平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

どのような心でお経を読むのか?

― 人生の問いをもってお勤めする ―

質問:

朝、夕のお勤めの際、どのような心で接したらよろしいですか?
阿弥陀様、ご先祖様にどのような問いかけ、例えば感謝を述べるだけでよろしいか? 解らないのです。ただ無心でお経を読むのですか?

返答

 結論を先に言いますと、「私は、今、ここにおいて、いかに生きるか」という人生の問いをもってお勤めしてください。仏法に問えば、必ず答えが見つかるはずです。

 朝・夕のお勤めに限らず、仏教の各種法要や催しは、ご縁は様々ですが肝要はただ一つで、私たちが覚ること、仏に成ることを目的とします。仏とは、真実まごころを身に満たし、世に覚りの功徳を展開する人のことをいいます。これは仏事の大前提です。

 私たちが成仏できる最も勝れた方法は、「南無阿弥陀仏」に込められた仏願成就の歴史を聞き開き、その名を称えること(称名念仏)にあります。

 この「称名念仏」とは、阿弥陀如来の名(南無阿弥陀仏)を単に「[とな]える」だけでなく「[たた]える」ことが肝心なのです。なぜなら、あらゆる仏は、自らの功徳を名号におさめてみえるからであり、この名号に込められた仏徳を讃嘆するのです。

【60】法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文

意訳▼(現代語版 より)
法相宗の祖師、法位が『大経義疏』にいっている。 「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号を称えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」

 名号を「唱える」だけなら、何も考えずに声を出せばよいのですが、「仏徳を称える」となると、仏徳の内容をよくよく聞かねばなりません。
 どのようにして聞くのかといいますと、<法蔵菩薩が世に超えた願を建て、願を成就して阿弥陀如来に成ってゆく>という経緯・いわれ(生起本末)を、私の生きる真っ只中、生活そのものの中で聞き開いてゆくのです。
 だからこそ、お経を丁寧に読ませていただくことが大切なのです。

【65】しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 現生十益 より

▼意訳(現代語版より)
 ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末[しょうきほんまつ]を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。

 阿弥陀如来の功徳は、あらゆる仏・菩薩の願いを総合し、活かし切り、本願成就のいわれを聞いた人全てに浄土往生を願わせ、仏に成らしめるはたらきがあります。経典にそう書いてあるだけではなく、実際に念仏者の胸の内に証しが達成されます。これは単なる方法論に留まらず、きちんとした裏付けがあるから適うのです。

 如来は、一切衆生を背負った身(これを阿弥陀と呼ぶ)でありながら、実際には「南無」の信心となってはたらきます。信心の中にのみ阿弥陀仏は存在するのです。誰でもない、まずは今・ここにいる私自身の身に仏の功徳が回向されて成就する。私が仏に成るのではなく、如来の方から私に成り切っていのちを輝かせるのです。常に如来が先手ではたらきます。ですから他力というのです。
 こうした如来の願力自然のはたらきによって、念仏の行者は、有限の身に無限の重みを満たした菩薩となって、みずからの人生を形成し、家庭・社会を創造してゆくのです。

 古来より、お経を勤める目的は、「仏徳讃嘆」・「仏徳信受」・「仏恩報謝」・「仏徳奉行」といわれていますが、これらのことが読経の作法によって適っていくのです。

 また、天親菩薩は「五念門の行を修めてそれが成就すれば、ついに安楽浄土に往生して、かの阿弥陀如来を見たてまつることができる」{※聖典等資料▼ 参照}と勧めてみえますが、お経を作法通りに勤めるの中でも、五念門が実践されているのです。

 この五念門において最も肝心なことは、本心から阿弥陀如来の浄土に生まれたいと願う(願生)ことですから、お経を読ませていただいた後にも、経典や論釋の内容をさらに深くたずね、生活の中にはたらく仏願成就のいわれを味わっていただきたいと思います。

 なお、ご先祖様との語らいは、供養(尊敬)することが果たされれば、深いいのちのつながりの中で、互いに諸仏として拝むことができ、そして拝まれる関係に成っていくでしょう。なぜなら浄土に生まれることを願う念仏者は、諸仏の家に生まれることができるからです。これも、仏願成就のいわれを聞き開く、ということにより明確になってくるのです。
 その時は、「どのような問いかけをしたらいいか」とか、「感謝を述べるかどうか」という問題は、おのずと解決を見ていることと思います。なぜなら念仏の行者は、いつのまにか、問うべきことを問う人生、感謝すべきに感謝する人生を歩んでいるからです。

 常に真実の声(声なき声)は背中から聞こえてきます。かといって、振り向いても正体は見えません。私たちは、真実の教えを聞きながら常に前を見て歩まねばなりませんが、背中から聞こえる声によって、人生の歩みが確かさと重みを持つのです。
 ただし、確かさと重みも自分だけで確認することはできません。常に諸仏の声が鏡となり、自らを見させていただくのです。ここでいう諸仏は、家族や周りの縁ある人々のことです。大乗仏教が衆生とともに歩む意味もここにあるのです。

(以下関連ページ)
{難解なお経を読む意義と作法について― 形の中に誠実な心を込めていく ―}
{家族だけでお経を読む方法― お勤めの意義と仏事の実際 ―}
{浄土真宗の教え}

 聖典等資料

【九】いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。もし善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。なんらか五念門。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には回向門なり。いかんが礼拝する。身業をもつて阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。かの国に生ずる意をなすがゆゑなり。いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。いかんが観察する。智慧をもつて観察し、正念にかしこを観ず。如実に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり。かの観察に三種あり。なんらか三種。一にはかの仏国土の荘厳功徳を観察す。二には阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三にはかの諸菩薩の功徳荘厳を観察す。いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。

天親菩薩 著『浄土論』 起観生信 より

意訳▼(『聖典意訳 七祖聖教 上』 より)
【九】どのように観じ、どのように信心を起こすのかというと、もし仏法を求める男女の人たちが、五念門の行を修めてそれが成就すれば、ついに安楽浄土に往生して、かの阿弥陀如来を見たてまつることができる。
 五念門とは何何であるかというと、一つには礼拝門、二つには讃嘆門[さんだんもん]、三つには作願門、四つには観察門[かんざつもん]、五つには回向門である。 どのように礼拝するのか。身をもって無上のさとりを得ておられる阿弥陀如来を礼拝するのである。それはかの浄土に生まれるためである。
どのように讃嘆するのか。口をもってかの阿弥陀如来の名号を称えるのである。かの如来の智慧の相たる光明のいわれ、またかの名号のいわれをよく信じて、この法の実義に[かな]って修行するのである。
どのように作願するのか。いつも一心に[もっぱ]ら、ついに安楽浄土に往生しようと願って、如実に奢摩他[しゃまた](止)を修行しようと[おも]うのである。
どのように観察するのか。乱れぬ心をもって、正しくかの阿弥陀如来や浄土を観察する。如実に毘婆舎那[びばしゃな](観)を修行しようとするのである。かの観察に三種がある。何がその三種であるかというと、一つには浄土の荘厳功徳を観察する。二つには阿弥陀如来の荘厳功徳を観察する。三つにはかの土に往生した菩薩の荘厳功徳を観察する。
どのように回向するのか。すべての苦しみ悩む衆生を救うために、心にいつも願って、衆生に利益を施すことを第一として、大悲心を成就することを得るのである。



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