平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】
往生論註「願生」について 2
有限の身に満たされる無限の功徳
質問:
さきにお質ねいたしました往生論註「願生」のところについて再度おたずねします。
このことについて以下のように七祖篇や註釈版に示されています。
衆生は畢竟無生にして虚空のごとし 大乗経論に説く
@ 往生論註 七祖篇54頁
一には、凡夫の謂ふところのごとき実の衆生、凡夫の見るところのごとき実の生死は、この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。
二には、いはく、諸法は因縁生のゆゑにすなはちこれ不生なり。所有なきこと虚空のごとし。天親菩薩の願ずるところの生は、これ因縁の義なり。因縁の義のゆゑに仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらず。
A 教行信証大行釈引文 註釈版157頁
一つには、凡夫の実の衆生と謂ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。
この所見の事、畢竟じてあらゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。
二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、あらゆることなきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらざるなりと。
B 安楽集 七祖篇228頁
もろもろの大乗経論にみな、「一切衆生は畢竟無生にしてなほ虚空のごとし」といへり。いかんぞ天親・龍樹菩薩みな往生を願ずるや。
答へていはく、「衆生は畢竟
無生にして虚空のごとし」といふは、二種の義あり。
一には凡夫人の所見のごときは、実の衆生、実の生死等なり。もし菩薩によらば、往生は畢竟じて虚空のごとく兎角のごとし。
二にはいま「生」といふはこれ因縁生なり。因縁生なるがゆゑにすなはちこれ仮名の生なり。仮名の生
なるがゆゑにすなはちこれ無生なり。大道理に違せず。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらず。
註*無生 凡夫がとらわれているような生を否定することば。
存在の眞実のありさまは本来消滅の変化を超えていること。また涅槃の異名。
C 安楽集 七祖篇229頁
生は無生なりと知るは、まさに上品生のものなるべし。もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。もし実の生ならば、すなはち二疑に堕す。
一にはおそらくは往生を得ず。二にはいはく、この
相善、無生のために因となることあたはず。
註*相善 有相の善根。すがたかたちもある浄土を願って修める善根
*
無生のために因となることあたわず とらわれのために浄土に生まれるたねとならない
D 安楽集 七祖篇229頁
「かの浄土は、すなはちこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。」
それ生は有の本たり。すなはちこれ衆累(さまざまなわずらいのこと)の元なり。もしこの過を知りて生を捨て無生を求めば、脱るる期あるべし。いますでに浄土に生ずることを勧む。すなはち
これ生を棄てて生を求む。生なんぞ尽くべけんや。
答へていはく、しかるに
かの浄土は、すなはちこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有の衆生の愛染虚妄の執着の生のごときにはあらず。
なにをもつてのゆゑに。それ法性清浄にして畢竟無生なればなり。しかるに生といふは得生のものの情なるのみと。
E 安楽集 七祖篇230頁
また問ひていはく、なんの身によるがゆゑに往生を説くや。
答へていはく、この間の
仮名人のなかにおいて、もろもろの行門を修すれば、前念は後念のために因となる。穢土の仮名人と浄土の仮名人と決定して一なることを得ず、決定して異なることを得ず。前心後心もまたかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし決定して一ならばすなはち因果なからん。もし決定して異ならばすなはち相続にあらず。この義をもつてのゆゑに、横竪別なりといへども、始終これ一の行者なり。
註*仮名人 仮名とは実体のないものに仮につけた名というもので、人といっても五蘊が因
縁によって仮に和合したものであるから仮名人という。
仮名
因縁によって仮に生じた現象世界のありさま
実体のないものに仮につけた名
名ばかりの菩薩.菩薩の位の最初
因縁によって成り立っている事物事象
「中論」に《
因縁所生の法をば、われすなはちこれ空なりと説く。また名づけて仮名となす。
これ中道の義なり。》とある。
ここで説かれている「生」というのは、わたしたちが対面している《この世の生》ということであろうか。祖師のいう「実の生」にあたる。実の生の集積が「衆生」である。だから、安楽集に「
それ生は有の本たり。すなはちこれ衆累の元なり」
とあるのは、衆生の生こそ「とらわれ・執着」のもとであると仰せになったのであろうか。
安楽集の
「もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。もし実の生ならば、すなはち二疑に堕す。
一にはおそらくは往生を得ず。二にはいはく、この
相善、無生のために因となることあたはず。」
ここで用いられる《無生》はすがた、かたちのある浄土を願って修める善根で自力の願生であるから、浄土往生の因にはならない。その意味で、《無生》は衆生のとらわれの誤った考えを指しているようにおもえる。
しかし
「しかるに
かの浄土は、すなはちこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有の衆生の愛染虚妄の執着の生のごときにはあらず。
なにをもつてのゆゑに。それ
法性清浄にして畢竟無生なればなり。しかるに生といふは得生のものの情なるのみと。」で用いられている《無生》はさきほどの用法とは異なっているのではないか。
《実の生》に対応する《無生》というか、何か《衆生の生を超越した生》といったもの、あるいは《すべてに超越した法》といったものなのであろうか。
また、浄土を求めるというか、浄土往生を願うというか、そのことは「因縁生」という概念で考えることだというのだろうか。
仮に人といわれるものの生死は、すべて因縁によって生ずる。
《いま「生」といふはこれ因縁生なり。因縁生なるがゆゑにすなはちこれ仮名の生なり。
仮名の生なるがゆゑにすなはちこれ無生なり》とある。
《実》でないから《仮に》であると説いておられる。上のご文の場合の《無生》は存在を否定する無であり、否定された存在のない生とでもいうことなのであろうか。そのように思って考えてゆくと「無生にして虚空のごとし」というご文が何かしら理解しやすいようにも思える。
仮の生ということと、常住不変の浄土・法・如来・涅槃ということ、その浄土に生まれるということ、生まれるものは仮に人と名づけられたものであり、人として生まれ死ぬことは《仮に》としたら、常住不変の浄土・法・如来・涅槃に《うまれる》ことはやはり如来の慈悲のひかりの中に包まれるということ以外に表現ができないのではないか。衆生の思惟の限界を超えたものとしかいいようがないのではないか。
この前の質問の中で、往生論註のお示しいただいたご文の領解の仕方について「逃げをうったような」としたのは、ここの言葉の理解がなかなかできず、全体も理解しがたいものがあり、そんなことを煎じ詰めることの不合理さが自分を責めている、その責めから逃げるということでもあります。
まことに理解不足で何度もおたずねして申し訳ありませんが、
1.まず言葉としての無生・不生・因縁生。
2.衆生は畢竟無生にして虚空のごとし。
3.諸法は因縁生のゆえに、すなはちこれ不生なり。所有ことなきこと虚空のごとし。
についてあらためてくだいてご説明いただけませんか。よろしくお願い致します。
合掌
返答
質問にお応えさせていただく前に、まず引用文の現代語訳を掲載しますが、これで大分ご理解が深まると思われます。
大乗の経典や論釈の中には処処に「衆生は畢竟無生で虚空のようである」と説かれている。
- @ 往生論註
- 一つには、凡夫の思うような固定した衆生があって、凡夫の考えるように、それが実にここに死んでかしこに生まれるというようなこと、そういうことは本来ないので、ちょうど亀に毛のないようにその体がなく、虚空のように空無である。
二つには、あらゆるものは因縁によって生ずるのであるから、そのままが本来不生であって、固定した体のないことは、あたかも虚空のようである。いま天親菩薩が「生まれることを願う」といわれるのはこの因縁生の上でいわれる。因縁生の義であるから仮に「生」というのであって、凡夫の考える固定した衆生があって、実に生まれたり死んだりするということではない。
- A 教行信証大行釈引文
- 一つには、凡夫が思っている実体としての衆生や、凡夫の考えている実体としての生死のように、凡夫が実体と思い、考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない。それは、亀についている藻を見誤って亀の毛というようなものであって、実体がなく、虚空のようだということである。
二つには、あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、もとより実体として生じるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。いま天親菩薩が<生れようと願う>といわれるのは、因縁によって生じるという意味でいわれているのである。因縁によって生じるというのであるから仮に<生まれる>というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生まれたり死んだりするということではない。
- B 安楽集
- 大乗の諸経論には、みな「衆生は、畢竟無生で虚空のようなものである」と説かれているのに、どうして天親菩薩や龍樹菩薩は西方往生を願われるのであるか。
答へていう。「衆生は畢竟無生で虚空のようである」ということには、二つの義[いわれ]がある。
一つには、凡夫の考えているような固定した衆生があって、それが生まれたり死んだりするというようなのは、もし菩薩の往生によるならば、虚空のようであり、兎の角[つの]のようであって、そのようなものはない。
二つには、いま生というのは因縁の上でいうから仮に生と名づける。仮に生と名づけるのであるから、そのままが無生の生であって、仏法の大道理にそむかない。凡夫の考えているような固定した衆生があって、それが生まれたり死んだりすると考えるようなのとは違うのである。
- C 安楽集
- 無生の生であると知るのは、上品の往生者にあたる。もしそうであれば、下品生の人が十念の念仏によって往生するようなものは、生死相対の実の生を考えているのではないか。もし実の生ならば、二つの疑問に落ちる。一つには、恐らく往生ができないだろう。二つには、この有相の善は無生の生のためには因となることはできないであろう」
- D 安楽集
- 生を見るということは、迷いの根本となり、多くの苦しみのもとである。もしこの過ちを知って、生を捨てて無生を求めるならば、迷いをのがれる時があるであろう。今すでに浄土に生まれることを勧めている。これは生を捨てて、生を求めているのであって、迷いの生がいつまでたっても尽きないであろう。
答えていう。ところがかの浄土は、これ阿弥陀如来の真如法性にかなった本願力によって受けるところの生死相対をこえた生であって、三界の衆生のいつわりで煩悩の執着より考えるような生ではない。なぜかというと、真如は清浄であって畢竟無生のものである。今、浄土に生まれるというのは、往生を得るものの情[こころ]についていうのみである。
- E 安楽集
- また問うていう。いずれの身によって往生というのか。
答へていう。この世界の人であるあいだにおいて、いろいろ行を修める場合、前の念は後の念のために因となる。この穢土における人と、浄土に生まれた人とは、きまって一ともいわず、きまって異ともいわない。前心と後心とも、またこのとおりである。なぜならば、もしきまって一なら因果の別がなく、もしきまって異ならば同一人の相続ではない。こういうわけで、横にいえば迷悟の別があるけれども、竪に因果をいえば始終同一の行者である。
◆ 上品と下品の往生は究極的には同じ
現代語訳を見ますと、
<ここで説かれている「生」というのは、わたしたちが対面している《この世の生》ということであろうか。祖師のいう「実の生」にあたる。実の生の集積が「衆生」である。だから、安楽集に「それ生は有の本たり。すなはちこれ衆累の元なり」…D
とあるのは、衆生の生こそ「とらわれ・執着」のもとであると仰せになったのであろうか>
というご質問は、その通りでありましょう。ただ、もう少しはっきり言いますと、「実の生」という幻を求める集積が「迷いの衆生」である今の私の姿である、ということです。
次に、「無生の生であると知るのは、上品の往生者にあたる。もしそうであれば、下品生の人が十念の念仏によって往生するようなものは、生死相対の実の生を考えているのではないか。もし実の生ならば、二つの疑問に落ちる。一つには、恐らく往生ができないだろう。二つには、この有相の善は無生の生のためには因となることはできないであろう」…C について
<ここで用いられる《無生》はすがた、かたちのある浄土を願って修める善根で自力の願生であるから、浄土往生の因にはならない。その意味で、《無生》は衆生のとらわれの誤った考えを指しているようにおもえる。>
というご理解ですが、《無生》はあくまで、かたちのある浄土ではなく、因縁としての生です。またこの安楽集の文は「問い」の部分ですから、そのまま受け取ってはなりません。
つまり「阿弥陀如来の清浄本願の無生の生」とか「法性清浄にして畢竟無生なればなり」という《無生》は、上品の往生者にしか該当しないのではないか、「もしそうであれば、下品生の人が十念の念仏によって往生するようなものは、生死相対の実の生を考えているのではないか。・・・」という問いです。
ちなみに、「往生もできないし、その因にもならないのではないか」という問に対して、道綽禅師(曇鸞大師)は以下3つの解釈によってその疑念を退けられています。
- 一つには、たとえば清浄な摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力によって濁った水が澄むようなものである。もし人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があるとしても、阿弥陀如来のこの上なき無生清浄の徳(法性真如)にかなった名号を聞いて、これを煩悩の心に入れるならば、念念の中に罪が滅び清浄の徳にかなってそこで往生をうる。
- 二つには、清浄な摩尼宝珠を玄[くろ]や黄の弊[きぬ]に包んで、水の中に入れるならば、水は包んだ弊[きぬ]の色の通り玄[くろ]や黄になるようなものである。かの清浄な仏土には、阿弥陀如来の無上宝珠の名号がある。浄土のいろいろの荘厳功徳の弊[きぬ]で包んで、これを往生したものの心に入れるならば、どうして実生実滅の生を転じて無生の智となすことができないはずがあろうか。
- 三つには、また、氷の上で火を燃やすと、火が強ければ氷がとける。氷がとければ火も消えるようなものである。かの下品の往生人は、なお法性無生(生即無生)のことは知らないけれども、ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、すでに無生の浄土に至る時は、(かの国は無生の道理にかなった境界であるから)実生実滅を見る見生の火(煩悩の火)は自然[じねん]に消えるのである。
このように、「往生」の生は「無生」の生であり、それが上品の往生者のみならず、下品の往生者にも適う道であることを説かれるわけです。ただしそのためには上品の往生人のようにすぐに「無生」の生を得るのではなく、我々下品の往生人は、阿弥陀如来の名号を、浄土の様々な荘厳で包んで心にいただき、それでもなかなか法性無生のことは本当には理解できないのだけれど、浄土に至れば、如来の願いの成就によって自然に「実生実滅の生を転じて無生の智となす」ことができる訳です。
これは具体的に言いますと、私たち下品の往生者は如来の本願成就の名号に依らなければかないませんが、その名号に直ちに心を向ける事さえできない私たちですから、浄土の様々な荘厳が必要であるということです。これは「身や国土をおごそかにかざること、身口意をととのえて清浄にすること」ですが、実際には念仏の行者による人生荘厳のありさまであり、「不可称不可説不可思議の功徳」を満たした行者の身におけるはたらきなのです。そしてその象徴的な形として、仏壇等のおかざりを整えるのです。
ですから、それと比較された文
「ところがかの浄土は、これ阿弥陀如来の真如法性にかなった本願力によって受けるところの生死相対をこえた生であって、三界の衆生のいつわりで煩悩の執着より考えるような生ではない。なぜかというと、真如は清浄であって畢竟無生のものである。今、浄土に生まれるというのは、往生を得るものの情[こころ]についていうのみである」
で用いられている《無生》とは、用法の違いはありません。ただし上品の往生と下品の往生とは、経緯・方法が違ってくるわけです。
これは次のご質問の
<《衆生の生を超越した生》といったもの、あるいは《すべてに超越した法》といったものなのであろうか>
という生に顕れてますが、こうしたいきなりの超越は上品の往生人のことです。下品の往生人は煩悩の心をかかえていますから、「実生実滅の生を転じて無生の智となす」とか「実生実滅を見る見生の火は自然[じねん]に消える」という如来から回向された名号のはたらきかけが必要となってきます。ただ、そうすれば上品人も下品人も如来のおはたらきによって同じ生死相対をこえた生である浄土往生に至ることができるのです。
これは、
<浄土を求めるというか、浄土往生を願うというか、そのことは「因縁生」という概念で考えることだというのだろうか>
ということにも結びつきますが、まさにそうした如来のおはたらきが因縁として私達に至りとどいて下さっていることをいただくのです。もちろんこの因縁は私の側の因縁ではなく、如来の因縁果報が回向された、と見開かれます。
◆ 名が仮につけられたのであって、生そのものが仮ではない
また次に、
<《無生》は存在を否定する無であり、否定された存在のない生とでもいうことなのであろうか>
という解釈ですが、存在を否定してしまっては「無見」に執着してしまいます。「有見」はもちろん否定しますが、「無見」もまた誤った考えです。ですから、その次のご理解にも注意が必要です。
<仮の生ということと、常住不変の浄土・法・如来・涅槃ということ、その浄土に生まれるということ、生まれるものは仮に人と名づけられたものであり、人として生まれ死ぬことは《仮に》としたら、常住不変の浄土・法・如来・涅槃に《うまれる》ことはやはり如来の慈悲のひかりの中に包まれるということ以外に表現ができないのではないか。衆生の思惟の限界を超えたものとしかいいようがないのではないか。>
「仮に」という場合、あくまで「因縁として」という意味です。ところが、そうした厳然たる生を「仮に生きている、本当の生は別のところにある」と読み間違えると、とんでもない誤解を生みます。
「仮に」とは、「固定的実体」を否定しているわけですから、言い換えれば「おかげさま」という意味です。人は数多くの「おかげさま」によって生かされているのですから、「仮に人と名づけられる」というのは「おかげさまの人生」ということであり、その「おかげさま」で生かされている姿こそ、「畢竟無生にして虚空のごとし」と言われる仏教の尊い教えそのものなのです。浄土はその自覚を得さしめるようにはたらく場ですから、「浄土へ生まれる」というのは、個人が実体として浄土へいく、というようなものではなく、また無限の光の中に個人が包まれ、埋もれてしまうのでもありません。
「自分で生きている」と思っていたら、実は「生かされている」ことに気づいた。そうすると、おのずとその「生かされている」ところから「自分で生きていく」という主体的・自律的な生き方が展開されていきます。最初の「自分で生きている」というのは思い上がりですが、後者の「自分で生きていく」のは、真実に報いてゆく生き方です。
このあたり、安田理深氏は『意識と時間』という講義の中で、
仏教のなかにも個が永遠のなかに消えてしまうような仏教もある。個が涅槃のなかに解消してしまうという考え方もある。しかし、これは正見ではない。相対有限なるものが無限のなかへ解消してしまうのは、有限の真の救いではない。真の救いは有限が無限の象徴になることである。
無限と有限とがあるのではない。あるのは有限のみである。無限といっても有限の他にあるのではない。だから無限は有限の本来性である。有限が有限自身を自覚すれば無限の象徴になる。それが超越ということである。
と述べています。
そこで、ひとつづつまとめますと、
- 1.まず言葉としての無生・不生・因縁生。
- 本当の衆生のありかたは、「固定した衆生」も、「実体としての生死」も無い。「無生」であり「不生」である。浄土に往生することは、因縁の上で名づけたものであるから、「因縁生」という。
- 2.衆生は畢竟無生にして虚空のごとし。
- 「固定した衆生が輪廻転生する」ということを否定している言葉。また往生は「因縁生」であり仮に「生」と名づけるのであるから、そのままが無生の生である。
- 3.諸法は因縁生のゆえに、すなはちこれ不生なり。所有ことなきこと虚空のごとし。
- 「あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、もとより実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである」。そうした衆生の、そのままの姿は真であるが、それを受け止めることなく、固定した実体の輪廻を追い求めるため迷いが消えない。
もう少し真と偽を並列させてまとめてみますと、以下のようになります。
| 「偽」・もしくは「問い」 | 「真」・もしくは「答え」 |
「生」について | 実体として「生」があり、これが生滅を繰り返している。 | 全ての存在は因縁によって生起したもので、実体としての「生」はないから「不生・不滅」である。 |
「不生・不滅」について | 「不生・不滅」であるなら、自分は永久に存在する実体である。その実体が輪廻を繰り返す。 | 「不生・不滅」とは、実体としての「生」をいうのではなく、因縁としての存在の真実性を「不生・不滅」と顕した。 |
「浄土」について | 実体としての自分を永遠に楽しませてくれる場所として極楽浄土へ生まれたいと願う。 | 浄土は阿弥陀如来の真如法性にかなった本願力成就の場で、人はそれを信じておまかせするのみ。 |
「往生」について | 「生」は迷いの根本で、「この世の生を棄てて浄土へ生まれることを願う」というのでは、二つの世界を相対差別していることに他ならず、いつまでたっても迷いの生は尽きない。 | 浄土往生は生死相対を越えた生であり、迷った生とは違う。ここでは往生を得る者の心情のみを言っているのであり、浄土因縁の上でいう「仮の生・無生の生」である。 |
「無生の生」について | 「無生の生」などと難しいことを云うより、「実体としての生は無い」とだけ説明すれば済む。「いのち」というのは、生まれて死ぬまでのことであり、実体としての生がないのなら、生への執着を棄て、煩悩を棄てることに専心することこそ肝心ではないか。 | 進んで衆生を利益する大乗無為のさとりをあきらかにするため「無生の生」と云う。これを否定したりないがしろにすれば、小乗の偏った空の見解の病に沈み、衆生と仏は断絶し、菩提心は永久にすたれてしまう。迷いの衆生を無生の生に達せしめるのが浄土であり、阿弥陀如来の成仏のいわれを聞くことで、疑いを解き、真実信心をおこしめるのである。 |
「上品・下品の違い」について | 「無生の生」は上品生の人のことで、下品の人が念仏往生する、というのは、生死相対の実の生を考えているため、往生できないし、往生の因ともならない。 | 阿弥陀如来の無生清浄の徳にかなった名号を、浄土の様々な荘厳で包んで心にいただけば、やがて浄土に至り、如来の願いの成就によって、自然に「実生実滅の生を転じて無生の智となす」ことができる。
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「仮の生」「仮名人」について | この世は仮の世であり、私は仮の姿である。この世は穢土だから不正がはびこっていても仕方が無いし、私は凡夫だから一切の善は行なえず、人を差別することはやむを得ない。死後は浄土へ行けるから、そこで初めて本当の世界に出合える。 | 「仮」というのは「おかげさま」という意味で、決して真実がこの時この場以外にあるのではない。この世が穢土であり、自分が真実から外れた姿・凡夫であると気づくということは、そのままが「おかげさま」であり、浄土の清浄のはたらきのを受けていることに他ならない。そのはたらきが、私の生き方を真実ならしめ、世界を浄土の因縁に包み込んでゆく。
|
合掌
(参照:{往生論註})
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