平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

六師外道の思想について


質問:

 教行信証のなかの阿闍世王物語に六師外道の徒が登場します。古来多く浄影の「維摩経義記」等によって、
1空見外道、2常見外道、3一因見外道、4自然外道、5自在天外道、6不修道外道
とされているそうですが、私は6つの思想にたいそう興味を持ちましたので教えてください。そういう本があれば、ぜひ読んでもみたいです。
 私の読んだ本は、1罪悪否定説、2責任解除説、3地獄否定説のように、省略して説明がなされているので、ちょっと物足りないのです。
 ちなみに、阿闍世への仏陀の説法には強く感じるものがありまして、教行信証のなかで私がもっとも好きなところです。
「亡き親の気持ちにすれば、そういうことを嘆くな、私が悪かったんだといいたいに違いない。そのお父さんの心がわかったならば、もうそういうことを思わないで、その父親と自分と、本当に一つになる境地を求めるべきではありませんか。」というのです。
 空や唯識などの論理(ロゴス)だけではこのような心に響く救いがないと考えます。真宗は感性(パトス)に訴える深みがあり、かつ、空や唯識もふまえ、というより越(止揚)えており、全一なる宗教として捉えています。



返答

 手元にある『岩波仏教辞典』(岩波書店)の「六師外道」の項には、

「仏陀(釈尊)とほぼ同時期の紀元前5−6世紀頃、ガンジス河中流地域のマガダ地方を中心に活躍した6人の自由思想家を総称した呼び名」とあり、その6人とは、
  1. プーラナ・カッサパ(道徳否定論) [不蘭迦葉]
  2. マッカリ・ゴーサーラ(宿命論的自然論) [末迦梨瞿舎利]
  3. アジタ・ケーサカンバラ(唯物論、快楽論) [阿耆多翅舎欽婆羅]
  4. パクダ・カッチャーヤナ(無因論的感覚論、七要素説) [婆浮陀迦旃那]
  5. サンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論、不可知論) [散若夷毘羅梨沸]
  6. ニガンタ・ナータプッタ(自己制御説、ジャイナ教開祖) [尼乾子]
だとし、「かれらは、その時代に先立つバラモン教の祭祀・供犠の宗教を批判し、ヴェーダ聖典の権威を否認し、否正統的で自由奔放な考え方をしたので、自由思想家群と呼ばれる。
 なお、六師の配列やその思想内容は資料によって錯綜するが、その第一資料『沙門果経』(長部1−2)は、仏陀時代の思想家たちを知る上で重要である」
とあります。(※長部とは南方上座部仏教に伝わるパーリ語の原始仏教聖典のうち、長い経典を集めたもの)

さらにご参考までに、中村元著『インド思想史第2版』(岩波書店)から、六師に関する記述を抜き書きします。

  1.  プーラナ・カッサパは、「奴隷の子であり、その主人の牛舎で生まれ、主人のもとから逃れ、そのとき衣を取られて以来、裸形でいたといわれる。かれによると、生きものおよび人間の体を切断し、苦しめ、悲しませ、おののかせ、生命を奪い、与えられざるものを取り、家宅侵入・掠奪・強盗・追剥・姦通・虚言などをしても、少しも悪を為したのではない。悪業に対する報いも存在しない。また祭祀を行っても、施し、克己、感官の制御、真実を語ることによっても、善の生ずることはなく、また善の報いも存在しないという」

  2.  マッカリ・ゴーサーラは、「巡礼者であった両親が牛舎に入って雨期を過ごしていたときに生まれたといわれる。かれの属していた宗教はアージーヴィカと称する。元来は“生活法に関する規定を厳密に遵奉する者”の意味であるが、他の宗教からは貶称として“生活を得る手段として修行する者”の意味に用いられ、漢訳仏典では“邪命外道”と訳している」
     「かれは生けるものを構成している要素として霊魂・地・水・火・風・虚空・得・失・苦・楽・生・死の十二種類を考えた。あとの方に挙げた六種は、これらの名で呼ばれる現象作用を可能ならしめる原理を考えてこれを実体視したものである。霊魂は物体のごとくに考えられ、諸々の元素のみならず動物・植物等の生物にもそれぞれ存すると主張している」
    「一切の生きとし生けるものが輪廻の生活をつづけているのは無因無縁である。またかれらが清らかになり解脱するのも無因無縁である。かれらには支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と状況と本性とに支配されて、いずれかの状態において苦楽を享受するのである。意志にもとづく行為は成立し得ない。八四〇万の大劫の間に、愚者も賢者も流転し輪廻して苦の終わりに至る。その期間においては修行によって解脱に達することは不可能である。あたかも糸毬を投げると、解きほごされて糸の終わるまで転がるように、愚者も賢者も定められた期間の間は流転しつづけると主張した」

  3.  アジタ・ケーサカンバラは、「当時の一部の苦行者の風習に従って、毛髪でつくられた衣をまとっていたと考えられる。かれによると、地・水・火・風の四元素のみが真の実在であり、独立常住である。さらに、これらの元素が存在し活動する場所として虚空の存在をも認めていた。人間はこれらの四元素から構成されている。人間が死ぬと人間を構成していた地は外界の地の集合に帰り、水は水の集合に、火は火の集合に、風は風の集合に帰り、もろもろの機官の能力は虚空に帰入する。人間そのものは死とともに無となるのであって、身体のほかには死後にも独立に存在する霊魂なるものは有り得ない。人々は火葬場に至るまで嘆辞を説くけれど、屍が焼かれると後には鳩色の骨が残り、供物は灰となる。愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。したがって現世も来世も存せず、善業あるいは悪業をなしたからとて、その果報を受けることもない。施しも祭祀も供儀も無意義なものである。世の中には父母もなく、また、人々を教え導くところの、つとめる人・バラモンも存在しないと主張した」

  4.  パクダ・カッチャーヤナ「によると、人間の各個体は七つの集合要素、すなわち地・水・火・風の四元素と苦・楽と生命(霊魂)とから構成されている。これらの七要素は作られ創造されたのではなく、他のものを産み出すこともない。これらは山頂のように不変であり、石柱のように安定している。互いに他を害うこともない。故に世の中には、殺す者も殺される者もなく、教えを聞く者も聞かせる者もなく、識別する者も識別させる者も存在しない。利剣を以て頭を断つとも、これによって何人も何人の生命を奪うこともない。ただ剣刃が七つの要素の間隙を通過するのみである――と」

  5.  サンジャヤ・ベーラッティプッタは、「“来世が存在するか?”という質問を受けたときに、次のように答えた、『もしもわたくしが“あの世は存在する”と考えたのであるならば、“あの世は存在する”とあなたに答えるであろう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではないとも考えない』と。その他、“善悪業の果報は存在するかどうか?”などというような形而上学的問題に関しても、かれは同様にことさらに意味の把捉され得ない曖昧な答弁をして、確定的な返答を与えなかったという。かれのような所論は“鰻のようにぬらぬらして捕らえ難い論議”と呼ばれ、また確定的な知識を与えないという点で不可知論とも称される。形而上学的問題に関する判断中止の思想が初めて明らかにされた」
    「かれは、当時インドで最大強国であったマガダの首都、王舎城に住んでいて、釈尊の二大弟子サーリプッタとモッガラーナも初めはサンジャヤの弟子であったが、のちに同門の二百五十人を引きつれて釈尊に帰依するに至った。仏教が懐疑論を乗り超えてひろがったという事情は重要視すべきである」

  6.  ニガンタ・ナータプッタ。「かれの本名はヴァルダマーナであるが、大悟してから後にはマハーヴィーラと尊称される。ナータプッタとはジニャータ族の出身者という意味である。ニガンタとは、かれより以前に古くから存した宗教上の一派の名であるが、かれがこの派に入って後、その説を改良したのでジャイナ教が成立した。ジャイナとはジナ(勝者、修行を完成した人)の教えという意味である」
    「ヴァルダマーナは西紀前444年ころに商業都市ヴァイシャーリー市の北部の村で王族の子として生まれた。かれは成長して一婦人と結婚したが、三十歳のとき出家して修行者(沙門しゃもん)となり、ニガンタ派に入り、専心苦行を修した。その結果、大悟を得てジナとなり三十年教化を行い、七十二歳で寂した(西紀前372年ころ)。ジャイナ教の伝説によると、かれが世に現れる以前に23人の救世主が現れ、第23祖をパーサといい、マハーヴィーラは第24祖に該当するという。ジャイナ教はその後仏教とともに発達し、正統バラモン系統以外の二大宗教の一つとしてインド文化の諸方面に著しい影響を及ぼした」
    「当時の思想界においては、種々の思想が対立し、互いに争っていたが、マハーヴィーラは事物に関しては絶対的なあるいは一方的な判断を下してはならないと主張した。事物は種々の立場から多方面にわたって考察すべきである。もしも何らかの判断を下そうとするならば、“或る点から見ると”という制限を附して述べなければならない。例えば事物は実体または形式という点から見ると常住であると言い得る。すべては相対的に言い表し、相対的に解すべきである。この観察法を“見かた”といい、この点にもとづいてジャイナ教の立場は不定主義(相対主義)と称せられる」
     「マハーヴィーラはかかる批判的・反省的立場に立っていたから、ヴェーダ聖典の権威を否定し、バラモンたちが日常行っている祭祀は無意義・無価値であると主張したのみならず、祭祀において獣を殺すのは罪をもたらすといって排斥し、また階級制度に反対した。そうして合理的な立場に立って、あらゆる人間があらゆる時あらゆる所においても遵奉すべき普遍的な法があると考えた」
    「人間の身体が活動して身・口・意の三業を現ずると、その業のために微細な物質が霊魂を取り巻いて附着する。これを流入と称する。その微細な物質は霊魂を囲んで微細な身体(業身)を形成し、霊魂を束縛し、霊魂の本性を覆っている。このことを繋縛けばくと称する。この繋縛の故に、諸々の霊魂は地獄・畜生・人間・天上の四迷界にわたって輪廻し、絶えず苦しみの生存を繰り返している」
     「業によって束縛されたかかる悲惨な状態を脱し、永遠の寂静に達するためには、一方では苦行によって過去の業を滅ぼすとともに、他方では新しい業の流入を防止して霊魂を浄化し、霊魂の本性を発現させるようにしなければならない。これを制御と称する。これを徹底的に実行することは、世俗的な在家の生活においては不可能であるから、出家して修行者となり、一切の欲望を捨て、独身の遍歴(遊行)生活を行うことを勧めている。かかる修行者はビク(比丘)とも称せられ、托鉢乞食の生活を行っていた。かれらのためには、多数の戒律が制定されているが、まず第一に遵守すべきものは、不殺生・真実語・不盗・不婬・無所有という五つの大戒である。ジャイナ教の修行者は戒律を厳格に遵守し、実行している。不殺生戒はとくに重要視された。一切の生きものは生命を愛しているのであるから、生命を傷つけることは最大の罪悪であるという。ジャイナ修行者は無所有ということでも徹底し、一糸も身にまとわないで蚊や蠅などに身を曝して裸形で修行していた。しかしやがて白衣をまとうことを許す一派が現れたが、これが白衣派という。これに対して、全然衣をまとうことを許さない保守的な人々を裸形派と称する。かれらは飲食を制限し、しばしば断食を実行し、断食による死が極度に称賛されている。修行に当たっては自己の力にたよるべきことを強調し、何ら救済の恩寵などを期待してはならぬという」
     「かかる修行によって業の束縛が滅ぼされ、微細な物質が霊魂から離れることを止滅と称する。その結果、罪悪や汚れを滅ぼし去って完全な知慧を得た人は“生をも望まず、死をも欲せず”“現世をも来世をも願うことなし”という境地に到達する。この境地を解脱・寂静・ニルヴァーナと称する。身体の壊滅とともに完全が解脱が完成する。やや後れて成立した解脱観によると、身体が死するや解脱した霊魂は本来有する上昇性を発揮して上方に進行し、世界を脱して非世界に到達するが、そこにおいては霊魂はその本性において現われ絶対の安楽が得られる。これが真の解脱であるという」
    「かかる厳重な修行は在俗信者の行なうことのできないものであるから、信者は因果応報の理を信じ、高僧の教えに従って道徳的な正しい生活を送ると、死後には神々の世界に達し、楽しい生活を享受することができるという。在家の信者にも不殺生戒の厳守を要求するので、信徒は農業ないし一般に生産に従事することを好まず、職業としては商業を選ぶ傾向がある。ジャイナ教徒は商業(とくに金貸業と販売業)に精励し、正直であるため信用もあり、富裕であり、前世紀までのインド民族資本の過半数はインド全人口の0.5パーセントにすぎないジャイナ教徒の手中にあったといわれる。ジャイナ教は宗教と資本主義との関係について問題を提起するインド最初の事例である」


合掌

[相川拓善]



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