平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
質問:
〉宗教に深い【S】さんにお伺いします。
昨日、知人より↑の様なメールを頂き
まいったなぁ〜。私は、今、宗教から一番遠ざかっている人間なんだけどなぁ〜。
運命と宿命。ん〜っと、「人生の目的・五木寛之・幻冬社」より、52頁より。
一口に言うと↑の様に書かれてあります。
↑の様に書かれてあります。これは、幾ら私達個人があがいて・もがいてしても 変え様がないのではないでしょうか。この個人の力で変え様のない事を 運命と考えるのは、如何でしょうか。 個人のものとは、そうだなぁ。【K】が私のような親の下に生まれたのも 〔宿命〕といえるのでしょうか。世の中には、大金持ち・貧困・様々な 生活レベルがあるけれども、その中に生まれ、生活をするのも 在る意味では、〔宿命〕と言えるのでしょうか。 その様に考えると、運命は、自分の力ではどうしょうもないけれど、 宿命は、自分の心の持ち方。生活の仕方。様々な自分の努力によって 変えていく事は、出来ると思います。だからこそ、私は、いろんな 自分の不遇を、人の責任、社会の責任にしている人をみると、 許せぬ気持ちが時として起こります。 ↑の様な返信をしたのですが、私の解釈に誤りがあるでしょうか。 【編集者注: 掲載にあたり文中の個人名はイニシャルにしました。また知人の方にも許可を取ってあります】 |
〉私の解釈に誤りがあるでしょうか。
解釈に誤りも正解もないと思いますが、 ただ言葉の問題は、はっきりさせておかねばなりません。 世界には様々な文化、宗教がありますので、 「運命」や「宿命」の定義も異なってきます。
仏教の立場でいいますと、「変えられない運命」という考え方はしません。 仏教は「運命は変えられる」という信念で、我と相手と世界の変革に励むことを説きます。
ただし「運命」というのは、西洋の思想を前提にした考えですので、仏教の思想とは微妙に理解のずれがあります。もし「運命」に近いイメージが仏教にあるとすれば、それは「宿業」でしょう。 「宿」は文字通り「宿す」、つまり「過去」を表し、 「業」とは、「身・口・意」の「三業」、身=行為・口=言葉・意=心や考え、 +連鎖する原因結果の因縁――ということで、 物事には必ず原因があり、 またそれを連鎖していく縁が幾度も絡み合って、 結果として今現在の私たちがあるわけです。
歴史的社会的に業が巨大である時は、 私たち個人の業は相対的に小さくなり、 そうした力に飲み込まれてしまいます。 例えば悪業の最たるものとして言えば、 戦争状態を思い浮かべてみると分かりやすいでしょう。 こういう状態の時は、運命絶対論的な考えに偏りがちですし、 その方が迷わずに人を殺すことができるわけです。
しかし、それでも個人個人が強い意思を持ち、
悪業に屈服せず、善業を継続して展開していけば、
圧倒的と思える悪の業にも、正しい方向性を与えうるわけですし、
悪業を善に転じていく機会も生まれてきます。
もし「予定的な運命」という考えに縛られてしまっていては、
そうした機会も逃してしまうことになります。
もう一度いいますが、
物事は必ず因(内的直接原因)と縁(外的間接原因)が絡みあって成り立っていますので、逆に言えば、今の私たちには、別の因縁を展開する機会が与えられているわけです。
このように仏教では人間の自由意思を最大に認め、
自らの人生を創造していく「覚り」の生き方を勧めています。
お釈迦様が覚りを開かれた後になされた布教とは、 まさにこのことの実現、展開に他なりません。 当時のインドは群雄割拠の戦国時代で、 その宿業を転じていくため、自らが善の展開者となり、 共に歩む仲間を増やし、教団を組織し、 自分たちで決めた戒律 に従って生活し、 その中で自由意志による自律した人生を歩む出家者を育て、 在家の人々にその功徳を振り向けられたのです。 (仏教の戒律は与えられたものではなく、 現実の生活の中から問題に応じて制定された)
釈尊滅後もその運動は継続し、教団は発展するのですが、 インドで仏教が国教になってから、しばらくすると、 教団が内向きになり、社会への善の展開に消極的になってしまいました。
そのため、その批判の中から大乗仏教運動がおこり、
特に巨大な善のはたらきである「浄土」の思想が中心となり、
生ける者一切すべてに浄土の功徳を施し、
仏と同じ「菩提心」、「常に覚りを求める心」を起こさせ、
人生の成就を社会的に展開していきます。
その後、様々な紆余曲折はありますが、
現在の様々な仏教教団も、その延長線上に存在しているわけです。
次に「宿命」についてですが、仏教では「シュクミョウ」と読みまして、
「過去の生涯」という意味になります。
ですから社会通念としての「シュクメイ」とは意味が違います。
(社会通念では「前世から定まっている運命」とか
「逃れることのできない決定的な運命」という意)
仏教では一般的な意味の「シュクメイ」は否定(もうしくは打破)します。
信心を得た人に具わる「六神通」の中に「宿命通」というのがありまして、 「過去のいのちのありかたを知る」という功徳が説かれています。 これはどういうことか諸先生方に聞いてみますと――
ややもすると、とりかえしのつかない過去にしばられ、 後悔し、苦しみ悩む私たちです。しかし、過去はもうやり直しがききません。 その意味では、私たちは過去から逃げることができません。 その過去から逃げ回っていてはいつまでたっても苦悩の解決はつきません。 過去から救われる道はただ一つです。 自分の過去を明らかに知り、反省すべきは反省し、 どうにもならないことはどうにもならないと如来におまかせすることです。 私たちは、如来におまかせすることによって、 はじめて過去から本当に自由になるのです。
[藤田轍文著 『人となれ佛となれ』1巻10章より]
われわれはただ、自分はこういう目に遭うわけはない、 と目の前のことで考えるから、煩悩が起こるのであります。 こういうふうにならなければならないいわれがあってこうなったのである、 と、内感することができるようになれば、 われわれは煩悩を除くことができるのであります。
[金子大榮著『四十八願講義』より]
ひとりの人の一挙手一投足が、全世界を動かすとか、三千大千世界が、わずか芥子粒の中に宿っているといっています。個々の人の言動によって社会は創られ、社会の土壌によって個人は造られるのです。
<中略>
仏教でいう「宿命」とは、前世があるかないか、そういうこととは一切関係なしに、頭で考えるのではない。まごころの智慧をもって、現在只今の事実をさとるのです。 あきらめるのではない。引き受けるのです。
<中略>
この願は「宿命を識る」とは、たんに自分一人の宿命だけでなく、 相手の宿命と、さらに自己が置かれているわが家とか、わが故郷とか、 わが国とか、世界全体の宿命が識られるように、ということだと思われます。[島田幸昭著『仏教開眼四十八願』より]
こうした意味で「宿命」を識れば、 自分の生きる大地・社会にしっかりと足を踏まえ、 他人を呪ったり、恨んだり、劣等感をもつことなく、 正しい人生観を確立する第一歩となるわけです。
合掌