平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

災害と運命論の問題点

― 痛ましい無常の道理から何を学ぶのか ―

質問:

ある質問に対する返答を読ませて頂きましたが、人間だけでなく、この世に、生きとし生けるものも含めて個々の力量では如何様にしても避け難い危険な境遇に直面する時が多々あります。即ち突然、事故に遭う、インド洋津波でも、あっという間に15万人もの人命が亡くなってしまう事実、己の計らいではどうすることも出来ない。このことが正に運命とか、宿命ということでしょうか。なかには大波にのまれて10日ぶりにひとり生還する人、この差異は何でしょうか。
人智を超えたこのような事実を観ると、大いなるものの前には、人が如何に力んでも及ぶことの出来ない現実。それでも人は、各々の力量で、精一杯、個々の心身の機能をフルに使って人事を尽して生きようとしている健気さ。この世には石のかけらでも、ひとつとして同じものはない事実。夫々全てのものが、宿業のなかで、一人一人が生かされているということでしょうか。しかし、このような現実を現実として受け入れることの難しさ!それが人生なのでしょうか。この世で、短命であろうと、長命であろうと、この世に名を遺そうと、遺すまいと、所詮、色即是空?でしょうか。

返答

{「運命」と「宿命」・「宿業」について}の「返答2」についてのご意見ですね。この中で、<仏教は「運命は変えられる」という信念で、我と相手と世界の変革に励むことを説きます>ということに対する疑問点なのでしょう。

 これは宗教的動機、つまり「何を求めるか」の違いによって世界の在り方そのものが違ってくる、という基本をおさえておかないと了解できない問題でしょう。<夫々全てのものが、宿業のなかで、一人一人が生かされている>ということは、これは縁であって、本当は「生かされているこの人生をどう生きるのか」という因、つまり宗教的動機が重要なのです。
 因が三界(つまり欲界の六道や色界・無色界)の個人的充足に留まっていたのでは、仰る通り運命に支配される人生となってしまいます。無明・我執によって作った文明は脆く、際限ない欲望の充足のみを求めれば、誰もが最期は絶望の淵で死んでいかねばなりません。
 しかし、菩提心(求道心)を因とすれば、諸行無常の事実が道理となり、教法として自覚となり、求道心がさらに金剛の求道心となり、コミュニティーのあり方に方向性を見出すなど、社会的活動が自己実現を見出す場につながっていきます。

明日ありと思う心の仇桜[あだざくら] 夜半[よわ]に嵐の吹かぬものかは

範宴(後の親鸞)9歳得度時の歌 より

 諸行は無常であり、老少も不定の境であります。「運命は変えられる」という先の返答は、この道理まで変えられるという意味ではありません。<己の計らいではどうすることも出来ない>ことは沢山あります。しかし、この諸行無常・老少不定の事実をどう受け入れ展開するのか、ということにおいて「運命は変えられる」もしくは「運命は自ら生み出してゆく」のです。具体的には、菩提心と供養と浄土建立において清浄・荘厳のはたらきを展開することをいいます。

 外道の運命論を批判

 諸行無常の道理を、「どうせ無常の世だから」とか「これが運命であって、逃れることができない定めに従っただけだ」と、わが身や衆生の行く末を運命のせいにすれば、それはそれで説明がついてしまいます。このことは当サイトでは、{六師外道}{六師外道の思想について} において紹介しておりますが、マッカリ・ゴーサーラ(宿命論的自然論)の説がこれに当ります。
 釈尊在世当時、マッカリ・ゴーサーラ以外にも、プーラナ・カッサパ(道徳否定論)、アジタ・ケーサカンバラ(唯物論、快楽論)、パクダ・カッチャーヤナ(無因論的感覚論、七要素説)、サンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論、不可知論)、ニガンタ・ナータプッタ(自己制御説、ジャイナ教開祖)という6人の代表的な自由思想家がマガダ地方を中心に活躍していましたが、ある意味、今の私達の思索においても一度は推論として上がってくる思想です。これらの推論をどう見るのか。今回の災害を理法として受け入れれば、そこに何が見えてくるでしょう。

 仏教では一切の存在を法といっているが、法(dharma)という語は「持つ」「ささえる」等の意味をもつ語根 √dhri から来たもので、保持、法則、規範等の意味をもっている。この語の用例は極めて古く、ベーダにも既に使われているので、もとより仏教特有の言葉ではない。しかしこれが一たび仏教の用語として採用されると、一層深くかつ広い意味を含むようになっているが、これを総括すると、理法と教法との二つに大別することが出来る。その一は自然にそなわる法則としての法であり、その二は仏陀の教説としての法である。理法は自然の大道、すなわち真理であるが、それが人生に意味をもつためには、その法が自覚されなくてはならぬ。ここに仏陀の成道による法の自覚が意味をもってくるのであり、仏陀によって悟られた法(真理)が、その金口を通して語られたところに、教法もまた真理を伝えるものとして価値をもつのである。

龍谷大学佛教学会編/百華苑刊『佛教要論』1−4 より

 釈尊は六師外道をどう論破したのか。実は客観的視点で論破するのではなく、「よりよく生きる」という菩提心・宗教的視点でこれらを批判しているのです。「全ては変えられぬ運命だ」と見たり、「全ては偶然によっておこる」と見れば、よりよく生きようとする努力は無駄になり、生き甲斐を失ってしまいます。運命論を信じれば、災難を「仕方ない」とあきらめることはできますが、そこから立ち上がる本当の力を発揮することはできません。
 釈尊はこうした説を批判し、すべては内因と外縁によって結果が生じる、と説かれました。これが「因縁生起」で、「因」つまり内的な直接原因と、「縁」つまり外的な間接原因によって結果が生まれる。金銭的欲望を因とすれば金儲けの縁が見えてくるし、道徳的希求を因とすれば道徳的問題が現前してくる。そこで、覚りを求める心を因とすれば、この世一切の事柄が覚りに至るべき縁となって道が見えてくるのです。真実を求める心(これを信心といいます)が充足すれば、真実は真実の側から回向(行者にふり向けられる)され、私達の生活態度になります。
 災害という縁も、求道心を因として見ると、諸行無常を受け入れて法となり、自覚となり、智慧と慈悲と功徳が生まれます。しかし、欲望を因としたり、霊魂的邪説に固執すれば、諸行無常の事実が正しく受け入れられず、運命論に走ったり、偶然論に迷ったりして道が見えません。

 浄土真宗では、この因を如来の四十八願に置き、一切衆生の生命とともに歴史や社会を根底でささえ貫く法蔵精神を見出してきました。阿弥陀如来の本願を因としてこの世一切を見れば、理法が教法として自覚されてきます。未曾有の災害という現実も、本願を因として自覚させていただけば、私達には教法としての道が見えてくるのであり、時機に応じた一筋の道(衆生の数だけある一本道)を歩むことができるのです。

 供養ということ

 次に、供養という面からお話をさせていただきますが、先日、ご縁の寺院からメールマガジンが配信されまして、参考になるお言葉がありましたので紹介させていただきます。

ニュース等で皆様もご存知のことと思いますが、毎年その一年を表す漢字一文字を発表する京都・清水寺で、昨年末発表されたのは、「災」。天災だけでなく、人災の多発を理由に選ばれたこの一字を、森清範貫主がしたためられました。
しかし、その後にスマトラ沖地震が甚大な被害を引き起こしただけでなく、アメリカ・カリフォルニア州やイギリス、スウェーデン等でも大規模な異常気象が発生しており、「災」の模様は世界に広がっています。

災害は一過性のものではなく、二次災害・三次災害をも引き起こします。また、地球規模に渡るこれらの現象の原因・解決策を、一人一人が自分の問題として考え、全員が協力しなくてはならない時代が来ていると考えざるを得ません

昔から、酉年は良いことが起こる飛躍の年ととも言われることもあるようですが、大きな飛躍よりも、まずは自分の足元をしっかりと見つめなおすことから始める一年としたいと思います。

メールマガジン『一行寺(いちぎょうじ)』第25号 2005/01/12 より

 災害にも天災と人災があります。衆生が長らく体験してきた災害は天災が主でしたが、人類がここまでの歴史を経験し、社会をここまで造り上げ、国際的に広げた上は、天災もまた人災と言わざるを得ない時代になりつつあります。様々な道理を地球規模で、またはるか時代を遡ったり未来予測が為され<現象の原因・解決策>が探られることで、<一人一人が自分の問題として考え、全員が協力しなくてはならない時代が来ている>のでしょう。かつては国王など一部の権力者が考え、人々はそれに従っていただけですが、いよいよ全ての人が、かつて国王が背負っていたような責任を引き受けていかねば、文明が崩壊しかねないのです。これは、皆が人類の歴史を背負い、先祖の智慧を敬うことでかないます。

 今回の津波被害においても、「異常な引き潮を見たら山へ逃げなさい」という先祖からの言い伝えを尊んでいた地域では、人命の損失は少なくて済みました。先祖供養が利益を生んだ具体例と言ってもよいのではないでしょうか。{一万年の旅路}というネイティヴ・アメリカンの口承史にも、先祖の智慧を生かして難局を乗り切っていく話がいくつも載っています。
 比べて、要職を務める人が警告情報を無視した地域や、先祖の警告が伝承されていない地域の人々は、警戒が皆無であったため被害が拡大してしまいました。歴史を深く学ばなければ、先人たちの智慧が生かされず、先祖のつまづきを繰り返し行なってしまいます。

 では今の私達はどうでしょう。心の中で今回の津波被害を、私たちとは関係ない遠くの地域でおきた災害、とは見ていないでしょうか。「日本は護岸工事が進んでいるし、警報システムも充実している」という思い込みです。しかしこの津波を対岸の火事に思っていれば、これは供養の反対で殺生をしたことになります。殺生とは、相手のいのちや心を無視することです。「かわいそう」と思う中に、同朋としての気持ちがなければ、上座に坐っての哀れみの感情に過ぎず、心通わせあうことはできません。殺生すれば地獄、供養すれば浄土。これは即のことで、殺生が地獄そのもの、供養が浄土そのもののあり方です。
 つまり現在・過去・未来の三世一切の諸仏を供養することがかなう場を浄土というのですが、今いる全ての衆生・先祖一切の衆生・未来に生まれるであろう衆生の真心を尊び、全ての智慧を敬って、一人一人全ての人が自分の問題として引き受ける。こうした態度が浄土に生まれた菩薩には具わります。
(参照: {供養諸仏の願} {供養如意の願}

 これはひとり浄土の宗門だけではありません。例えば、とある臨済宗のお寺で頂いたのですが――

いまあるものを生かしきる

  ――こころの闇を照らす――(少欲知足)

[暗闇はなくならない]
 蛍光灯をつければ、漆黒[しっこく]の夜も昼のように明るくなります。太古から、当然のようにあった暗闇は、わたしたちの身のまわりにはあまり見あたらなくなりました。そのかわり、夜の世界で居所をなくした暗闇は、こころの中に住みつくようになりました。心の闇は、貪りや、いかりとなって、とうてい理解しがたい、悲しい争いを増加させ、明るかった昼の営みを蝕[むしば]んでいます。しかし、闇があるからこそ、明かりのありがたさに気づけるのです。その暗闇の存在に気づいていかねばなりません。
 「水はよく船を浮かべ、また船をくつがえす。薬よく病を癒し、また身命を害す。万般ことごとくしかなり。」――慈雲尊者(1718〜1804)『人となる道』。水の上には船を浮かべることができるが、水はまたその船を転覆させる。薬も病を療ずることができる半面、命を損なうこともある。すべてのものはことごとくそのようなものである。わたしたちは、便利であることを当り前のように享受しています。しかしその裏で、限りある資源が底をつき始め、自然の営みがバランスを崩し始めているのです。すべての事象[じしょう]は表裏一体であるから、そのことをよく認識して生活しなさい、と慈雲尊者はおっっしゃるのです。
[先人の願いをおもう]
 そこで、この豊かな時代を少しでも長く引き継いでゆくために、どのような心がけが必要なのでしょうか。それはまず、文明の進歩に貢献してきた先人たちの「皆が少しでも幸せに暮らせるように」という願いをおもうことです。生活用品すべてに、簡単には捨てられないほどの願いがつまっているのです。そして地球上のあらゆるものが、身を削ってその願いに協力してくれていることにも気づかなければなりません。電球一つに流れる電気にも、先人の願いと、宇宙に生きる地球のはたらきがつまっている、だからこそ大切に使ってあげないといけないのです。
[工夫すること]
 「ものには命が宿る」といいます。すべてのものに、先人の願いと地球の恩恵が宿っています。そして次に「あなたのこころ」が宿ります。他人と同じものを持っていても、どこか風合いが違うように感じるのは、その人の色にものが染まるからです。簡単にものを捨てることは、自分のこころを捨てているのと同じです。ものを大事にできる人は、人も大事にできる人です。ものを工夫して使いきれる人は、与えられた仕事も工夫できる人です。便利すぎて、ものがありすぎて、こころが暗闇になっていませんか。使いきろうと工夫する。智慧の光でそのこころを照らしてみてはいかがでしょうか。

平出全价 文『おかげさま運動 美しい地球を引き継ぐ喜び』花園会本部 より

 もの一つとっても、菩提心がはたらけば、そこにこの世一切の真理を見ることができます。今この状態における私を離れて真理はなく、これを「色即是空」といいます。具体的には、<すべてのものに、先人の願いと地球の恩恵が宿っています>とも<「あなたのこころ」が宿ります>ともいう事実が、諸行無常の世の中で展開しているそのままが空なのです。

 浄土建立において

 こうした事柄全てにおいて、浄土建立という一つにまとめられた経典が浄土経典ですから、特に大経を編纂された仏のお心を訪ねてみたいと思います。

〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。
<中略>
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
たとひ一切の人、具足してみな道を得、
浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、
力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈 27 より

意訳▼(現代語版 より)
仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。
これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」
<中略>
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。
ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。

 前半は阿弥陀仏の直接の言葉であり、後半は釈尊の導きですが、虚仮の世であっても、いや、虚仮であるからこそ、虚仮ではない真実の国を建立したい、という願いが真心から起こります。これを行者一人ひとりに対して「成就することができる」と阿弥陀仏は約束されてみえます。「色即是空」と覚っても、浄土建立を果たすことがなければ、本当に満足する人生にはならないのです。
 では浄土とは何でしょうか。当サイトでも様々書かせていただいておりますが、今回は島田幸昭師の説を読んでいただきましょう。

・・・・涅槃は小乗仏教の悟りであったものを、今日の多くの学者は大乗の覚りの真如法性や、浄土教の浄土と混同しています。
 涅槃は梵語のニル・バーナの音写で、煩悩が無くなったことで、涅槃というものが有るのではありません。真如法性はこの世の全てのものを産みだした、形のない大自然のことで、元から有ったものですが、浄土はその大自然が形をとってこの世に新たにできた世界です。といってもそれは国土ではなく、社会のことです。経には法蔵菩薩が四十八の願を建て、永劫の修行によって出来た行為的世界と説いています。法蔵菩薩とは親鸞は私たち人間に宿った仏性のことといっていますから、私たち先祖によって造られた社会のことです。昔は社会のことを世間といっていました。
 仏教では三世間のことを説いています。一つには器世間。これが今日いっている社会のことです。この器世間の中に衆生世間と如来世間の二つがあります。社会は人間の集団生活によってできたものです。人間そのものが仏性と我執が矛盾的に同居しているものですから、我執によって形成された社会を衆生世間といい、仏性によって形成された社会を如来世間といったのです。穢土とは衆生世間のことであり、浄土とは如来世間のことをいうのです。これらの世間は心の眼を開かねば見えません。釈迦は「奇なる哉、奇なる哉。我れ開眼すれば山川草木皆悉く成仏し、一切衆生に悉く仏性が有った」と驚嘆の言葉を発しています。

『八葉通信』第5号 涅槃と浄土の答え/島田幸昭 著 より

 阿弥陀仏や浄土は、衆生の奥底に流れている地下水のようなもの、という比喩も聞かせていただいておりますが、真心の通い合う場を持っていれば、たとえ災害の多い状態でも、互いに助けあうことができ、人類全体も幸福になることができます。今回も、各国・各組織からの援助は力強く、たとえ援助の内容が様々批判されるような魂胆を含んでいるとはいえ、周囲から無視され続けて孤独に陥ってきた先人たちの境遇を思えば、やはり人類の歴史は少しづつではあるが進化を遂げつつあるのではないか、という希望が涌いてきます。
 しかし、そうした前進を阻む殺生も横行しています。欲望や覇権を競って戦争を仕掛ける輩が権力の中枢に居坐っている、そんな国や地域がまだまだ多すぎるのです。
 そうした真っ只中において、私たちの本音としては、一体どういう方向に進みたいと願っているのでしょうか。

仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災レイ起らず、国豊かに民安くして兵戈用ゐることなし。〔人民〕徳を崇め仁を興し、つとめて礼譲を修す

『仏説無量寿経』40 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 より

意訳▼(現代語版 より)
 仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。 そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。 人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである。

 皆が求め、また諸仏の勧めるところは、一人ひとりがこうした仏に成ることでしょう。
 ゴータマ・シッダルタは、生まれてまもなく、アシタ仙人によって「この王子は、聖王となって、全世界を統一するか、或いは仏陀となって、全人類を救いたもうであろう」と予言された、と仏伝にあります。これには他にも「この児がもし家に在せば転輪王となって四天下を治められるでありましょうが、必ず出家して仏となられ、普く人々を恵みたもうでありましょう」という表現もあります。しかし転輪王については省略されている伝記もあります。2500年も前の話ですし、一言一句誰かが記憶している訳ではありませんが、後世にこうした表現で記さざるを得なかった文字の奥に、どのような願いが人々の胸にあったのでしょう。

 結果から言えば、シッダルタは煩悩を断ち、仏と称えられえる存在になりました。しかし、釈迦族はコーサラ国の侵略を受けて王も民も悲惨な最期を迎えます。釈尊は、戦争を止める努力も惜しまなかったのですが、出家者の限界か、この後もインドでは戦争が絶えず、多くの血を見る時代が続くのでした。
 人々は、宗教的王たる仏陀を尊敬しながらも、転輪聖王の功徳が展開されて現実の世界も平安になってほしい、という願いも切々たるものがあったのではないでしょうか。仏陀と転輪聖王の功徳をあわせ持つ存在。大乗仏教ではこうした理想仏を彼方や未来に想い描いていたのです。しかし、現実の足元に既にその願いが成就していることに気づいた。それが十劫の昔に願いを成就し成仏を果された阿弥陀仏だったのです。皆が安楽国に生まれて、一人一人が清らかで創造性と個性あふれる浄土をつくりたいと願えば、阿弥陀仏は「大丈夫、必ず成就する」と述べられるのです。

 これは現実に成就し切ってしまったのではなく、成就を願う願いが本物であれば、願いの中に成就あり。未完成の完成ということを表わしています。人類が未完成で発展途中であるという過程の面を見れば法蔵菩薩の求道精神が見出され、未完成のままが完成しているという面を見れば、十劫の昔に願が成就して阿弥陀仏と成られている仏を見出すことができるのです。
 人類、今なお戦争は止まず、災害に対して無力な面もありますが、かくありたい社会、かくありたい私、という願いが本物であれば、必ずその方向に人類は歩み出していけるのではないでしょうか。


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浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)