還浄された御門徒様の学び跡 |
王舎城[おうしゃじょう]に阿闍世[あじゃせ]という王がいた。悪い仲間にしたがい、この世のさまざまな欲望にとらわれ、その楽しみにふけって、罪もない父の王を非道にも殺害した。父を殺したことにより、後悔の念にさいなまれ、熱を出し、できものが全身にできて苦しむことになった。
このとき、部下の大臣たちは、懺悔することを勧めず、唯、六師外道の教えに従がうことを勧めたことであった。
このとき部下の大臣たちが阿闍世王にすすめた六師外道の教えは次のようなものであった。
(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末) 逆謗摂取釈【115】より)
六師のひとり富蘭那に教えを乞うよう月称大臣は勧めた。
「いつも愁え苦しんでいると、愁えはだんだん増すものである。人が眠りを好むなら、眠りはますます多くなる。色を好み酒を好むこともまたこの通りである。《世の中には五種の悪人がいて、そのものは地獄におちることは免れない》というが、誰か地獄を見てきて王に申しあげたのか。
富蘭那は『悪い行いというものはないから、悪い行いの報いもない。善い行いもないから、善い行いの報いもない。すなはち善い行いも悪い行いもないのであるから、善い行いや悪い行いの報いもないのである。行いにすぐれているとか劣っているとかはないのである』といっているとして、王に富蘭那のもとにいくことを勧めた」
富蘭那は善悪の区別は人が仮に決めたもので真実には存在しないものであり、業に対する応報も否定した「道徳否定論者」である。
蔵徳大臣の勧め
阿闍世王は「父や母、仏やその弟子に対して善くない心を起こし、悪い行いをしたことで無間地獄におちる」ことを恐れおののいていた。その王に蔵徳大臣は宿命論者のゴーサーラの「人間のみならず一切の生きとし生けるものが輪廻の生活をしているのは、無因無縁であり、かれらが清らかになり解脱するも無因無縁である。彼らの生存状態は自分がつくりだしたのでもなく、他のものがつくりだしたのでもない。かれらには支配力もなく意志の力もなく、ただ運命と出合いと本性に支配されて、いずれかの状態で苦楽を享受するのであり、人間の意思にもとづく行為は成立しない。」というものに立脚し、「法というものには二通りある。一つには出家の法、二つには王法である。王法とは自分の父を殺してすなはち国の王となることです。これは逆罪といわれてもその実は罪ではない。王に罪はない、悩むことはない」とし、ゴーサーラに師事することを勧めた。
※註(ゴーサーラはアージヴィーカ教の開祖といわれ、托鉢遍歴者の団体とされている。釈尊の時代には相当の勢力を持っていたとされるが、後にジャイナ教に吸収されたという。)
實徳という大臣は「すべての衆生には、過去になした行いのうち、まだその結果が現れていないものがあります。それが縁となって生死を繰り返すのです。若し父の王が過去の世になした行いが元になって死ぬのであれば、いま、王が先王を殺したといっても王に何の罪がありましょうや。」と。
この考え方は、サンジャヤ・ベーラッティブッタに代表される思想で、懐疑論者とか不可知論などと呼ばれ、かって舎利弗や大目健連はその弟子であったが、のち同門の二百五十人とともに釈尊の教えにしたがったという。
「この《真理をありのままに認識し叙述することは不可能であるとする不可知論》、あるいは懐疑論をのりこえ現れ出たのが仏教という新しい思想運動であった」中村元先生は言及されている。
悉知義大臣の勧め
「その昔、羅摩という王がいた。その王は父を殺して王位についた。たくさんの王が父王を殺して王位についたが、地獄に堕ちてはいない。
その王たちの誰一人、愁え悩んでいるものはない。地獄や餓鬼や神々の世界などというが誰も見たものがない。
この世の生には二つしかない。一つは人間、二つには畜生である。この二つがあるが、人間・畜生として生まれ死ぬことは因縁によるのではない。因縁によるのでなければ、どのように善・悪があるというのか。」と唯物論者アジタ・ケーサンバリンの教を説いて父殺しに悩み苦しむ阿闍世王に邪道を勧めた。仏教に対し断見・断滅論といわれる邪見がある。アジタはこの断見すなはち道徳否定論を唯物論で哲学的に補強した人である。
吉徳大臣はこのように勧めた。
「地獄とはどういうものか、《地》とは大地のことであり、《獄》とは破ることです。地獄を破っても罪の報いはありません。また、《地》とは人間、《獄》とは神々のこと。父を殺すことによって人間や神々の世界に生まれます。
婆蘇仙人は『羊を殺して人間や神々の楽しみを得る』といっています。また、《地》とは命のことであり、《獄》とは長いということ。生き物を殺すことで長い寿命を得るのです。このようなことであるから、地獄というものは実際にはありません。地獄を殺せば地獄に生まれ、人を殺せば人に生まれる。そもそも殺すということはないのです。もし不滅の実体というものがあるなら、それを殺すことはできない。
もし不滅の実体がないなら、それが殺されることもない。不滅の実体というものがあればそれは常に変わらない。変わらない永久の存在であるから殺害することはできない。
破られても壊されず、つながれても縛られず怒りも喜びもないのはちょうど虚空のようである。また不滅の実体というものがなければ、すべてのものは無常であり、一瞬一瞬に滅びる。すべては一瞬一瞬に滅び去るのであるから、殺したものも殺されたものも一瞬一瞬にほろびさる。もし一瞬一瞬に滅び去るなら誰に罪が在ろうか。」
この考え方は、パグタ・カッチャーヤナの唱えたもので、「すべてのものは七つの集合要素から構成され、創造されたものでもなく、堅固に安定し、これらは動揺せず、変化もせず、人間各個人はおのような要素の集合体であり、一人の個人が他の個人を苦しめ、あるいは楽しませることもない」というものである。
ついには『殺すものも殺されるものもない聞くものも聞かしめるものもなく、識別する者も識別される者もない。利剣をもって頭を絶つともこれによって何人も何人の生命を奪うことはできない。ただ剣の刃が七つの要素の間を通過しただけである.』という奇妙な論理が導かれることになったという。
無所畏という大臣はジャイナ教の祖ニガンダ・ナータブッタの教えを勧めた。
このジャイナ教は仏教と同じ時代にうまれともに並んで発展したバラモン教以外の二大宗教の一つである。色々の面で仏教に通づることが多い。違いは一言で言うことは難しいがきわめて厳しい修行、一切の世俗を離れ欲望を捨て托鉢・乞食の遊行生活者である。不殺生・不妄語・不盗・不淫・無所有を絶対的に守る。ことに徹底した不殺生主義を守り、道を歩いても小虫を踏むのを恐れ掃きながら歩き、空中の虫を吸い込まないためマスクをするなどである。
断食も徹底した断食行であり、それで死に至ればかえって称賛されるほどのものである。
阿闍世王に対し無所畏大臣がニガンタ・ナータブッタの教えをどのように勧めたのかは引用れていない。教行信証には、ただ《いま大師あり。ニケンタニャケンシとなづく》とのみある。(※註:[六師外道の思想について] 参照)
仏教以外の六師外道と呼ばれる人の教えは、阿闍世王の苦しみ、悩みを解決するものではなかったことを釈尊は涅槃経に説き示されていることである。
お釈迦さまは、縁起の法をさとられ、この世に仏の法、真実の法を説かれました。六師の考え方は因果の法とは相容れないものがあります。
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