平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

「正行」と「雑行」について

仏徳讃嘆を要にし、扇が大きく伸び伸びと開くような人生に

質問:

わたくし、真宗門徒の家に生まれ育ち、仏縁を喜んでいるものでございます。

よく御文章に、「もろもろの雑行をなげすてて」と蓮如上人が御教示になっていらっしゃいますが、雑行というものについて、教えていただけないでしょうか。

まだ右も左もわからぬものですが、よろしくお願い申し上げます。

返答

 宗教に行はつきものですが、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願っている者にとっては、如来より回向された称名念仏こそが「正行」であり、神や鬼を礼拝したり、様々な自力仏道修行や実践法は「雑行」(雑修)になります。また自力の念仏(現世・来世の福を祈る念仏)は、外見は同じでも、中身は「雑行」となります。

 自力が問題なのは、自分の浅い思い込みにひっかかり、本願力を妨げ、教条主義に陥らせがちなことです。自力は方便としては用いられますが、あくまで仮の行ですから、速やかに自力から他力への転換を願います。

 他力は常なる懺悔を生む仏心であり、自力を大きく包み込んでいます。本願力は私に生きる場と指針を与え、菩薩としての歩みをかなえる無限なるはたらきを示します。そしてこの功徳が名号(南無阿弥陀仏)に全て込められているので、これを称[たた]え心に深く刻むのです。

 聴聞・聞法によってこうした経緯を学び、念仏(南無阿弥陀仏)を称えようとする時、経典の内容は私や世界の導きであったと知られます。仏の功徳は私にに至りとどき、私を起点として十方に展開します。

 つまり、名号は仏の側からの南無阿弥陀仏、念仏は衆生の側の南無阿弥陀仏をいい、この機法一体の南無阿弥陀仏こそ浄土真宗の要めなのです。

◆ 御文章より

 ご質問にありますように、蓮如上人は「もろもろの雑行をなげすてて」という語をくり返し述べてみえます。そこで現代語訳をつけて御文章を味わってみましょう。

 そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、不思議の名言をつかひて、これこそ信心をえたるすがたよといひて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔の体に心中にこころえおきたり。そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。しかれば向後においては、まづ当流の真実信心といふことをよくよく存知すべきなり。その信心といふは、『大経』には三信と説き、『観経』には三心といひ、『阿弥陀経』には一心とあらはせり。三経ともにその名かはりたりといへども、そのこころはただ他力の一心をあらはせるこころなり。されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。かくのごとくこころえてののちは、弥陀如来の他力の信心をわれらにあたへたまへる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。これをもつて信心決定したる念仏の行者とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
   文明第五、九月下旬のころこれを書く云々。

一帖 13  より

▼現代語訳(蓮如の手紙/国書刊行会 より)
 さて最近は、当地の念仏者のなかで、あやしげな言葉を使って、これこそが信心をいただいた姿だといい、しかも自分は浄土真宗の信心をよくわかっているかのように、心中に思いこんでいる者がいます。
 その言葉ばによれば、「阿弥陀仏がはるかなる昔にさとりを完成された、その最初のときから、すでにわれわれの浄土往生を定めていてくださっているが、その阿弥陀さまのご恩を忘れないのが信心である」といいます。これは大きなあやまりです。
 そもそも、阿弥陀如来がさとりを完成されたいわれを知ったといっても、わたくしどもが往生するには、如来からたまわった他力の信心が必要のいわれを知らなければ、何の役にも立ちません。
 そこで今よりのちは、まず、わが浄土真宗でいう「真実信心」をよく承知すべきです。
 その信心とは、『大無量寿経』には「三信(至心・信楽・欲生=まことに疑いなく往生できると思う心)」と説き、『観無量寿経』には「三心(至誠心・深心・回向発願心=真実心・深く信ずる心・浄土を願生する心)」といい、『阿弥陀経』には「一心(疑いをまじえない心)」と表されています。三経それぞれにその名は異なっていますが、要をいえば、ただ阿弥陀如来からたまわった他力の信心を表しています。
 さて、それではその信心のすがたはどんなものかといえば、まず、もろもろの雑行を捨て去り、ただひたすらに阿弥陀如来におまかせして、そのほかの一切の神々や仏などに救いを求めようとせず、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従うならば、如来は光明をもってその者の身をおさめ取って、お捨てになりません。これがとりもなおさず、わたしどもが疑いなく如来に従う信心を決定したすがたです。
 このように心得たうえは、阿弥陀如来が他力の信心をわたくしどもに与えてくださった、そのご恩にお応えするお念仏である――と心得てください。これをもって、「信心の決定したお念仏の行者」と申すべきです。あなかしこ、あなかしこ。
  文明五年九月下旬のころに、これを書きました。

 このように「阿弥陀如来からたまわった他力の信心」、「ただひたすらに阿弥陀如来におまかせ」することが肝要で、「すでにわれわれの浄土往生を定めていてくださっている」というのは、他力の信心を得て初めて気が付くことなのです。信心の定まり無き人は往生が定まっている訳ではないので、自力に留まる者はこの利益を得る事はありません。
 しかし、自力も他力の導きですから、自力の人もやがて他力の深みに達することが適っていきます。これを「自然の法爾[じねんほうに]」といい、本願力の徳目とします。

「雑行」の記述は、御文章には多く見受けられますので、もう少し紹介しましょう。

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。

一帖 15 宗名章 より

▼現代語訳(同上)
 ところで、法然上人の流れを汲む浄土宗のうち、浄土真宗以外の諸派では、雑行を真実の浄土に往生する行として認めています。しかし、わが親鸞聖人はそのような雑行を選び捨てられました。このゆえに、阿弥陀如来のまします真実の浄土へ往生することができます。こういうわけで、親鸞聖人はとくに“真”の字を入れて、浄土真宗と仰せられたのです。


そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。

二帖 7 易往無人章 より

▼現代語訳(同上)
 さて、その信心をいただくためには、まったく知恵もいらず、学問もいらず、富貴も貧乏も関わりなく、善人も悪人も差別なく、男性も女性もちがいはありません。ただ、雑行を捨てて、真実の信心をもって称えるお念仏一つに落ち着くことを本意とするばかりです。


 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

五帖 10 聖人一流章

▼現代語訳(同上)
 親鸞聖人から伝わっているみ教えは、信心をもって、もっとも大切なこととされています。
 そのわけは、もろもろの雑行を行じる自力の心を投げ捨てて、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従うならば、人知でははかり知れぬ仏の本願力によって、仏のほうから人びとの往生を決定してくださるからです。
 それによってわたくしどもが入ることのできる位を、曇鸞大師の『往生論註』には、「一念発起入正定之聚(本願を信ずる心が起こったそのとき、往生が定まり、かならず仏となる者たちの位に入る)」とも註釈されています。
 さて、そのうえの称名念仏は、如来がわたくしどもの浄土往生を定めてくださったご恩にお応えするためのお念仏である――とお受け入れください。あなかしこ、あなかしこ。


 当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。

五帖 18 当流聖人 より

▼現代語訳(同上)
 わが浄土真宗の親鸞聖人がお勧めになっている信心は、少しも自分のはからいをまじえることはいりません。
 まずわが身の浅ましく罪の深いことをさいおき、もろもろの雑行や雑修をたのみとする自力の心を捨てて、ふたごころなく、「阿弥陀さま、み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」と疑いなくお従いするばかりです。
 するとそのような者を、十人は十人、百人は百人すべて、みな漏らさずにおたすけくださいます。

◆ 正定業と助業と雑行

 ところで、以上のように私たちが正定聚に住し浄土に往生する要を「真実の信心をもって称えるお念仏一つ」と定まるまでには、本来は深い経典理解と長い教学の積み重ねが必要でありますが、親鸞聖人のお示しがあってはじめて私どもにも理解と体得が可能となったものです。よき師に出会えたことはこれ以上ない喜びでしょう。

 仏教の歴史、特に浄土教の歴史の中で「浄土に往生するための行」としては、天親菩薩の『浄土論』に示された五種の行「五念門」が本質的には最も重要ですが、善導大師の『散善義』に説く浄土往生の行業「五正行」も行として参考となるものです。簡単に説明しますと――『五念門』では、礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門・回向門、『五正行』には、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養と示されていて(下の資料参照)、たとえば後者の『五正行』の中では、「称名」こそが「正定業」であり、後の「読誦・観察・礼拝・讃嘆供養」は「助業」になります。そして、この五正行以外のあらゆる行業は「雑行」と位置づけられています。

 つまり、仏徳讃嘆の想いから称名一行を修したり、称名一行を中心として五正行を相続する、ということが尊いのです。しかし同じように五正行を修しても、<自分の行によって覚りに至ろう>とか<死後を安楽に過ごすために行をする>というのでは雑行になってしまいます。もちろん五正行以外の行で浄土往生はかないません。

 私が覚りに至るには、覚りに至るだけの深い道理が必要で、またこれは取引や契約で得られるものではありません。称名念仏にはその深い道理「弥陀成仏のいわれ」が込められていて、修すれば必然的にその徳が私の内に至り、日々の暮しの中に仏の徳が外に開き、私も、そしていずれ周りにも知れることとなります。

 これは何か超能力や開運といった浅く迷いに満ちた力によるのではなく、また<他人より正しく良い人間になる>という思い上がりを助長するような力でもなく、出遭うこと全てが私の人生を花開かせてくれるご縁といただき、日々の煩悩に満ちた暮しの中にも浄土の息吹を感じることになるのです。すると、仏法が経典から現実に飛び出してくる。もっといえば、仏法が先回りして私を受け止めてくれていた。そういうことを、真摯に現実を生きる中で味わうことになるのです。

 そうした要が称名念仏であることは何度も申しましたが、極論をいえば、如来回向のこの要をいただき念仏する時、『五正行』はもちろん、様々な雑行さえも、結局は<如来のはたらきを我が人生に展開する深いご縁であった>といただくことができるのです。そうなった後は、雑行は捨てる必要もなく自ずと正行に転じられ、念仏を要として「五正行」の扇が大きく伸び伸びと開く人生になっていきます。

 逆に信心にかなった称名念仏という要を尊く思わず、「五正行」を同列に考え修してしまうと、例えば教えが凝り固まり、自分の人生の幅を狭めてしまうことになります。これは実際に数多くの人が今も陥っているのですが、自分が雑行を修していると気づかないまま、対象化し方程式化した教学にかじりついているのです。

 教えを対象として学ぶ危険性は、カルトの例を見るまでもなく、宗教戦争の歴史が証明しています。「私こそを済度するための法であった」という味わいの無いところに、あらゆる宗教は虚しく、時として暴力の温床になります。これは念仏も同様で、救いを既成事実としてみるのは避け、<如来の功徳に育てられる私>をつねに味わう中で行を修し、教えを学ぶ縁を深めていただきたいと思います。

◆ 資料

 以下、「正行」と「雑行」等について、『浄土真宗聖典(註釈版)』、『真宗新辞典』、『浄土真宗の教え』より関連する文を引いておきますので、今後の勉強の参考にして下さい。

ぞうぎょう【雑行】
雑は邪雑、雑多の意味で、本来は此土入聖の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土の業因であるとされている。正行に対する。
ざっしゅ【雑修】
いろいろの行を雑えて修し純一でないこと。専修に対する語。
[1]雑行を修すること。
[2]五正行中の正定業(称名)と助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)を同格にみなして修すること。
[3]行は正行であっても、修する心が自力心である場合。
[4]専ら念仏を修しても、そのことをもって現世の福利を祈る場合。
ぞうごう【雑業】
専修念仏以外の雑多な行業。自力の雑行。
→参照 P389 段落2
→参照 P1002 段落2
ざっしゅぞうぜん【雑修雑善】
自力心で修するさまざまな善。
→参照 P197 段落1
よぎょう【余行】
他の行。雑行。
→参照 P1378 段落3
じょしょうけんぞうのしん【助正間雑の心】
正定業と助業のいわれがわからず、念仏だけでは往生できないと疑い、助業をはげむ心。自力疑心のこと。
→参照 P399 段落3
じょうさんろくしゅけんぎょう【定散六種兼行】
五正行の第五讃嘆供養を開いて六種とし、この六行を自力心をもって雑え修することを六種兼行といい、雑修の部類に属する。
→参照 P531 段落2
ごねんもん【五念門】
阿弥陀仏の浄土に往生するための行として、天親菩薩の『浄土論』に示された五種の行。
<1>礼拝門。身に阿弥陀仏を敬い拝むこと。
<2>讃嘆門。光明と名号のいわれを信じ、口に仏名を称えて阿弥陀仏の功徳をたたえること。
<3>作願門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。
<4>観察門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳を思いうかべること。
<5>回向門。自己の功徳をすべての衆生にふりむけて共に浄土に生れたいと願うこと。またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五功徳門として示されている。親鸞聖人は曇鸞大師の『論註』を通して、これら五種の行が、すべて法蔵菩薩所修の功徳として名号にそなわって衆生に回向されるとみられた。
らいはい【礼拝】
梵語ナマス・カーラの漢訳。仏や菩薩に対して、恭敬・信順の心をもって敬礼すること。『浄土論』には五念門の一に、「散善義」には五正行の一に数えられている。
さんだん【讃嘆(歎)】
仏徳をほめたたえること。五念門の一。
さがん【作願】
[1]願いをおこすこと。往生をねがうこと。五念門の一。
[2]衆生救済の願をおこすこと。
→参照 P242 段落1
さがんもん【作願門】
五念門の一。
→参照 P157 段落1
さんねんもん【三念門】
五念門中の礼拝門・讃嘆門・作願門のこと。
かんざつ【観察】
五念門・五正行の一。
→ごねんもん
→ごしょうぎょう
ししゅのもん【四種の門】
五念門の中の礼拝・讃嘆・作願・観察の前の四種の行を指す。
→参照 P154 段落2
→参照 P190 段落3
えこう【回向】
梵語パリナーマナーの漢訳。回はめぐらすこと。向はさしむけること。自ら修めた善根功徳を、自らのさとりのためにふり向ける菩提回向、他の人人を救うためにふり向ける衆生回向、空真如の理にかなっていく実際回向の三種の回向がある。
[1]阿弥陀如来が、本願力をもって、その功徳を衆生にふり向けられることをいい(本願力回向)、その相に往相回向と還相回向との二種の回向があるとする。
→補註12
[2]死者のためにする追善(追善回向)。
[3]五念門の一。
だいごもん【第五門】
五念門の第五、回向門のこと。
→参照 P154 段落2
→参照 P190 段落4
らいはいとうのごしゅのしゅぎょう【礼拝等の五種の修行】
五念門をいう。
→参照 P325 段落4
ごしゅのもん【五種の門】
五念門のこと。
いっしん【一心】
[1]本願を信じて疑わず、二心のないこと。
[2]天親菩薩の『浄土論』に、「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来」とある一心のこと。天親菩薩が自らの信心の相をあきらかに述べられた詞で、「信巻」にはこの一心と『大経』に説かれる至心・信楽・欲生我国の三心との関係を論じて、「三心即一心」であるとする。
さごう【作業】
行業を作すこと。安心・起行に対する語で、五念門あるいは五正行等の修し方のこと。すなわち、恭敬修・無余修・無間修・長時修の四修を指す。
ごしゅのくどく【五種の功徳】
五念門の行を修めることによって浄土に往生して得るところの果で、五功徳門、五果門ともいう。
<1>近門。礼拝によって仏果に近づくこと。
<2>大会衆門。讃嘆によって浄土の聖者(阿弥陀仏の聖衆)の仲間に入ること。
<3>宅門。作願によって止(奢摩他)を成就すること。
<4>屋門。観察によって観(毘婆舎那)を成就すること。
<5>園林遊戯地門。回向によってさとりの世界から迷いの世界にたちかえって、自在に衆生を教化・救済することを楽しみとすること。『浄土論』では、はじめの四果を菩薩の入門(自利)、第五果を還相の出門(利他)とするが、親鸞聖人は「証巻」において五果すべて還相の益とされている。
ごんもん【近門】
五功徳門の一。
→ごしゅのくどく
→参照 P546 段落4
たくもん【宅門】
五功徳門の一。
→ごしゅのくどく
→参照 P547 段落1
おくもん【屋門】
五功徳門の一。
→ごしゅのくどく
→参照 P547 段落3
おんりんゆげじもん【園林遊戯地門】
五功徳門の一。 →ごしゅのくどく
しゅつだいごもん【出第五門】
五念門の果として五功徳門を説く中、その第五門である園林遊戯地門のこと。出は利他教化(衆生を教化し救済する活動)に出ることをいい、自らさとりを得て仏の境地に入る入門に対する。出第五門とは、さとりの世界より迷いの世界に再びたちかえって、自由自在に衆生を救済することを楽しみとすること。
しんぎょう【心行】
[1]心根。志。心のはたらき。
→参照 P13 段落5
→参照 P465 段落3
[2]一心帰命の信心に五念門の行徳が具わっていること。
→参照 P583 段落6
みょうらくしょうしんしん【妙楽勝真心】
行者が五念門を行じて得る自利利他円満の真実心で、浄土の最勝の真実の徳(妙楽勝真)にかなう菩提心のこと。親鸞聖人はこれを法蔵菩薩によって成就された心と見なし、他力信心に具わる徳であるとされる。
→参照 P330 段落4
→参照 P548 段落4
いっしんのかもん【一心の華文】
一心の信心を説いた名文。天親菩薩の『浄土論』を指す。
→参照 P209 段落3
おうそうのいっしん【往相の一心】
他力信心。阿弥陀如来よりたまわった信心のこと。信心は二心がないから一心という。
→参照 P255 段落2
おうそうのしんぎょう【往相の心行】
往生の因として、仏より回向された信心と念仏。
→参照 P482 段落2
ごしょうぎょう【五正行】
善導大師の「散善義」に説く浄土往生の行業。
<1>読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
<2>観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
<3>礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
<4>称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
<5>讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。この五正行をさらに正定業と助業に分ける。
しょうじょうごう【正定業】
正しく衆生の往生が決定する業因。善導大師は阿弥陀仏の浄土へ往生する行として五正行をあげ、その中第四の称名は、本願の行であるから正定業とされる。
じょごう【助業】
[1]五正行の中で、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆供養は、称名の助となり伴となる行業であるから助業という。
[2]六種兼行の場合は称名も正定業としての地位を失って助業と同格になるから、六行すべてを助業という。
→参照 P531 段落2
しょうじょぞうのさんぎょう【正助雑の三行】
五正行のなかの正定業(称名)と助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養)、および雑行(五正行以外のあらゆる行業)。
→参照 P392 段落3
じょしょう【助正】
助業と正定業のこと。
→参照 P590 段落1
しょうぞうのふんべつをききわく【正雑の分別をききわく】
他力の正行と自力の雑行をはっきりと聞きひらく。自力をすてて他力に帰すべき道理を聞きひらく。
→参照 P1085 段落1
どくじゅ【読誦】
経典の文字を見て声を出してよむのを「読」、文字を見ないで声を出してよむのを「誦」という。とくに大乗経典を読誦するのを読誦大乗といい、浄土教では、浄土の経典を読誦するのを読誦正行とし、それ以外の経典を読誦するのを読誦雑行とする。
せんじゅ【専修】
[1]称名一行を修すること(他力)。
[2]称名一行を中心として五正行を相続すること(他力)。
[3]自力心をもって五正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)のうちの一行を専ら修すること(自力)。
せんじゅしょうぎょう【専修正行】
もっぱら念仏の正行を修する意で、自力を離れてただ念仏をする浄土真宗の宗義をいう。
→参照 P1068 段落2
→参照 P1271 段落1
きぎょう【起行】
実践すること。行為。安心に対する語。信心にもとづき、身・口・意の三業に起す礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門、または読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行をいう。
せんじゅねんぶつ【専修念仏】
専ら念仏のみを修し、他の行を修めないこと。
ねんぶつざんまい【念仏三昧】
心静かに専ら念仏を修すること。一般には仏の相好や功徳を心におもい観る観仏のこととするが、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じて、一心に名号を称する他力念仏のこととされる。
ふたごころなく【ふたごころなく(二心なく)】
一心に。疑いなく。
→参照 P643 段落3
→参照 P708 段落2
→参照 P1420 段落3
ねんぶつ【念仏】
仏を念ずること。真如を念ずる実相の念仏、仏のすがたを心におもい観る観想の念仏、仏像を観ずる観像の念仏、仏の名号をとなえる称名念仏などがあり、聖道門では実相念仏を最勝とし、称名念仏を最劣とみる。しかし浄土門では、称名は、如来の本願に往生行として選びとられた本願の行であって最勝の行であるとみなされている。
さんけん【三遣】
雑行をすてて、正行(念仏)を行じ、異学異解の乱れたところを去ること。
→参照 P523 段落1
いちねん【一念】
[1]極めて短い時間。一瞬。六十刹那、九十刹那、あるいは一刹那を一念という。
[2]信の一念。信心を獲得したそのはじめ、つまり阿弥陀仏の本願のいわれを聞きひらいた最初の時をいう(時剋の一念)。また、一心に阿弥陀仏をたのんで二心のないことを指していう(信相の一念)。
→補註07
[3]行の一念。念は称念の意で、一声の称名念仏のこと。大行が衆生の上にあらわれる初一声の称名をいう(遍数の一念)。また、ただ念仏して他の行をならべ修しないことをいう。(行相の一念)。
[4]ひとおもい。
いちねんいっしん【一念一心】
一念は信心のおこった最初の時、一心は二心(疑い)なく阿弥陀仏の仰せにしたがう信心のこと。
→参照 P1242 段落3
いちねんおうじょう【一念往生】
[1]信の一念に浄土往生が決定すること。
[2]一声の称名念仏に往生の業因が円満していること。
いちねんかんぎ【一念歓喜】
疑いなく、往生せしめられることをよろこぶこと。
→参照 P585 段落1
いちねんかんぎのしんじん【一念歓喜の信心】
本願を聞いて二心なくよろこぶ信心のこと。親鸞聖人は、一念とは信心を得る時のきわまり、歓は身を、喜は心をよろこばせることといわれている。
→参照 P961 段落3
→参照 P1027 段落2
いちねんきあいのしん【一念喜愛(の)心】
一念の信心の内容をあらわす。すなわち阿弥陀如来の救済を喜び愛でる心。
→参照 P203 段落6
→参照 P672 段落1
→参照 P1014 段落2
いちねんきみょうのしんじん【一念帰命の信心】
他力の信心のこと。信心は阿弥陀如来の勅命に二心なく帰依信順することであるから一念帰命という。
→参照 P1222 段落3
いちねんきょうき【一念慶喜】
二心なく、疑いなく所聞の法をよろこぶこと。
→参照 P672 段落1
いっこういっしん【一向一心】
他の仏や余行に心をかけず、もっぱら阿弥陀仏を信ずること。
→参照 P1085 段落1
→参照 P1114 段落1
→参照 P1180 段落3
→参照 P1194 段落3
いっこうしゅう【一向宗】
元来は時衆(宗)の呼び名であったが、浄土真宗が、阿弥陀一仏に帰命するので、他宗から浄土真宗の俗称として用いられるようになった。しかし蓮如上人は、一向宗という呼び方は決して浄土真宗の側から言わないと誡められている。一向衆(時宗一向派)との混同もみられる。
いっこうせんじゅ【一向専修】
阿弥陀一仏の本願を信じて、ひとすじに専ら念仏の一行を修すること。
いっこうせんねん【一向専念】
専ら阿弥陀仏の本願を信じて、専らその名号を称念すること。一向専修と同意。
いっしんいっこう【一心一向】
他の仏や余行に心をかけず、もっぱら阿弥陀仏を信ずること。
→参照 P1099 段落2
→参照 P1108 段落2
→参照 P1137 段落2
→参照 P1189 段落1
→参照 P1366 段落2
いっしんしょうねん【一心正念】
第十八願文の三心十念のこと。一心とは他力の信心のこと、正念とは称名念仏のこと。
→参照 P493 段落4
いっしんせんねん【一心専念】
阿弥陀如来の本願を信じてもっぱら称名念仏すること。
→参照 P251 段落1
→参照 P1373 段落2
こくねんして【剋念して】
一心に。専心に。
→参照 P628 段落2
せんしょう【専精】
一心にはげむこと。
→参照 P58 段落1
→参照 P588 段落5

『浄土真宗聖典(註釈版)』より


しょうぎょう 正行〔雑行〕
1正しい実戦.まさしく直接の原因となる行為.雑行,助行,邪行に対する.
(ア)浄土真実の行であり選択本願の行である称名念仏のこと.「弥勒付属の一念は即ち是れ一声なり,一声即ち是れ一念なり。一念即ち是れ一行なり,一行即ち是れ正行なり,正行即ち是れ正業なり,正業即ち是れ正念なり,正念即ち是れ念仏なり,則ち是れ南無阿弥陀仏也」〔行〕.
(イ)まさしく往生浄土の因となる実践をいう.善導は,
  1. 浄土経典を読誦する読誦正行,
  2. 弥陀とその浄土の相を心にうかべて観ずる観察正行,
  3. 弥陀を礼拝する礼拝正行,
  4. 弥陀の名号をとなえる称名正行,
  5. 弥陀の徳をほめたたえ弥陀につかえる讃歎正行
を五種五行(五正行)とし,この中,第4の称名正行は弥陀の仏願に順ずるから正定之業と名づけ,読誦等の前三後一を助業とし,これら正助二行(正行と助行)を除くすべての諸善を雑行とする〔散義〕.(五正行の第5を讃嘆と供養とにわけて六正行ということもある).

親鸞は,正とは五種五行,助とは選択本願の行である名号以外の五種,雑とは正助を除く以外のすべての行とし,雑行というのは,聖道門における諸善万行をおさめ,五正行に対すると五種雑行であり,それは人間に生れる因や天上に生れる因,あるいは菩薩の行などさまざまな解行がまじっているから雑であり,本来は浄土往生の因種でないが,心をめぐらしひるがえして浄土に向う廻心廻向の善であるから浄土の雑行というとする.
また,雑行を修するにあたり,一善を専らにするのが専行,諸善を兼行するのが雑行で,廻向を専らにする専心と定散の心がまじる雑心とがあるから雑行の中に雑行雑心・雑行専心・専行雑心があり,正行の正助二業について専修と雑修があるから正行の中に専修専心・専修雑心・雑修雑心があって,この専修は弘願他力の専修ではなく,方便の定専修・散専修であり,雑修とは助正兼行することとする〔化本〕.
また正雑二行について,それぞれ定行と散行,念仏と観仏があり,正行定心念仏と正行散心念仏との弥陀定散の念仏は浄土の真門で一向専修と名づけ,正の観仏に真観と仮観の2種,定の散行に読誦・礼拝・讃歎・供養の4種があり,定散六種を兼行するのは雑修で助業と名づけ,方便仮門,浄土の要門であるとする.
また,諸仏定散の念仏は雑中の専とし,雑の観仏は無相離念・立相住心,雑の散行は三福であって,これらすべての定散諸善は人天・菩薩等の解行がまじるから雑行と名づけ,それは浄土の業因ではないが,浄土に往生するための発願の行・廻心の行であるから,浄土の雑行といい,浄土の方便仮門,要門とし,聖道・浄土・正雑・定散はすべて廻心の行であるとする〔愚鈔〕.
(ウ)邪行に対する.「正信正行正発心の人」〔大集経――化末〕.「家を出でたる三乗正行の伴」〔法界次第――化末〕.
(エ)→正因〔正行〕
(オ)六正

(2)準備を方便,実行を正行という.阿闍世の悪逆について「前方便を悪と為し,後正行を逆と為す」〔定義〕.

『真宗新辞典』法蔵館 より


真実の行
 親鸞聖人は「行」の左訓に「おこなふとまうすなり」(同700頁)といい、また「真実の行業(ギョウゴウ)あり」(同625頁)ともいわれているから、行とは「おこない」のこととみられていたことがわかる。もちろんその「おこない」は、それによって無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地にいたることのできるような徳をもった「おこない」であることはいうまでもない。『大経』に説き示された本願の名号には、如来の大智大悲の徳のすべてがこもっていて、それをいただいて称えるものの無明(ムミョウ)の闇を破り、往生成仏の志願を満足せしめていく。こうした偉大な、すぐれた行業であるから、本願の念仏を「大行」とたたえられたのである。
 「行文類」のはじめに、
「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光(ムゲコウ)如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満(ゴクソクエンマン)す、真如一実(シンニョイチジツ)の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり」(同141頁)
といって如来より回向された称名の徳をたたえ、それが大行といわれるゆえんを明らかにされている。称名は、私どもの口に現われているが、決して私のはからいによって行う私の行ではない。大悲の願によってめぐみ与えられた如来回向の行であり、さらにいえば如来そのものが称名の声となって煩悩のまっただ中に顕現しているような行なのである。その一声一声は、妄念(モウネン)煩悩にたぶらかされて人生のよるべを失い、迷いつづける私をよびさます大悲招喚(ダイヒショウカン)の勅命(チョクメイ)なのである。こうして称名は、よく私どもの生死の惑いを破り、人生の意味と方向を信知せしめ、人生にまことの実りと安らぎをもたらすから「真実の行」というのである。『歎異抄』に、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常(カタクムジョウ)の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(同853頁)
と述懐されたゆえんである。
真実の信
 信とは、「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(同678頁)といわれているように、南無阿弥陀仏というみ名にこめられている本願のいわれを疑いをまじえずに聞きうけている状態をいう。第十八願に「至心に信楽してわが国に生れんと欲え(まことに疑いなくわが国に生れることができるとおもえ)」(同18頁)と願われたみことばを、おおせのとおり、疑いをまじえずに聞いていることを信楽とも信心ともいうのである。それゆえ本願には「至心、信楽、欲生」と三心が誓われているが、わたしの受け心をいえば、疑いなくおおせにしたがっている信楽一心のほかにないといわれる。すなわち行は念仏一行、信は無疑の一心であって、一心をもって一行を専修(センジュ)するという一行一心を如来より回向されていることを喜ぶというのが聖人の行信の基本形態であった。
 さて聖人は欲生釈のはじめに「如来、諸有の群生(グンジョウ)を招喚したまふの勅命なり」(同241頁)といわれている。生死を超えた彼岸の浄土から、大悲をこめて招喚しつづける本願のみことばをうけいれ「まことに、疑いなく浄土へ生れることができるとおもう」ことを信心というのである。その信心は、たしかに私の心のうえに開け発っている事実にちがいない。しかし、それは私の想念が作り上げたものではなく、私を浄土に生まれさせようとする如来の大悲心が、言葉となって私のうえに響きこんでいるほかにはない。これを如来より回向せられた信心というのである。こうして信心の本体は、如来の大悲心であり、仏心であるから、よく往生成仏の因種となるというので「信文類」の信楽釈には、「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」(同235頁)といい、信心正因(シンジンショウイン)説を確立していかれたのであった。
 こうして本願のみことばを、はからいをまじえずにうけいれ、信心が開け発ったとき、如来は大悲の光明のなかに摂めとり、決して見捨てたまうことのない摂取不捨(セッシュフシャ)の利益(リヤク)をたまわる。そのことを『親鸞聖人御消息』第一通(同735頁)には、
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」
といい、信心がはじめて起った信の一念に、煩悩具足の凡夫であるままで、仏になることに正しく決定している聖者の部類、すなわち正定聚(ショウジョウジュ)の位にいれしめられるといわれたのであった。これを信一念の現生(ゲンショウ)正定聚説といい、聖人の教説の特色の一つである。

『浄土真宗の教え』梯 實圓 より



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