平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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浄土真宗の本尊観について、Q&Aで学ばせていただいております。
ところで、行における本尊の位置づけについて、ぜひ、Q&Aにてご教授いただきたくお願い申し上げます。
梯実圓先生の『浄土真宗の本尊論』を拝読いたしますと、法然上人は、平生の念仏を正定業とし、臨終行儀のおける本尊を退け、また、造仏等を助業としていた。親鸞聖人においては、本尊論を展開することもなかった旨の記述がありました。
一方、他の仏教(特に○○宗系【註:固有名詞につき編集させていただきました】)では、本尊論議が盛んであり、行において本尊の位置づけが最も重いものになっているようです。
島田幸昭先生も仰るように、一畑の薬師・壷坂の観音でなくともどこの薬師・観音でも同じはずなのに、なぜか特定の本尊を崇拝することが多くみられます。ある宗派では、この特定・唯一の本尊(モノ)を拝まなければ、ご利益もないし、誹謗すれば罰が当たるとまで言い、極端に言えばたとえ行がなくても本尊さえあればよいのではという教えもあります。程度の差はどうあれ、一般的な本尊観にはこのような点があるのではと思っております。
こうして比較してみますと、浄土真宗の行において、本尊の位置づけは、一般とたいへん異なるように感じます。この観点からご教授いただけないでしょうか。称名は正定業、本尊は助業(礼拝)のてだてと、まずは考えてよいものでしょうか。
509「Q&A行における本尊の位置づけ」に関しまして追記させていただきます。
一般の宗教では、行や信は、目に見える本尊がなければ成り立たないように感じます。
一方、浄土真宗においては、必ずしも目に見える本尊でなくても、行や信は成り立つのではと、極論ですが感じるのですが。自然法爾との親鸞聖人も、弥陀は自然のようを知らせん料なりと仰っております。聖人が本尊論を展開されなかったということは、この辺とも関連があるのではと思っております。
おつとめのときに、浄土の荘厳ということで本尊を拝するわけで理解できますが、もう少し、本尊にどう接していけばよいかをはっきりとしたいと思います。
個々の質問についてお応えする前に全体的な問題、学びの姿勢についてお話させていただきたいと思います。
まず、私たちは教えを学ぶ際、どうしても「はっきりさせたい」という思いが先走り、言葉や教理で論理的に決めつけて、それによって満足感を得たい気持ちになりがちです。しかし、こうした姿勢で学ぶと、結果として教義の迷路に迷い込むことになってしまいます。
これは、梯實圓師も仰るように、教義は「もともと理性をも超えた領域を論理的に表現したものであるから、合理性の枠を越えた領域を常に指示して」いるのであって、教義として顕れた言葉を丸呑みにしてはならず、教義を通してその奥にある真意を訪ねることが大切で、これを菩提心といい信心ともいうのです。ですから教義は決して「理性を無視するものであってはならないが、理性を正邪の判定者とするような単なる合理的な体系であってはならない」のです。そして教えを学んだ味わいとしては、「不可称なるがゆえに無限に称讃し続けられるものであり、不可説なるがゆえに無限に説き続けられるものであり、不可思議なるがゆえに、無限の思議を信心の行者に促す」という姿勢を生み出すのです{※資料1▼ 参照}。
ゆえに<造仏等を助業としていた><本尊論を展開することもなかった><称名は正定業、本尊は助業(礼拝)のてだて>ということも、その言葉が何を示そうとしているのか思惟することなく、「教義ではこう理解すべき」という言葉の決定打を求めてはならないでしょう。
信心とは如来の境地に感動することであり、この感動がなければ念仏も本願も阿弥陀仏も抜け殻に過ぎません。たとえばどんな名曲でも感動が伝わってはじめて名曲なのであり、感動が喚起されなければ音の重なりに過ぎません。音は誰でも聞けますが、本当は響きが伝わってほしいわけです。名曲は、音を通してはいますが、最後に残るのは響きだけです。音は消えてしまうのです。音が残るようでは名曲とは言えません。音と響きに食い違いがあるから音が残るのです。名画も表現方法や名前や金額で評価されるのは本意ではなく、描き手と鑑賞者が感応してこそ名画の本領が発揮されるのです。
仏教も同じで、どこまでも仏の真意を求めていくことが信心の軸なのですから、この軸に添って感動の言葉や形が無限に創出されるのです。表面の行を通して、奥にある響きが聞こえてくることが肝心なのです。この響きこそ仏の叫びでしょう。叫びが本当に伝われば、表面の行は意識から消えてしまうのです。そうすればいつまでも行に執着する必要はなくなります。行を通して如来の深い叫びを聞き、そして行は仏の叫びの中に消えてしまう、これこそが純粋他力の行なのです。
さらに、前念の心と後念の心の違いについても触れなくてはならないでしょう。未信の人は前念の心であり、真実信心は後念の心ですが、後者にとっては「何が助業で何が正定業か」などと問う必要は無くなってきます。五念門でいえば、礼拝の中に他の四門もそなわってくるのであり、讃嘆の中にも他の四門が含まれているのです。しかしまだ仏願が信受できていない人には、礼拝は礼拝に過ぎず、しかも形だけの礼拝であり、讃嘆も、作願も、観察も、回向も、全て孤立したまま、形だけであり、その真のはたらきを現わしてはいません。「ああ、本当だ」と感動して礼拝し、念仏し、浄土に生れる願いを起こし、浄土を観、ともども往生を願うのです。
ですから、肝心要めは真実信心である、と言われるのです。「称名は正定業」と言っても、信心が無かったり信心が邪しまならば、その称名も正定業ではありません。正定聚・不退転の菩薩となってはじめて全てが正定業となるのであり、不定聚・邪定聚の菩薩は正定業は為せないのです。
しかし、「前念は後念のために因となる」と『往生論註』にありますように、正定業でなくても諸仏の励ましや活躍を見ることによって、願力自然のはたらきによって正定業になっていくのです。阿弥陀如来の清浄の徳にかなった名号を、浄土の様々な荘厳で包んで心にいただけば、やがて浄土に至り、如来の願いの成就によって、自然に「実生実滅の生を転じて無生の智となす」ことができ、阿弥陀仏の功徳を身に満たすことができるのです(参照: {往生論註「願生」について 2})。
ですから特別に「称名は正定業」と言われるのでしょう。しかしこの「称名」についても、後念の心となるについては注意が必要ですので、ご質問に添って一つひとつ検証していきたいと思います。
〉 こうして比較してみますと、浄土真宗の行において、本尊の位置づけは、一般とたいへん異なるように感じます。この観点からご教授いただけないでしょうか。称名は正定業、本尊は助業(礼拝)のてだてと、まずは考えてよいものでしょうか。
「称名は正定業、本尊は助業(礼拝)のてだて」という言葉自体は、大まかに言えば必ずしも間違いという訳ではありません。しかし質問文を読ませていただきますと、失礼な言い方になるかも知れませんが、まだ本質面には目が向いてみえない気もします。これは島田幸昭師も仰るように、受け取る側の受信機の周波数が仏意に合っていなければ言葉が死んでしまうのです。称名とは何かが解ってそれを実行しなければ真意は明らかになりません。
称名念仏というのは、単に「南無阿弥陀仏」と口に出して言う(唱える)だけではありません。「仏の功徳をたたえる」のです。『大経義疏』には、「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである」とあります(参照:{どのような心でお経を読むのか?})。仏の功徳は名号におさまっていて、名号をたたえることによって功徳が私たちにはたらくのです。これを称名というのです。
それならば、なぜ「称徳」と言わず「称名」と言ったのかというと、徳は仏の尊さの一面であって、「名をいえば、その人のすべてが現われるので、全人格を褒める時は名を称える」と聞かせていただいています。
仏は智慧と徳が成就した人のことをいいますが、智慧は仏自身が使うはたらきであり、徳は衆生に信受せしめるはたらきですから、私たちが阿弥陀仏の名を称えるのは、実際には仏の徳を褒め称えることをいい、それによって信受せしめる徳が私にはたらくのです。では如来の智慧はどうなったのかといいますと、智慧が行為を通して身につけるものが徳ですから、徳の中には兆載永劫にわたる智慧の報いが込められているのです。ですから、私たちが南無阿弥陀仏を称えるのは、仏の智慧と徳を褒めることであり、結果としてその功徳が私に宿り満ち満ちていることに気付くことができるのです。
ただし、そうなるためには、あらかじめ仏の功徳がどんなものであるか具体的に知らなければ、功徳を称えることはできません(参照: {諸仏称名の願})。先に、後念の心では讃嘆の中に他の四門も含まれる、といいましたのはこういう理由です。
ではどうやって具体的な徳を知るのかといいますと、これも{どのような心でお経を読むのか?} に引用しましたが、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とありますように、本願成就のいわれ(経緯)を聞き開くのであり、そのためにはどうしても『仏説無量寿経』を学ぶ必要があります。{浄土真宗の教え(#ご本願を味わう 四十八願の詳細)} には四十八願の詳細を掲載しましたし、{法身と報身の違い}・{浄土理解の相違点} には、誓願を建立してからの経緯を書きましたので参考にして下さい。浄土真宗は聴聞に尽きる、という意味もここにあります。
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
『高僧和讃』結讃 118
ここまで書かせていただけば、本尊に礼拝する意味もおおよそ気付かれたのではないでしょうか。称名念仏が正定業であり「仏の功徳をたたえる」ことであったのと同様、本尊に礼拝するのも「仏の功徳をたたえる」ことにつながってこそ意味があると言えましょう。{具足諸相の願}には、念仏者も三十二大人相を具えるように願われていますが、阿弥陀仏の相好がととのっているのは、仏の功徳がはたらいている証しでもあり、衆生は仏の尊い相を見て仏の功徳をたたえることができるのです。これは文字を読めない人にさえ伝わりますので、時として聴聞より素早いはたらきを見せることになり、事実、仏教の魅力の多くを仏像が担っていることは紛れもない事実でしょう。
そうした素晴らしい活躍があるのですから、「礼拝こそが正定業」という説があってもいいはずですが、専門家の間では「助業である」とみなされる傾向があるのは一体何故でしょうか。
現実の問題としていえば、ご質問にもありますように、<特定の本尊を崇拝する><特定・唯一の本尊(モノ)を拝まなければ、ご利益もない><行がなくても本尊さえあればよい>という迷信的な傾向に陥る可能性を予見できたからでしょう。事実、日本においてこの迷信に陥っていない人は果たしてどのくらいみえるでしょう。また、こうした明らかな迷信ではなく真面目に求道する中でも、信心の定まっていない間はどの仏をどう見たらいいのか定かではないので、聖人は正定聚に住する立場から翻って指導されたのでしょう。この点について実践的側面から五種正行について述べてみますと――
ご存知のように、五種正行は善導大師が浄土往生の行業として「読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養」の正行を示されたものですが、この五正行をさらに正定業と助業に分け、「称名正行」は本願の行であるから正定業とされ、読誦・観察・礼拝・讃嘆供養は称名の助となり伴となる行業であるから助業とされました(参照:{「正行」と「雑行」について})。
しかし親鸞聖人は、「正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく」(『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本)35・三経隠顕)と仰ってみえ、五種の行がそのまま正とも助ともなることを示されました。つまり、「本願力回向の名号があるかないか」・「如来の功徳が信受されているかどうか」、前術の表現を使いますと「如来のお心に感動できたかどうか」が正行と助行を分けるのであって、行それ自体に正助の違いはないことを明らかにされてみえます。善導大師は行に現われる面について正助を云い、親鸞聖人は行の本質面に正助の違いがあると仰るのでしょう。聖人は、言葉は善導大師の正行を引かれてみえますが、本質的には天親菩薩の五念門が前提にあって、そこから他の釈について具体的に論じてみえます。聖人の教学の展開全体を見てみれば、天親菩薩・曇鸞大師の流れを第一にされてみえることは明らかでしょう。
なおこの部分の現代語版では、名号と称名を同じと解釈しているためか非常に歪な訳をしていますが、これでは聖人の意を汲めないので注意が必要です。後念の心では名号と称名は同じですが、前念の心では必ずしも同じではないのです。あくまで「阿弥陀仏の側から回向された名号」こそが要であり、称名もこの名号(つまり本願成就のもよおし)が主でなければ助業に過ぎません。「念仏をとなえるのは全て正定行」というのは浄土真宗ではありません。となえる内容を問題とするのが聖人の姿勢です。極端な話、「訳わからんが、とにかく言えばいいんだろ、南無阿弥陀仏」とか「みんな不幸になれ、南無阿弥陀仏」というような念仏に、どれほどの功徳があると言えましょう。名曲を雑音と感じている人と同じです。
念仏と名号が同じというのは、仏の名のりが叫びとして信受されている時の話です。さらにいえば、本当に名号が信受されていれば、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五種は全て正定業となるのです。
以上をふまえて、もう一度<称名は正定業、本尊は助業(礼拝)のてだてと、まずは考えてよいものでしょうか>というご質問を思惟しますと、称名も、本尊に礼拝することも、本願力回向の名号がはたらく中ではどちらも正定業といえるでしょう。「信心をもって本とせられそうろう」の「本」がはたらく中では、五種の行全てが正定業です。さらに言えば、行住坐臥全てに名号がはたらき、全てを正定業に転じてしまう仏のはたらきに気づかせて頂けば、世界中を拝むことさえできるようになるのです。
世界をおがむ 南無阿弥陀仏
世界がほとけ 南無阿弥陀仏
(浅原才市)
〉 一般の宗教では、行や信は、目に見える本尊がなければ成り立たないように感じます。
〉 一方、浄土真宗においては、必ずしも目に見える本尊でなくても、行や信は成り立つのではと、極論ですが感じるのですが。
どうも宗教界全般にわたって、「目に見えないものが尊く、目に見えるものはつまらない」という不文律ともいうべき常識があるようで、これは釈尊滅度後も仏を人の像として刻むまでに数百年を要したことから見ても明らかです(参照:{釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル)})。特に専門家になればなるほど法性法身を本とし、形をないがしろにする傾向があるようです。
しかし阿弥陀仏は、そうした不文律を破り、色や形を現わし法蔵比丘と名をなのり(方便法身)誓願を建立し兆載永劫の修行が報われて現われた仏(報身)なのです。そしてこの真実報身の無量寿仏こそあらゆる仏の本体であり本仏なのです。真如法性・法性法身を本仏としていた人は、まだ覚りが観念の域を出ず、歴史社会の何たるかが解っていないため、世俗の中にはたらく尊い心を実際に見ることができなかったのでしょう。
浄土真宗においては、むしろ行や信が本当に成り立てば、そこに姿形を通して阿弥陀仏が見える、声を通して阿弥陀仏の直説法が聞こえる、社会を通して浄土が見えるはずで、それが報身・報土のありがたいところです(参照:{法身と報身の違い})。
〉 自然法爾との親鸞聖人も、弥陀は自然のようを知らせん料なりと仰っております。
〉 聖人が本尊論を展開されなかったということは、この辺とも関連があるのではと思っております。
自然法爾の章は有名なのですが、まず気をつけなくてはならないのは、自然法爾はあくまで願力自然のはたらきのことを指すことです。つまり何も努力しない自然を言うのではなく、本願が成就する経緯(いわれ)を聞き開くことによって、阿弥陀仏の御はからいが私の計らいになったことを指します。本願が報いて私の願に成り切って下さった境地をいうのです。
また「つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし」とありますように、自然法爾を論じ極めようとしても、どうしてもその中に時代性や社会環境の癖が自力として加わりますので、本願の生起本末を聞き仏智の不思議を仰ぐことが最も尊いことである旨が顕わされています。
さらに申しますと、どうもこれは親鸞聖人独自の境地というより、自然法爾の流れに添って説かねばならなかった当時の時代性社会性が関係しているようなのです。日本には自然崇拝の思想が根強くあり、またこれは中国の道教の思想が影響していると聞きます。ですからこれは聖人が、道教の自然法爾的思想を換骨奪還して本願力のはたらきとして説いた章である、と理解した方が道理に合うのです。しかし残念なことに、自然法爾を「聖人の最終的な境地である」などと評価した本も多数あり、これは非常に誤解を生む評価であると私自身は危惧しています。
ところで、浄土真宗の伝統教学では、『仏説観無量寿経』の「住立空中尊」を本尊とし、「真身観」は自力の行者の心想において観る仮の姿であるので自力方便の姿、と理解されてきました。当HPでも以前はそう紹介しておきましたが、あらためて経典を読み返してみると、あながちそうとも言えない点を見出すことがありますので、以下はそうした新たな視点をお伝えしたいと思います。
次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。
『仏説観無量寿経』16 正宗分 定善 像観 より
意訳▼(現代語版 より)
次に仏を想い描くがよい。
なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏になるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。
まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけてはっきりと想い描くがよい。
ここに「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ」とあります。三昧だけを問えば自力ですが、如来の先手で一切衆生の心想のうちに入られた、ということになれば、これは明らかに他力について述べてあるのであり、ここに「本願成就のいわれを聞き開き、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」という信心の内容を当てはめてみれば、「真身観」は「本願成就にかなった如来自らの顕現」であり、「信心に成り切られた阿弥陀仏」・「南無阿弥陀仏の真の姿」ということになりはしないでしょうか。
これを前提として読めば、「住立空中尊」は逆に、釈尊の直接の導きがあってはじめて韋提希夫人のみが見ることのできた阿弥陀仏の姿であり、「真身観」こそが未来の衆生、つまり私たちが阿弥陀仏の願力の導きによって見ることのできる真の仏の姿である、とは言えないでしょうか。経典をどう読んでも「住立空中尊」は私たちには見ることはできないのです。韋提希夫人がそのことを心配して、それに応じて「華座観」(これも本願に報いて現われる)や「真身観」が説かれるのであり、経典にも具体的な相が明確に書かれてあるのです。
「韋提希夫人が刻んだ仏像があるならいざ知らず、どうして私たちに見えるはずのない住立空中尊を本尊としていたのか?」という伝統教学に対する疑問がわくのは私だけでしょうか。
このように見てみると、『仏説観無量寿経』全体に書かれてあることは、一見行者の三昧をあてにしているようですが、実は仏の功徳が先手ではたらいているのであって、「経典に書いてある通りの世界をイメージしなさい」というのではなく、「本願成就のいわれを聞き開けば、あなたにもこの通りの世界が見えるでしょう」と、報身・報土を見る要めを示して導いてみえるのではないでしょうか。
無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転して、〔大きさ〕五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。〔大きさ〕須弥山のごとし。かの仏の円光は、〔広さ〕百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。 無量寿仏を観ぜんものは、〔仏の〕一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八万四千の相好、自然にまさに現ずべし。無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す。これをあまねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす
『仏説観無量寿経』17 正宗分 定善 真身観 より
意訳▼(現代語版 より)
無量寿仏のお体は百千万億の夜摩天の黄金のようにまばやく輝き、その高さは六十万億那由他恒河沙由旬 である。
また眉間の白毫は、右にゆるやかにめぐり、その大きさはちょうど須弥山を五つあわせたほどであって、その目は四大海水のように広々としており、清らかに澄みきっている。
またお体の毛穴から放たれる光明はまるで須弥山のように大きく、その頭の後ろにある円光の広さは百億の三千大千世界をあわせたほどである。
その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになり、それぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそっている。
また無量寿仏には八万四千のすぐれたところがあり、そのそれぞれにまた八万四千のこまかな特徴がそなわっている。
さらにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。その光明やお体の特徴、そして化身の仏について詳しく説くことはとてもできない。ただ思いをこらし、心の目を開いて明らかに見るがよい。
このように想い描くものは、さまざまな世界の仏がたをすべて見たてまつることになる。すべての仏がたを見たてまつるのであるから、この観を念仏三昧と名づける。
また、この観を行えばすべてのほとけのおすがたを想い描くことになり、仏のすがたを想い描くのであるから、仏の心を見たてまつることになる。その仏の心は大いなる慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべての人々を摂め取られるのである。
この願が成就すれば、来世には仏がたの前に生れ、無生法忍を得ることができる。だから智慧のすぐれたものは心を一つにして、はっきりと無量寿仏を想い描くがよい。そして無量寿仏を思い描こうとするものは、その仏の特徴の一つを想い描くことから始めるがよい。それにはまず、眉間の白毫をきわめてはっきりと想い描くことである。眉間の白毫を想い描くなら、八万四千のすぐれた特徴を持つおすがたがおのずから現れてくる。
こうして無量寿仏を見たてまつるなら、それはすなはちさまざまな世界の数限りない仏がたを見たてまつることになる。さまざまな仏がたを見たてまつることによって、仏がたは目の前でさとりを得ることを約束してくださるであろう。このように想い描くのをひろくすべての仏のおすがたを想い描く相といい、第九の観と名づける。
このように観ることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
<本尊にどう接していけばよいか>というご質問からかなり拡大して思索を進めてきましたが、私の学んだところの感想を述べると、浄土真宗の本尊論はまだ研究の途についたばかりなのではないでしょうか。経典のお心にぴったりと寄り添い、感動しつつ本尊論を展開している、というような説はあまり聞いたことがありません。ほとんどの本尊論が、現にある仏像を肯定する弁明に過ぎず、一切衆生を感動せしめるような領解は中々聞けません。
ただ一つ言えることは、阿弥陀仏は本願成就の真実報身である以上、この像を制作する人の努力の底にも、常に阿弥陀仏みずからの働きが伏流しているのであり、この顕現を観見することが本尊を拝むことなのではないでしょうか。新たに本尊を通して響いてくる声を聴聞したい、と願っています。
なお質問にありました 島田幸昭師のお領解は{※資料2▼}に拡大して掲載しておきました。
時間・空間を超えて法界(世界)を包むような心を悟りというが、悟りを実現する因である菩提心(信心)の本質は、悟りそのものと同質である。それゆえ菩提心(信心)は個人の心に開きながら一切を包むような意味を持つというのである。
このような信心は、その人の生きる歴史的・社会的な現実のなかに自からをさまざまな形で表現していく。超理性的な信が、自己を理性的な言葉で表出したとき祖師が示されたような教義が成立する。また信心が個人的に、または集団的に身体的動作を伴なって表出されるとき宗教儀礼が成立していく。そしてまた同信の行者を中核として、その信心に基づく社会的な集団を形成したとき教団が成立する。このように教義と儀礼と教団という三者は、一つの信心あるいは悟りの必然的な自己表現であるから、互いに密接な関連を持ち、互いに影響しあいながら現実の世界に展開していくのである。
さて超越的な宗教経験である信心が、言葉によって論理的に表現され、普遍性を持った宗教的世界観として体系化されたものが教義とか教理といわれる。しかしそれはもともと理性をも超えた領域を論理的に表現したものであるから、合理性の枠を越えた領域を常に指示しており、儀礼や教団とも関連する極めて実践的な性格を持ち、人々に目覚めを呼びかけていく伝道の体系でもあった。
<中略>
真に人間を超えた不可思議なるものに触れた人は、自己のはからいを打ち砕かれながら、逆に限りなく思索を促され続けるものである。如来とは完全に思慮分別(虚妄分別)を超えた不可称・不可説・不可思議なるものに名づけた名であるが、それは不可称なるがゆえに無限に称讃し続けられるものであり、不可説なるがゆえに無限に説き続けられるものであり、不可思議なるがゆえに無限の思議を信心の行者に促すのであった。不可思議なるものを思議し続ける勝れた教義書には著者の思いをも超えた真実が宿るものである。それゆえ個人を超えた普遍性と、歴史を超えた永遠性を獲得するのである。 しかしそのような教義書には完成はないといえるかも知れない。親鸞聖人が五十歳代の初めに書き始められた『教行証文類』を、二十数年の歳月を費やして校正を重ねて、一往完成されるが、さらに八十歳を過ぎてもなお加筆し続けられたのはその故であろう。
<中略>
しかし教義学は単なる聖典の解説に止まってはならないし、論理的整合性だけを求めるものであってはならないであろう。理性を無視するものであってはならないが、理性を正邪の判定者とするような単なる合理的な体系であってはならない。教義書がそうであったように教義学を律するものも信心の智慧なのである。また教義学は、過去の遺産を学ぶだけの学問ではない。仏祖の教えを学ぶことを通して与えられた智慧に導かれながら、私どもが現実に直面している歴史的・社会的なさまざまな問題と呼応し、実践的に応答していくような学問でなければならない。
梯實圓 著『教行信証の宗教構造』序文 より
真宗の寺院に、本尊として安置してあるあの仏像は、いつの時代に、誰によって本尊に決められたのでしょうか。
私が十六、七才の頃でした。父のうすとに坐って、夕べの礼拝をしていると、父はうしろをむいて「声に出して念仏せよ」という。私はなむあみだ仏なむあみだ仏と、二、三べん称えるけれども、すぐ止む。父はなぜせんかと、またいう。仕方なしに念仏する。何か気はずかしくて、また止んでしまう。その中に反抗心がむらむらとわいて来る。ひとに聞かせるためではあるまいに、何も声に出して念仏する必要はあるまい。仏さまは何でも知っておられるというではないかと。声に出して念仏することだけではない。あの両手を上下にして立っている姿が、何か虫が好かぬ。子供の頃から、「右の御手をあげなされては、来いよ来いよ。左の御手をさげなされては、必ず助ける。仏にすがれよ、弥陀にまかせよ」と、寺の説教で聞かされていたものですから、何も仏に助けてもらわなくてもよい。自分のことは自分でするよ。反抗期の私には、あの両手を上下にして胸をひろげている仏像が、いやでたまりませんでした。ところがその後、同じ阿弥陀仏にも、いろいろの姿をした像があることを知りました。坐禅をしている仏像や、また同じ坐像でも、両手を立像と同じように、上下にしているものや、また来迎図とよばれるものなど。
それは私が安芸の国の奥地のある名刹へ、布教に行った時のことでした。本堂のななめ前に、こじんまりとした経蔵[きょうぞう]があり、扉が八文字に開かれている。その前には香烟[こうえん]がるるとのぼっている。内へ入って見ると、内は改造された位牌堂である。何と清潔な感じのする堂内であろう。そこには骨箱[こつばこ]一つなく、また位牌さえもない。まん中におずしがあり、その両側には、部厚い金襴表装[きんらんびょうそう]の過去帳が一冊づつ、見台の上におかれている。右の方には、明治以来の殉国戦病者[じゅんこくせんびょうしゃ]の名が記されている。出ようとして、もう一どおずしの中のご本尊を拝んだ。入った時には暗くてよく見えなかったが、りっぱな仏像である。私はその美しい姿に強く心をとらえられた。その時である。まるで電気にでも打たれたような、大きなショックを受けた。足利浄円[あしかがじょうえん]先生がいつもしておられたように、右手を胸の前で拝むようにしておられるではありませんか。これだ! 親鸞聖人がご自分のご本尊としたかった仏像は。これこそ南無阿弥陀仏という名号のいわれにかのうたお像[すがた]だ。思わずそう叫びました。
ご住職に尋ねてみたら、「私はこの寺へ養子に来たもので、どういう因縁で、いつ頃からこの寺にあるのか知らぬが、先年、藤秀スイ【王遍に翠】先生が来られて、この仏像は鎌倉初期の作で、中品[ちゅぼん]の修行中のお像[すがた]であるといわれた」と。やっぱりそうだ。法蔵菩薩は修行中の仏だ。
今は真宗の本尊は阿弥陀一仏になっているけれども、本来は左右に、観音と勢至の二菩薩を伴なっている。それは弥陀のもっている徳の二面をあらわしたものであろう。その観音は両手に蓮台[れんだい]をささげている。それを片手であらわし、弥陀印にすれば、左手のようになる。また勢至は両手を胸の前で合掌しているが、それを右の手で弥陀印を結ばせたのが、この仏像ではないであろうか。
不思議なことに、それから半年も立たぬ間に、同じような仏像を四体も見た。その中の一つはビルマから渡って来たもので、その腹のところに横にかかれている文字は、「釈迦は生きている」という意であると聞いた。あれを思いこれを思うに、どう考えて見ても、この仏像が真宗の本尊とならねばならぬように思われるのに、なぜ今の仏像が本尊におさまったのであろうか。もしかしたらたまたま日本に渡って来た最初の弥陀像が、浄土宗の本尊とされ、それがそのまま光背をすこし変えられただけで、いつの頃にか真宗の本尊に居坐[いすわ]ったのではないだろうか。
それにしても、今の本尊に対して、何らの疑いの眼をもって見たような人は、かつてなかったのであろうか。
真宗の本尊として礼拝している仏像は、どなたの姿をかたどったものでしょうか。
私は幼い時から、朝夕礼拝しているあの本尊は、西方十万億のかたなにある極楽世界の阿弥陀仏の写真だと、聞かされていました。しかしそんな所にそんな世界があろうはずもなく、またあのような姿をした仏が、おろうはずもありません。それは私が精神年齢が幼稚であったために、子供には子供なりにわかるように教えられたものにちがいありません。
反抗期を過ぎた今、独り静かに考えてみる。仏像は何宗に限らず、みな仏像を本尊としている。しかし各宗はおのおの本尊とする仏像は異にしている。このことは国旗がその国を象徴しているように、本尊像はその寺なりその家が、何を宗としているか一見してわかるように、他の宗と区別するためのものにちがいない。仏像を見れば、すぐにそこが神道やキリスト教ではないことがわかる。同じ仏像でも、禅宗と天台宗ではちがい。念仏宗ではまたちがう。また念仏宗はみな阿弥陀仏とよばれている仏像を本尊としているが、各宗派はその光背[こうはい]で区別されるようになっている。浄土宗では原始的な舟後光[ふなごこう]であるが、その後に成立した浄土真宗の本願寺派(西本願寺派)では、舟後光の上部をとって、そこへ傘のような光輪[こうりん]ををつけている。またそれから分派した真宗大谷派(東本願寺派)では、舟後光を全部とって、光輪だけにしている。
しかし肝心の仏像そのものは、何をあらわすのであろうか。昔からその結んでいる手の印によって、釈迦像、薬師像、弥陀像などとよばれて来た。しかしあのような姿をした薬師や弥陀が、どこかにおるとも思われない。仏像はそれがどんな印を結んでおろうが、すべて釈迦の像[すがた]ではあるまいか。それは頭の髪がちじんでいることや、その服装からしても、すぐにインド人であることが察せられ、また三宝帰依の第一の「仏に帰依する」は、その初期にあっては、釈迦仏に帰依することであったことでも、うなずかれる。
それではなぜいろいろの異った釈迦像がつくられたのであろうか。恐らくそれは釈尊のさとりの内容を、象徴的にあらわしたものではないであろうか。つまり釈尊のさとった法を、弟子たちが何と見たかということによって、それぞれの宗が開け、その宗の立場から、おのおの異った釈迦像が造られることになったのではないであろうか。
たとえば釈尊を煩悩を断じた大アラカンと見た弟子たちは、石の座に坐って、右手をのばして大地につけ、左手を上むけにしてももの上にのせている仏像をつくり、煩悩を断ぜずして涅槃を得たと見た弟子たちは、蓮華の座に坐って、坐禅している仏像をつくり、また五十二段のさとりを開いた仏と見た弟子たちは、五指をのばして、右手を上げ左手を下げている仏像をつくり、さらにまた南無阿弥陀仏をさとったと見て、浄土の経典をかいた弟子たちによって、二指をもって輪をつくって、弥陀印を結んでいる仏像がつくられたのではないかと思われるように。このことは三宝帰依の文を見ても、また真宗の本尊は昔から「釈迦・弥陀一体のお像[すがた]」と言い伝えられていることや、朝晩のお仏飯は、本尊にだけ二本供えることになっているのは、一本は釈迦、一本は弥陀と、日々の行持[ぎょうじ]の中にも教えられて来ていることでも、了解できるのではないでしょうか。
釈迦像がなぜに薬師とか大日とか、また弥陀といい伝えられて来たのであろうか。それは釈尊のさとられた法に、人格的な色彩が強くみとめられるようになるに随って、そうなったのではあるまいか。薬師や大日のことは今はさておいて、釈迦像をなぜ弥陀像とよんで来たかを問題とすれば、第一に思われることは、聖道仏教に対して往生浄土教を立てて、廃立を称えた人々によって、念仏の道が平面的に、自覚の宗教ではない、救済の宗教といように、きわめて常識的に受けとられたために、釈迦教に対して、弥陀教ということになったためかも知れない。
もしこの推測が当っているとすれば、私たちは真剣にこのことを、改めて考え直さねばならぬような、重大な新たな問題を、全仏教徒に課すことにはならぬでしょうか。たとえば論家が、群盲が大象をなでて柱のようなものと思い、あるいは尻尾をなでて箒のようなものと理解し、あるいは胴をなでて壁のようなものと受けとったという愚かをいましめているが、それは二千年昔のインドのことかと想っていたら、あにはからんや今日のわれわれ仏教徒が、その二の舞いをしていて、しかもそのことにすら気づいていないことになっているのではないでしょうか。釈尊のさとりをネハンといい、智慧といい、慈悲といい、あるいは五十二段というのは、すべて群盲の理解に過ぎぬのとちがいましょうか。また禅と念仏は、道はちがっても、さとりは同じだということが、今日の仏教界の常識になっていますが、それもまちがいであることになりましょう。また釈尊は聖道門[しょうどうもん]自力によって、この世で仏になったが、われわれはこの世では、釈尊と同じさとりは開けないと教えられていたことも、全くの誤りであったことにならぬでしょうか。
また釈尊は聖道門[しょうどうもん]自力によって、この世で仏になったが、われわれはこの世では、釈尊と同じさとりは開けないと教えられていたことも、全くの誤りであったことにならぬでしょうか。
真宗の本尊としている仏像は、釈尊のさとりが南無阿弥陀仏であって、釈尊は念仏第一号であることをあらわしているのではありませんか。私たちが朝晩礼拝しているあの仏像は、この世に生まれた「出世の一大事」は、この世で釈尊と同じさとりを開くことであり、そのさとりの内容と、さとる道ゆきを説いているものが、浄土の経典であることを象徴しているのとちがいましょうか。朝晩、本尊の前に坐って、尊顔[そんがん]を拝むたびに、もの言わぬ仏像の胸に宿る尽きぬ悲願を独り憶うのです。
真宗の本尊は、名号でしょうか、仏像でしょうか。
宗制には「本尊は阿弥陀如来」であると定められており、事実、本山を初めとして、末寺、檀家に至るまで、仏像が本尊としてまつられているにもかかわらず、真宗学の上では、本尊は名号であると教えられています。それで古来しばしば本尊は名号か仏像かということで物議をかもして来たのですが、私はいまだに納得のゆく、はっきりとしたいわれを聞いていませんが、一体これはどういうことなのでしょうか。
学問上と実際のくいちがいは、真実と方便との関係と理解して、理想としては名号を本尊とすべきではあるが、歴史的現段階にあっては、一般信者の宗教的智能年齢が低いために止むを得ず、仏像にしているのであるということであろうか。たとえば日本仏教の伝持史[でんじし]を見ても、仏教が渡来した当時にあっては、専らあの端厳慈顔[たんごんじげん]の仏像が仏事をしていたようであります。したがって仏教の教義を究めた学僧よりも、りっぱな仏像をつくる仏師の方が、優遇されて、地位も高く、給料も多かったということです。それが歴史を経るにしたがって、だんだんと経典の深い意を知ろうとする方向へ、眼がむけられて来ているのと同じように。
それともまた信心の立場では、名号に重きがおかれ、生活の立場では仏像が中心となると受けとるべきでしょうか。真宗の信心は、名号のいわれを聞き開くことであると、説かれているのだから、当然、名号に重きがおかれる道理であり、生活の立場では、称えるのは南無阿弥陀仏の名号でなければならぬが、礼拝の対象としては、たとえ外国語の南無阿弥陀仏という名号を、帰命尽十方無碍光如来という十字名号にかきかえてみても、一たん頭で翻訳してみねばならぬから、直接いのちにぴんと触れて来ない。やはりあの美しい智徳円満のお姿を見ると、文句なしに、何かたましいに触れるものがある。
いや、名号本尊ということを説かれる意は、仏がいけないのではなく、絵像や木像がいけないのかも知れない。日本の国では、仏そのものよりも、木に刻んだ仏や、石に彫った仏の方が尊ばれる風習がある。たとえば壷坂の観音さまや、一畑の薬師さまというように、無理に壷坂の観音さまでなくても、どこの観音さまでも同じように、ご利益があり、薬師さまならどこの薬師さまでも、同じことでありそうなものなのに、そうは言われていない。それは「江南[こうなん]の橘を江北[こうほく]に植えたら、化して枳[からたち]となった」り、紅のつつじのある庭に、白のつつじを植えれば、白の花の間に、紅の花が咲くように、日本古来の呪物崇拝[じゅぶつすうはい]の素朴未開な宗教意識の地盤に、仏教が受け入れられたために、転化した現象にちがいないが、そうした偶像崇拝に落ち入ることをいましめて、蓮如さまが、「他流には名号よりも絵像、絵像よりも木像というなり。当流には木像よりも絵像、絵像よりも名号」といわれたのかも知れない。
しかしそうばかりは片づけられないものがある。仏像はもちろん仏そのものを、形の上に象徴したものであるが、仏像だけではない。仏そのものに帰依をきらうというか、真宗の信心の上に、それを拒むものがあるようである。たとえば真宗学の安心問題の上に、「所帰人法[しょきにんほう]」という論題があって、帰依の対象は、阿弥陀仏という覚者か、それとも南無阿弥陀仏という名号かということが、論議されていて、阿弥陀仏という仏体ではない、南無阿弥陀仏という名号であるとされているのである。もちろん名号といっても、たんなる名前ではない。名体不二の名号であると、念をおしているのではあるが、その逆の名体不二の仏体とは、決していわない。それどころか帰依の対象を仏とすることは、異安心としてきらわれてさえいるのである。真宗学ではそういっているけれども、蓮如さまの言葉はあながちに、仏像を本尊とすることを拒まれたのではないのかも知れない。というのは「木像よりも絵像」がよい、「絵像よりも名号」がよいといわれるようにも受けとれる。しかしそういうことを言わねばならなかった蓮如さまの、胸の中にあったものは、何であろうか。時代であろうか、相手であろうか。それとも蓮如さま自身の信心によるのであろうか。
小面倒なことになって来たが・・・・ああそうか、ひょっとしたら、この問題が今日まで迷宮に入っていたのは、二つの事柄がこんがらがっていたからかも知れない。一体、本尊とは何をさす言葉であろうか。真宗学では、所帰[しょき]は名号か仏体かというのであって、本尊とは言っておられない。所帰とは帰依の対象ということであろうが、本尊は帰依の対象ということもあるが、また礼拝の対象ということにも使われている。礼拝の対象となる本尊は、帰依の対象を象徴したものでなければならないはずであるのに、この二つは違っていてよいものであろうか。ともあれこのことを念頭におきながら、もうすこし問題をはっきりさけてゆこう。
本尊も仏像が親しく所帰も仏の方が、人間の心理から言っても、また信心の道理からいっても、自然であるように思われるのに、なぜ礼拝の対象も仏像よりは名号が尊ばれ、帰依の対象も仏でなく、名体不二の名号としなければならぬのであろうか。
言うところの名体不二の名号とは、どんな事実をさしていうのであろうか。まさか仏がそのまま名となり、名はそのまま仏であると言うのでもあるまい。しかし中には「一こえ一こえの念仏がそのまま私となった仏である」と、半金色の善導の念仏が六体の仏となり、熊谷蓮生房[くまがやれんしょうぼう]の九遍の称名が、そのまま九体の仏の姿となったという例をひいて、称える心はそまつでも、出て下さる念仏が尊いと真顔で語っていた老人もあった。
名体不二の説明に、全体施名[ぜんたいせみょう]とか全徳施名[ぜんとくせみょう]と説かれている。全体施名とは、仏が六字の名号となって、名号の上に仏が現われているということであり、全徳施名とは、仏の全ての功徳が六字の名号の上にあたえられていると、説明されているが、どうも私たちには、もっと具体的に説明してもらわねば、その言われる意味内容が理解できぬ。昔の人はせっかちであったのか、それとも子供のようん、ちょっとした顔色やわずかな動作によって、相手の意中を察することが、今日の私たちよりも勝れていたのか、くどくどと説明することを、文句はいらぬとか、理屈を言うなときらい、言[こと]あげせぬことをむしろ誇りのようにして、以心伝心とか、感応道交[かんのうどうこう]といって、直観を尊ぶ風習があったようである。したがって師のさとりを追体験して、その極意を会得するためには、容易ならぬ苦労と、永年の修行を必要とした。それもただ永い年月と辛苦だけではなく、弟子の受信機によって、師のさとりがどうにでも受けとられる危険性があった。さきの老人を笑えない。それで師の教えが正しく伝えられているかどうかということよりも、弟子の一人ひとりの体験が重んぜられた事情が、この辺にもあったのであろうか。
名はものを示し現わす言葉であって、ものそのものではない。名と体は明らかに二つである。それが不二であるといわれるのは、山とか川とかいうような対象的な名であろうはずはなく、またたんに自覚をよび起こすという名でもないであろう。たとえば「わが名を称えよ」というひとことの中に、大悲の心が全現しているといっても、名は大悲心を現わしていても、大悲心そのものではない。また仏の名を称えれば、仏は我と共にあるとか、一念に仏の全ての徳があたえられるといっても、仏を他者として仰ぎ、浄土をかなたに見ているのでは、名体不二とも、名徳一如ともいえないであろう。それでは名は仏の存在を知らせ、功徳をあたえる、たんなる方法に過ぎぬことにならぬであろうか。
名体不二といえるのは、昔の宗学者が仏体即行[ぶったいそくぎょう]といっているように、仏自体が衆生の自覚を通して、名告り行ずることの外にはあり得ないであろう。すなわち名号はたんなる名前ではなく、親鸞のいうように、仏自らの「なのり、さけぶ」相であり、衆生において、常に仏自らを表現し具体化することではないであろうか。したがって名号に功徳があるのではなく、念仏する心にあるのであろう。もしそうであるならば、仏の名を称え、仏の徳を行じているそのことが、仏自らの顕現であり、それはそのまま仏体に帰依している事実ではないであろうか。
仏に帰依することをきらったのは、念仏の外に仏を求め浄土を願う、信仰の観念化をいましめるためではなかったであろうか。それとも逆に自らが、仏とはどこかにいる人間以上の力をもつスーパーマンと思い、浄土とは、自らが空想しているような世界が、宇宙のどこかにあると観念化していたために、よび声一つに重きをおいたためであるのかも知れない。それというのも、聖道仏教に対する往生浄土教が、もともと出家仏教の変形であったために、現実を軽視し無視して、ネハンとか空とかいう方向にひきずられて行った、その余波を受けて、仏や浄土を夢のように彼方に描いたからではないのであろうか。
一般信者の現実は、僧侶の学問とは違った方向を独り歩いている。たとえば僧侶の決めた規則では、本尊の前以外で経を読んではならぬということであるが、本山の事実は、祖師堂で読経しているではないか。また本尊をまつってある阿弥陀堂よりは、親鸞聖人をまつってある祖師堂の方が建物も大きく、行事もそこが中心となっている。また門信徒のものが本山に参ることを、「ご真影様へお礼をして来る」といって、本尊も「名号よりは絵像、絵像よりは木像」をとり、帰依の対象も名号ではなく、常に「仏さま」「阿弥陀さま」である。形を超えた真実は、常に人の上に形をとって働くものである。仏教は釈迦の徳において伝わり、真宗は親鸞という人を通して弘まっている。この生きた事実を無視して、形を否定し、ものを抽象化する方向をとって来た今日までの真宗学は、出発点からその在り方を改めねばならぬのではないであろうか。歴史的現実に根をおろさぬものや、それを無視するものは、何ものといえども、その存在は永く許されない。これは地上の千古の鉄則であるのだが。
本尊の前に坐って、いつも実際とくいちがって、独走し から廻りをしている真宗学に、何か納得のいかぬものを感ずるのです。
真宗の本尊としている仏像の両手は、何をあらわしているのでしょうか。
私がまだ小学校へ通うている頃でしたでしょうか。「仏さまはどうして両手をあのようにしているのでしょうか」と尋ねたら、いつも私の家へ遊びに来る、父の碁友だちが「お金をもって来い。お賽銭をあげーよと、いっているんだ」と、笑いながらいう。わたしはじょうだんだろうとは思いながらも、「地獄のさたも金次第」というが、仏さまでもお金が要るのかなあと、思ったことがありました。その後説教で、あの仏像全体が召喚[しょうかん]の姿であり、右の手は「来いよ、来いよ」、左の手は「必ず救う」ということをあらわしていることを聞きました。ところが真宗学を学んでいる中に、次から次へと、新たな不審がいろいろとわいて来ました。
第一に、右手は上求菩提[じょうぐぼだい]で、本願成就をあらわし、左手は下化衆生[げけしゅじょう]で、凡夫救済をあらわすものであり、右手のしもの三指[し]は三学を、かみの二指は円満成就を、そして左手のしも三指は三毒の煩悩を、かみの二指は円満具足をあらわしているといわれているのですが、まず右手です。三学とは戒定慧[かいじょうえ]のことであり、広くいえば六度のことですが、三学も六度もみな菩薩一般の行願であて、何も弥陀に限ったことはない。それではどこにも弥陀の特殊性はあらわれていないことになる。あの両手をもって弥陀印とされているのだから、両手の上に、他の仏と区別される、弥陀の特徴が出ておらねばならぬ。それは左手の三毒煩悩を具足している凡夫を救うというところに、あらわれているというかも知れぬが、そこにもまだ問題がある。右手を施無畏印[せむいいん]とよぶに対して、左手は与願印[よがんいん]と名づけられている。そうすると三毒の煩悩を具足するようにということになるが、ちょっとおかしい。また弥陀の本願は、煩悩具足の凡夫を助けたいという願いであって、衆生にその自覚を要求する願いをあらわしているのであるとしても、何かもう一つ「願いを与える」という意としっくりしないものがあるようである。
独り尊像を拝みながら、静かに五劫思惟[ごこうしゆい]のお意を憶う。右手は上求菩提、他の言葉でいえば願作仏心[がんさぶっしん]である。左手は下化衆生、それは度衆生心である。この両手をもって南無阿弥陀仏ということを表示しているいちがいない。そうとすれば右手で阿弥陀仏ということを、左手で南無ということを解説しているのではないであろうか。この眼をもって弥陀の本願を説く『大無量寿経』を見れば、その四十八願の中の信心の願には「至心信楽欲生我国」とある。親鸞はこれを「三心の願」とよび、この三心によって、その著『信の巻』に、親鸞独自の信境[しんきょう]を明らかにしている。そこには真宗念仏の信は「浄土の大菩提心」であると断じて、善導の『二河の譬[たと]え』を例証しながら、この三心を人間進化の三段階であるとしている。即ち凡夫から菩薩へ、退転の菩薩から不退転の菩薩へ、さらに仏位へと、三重の脱皮を遂げながら、本願力に導かれて、転入深化[てんにゅうしんか]してゆく菩提心の三段階であると説かれている。親鸞自らはこれを「三重の出体」という。この親鸞の教示によっても、左手の三指を、至心と信楽と欲生心の三心を象徴するものと見ることはできないであろうか。
また弥陀の特殊性としての本願成就の内容を尋ねてみれば、そこには弥陀自身と衆生と国土の三シュ【禾云】の荘厳が説かれている。これによって、願作仏心をあらわす右手の施無畏印は、自と他と浄土の三厳成就[さんごんじょうじゅ]を象徴するものといえぬであろうか。こうみて来るとあの弥陀印を結んでいる仏像全体が、法蔵菩薩の願心成就の南無阿弥陀仏のいわれをあらわしていることになるであろう。このことはまた泥田でなければ開かぬ蓮花[れんげ]の座の上に立っていることでも、了解できるであろう。さきに第二問において不審として提起した、右手の位置が、今の仏像よりも、胸の前で拝んでいる仏像の方が、宗義[しゅうぎ]にぴったりすると思ったことも、あながちに見当ちがいとはいえないのではないであろうか。
こうした浄土の菩提心である法蔵菩薩の願心を象徴したはずの仏像が、なぜ「大悲召喚[だいひしょうかん]の像[すがた]として説かれるようになったのであろうか。もともと浄土教はその名が示すように、土を浄める教え、すなわち環境社会を浄めることを通して、人間の成就をその願いとした仏教の根本精神を、その本領[ほんりょう]として来たものであった。しかもそれは自利と利他の人間関係の場においての人間完成を説く大乗仏教を、その内面に向かってさらに深めて生まれて来たものであったのが、現実を罪悪視し、この世を厭[いと]う出家仏教の影響を受けて、往生浄土教と変化したためではないであろうか。殊に日本においては、浄土教発生の当時、平安朝時代からすでに往生浄土教として発展して来ているのである。
そのためにか弥陀像も初期のものは、直立に近いものであったが、室町時代に入り、さらに江戸時代に来るにしたがって、その姿は一そう前のめりになり、右手は手首から外側に傾けられるようになっている。それらはすべて念仏宗が、往生浄土教ということに定着したために、弥陀の性格が菩提心から大悲召喚ということに変って来たからではないであろうか。
私は朝夕、本尊の前に合掌念仏しながら、足下の仏の座から始めて、仏像の一つ一つの相好[そうごう]を見上げながら、無見の頂相[ちょうそう]に至るまで、その一つ一つが何をあらわし何を教えているのであろうかと、この仏像を刻んだ仏師の心をおもい、またこういう仏像を最初に作った人の深い願いに、心の耳をすまさずにはおれぬのです。
島田幸昭 著『真宗開眼 二十の扉』より
私が足利先生からお聞きした話ですが、京都の高尾山の神護寺の一等の宝は、砂浜にあった只の石ころだったそうです。それは明慧上人が、仏教の退廃を歎いて、原始仏教の昔を慕い、仏跡を訪ねたいと、インドへ渡ろうと企てたが果さず、和歌山県の海岸に立って、遙か西の方を観めていたら、足元を海の波が洗っていた。ふとこの水は、その昔お釈迦さまが、ニレンゼン河で足を洗われた水かも知れぬと思われた。そこにあった小石、お釈迦さまの足を洗った水で洗われたかも知れぬ、その小石を拾って帰り、一生お釈迦さまお釈迦さまと、その小石を撫でられたということです。この明慧上人の仏教復興を願うご精神が染みついた石が、高尾山一等の宝となったそうです。そこであるすべてのものが宝からできているということは、存在するすべてのものが、自然存在としてそこにあるだけでなく、その一つ一つがそこに住んでいる人の人格を象徴し、歴史を物語っていることでしょう。またそういう象徴的存在であることを、それを見る人が感得して、それに喜びを感じ満足していることでしょう。たとい高価なものであっても、不平不満があったり、嫌な想い出のあるものは、真の宝ではありません。
島田幸昭 著『仏教開眼四十八願』32 より