」他「五正行」を既に果たした人に説いているのです。例えば「観察門」も、「読誦」によってではなく、浄土を直接観ることを勧めているのです。想像上の浄土(化土)ではありません。如来真実功徳の報いた世界(真実報土)を「直接」観ることを勧めるのです。本質論を腹に入れた上で実践論として述べているのです。このように、「五念門」と「五正行」とは、言葉は似ているが深さが全く違う、ということに注意して教学を学ばねばなりません。
現実としては例えば―― 努力して学び行じてみたが、私はまだ即得往生できていない。さて、何が足りないのか。どういう道ゆきで、『仏説無量寿経』と自らの人生を相応させてゆけばいいのか。
『仏説観無量寿経』正宗分・定善・像観には、<諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ>という。<諸仏正遍知海は心想より生ず>とさえ言われるではないか。ではなぜ私は阿弥陀如来と出遇うことが適わないのか?
そうか、足りないのは信心である。自らの人生観が如来の歴史観に相応していないからである。島田幸昭師が常々言われたように、私の受信機の周波数が狂っているのである。正しい人生観を確立させ、如来の願いと波長を合わせれば、浄土はおのずと私の前に姿を現す。姿を現した浄土を観て、再度経典を読めば、この二つの内容は完全に一致しているはずだ(正観)。もし一致していなければ私が不定聚か邪定聚なのである(邪観)……
このような、信心そのものの内容を問う論釋なのです。
すると最初に成すべきは「礼拝門」です。ただしこの「礼拝門」は五正行の「礼拝正行」とは内容が違います。「五正行」の礼拝は、読誦・観察の後「こういう浄土を建立した如来ならば礼拝しよう」として行う礼拝です。いわば納得して行う礼拝、自力の礼拝です。小さな人生観の中でたまたま意見が一致し納得しただけの礼拝で、我執や理屈に固まったままの人生観はそのまま温存されてしまっています。「五正行」の礼拝が「助業」とされるのはこうした理由があるからです。
(参照: {行における本尊の位置づけ} 、 {「正行」と「雑行」について})
しかし「五念門」の礼拝は、納得するかしないかという選択を超えた礼拝です。「礼拝せしむる礼拝」で、これは如来回向の信心の徳≠ノよって礼拝せしめられるのです。必然として礼拝しているのであり、如来が先手なのです。意識して私が礼拝する以前から私は礼拝していたのです。私の心身・血に宿りみなぎっている礼拝が今成就したことによって、現実にこの身が礼拝させていただくのです。ちなみにこれは阿頼耶識の私ではありません。一切衆生悉有仏性として真実報身がわが身を貫いて下さっていた私、真の我です。
このことは「礼拝門」に限りません。「讃嘆門」以下、「作願門」「観察門」「回向門」も同様で、如来の先手。三世一切の諸仏の智慧と徳が、私を包む環境の土徳となり、現実に私の社会的立場によって足元から照らされ、煩悩即菩提のお育てとなり「五念門」を成就してゆくのです。
このように「五念門」は、覚りの証しを得た菩薩が、再度『仏説無量寿経』を読み直し、信心の肝要を説いたものであり、「五正行」は、覚りの証しは当来に確約しながら、経論の言葉に依って解釈を進めただけの内容であることが解るでしょう。碁や将棋に譬えて言えば、プロとなり頂点を極めた上級者が先を見越して素人を指導するのと、素人がプロの言葉に従って素人を指導する違いでしょう。また美術に譬えて言えば、作品そのものに感動した上で値段や社会的評価を学ぶのと、作品そのものの良さは解らないが値段や社会的評価を学んで賛美する違いでしょう。前者はどこまでも末通った教えですが、後者は言葉は似ていても本質は覚っていず、途中からは依りどころではなくなってしまいます。親鸞聖人が教学研鑽の途中で、善導・法然流を自らの法名とともに捨て、天親・曇鸞流に変更なされたのも、こうした理由からなのでしょう。善導大師の言葉は衆生の機においては鋭く響きますので、聖人も実践的な面の勧めは善導の言葉を多く引用してみえますが、浄土や如来の本質を語られる時は、特に曇鸞大師の言葉を多く引かれてみえます。
さて、以上のことを総合すると、一つ問題が発生します。曇鸞大師は菩薩なのか大師なのか、親鸞聖人はどういう立場なのか、という問題です。なぜなら「五念門」は菩薩でなければ読み解くことはできないからです。天親菩薩はその名の通り菩薩ですが、曇鸞大師や親鸞聖人は菩薩なのでしょうか、それとも地位に至っていない師なのでしょうか。
この問題につきましては以前、{正定聚・不退転の菩薩について}に書きましたように、曇鸞大師も親鸞聖人も本質的には菩薩なのです。しかしあえて自らの立場を「地位に至っていない」と謙[へりくだる]るのです。自分が即得往生できたのは、これだけ経論や善知識が揃ってみえたお陰。決して自分が尊いのではない。先人たちの徳のたまものです≠ニ謙譲の姿を表していますが、心は既に仏地に樹っています。内容は正定聚の菩薩ではあっても、自らは菩薩とは名乗らない、これが本当の菩薩の姿です。逆に自画自賛は「邪見驕慢悪衆生」の姿です。理性では解けませんが、真心の世界では常識なのです。
なおこの「五念門」は、天親菩薩著『浄土論』解義分に書かれている内容であり、これを曇鸞大師が注意深く読み解き、『浄土論』総説分を配当されたのです。
【八】論じていはく、この願偈はなんの義をか明かす。かの安楽世界を観じて阿弥陀仏を見たてまつることを示現す。かの国に生ぜんと願ずるがゆゑなり。(願偈大意)
【九】いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。もし善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。
(起観生信/五念力<五念門の力用[はたらき]を>を示す)
なんらか五念門。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には回向門なり。
(起観生信/五念門<五念門のものがら>を出す)
『浄土論』解義分 より
「起観生信」というのは、五念門によって浄土を直接そのまま観察し信心を得る、ということです。「直接」でなければなりません。
「五念力」は「五念門」の用[はたら]きです。「五念門」はその具体的な品質や内容であり、礼拝・讃歎・作願・観察・回向の五門をいいます。この「門」が本当に見出せれば、私たちは今すぐ阿弥陀如来の安楽浄土に入るも出るも自在なのです。ただし、私たちは浄土に往生し切ってしまうことはできませんし、娑婆だけに居座ることもできません。誰もが皆浄土と娑婆のどちらにも足をつけているのですが、「門」を見出すことにより、どちらの立場からでも物を観ることができるようになる。矛盾的世界を見わけて統合する座と視点を手に入れることができるのです。五つの門のうちでは、礼拝・讃歎・作願・観察の四門は浄土に入る門、回向門は慈悲教化のため迷いの世界へ出る門です。
前の四念はこれ安楽浄土に入る門なり。後の一念はこれ慈悲教化に出づる門なり。『往生論註』解義分48 より
ここで注意すべきは、「入る門」と「出る門」と表されていることです。これは、説いてみえる方々(天親菩薩・曇鸞大師)は主に浄土の中に立場を置いている、ということに他なりません。ただし後述にありますが、曇鸞大師は後に立場を変えて往相還相の二回向を説かれました。こう仰られた場合は迷いの世界から浄土に往生し、浄土から迷いの世界に還る≠ニいうことですから、迷いの世界に立場を置いてみえるということが解るでしょう。立場は迷いの世界にあって大師ですが、本質は入出無礙の菩薩なのです。
ではここで、『浄土論』総説分の内容を五つに配当してみましょう。
いかんが礼拝する。身業をもつて阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。かの国に生ずる意をなすがゆゑなり。
いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。
いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。
いかんが観察する。智慧をもつて観察し、正念にかしこを観ず。如実に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり。かの観察に三種あり。なんらか三種。一にはかの仏国土の荘厳功徳を観察す。二には阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三にはかの諸菩薩の功徳荘厳を観察す。
いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。
『浄土論』解義分 より
いかんが礼拝する。身業をもつて阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。かの国に生ずる意をなすがゆゑなり。『浄土論』解義分 より第一行の四句にあひ含みて三念門あり。上の三句はこれ礼拝・讃嘆門なり。『往生論註』巻上 より
「礼拝」は身をもって行う浄業、「身業」であり、「近門」の功徳を成就します。「近門」とは「礼拝門」によって初めに浄土に至る、つまり即得往生を果たし、正定聚に入ることが適い、無上菩提心に近づくことができる、ということを言います。この一つを見ただけでも「五正行」の「礼拝正行」とは次元の違う話しであることが解るでしょう。礼拝したから正定聚に入ることが適った≠ニいうことではなく、礼拝しようと私を突き動かすものが礼拝せしめた≠フです。これは法蔵菩薩の誓願、五劫思惟して摂受し、不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植し≠ス成果が私に報いた礼拝なのです。
これは、現象的には浄土に生まれるために礼拝する≠アとに違いはありませんが、その願いが生じることそのものの中に如来の果報が含まれているのです。蓮の華が開けば中に既に実が生じているように、浄土往生の願いが起きることそのものが即得往生なのです。結果から原因に返ってみれば、願いが成就することが全てだった。願いを成就した正定聚の段階が全ての結果を生じるのです。求道の道に終わりはありません。求道の精神を絶やさない無上菩提心を得ようと願い続けることこそが仏道の全てなのです。逆に菩提心を得た≠ニか既に信心をいただいた≠ニ留まってしまうことが邪定聚で、これは不定聚よりも性質が悪い「邪見驕慢心の悪衆生」となってしまいます。
驕慢な態度をあらため、三世一切諸仏の真心に素直に頭が下がる。この姿こそが如来のはたらきなのです。
いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。『浄土論』解義分 より第一行の四句にあひ含みて三念門あり。上の三句はこれ礼拝・讃嘆門なり。『往生論註』巻上 より
「讃嘆」は言葉・声をもって行う浄業、「口業」であり、「大会衆門」の功徳を成就します。「礼拝門」によって初めに浄土に至れば、当然ながら阿弥陀如来の大会衆の数に入ることができます。これを「大会衆門」といいます。いわば阿弥陀仏の安楽浄土の国民として受け入れられるのです。これは誰かが「受け入れた」と判断するのではありません、「受け入れられていた」と、真心を持つ多くの人々に感謝させていただく境地です。
また念仏を称えたから浄土の住民になった≠フではありません。阿弥陀仏の名を称えるのは如来の徳をたたえることなのです。なぜなら諸仏は自らの徳を名に込めてみえ、私たちは如来の名を称えることで、名に込められた如来の徳を褒めることになるのです。如来の徳を褒める、そのことそのままが、私に報いていた如来の発露なのです。そして発露した結果を「南無阿弥陀仏」と聞き、発露せしめた諸仏・諸菩薩の無限の真心のつながりに思いを馳せられてゆくのです。
ですから、ただ「南無阿弥陀仏」ととなえるだけでは願いは満たされません。「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末)・信一念釈)と聖人が仰る通り、阿弥陀如来が如来となられた経緯「いわれ」を聞き開き、自らの存在や社会的立場に振り向け、如来の誓願を自らの人生観の柱としてゆくことが肝心です。これによって阿弥陀如来の名に込められた内容と私の内容が相応してゆく。如来と私が、箱とふたの関係のようにぴったり一致してゆくことになります。
いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。『浄土論』解義分 より
「作願」は心で行う浄業、「意業」であり、「宅門」の功徳を成就します。「讃嘆門」によって浄土の国民になれば、この場に落ち着き、安心して修行することができます。
<奢摩他[しゃまた]>とは「止」とも訳されますが、もろもろの雑念を止めて集中することです。あれも良いけど、これだって良いかも知れない。いや駄目かな……≠ネどと、無責任な人たちの発言や、様々な思想や主義などの雑音や、理性の毒に惑い道に迷っていた者が、これだ≠ニ一つに集中し「安楽国土に往生せん」と願い続けることをいいます。これも、往生を願う≠ニいう願いそのものの成就が、往生の成就なのです(願生)。
この成就によって、如来の名(阿弥陀仏)と浄土の名(安楽国)が一切の悪を止め、浄土の土徳によって身口意(行動と言葉と心)の悪を止め、如来の正覚を保つ力が声聞・縁覚(聞くだけに留まったり、ひとりよがりな覚りに凝り固まること)に外れる流れを止めることができます。
第二行は論主(天親)みづから、「われ仏経(浄土三部経)によりて『論』を造りて仏教と相応す、服するところ宗ある」ことを述ぶ。なんがゆゑぞいふとならば、これ優婆提舎の名を成ぜんがためのゆゑなり。またこれ上の三門を成じて下の二門を起す。ゆゑにこれに次いで説けり。『往生論註』総説分5 より
『浄土論』総説分 より
『往生論註』の<われ仏経(浄土三部経)によりて『論』を造りて仏教と相応す>というのは少し勇み足の訳で、本来は「仏教と相応せん」でしょう。島田師も言われるように、もし天親菩薩自らが「仏教と相応している」と断言したら自画自賛になってしまいます。驕慢は最も慎まねばならない態度です。ですから論主の真意は「相応しよう」もしくは「相応したい」でしょう。事実『浄土論』の書き下し文は「相応せん」となっています。
しかし「相応す」も間違えとは言えません。論註は曇鸞大師の著ですから、「相応している」と天親菩薩を尊敬して申し上げるのです。
<服するところ宗ある>の<服する>は、「仕える」「遵奉する」という意味で、<宗>は「おおもと」「根本の趣意」という意味です。
つまり天親菩薩みずからの信心の勧めは、浄土三部経に依って、内容をたたえ正しく理解し、尊敬して仕えるところに根本の趣旨がある≠ニいうことになります。そしてその理由は、これらの経典に説かれてある阿弥陀如来は真実功徳の報いた姿だからであり、五念門を修めてこれらの真実功徳の法にぴったりと相応するのです。
<優婆提舎>は{「優婆提舎」と言う訳}を参考にしてください。肝要を言えば、浄土三部経の内容を一掴[つか]みに「これである」という大領解を得、その領解の内容を詳細に検証していくことです。<名を成ぜん>は、そのような「優婆提舎」という名に恥じない内容のものを造る、ということです。
<またこれ上の三門を成じて下の二門を起す>の<上の三門>は「礼拝門・讃嘆門・作願門」であり、<下の二門>は「観察門・回向門」です。つまり、天親菩薩みずからの信心の勧めが「観察門・回向門」につながってゆく、ということを意味するのですが、なぜここに論主自督が入り、下の二門につながってゆくと言えるのでしょう。
おそらく、ここからがいよいよ信心の具体的内容を示す、という大切な段階だからでしょう。いくら私は真実信心を得たいと願い続けている≠ニ言う人がいても、信心の具体的内容が検証されない限り、その信心が真実のものかどうか判断できません。<上の三門>は阿弥陀如来とその浄土の大つかみの讃嘆ですが、讃嘆の言葉を述べるだけなら誰でも言えます。しかし証拠を示せ≠ニ言われれば、菩薩の内容がともなっていない者には果たせません。
ですから「論主自督」は、ここからいよいよ内容の検証が始る、と力を溜めている段階なのではないでしょう。
いかんが観察する。智慧をもつて観察し、正念にかしこを観ず。如実に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり。かの観察に三種あり。なんらか三種。一にはかの仏国土の荘厳功徳を観察す。二には阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三にはかの諸菩薩の功徳荘厳を観察す。『浄土論』解義分 より第三行より二十一行尽くるまでこれ観察門なり。『往生論註』総説分 より
『浄土論』総説分 より
「観察」は、「作願門」で得た「乱れぬ心」によって行う浄業、「智業」であり、「屋門」の功徳を成就します。浄土で安心して修行することができれば、浄土の詳細(覚りの内容)を観察することができます。<毘婆舎那[びばしゃな]>は「観」とも訳されますが、「明らかに観察」することです。先の「作願門」は<奢摩他[しゃまた]>・「止」で、雑念を止めて集中することであり、「観察門」の<毘婆舎那>・「観」と合わせて「止観」となります。これは浄土門において非常に重要な修行なのです。なぜなら覚りの世界を観察することによって、覚りの内容が私に振り向けられてくるからです。形として報いない覚りは真実の覚りではありません。浄土は覚りの内容が形として成熟した世界であり、信徒は浄土の形を観ることで覚りの内容に至ることができるのです。
では何を観察するのかというと、大きく分けて三種、細かく分けて二十九種あります。
まずは<かの仏国土の荘厳功徳を観察す>、つまり阿弥陀仏の浄土(安楽国)の見事な配置や、厳かな飾りの素晴らしさを観察します。形は覚りの内容が成就したものですから、成就の相を観察すれば、おのずと覚りの内容に至ることができるのです。浄土というのは煩悩即菩提の主体の内容が娑婆即浄土の環境に展開したもので、社会そのものではないが、社会の奥底に伏流する願心・真心が環境に報いて展開した世界(真実報土)なのです。こうして、社会全体を下支えし一切衆生を包み込んでいる真心の報いを、私に回向された信心が感応し見出してゆくのです。
娑婆を娑婆と照らすのが浄土、浄土を浄土と映しているのが娑婆。この浄土の有様を十七種にわたって拝見させていただくことが、<かの仏国土の荘厳功徳を観察す>という内容です。<荘厳>とは、真心によって華やかに飾ること。今までにない新たなものを創造する力が、社会の奥底から湧き上がっていることを観察します。
続いては<阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す>、つまり阿弥陀仏の尊い相を八種にわたって拝見させていただきます。こちらも成就の相を観察すれば、おのずと覚りの内容に至ります。阿弥陀仏は浄土を生み出された真心の中心軸であり、一切諸仏の智慧と徳の総集合体であり、浄土を建立された願いがその身に報いていますので、阿弥陀仏の身(真実報身)を観察すれば、結果が原因に至り、本願とその成就の因果を見出すことができるのです。いわば覚りの内容と同時に、覚りの原点である願心と、覚りを支える骨組みと、現在に至る覚りの相続の歴史さえも見出すことができるのです。
最後には<かの諸菩薩の功徳荘厳を観察す>、つまり即得往生を遂げた菩薩の尊いお姿を四種にわたって拝見させていただきます。これによって信心の具体的な相を衆生に見出すことができるのです。特に善知識と同朋の尊さを拝見し、先祖代々より子々孫々に至るまで相続される真心(仏性)の報いたありさまを観察し、人間本来の尊い活動の姿を称えてゆくのです。
いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。『浄土論』解義分 より
『浄土論』総説分 より
「礼拝門」から「観察門」までの四門の自利の修行(入の功徳)を成就すれば、いよいよ利他を行う教化地(出の功徳)に至ります。自利の修行から利他の段階に移るということです。教化は回向であり、「観察門」によって得られた「方便智業」によって「園林遊戯地門」が成就します。ただし「教化」と言っても、自分は信心を得たから、次は他人にこの境地を教えてやる≠ニいう姿勢になってしまえば、これは「我執」より性質の悪い「法執」に変質してしまいます。これではカルト宗教と同じになってしまいます。
また回向といっても、自分の境地を相手に押し付ける(これを自力という)のではなく、法蔵菩薩の願心が報いた浄土・如来・諸菩薩の真心の歴史が自他にふり向けられてくるのです。総じて言えば、実践としては自らの努力ですが、本質としては如来の先手で回向されていることを腹に据えるのです。
また{還相回向の願}で指摘されているように、教化地は還相回向であり、その内容は命がけでありつつ、実態は<諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化>してゆく、といいます。
逆に言いますと、利他の菩薩は相手のために頑張って教化する≠フではなく、相手の世界に遊び、自分が楽しむことによって共に教化される≠フであり、これによって、命がけでなければ出来ないような教化を達成できるのです。
これは相手の立場に立てば解ることです。もし、しかめ面で私の弱点をあげつらい教学を押しつけられても、私は鬱陶[うっとう]しいだけで敬遠してしまいます。逆に、私の世界を認め、私の世界に遊び、喜んでくれるのなら、その態度に感服して教えを聞く姿勢が生まれるというものでしょう。
ただし、教化活動のために相手に合わせて遊ぶ≠ニいう態度であれば、これは取引であり、最も不純な行為でありましょう。<出門を園林遊戯地門と称す>ということは、そうした不純な心を翻して、如来の願力自然のはたらきに随ってゆくことの大切さをいうのでしょう。
以上、「五念門」のあらましを「五正行」との比較において述べてみましたが、この比較は例えば『教行信証』と『歎異抄』の違いにも見出すことができます。親鸞聖人の著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)は、天親菩薩・曇鸞大師の「五念門」の立場を踏まえて書かれていますが、『歎異抄』は「五正行」の立場に留まっていますし、第一「仏教と相応せん」との大事な願いが希薄過ぎます。
いくら身近に親鸞聖人と接していても、希薄な求道心では師の跡を追うばかりで、師の真意を継ぐことはできません。『歎異抄』を読んでいると、こちらの人生観まで狭まってくるように思えるのは、著者自身の道を求める姿勢が中途半端で、聖人の言葉の半面しか読み取れず、大事な箇所を聞き逃しているからでしょう。以下その具体例を示します。
(2) 一 おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。『歎異抄』2
これは私が一番問題視する文です。最初にこれを読んだ時、もしこれが親鸞聖人の本心だというのなら、聖人に用はない。もしこれが浄土真宗の信心だというなら、浄土真宗に用はない≠ニさえ思いました。その理由は――
<ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがため>に、信徒たちは関東から京都へはるばる訪ねて来られた。なぜなら当時、同行たちの間には大事な問いがあったのです。それは、念仏以外にも極楽往生の道がある≠ニいう異説・異安心が流布し、信徒たちは動揺し、教団内で不信感が募っていたからです。
その問いに対し、<しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり>、つまり、念仏以外にも極楽往生を遂げる道や経文があるのを私(聖人)が知っている、などというのは誤りだ≠ニ言われるのです。そして、他の往生の道を知りたかったら、南都北嶺の学僧に尋ねればよい≠オ、自分は念仏して往生させていただくだけ≠ニ断言されます。
ひとまずここまでは良しとしましょう。しかし、<念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり>は困ります。これでは仏教の大原則である「自灯明」がありませんし、「法灯明」も欠如しています。念仏は、浄土に生まれる行か、地獄に堕ちる行か、私は全く知らない≠ネどとは、仏教徒である限り本来は言ってはいけません。少なくとも個人的に他の道はいざ知らず、念仏すれば往生は間違いない≠ニの体験があるからこそ、人に念仏を勧めることができるのです。自灯明もないのに、その説を他人に勧めれば、仏教の屋台骨が崩れてしまいます。
先の「五念門」では、浄土に出入り自在の門を見出した≠フですから、ここは信徒たちに如来回向の念仏を勧める良い機会となるはずでした。
たとえば『教行信証』には――
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 信一念釈より
▼意訳(現代語版より)
【六〇】さて、まことの信楽について考えてみると、この信楽に一念がある。一念というのは、信心が開きおこる時のきわまり、すなわち最初の時をあらわし、また広大で思いはかることのできない徳をいただいたよろこびの心をあらわしている。
【六五】ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末[しょうきほんまつ]を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至[ないし]」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心[ふたごころ]がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなはち清らかな報土に生まれるまことの因である。
とあります。<仏願の生起本末[しょうきほんまつ]を聞いて疑いの心がない>というように、我が存在の底深くで名のり続ける如来の本願が、言葉となり、衆生とともに兆載永劫の修行をして成就する経緯を聞き開けば、如来回向の信心(至心・信楽・欲生)が一念となって我が身を貫いてくる、もしくは貫かれていたことを知るのです。
ですから『教行信証』の姿勢で言えば、念仏は、本当に浄土に生まれる因なのか≠徹底的に追求する。地獄に堕ちる行いかも知れない≠ニ徹底的に疑う。それも理性ではなく真心で道を求めるのです。そして、求める姿勢そのものが如来より回向された信心であることを知ってゆくのです。
このように、『教行信証』と『歎異抄』の内容は全く違っています。ではどちらかが正しく、どちらかが間違っているのでしょうか。
『教行信証』は親鸞聖人の直著ですから、『教行信証』が聖人の本音であることは間違いないでしょう。広く世間に、また後世の衆生にも届くように、腹一杯述べてみえます。
比べて『歎異抄』は、聖人の示寂後、弟子(同行)の誰か(唯円との説が有力)が、<耳の底に留むるところ>を少し記したものです。直接の著ではありませんので、聖人の真意をきちんと理解できた上で書かかれたかどうかが問題です。少なくとも五念門を領解した上で書いているのなら良いのですが、聖人がこう仰ったのを覚えているからそれを書く≠ナは自分の理解に留まってしまいます。人間は自分の興味の無いことは聞き逃す性質があり、また聞いても理解していない部分は無視するものです。全体を知った上で部分を述べるのなら良いのですが、そうでなければ曲解も生まれます。『歎異抄』を読むと、もう一つ質問を重ねれば法が明らかになるのに≠ニ残念な箇所が多いのです。ここまではいい。だからこそどうするのか?≠ニいう問いが発せられていません。
たとえば、<弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず>とありますが、本願が真実であっても、それを経典が完全に説き示してくださっているのかどうか分からない≠ニいう疑問は生じないのでしょうか。事実、親鸞聖人は『仏説無量寿経』のみを真実の経とし、他を仮の経典とされました。仏説であっても内容を問えばこうなるのです。さらに<仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず>とありますが、仏説が真実でも善導が間違った解釈をしている可能性もあるでしょう。事実、「五念門」に比べ「五正行」の内容は浅いものです。伝言ゲームでも最初の人と最後の人では内容が変わってしまいます。常に徹底的な検証を行わなければ、仏願は捻じ曲がって伝わってしまうのです。仏願を捻じ曲げずに伝えるためには、我が身に報いた信心によって真実報身の直説を聞くことで、そのためには言葉以前の真心の歴史と直接出遇うことが必要です。伝言ゲームで言えば、最後に自分に伝わった言葉と最初の阿弥陀如来の本願とを比較すること。今現在説法してみえる阿弥陀如来の声を直接聞くことが必須でしょう。阿弥陀如来は法性法身ではなく真実報身ですから、誰でも今この境遇の中で阿弥陀如来に出遇うことができ、説法を聞くことができるのです。
しかしおそらく『歎異抄』の著者は、初めの問い以上の問いは持っていなかったのでしょう。これは「自灯明」の欠如が招く欠点です。比べて『往生論註』や『教行信証』は、これはこう書いてある。解った。だが別の面から見るとこういう疑問も出るはずだ≠ニ、次々疑問を投げかけ、細心の注意をもって応えてみえます。際限なき自問自答の繰り返しによって、最初の問いを越えて、最後は問い以上の答えを導きだしてみえます。『教行信証』はじめ聖人直接の言葉から受ける印象と『歎異抄』の印象が違うのは、この徹底的に問うかどうかの違いにあると言えるでしょう。
また、法を説く時は相手を見て説くことが大切ですから、おそらく親鸞聖人はこの時、相手の機に応じて法を説かれたのでしょう。信徒が命がけで京都まで来られたその訳は、教団内で念仏以外の異説が流布しようとしていた時であり、緊急を要する時でもありました。
親鸞聖人は智慧勝れ、沢山の修行をしてみえるから、念仏以外にももっと勝れた教えを知ってみえるかも知れない≠ニいう邪推を破るには、信徒が理解しやすい内容で、しかも強烈な言葉で応えるしかありません。仏願の生起本末を聞き開きなさい、そうすれば自ずと……≠ネどと悠長に応えている場合ではなかったのでしょう。私は皆が思うような特別の智慧もなければ徳もない。愚かな身なのだから、地獄に堕ちて元々。特別の信心などないし、特別の行などない。信じて念仏するだけです≠ニいうお示しが、この時は最良の応えだったのではないでしょうか。
しかし教団の体制も落ち着き、<仏願の生起本末>をとことん聞き開くことが可能な状況になったならば、親鸞聖人の真意に相応して言葉の取捨選択も必要でしょう。緊急では求道精神を削ぐような言葉で応えられたが、五念門をもって真意を探れば無限の宝が飛び出してくるはずです。
私は恒に浄土真宗の教学が遅滞しないように願っています。そして時代の要請にも応える教学であり続けて欲しいと念じています。そのためには、信徒が常に無限に問いを持つことが必要だと思います。無限の問いこそが無限の答えを生み、無限の「今」に応え続けていくことになるのです。
論主自督(漢文)
『往生論註』巻上
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