平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

はからいを捨てることは求道心も捨てること?

不可思議が思議を無限に誘発せしめる

質問:

 浄土真宗は、絶対他力、己のはからいを一切捨てよといわれます。しかし、はからいを一切捨てるというのは非常に難しい。私にとって、はからいを捨てることは易行ではありません。凡人は、自力向上(求道)心を心のどこかに持っていると思います。
 また、信仰というものにどうしても現世利益(現世の苦しみからの解放)を期待してしまいます。自力向上(求道)心は煩悩だと思います。現世利益を期待する事も煩悩だと思います。すなわち、はからいというのは凡人が持つ煩悩の一つではないでしょうか。したがって、「はからいを捨てよ」と言われると、煩悩を捨てよと言われているように聞こえます。
 煩悩を捨てるとはすなわち覚りです。覚ることのできない凡人のための念仏なのに、「はからいを捨てよ」とは「覚りをひらけ」といわれているような気がするわけです。また、「捨てる」という努力自体も自力ではないでしょうか? むしろ、はからいを持ったままでよい、それでも念仏を称えれば、阿弥陀如来がはからいを取り去ってくださる、といわれれば納得できるのですが、いかがでしょうか?
 「いわんや悪人をや」と親鸞聖人はおっしゃいましたが、はからわずにはおれないのが悪人ではないでしょうか?

返答

 よく勉強してみえますね。実は質問していただいた疑問は勉強途中で必ず起こってくる問題で、ここを抜け出すと広い世界が見えてきます。しかし、疑念の晴れないまま捨てておくと、とんでもない誤解や教条主義に陥ってしまいますので、疑念が晴れるまでとことん道を求めて下さい。

◆ 「正定聚」は「歓喜地」に始まる

 さて、質問の内容を見ますと、ほとんど答えが出されているのですが、特に――

「捨てる」という努力自体も自力ではないでしょうか? むしろ、はからいを持ったままでよい、それでも念仏を称えれば、阿弥陀如来がはからいを取り去ってくださる、といわれれば納得できるのですが、
という部分は、まさにその通り。絶対他力の真髄をつかんでみえます。

 自分の有限の力と如来の無限の力を別々に見て「自分のはからいを捨てた」というのでは「相対他力」になってしまいます。「絶対他力」というのは、自分は有限の力でありながら、そこに如来の無限の力が引き受けられ、その徳が表出する中に自分が活動している、という関係になることです。
 これは前回の『いのちより大切なものとは?』という質問の<仏教は自覚的無限、キリスト教は啓示的無限>では寿命無量について述べましたが、力は光明の一側面ですから、光明無量についても同じ原理が成り立ちます。

 これは喩えて言うなら、極端な偏食癖のある私が煩悩の毒を好んで食べている有様を見て、如来が滋養のある食べ物を勧められるのに似ています。
 つまり、「これは身体に良いから」と聞いて、<まずい>と思いながらも、勤め励んで滋養のある食べ物を食している段階が「自力」なのですが、その自力が呼び水となり、食べ物本来の美味しさが味わえ、好きになって食するようになると「他力」ということが肯ける訳です。

 偏食が完全に治ることは難しく、やはり煩悩の毒を好むことは止められないけれども、毒に即するように、それを補って余りある<清浄で滋養ある食べ物>を好む心が、その食べ物の徳のはたらきに促されて、私の中に表出してくる訳です。

仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈

――以下意訳―― (現代語版)
如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。

 自力・他力、どちらも念仏を中心に生活している訳ですが、いつまでも「頑張ってやっている」という思い込みがあると、念仏本来の美味しさや喜びが見えてきません。だから「はからいを捨てる」ということを言うのですが、それは、<念仏を中心に生活する>ことや<求道心>を捨てるのではなく、念仏本来の味が私に至り届いたことによって、念仏が喜びに変わるということを意味します。つまり求道心のモチベーションが、自力(=有限)の枠から、他力(=無限)に底が抜ける、ということなのです。こうした究極の求道心は「菩提心」と呼ばれ、また決して崩れないことから「金剛心」とも呼ばれます。

 そしてこの段階を「正定聚」と呼びますが、これを「不退転」とも呼ぶ理由は、「正定聚」が「歓喜地」であることによります。
 何事も苦しいことを我慢してやっている段階では、挫折が容易に絶望につながります。しかし道を求めること自体に喜びを感じることができれば、挫折でさえ希望につながります。意志は一旦萎えることがあっても、智慧が常に私に道を指し示しています。私の奥深いところに如来の根が張りますから、表面の花や葉は枯れることがあっても、必ず浄土のはたらきが再び私の中に芽吹くのです。

 自力の段階では、表面に現れた面ばかり気になりますので、一喜一憂する自分の意識を全てだと思っていますが、見えない他力の根に気が付けば、意識を大きく包む智慧(=信心)の根が絶えないことが喜びとなります。また自らの意志で励んでいた行動が、そのまま如来の智慧に促された行動と肯くことができるのです。

◆ 限りない思索を促す

 こうした自力・他力について、多くの人々が思索を重ねてみえますが、例えば小説家の五木寛之氏は――

 死にもの狂いで人事をつくそうと決意し、それをやりとげる。それこそ〈他力〉の後押しがなければできないことです。そう考えれば、自分が〈自力〉にこだわるのが滑稽にさえ思えてきたのでした。

五木寛之 著 『他力』 人事をつくすは、これ天命なり より

と、味わわれています。

 またこれを、超越的宗教体験を教義化する過程として、思議(自力)と不可思議(他力)の関係について見ますと、例えば「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに・・・」という上記の文を引いて梯實圓氏は――

・・・ここにもまた不可思議を思議することによって深遠な教義が誕生していく有様を見ることが出来る。
 真に人間を超えた不可思議なるものに触れた人は、自己のはからいを打ち砕かれながら、逆に限りなく思索を促され続けるものである。如来とは完全に思慮分別(虚妄分別)を超えた不可称・不可説・不可思議なるものに名づけた名であるが、それは不可称なるがゆえに無限に称讃し続けられるものであり、不可説なるがゆえに、無限に説き続けられるものであり不可思議なるがゆえに、無限の思議を信心の行者に促すのであった。不可思議なるものを思議し続ける勝れた教義書には著者の思いをも超えた真実が宿るものである。それゆえ個人を超えた普遍性と、歴史を超えた永遠性を獲得するのである。

梯實圓 著『教行信証の宗教構造』序文 より

と讃嘆しています。

 まさにこうした親鸞聖人の思索・求道の姿勢こそ、浄土宗や法然上人に対する誤解・非難を根本から払拭せしめるものであり、さらに新たな地平を開拓したの聖人の生きざまそのものであったと言えるでしょう。

◆ 称名念仏の重要性

 そうした<普遍性・永遠性>との出会いで重要な役割を果たしているのが<諸仏の勧め>であり「大悲の願」である「第十七願」です。

たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願(17)

――以下意訳―― (浄土三部経 現代語訳)
 わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 これは、『現世での救い十種』や、『難信の法など信じられる人は少ない?』(本願を称える諸仏に導かれて)にも書きましたが、「外からの摂護と内からの自覚および実践」を成就する具体的な行が念仏であることを示しています。

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十一・十七・十八願成就

――以下意訳―― (浄土三部経 現代語訳)
さて、無量寿国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものは生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏かたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて、信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

 前述しましたが、こうした浄土の思議は単に思議の延長上にあるのではなく、不可思議が先手であることを忘れてはならないでしょう。不可思議が思議を永続せしめ、不可称なる如来が不可称であることの顕れとして「南無阿弥陀仏」と、無限に称讃し続けられていく訳です。

 こんな私たちの性根を見抜いて、阿弥陀如来は自ら名のらず、諸仏を通して名のられるのです。
 私たちならば、疑うのは疑う方が悪いのだから、ほっておけばいいと考えます。しかし、阿弥陀如来はそんな冷たい方ではないのです。どうしても、私たちを見捨てることができないという大悲の心が、諸仏を総動員して、南無阿弥陀仏を私たちに受けとらせようとしてくださるのです。私たちのことを思ってくださる阿弥陀如来の大悲の深さがしみじみと知らされます。
「十方世界の数かぎりない諸仏が、ことごとくわたしの名(南無阿弥陀仏)をほめたたえ」るままが、大悲の躍動する相(すがた)なのです。それで、第十七の願を「大悲の願」と、親鸞聖人はよろこばれるのです。
<中略>
 この「諸仏がほめたたえる」ことのほかに、大悲躍動のはたらきはないのです。そして、それはまた、南無阿弥陀仏が十方世界にひろまってゆく相でもあります。

藤田徹文 著『人となれ仏となれ』 第二巻 第七章 より

 このように、私が「南無阿弥陀仏」と称えることは、決して純粋な心からではなく、「苦しみからの解放を期待」したり、疑いの晴れないままの称名念仏ですが、諸仏に護られ、大悲の願に触れることで、私の念仏が真実ならしめられるのです。ですから親鸞聖人はこの第十七願を非常に重要視されたのでした。


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