平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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唐突な疑問ですけど、よろしくお願いいたします。
どんな存在に対しても平等な現象を考えてみると、「死」というのがそれではないでしょうか。
「死」は老若男女、貧富、貴賎を問わずどんな存在にも必ず訪れます。
阿弥陀如来はどんな者に対しても平等な仏だと聞いています。
「死」=「阿弥陀如来」
こんな風に考えるのは無理がある気はするのですが、どうでしょうか。
宗教というのは、「死」をどう受け止めるかいうことが大きな問題であると思います。
もし「死」の中に人を安らげたり、良い方に向かわせるものを見出せれば、
「死」を恐れたり、避けたりしない生き方ができるような気がするのです。
「死」は万人に平等であり、「阿弥陀如来」も万人に平等の救いを与える、ということで、死=阿弥陀如来と考えられたわけですね。
結論をいいますと、阿弥陀如来は「死」の問題と無関係ではありませんが、イコールではありません。むしろ「いかに生きるべきか」を問うことで存在意義が明らかとなるのが阿弥陀如来であり、浄土なのです。
平等と差異について仏教の基本的な考え方をひとつ述べてみますと、たとえば「識を転じ智を得る」(転識得智)といいます。
人は迷いの「識」によって社会にはびこる差別の相をそのまま実体として見てしまっていますが、これを「慧眼」によって差別の見を離れ平等を見るのです。しかし「平等」に固執してしまっては実相が見えませんので、再び現実社会に戻って差異をはっきり見る「智」を用いるのです。このように平等と差異が同時に見えることが仏の「智慧」なのです(ただし智慧という語の解釈は多数あります)。
例えば男女の問題でも、かつては「男は女より勝れている」という差別的な価値観が世にはびこっていましたが、この差別の識を批判し「平等」と見るのが慧見のはたらきです。男も女も同じ人間じゃないか、ともに尊くつながった存在ではないか、という人類共通の立場に立たしむるのが「慧」です。
しかし男女の違いや歴史を無視し「平等」という視点に執われていては、今度は男女の差異が生きてこなくなります。差異があるという事実からも学ぶ必要があるのですが、実体を無視して平等という考え方に固執すれば、結局は破綻してしまうでしょう。違いを認めあい協力してこそ本当の社会です。男が女になる必要はなく、女も無理に男の真似をする必要はありません。互いに相手の立場を理解しながら、男は男として幸せを求めて輝けばよく、女は女として幸せに輝けばいい。これが「智」であり、経典には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」等と、浄土の様子を顕わしています。({女人往生の願}参照)
差別に固執すれば世界が狭まり、平等に固執すれば男女とも光を打ち消してしまいますが、「ともに尊し」の慧を得て差異を見れば、男女が照らしあう関係になるのです。こうした幸せのあるところを浄土とよび、幸せのないところを奈落(地獄)といいます。
性の問題には男・女以外のケースもありますが、そうしたケースの場合も歴史を背負って社会の中で立場を得て、幸せに輝きあうことを求めるのです。この「求め」を仏心とも菩提心ともいい、これが如来のいのちそのものなのです。
「老若男女、貧富、貴賎」の違いも、違いを無くすだけが幸せの道ではなく、違いがあったとしても、互いに理解しあい、ともに生かし生かされる関係になることが、覚りの報いによる「智慧」によって適うのです。如来の本願から言えば、第三願の{悉皆金色の願}は共通の立場に立っての願いで、第四願の{無有好醜の願}は個性が発揮されつつ互いに照らしあう願いなのです。このように、阿弥陀如来の願いは、常に人間関係を問題とし、社会的に生きる場においてはたらきます。
阿弥陀如来を「死」の問題として理解すれば、確かに「老若男女、貧富、貴賎」の違いは無くなりますが、そこには違いを生かす場はありません。
このように、智慧の面から見ても、願いの面から見ても、死=阿弥陀如来ではないことが解ると思います。
ちなみに、「智慧」と「知恵」は違います。「知恵」はもともと自分に無かったものが、外界から恵まれて、そのことを知り身につけていくものであり、「智慧」はもともと自分の奥底に流れていて、見出され磨かれる時を待っているものです。ただし智慧は、知恵を得ずに磨かれることはありません。外側との関係が成熟してこそ智慧が障りなく働きだすのです。
また仏とは、智慧と徳が成就した人のことであり、智慧は一瞬にして開かれることもありますが、徳は行為や周囲の人を通してのみ身につくものですから、大乗仏教では「私は仏である」と自ら名乗ることはできないと言えましょう。
〉 宗教というのは、「死」をどう受け止めるかいうことが大きな問題であると思います。
〉 もし「死」の中に人を安らげたり、良い方に向かわせるものを見出せれば、
〉 「死」を恐れたり、避けたりしない生き方ができるような気がするのです。
この問題については以前、{死んだらどうなるのだろう} や {死んで浄土へ往生できる人とできない人} に詳しく書きましたが、要点を整理してお話ししますと――
死の問題の解決(これは結局、生の問題を解決することですが)には、真・仮・偽の道があります。
・「偽」とは嘘であり、「宗教は民衆の阿片である」(レーニン)と言われるような神話や夢物語や幻覚の世界をもって救いとし、ここから抜け切きれなくなる道です。さらに言えば、観念や理性や知・情・意によって描き出された世界を救いの場とすることも偽の救いといえましょう。
偽の宗教は、死後をあたかも実体のあるような世界とし、ここに到ることを救いとしています。誰も確認できないことをいいことに、好き勝手な神秘的世界や超越的世界を作り上げ、そこに行くための条件を教団に都合の良いものにして教線を拡張していきます。そしてこの条件を満たさないものは「地獄に行く」と脅し、金品や主体性を奪い取ります。この道は、説いた側も説いた嘘に縛られ、双方の人生が虚しく朽ちてしまいます。暴力破壊を繰り返す宗教が後を絶たない現状を見ると、世界には偽の宗教がいかに多いかが分かります。
・「真」とは真実であり、「今ここにおいて問題を解決する道が見つかった」と肯くことができる道です。
これは島田幸昭師のよく言われる「生きて甲斐あり死んで悔いのない」人生を全うすることであり、{必至滅度の願} に書きましたように、完全燃焼の人生をみずから選択し全うすることで適います。
そのためには、今ここで私が生きる意味が明らかになり、人生の目標が見つかることが必須でありましょう。その目標も表層のものではなく、私の奥底から涌き上がってくる本来的なものであり、同時に個人に留まらず、現在・過去・未来の三世一切諸仏の願いと相応し、三世一切衆生と集う場において披露できる目標でありたいわけです。そうでなければ、言葉や主義に縛られた目標であったり、独り善がりな願いですから、自分の生きた証しが歴史社会に意味を与えられないのです。「生まれてきて良かった」、「大変だったけど充実した人生だった」、「すべきことは全てやり終えた」と、真底から思える人生を創造する、創造しようと願うことが真の生死の解決であり、こうした人生を創造する意欲に満ちた境地を「正定聚・不退転」といいます。欲が真の欲になった時、人生の問題が解決に向かいます。
浄土真宗では、三世一切諸仏の願いと相応するため、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とありますように、阿弥陀如来の四十八願のいわれを聞き開くのです。なぜなら、阿弥陀如来の四十八願は三世一切諸仏の願いと相応した内容であり、全てを内包し止揚し、新たに歴史社会の場に立って建立した願いなのです。私達凡夫も、聴聞すればこの願いが私の奥底で名のり叫び続けていた願いであることが実感できるでしょう。「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」は、今ここでの実体験です。
・「仮」とは方便であり、真実の解決に導くための仮の道です(「方便」には他にも色々な意味がありますが、ここでは「仮」の意に使います)。今述べました「真実の解決」は、如来の願建立の動機と私の動機が一致してこそ全て受け取れて一体なのであり(機法一体)、菩提心(真実求道心)が起ってない人や、起ってもそれが自力(つまり意志の力に頼った菩提心)であったりすると、仏の願と私の願が一体となりません。
凡夫に浄土の菩提心を起こさしめるのは一朝一夕には適いませんので、一切衆生を真実報土に往生せしむるためには、一旦、「死後も安楽に暮せる世界」・「世俗の欲が満足する世界」を示す必要があるのです。無明・煩悩に固まった凡夫は、死を恐れ、仏性の開発に興味が薄いので、仮の浄土でも往生したいという思いを抱かせ、恐怖心を取り除き、そこから真実報土に向かわしめる方法を取るのです。
『仏説無量寿経』では、仮の浄土に往生することを「化土に胎生する」といいますが、ここにいつまでも留まらず、「真実報土に化生」(即得往生)することを勧めるのです。もちろん、最初から「真実報土に化生」できる人にはそれを勧めます。
経には、「胎生」は――
さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。とあり、「化生」は――
無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。と示されています。{※資料1▼ 参照}
なお、「胎生」は「化生」の因となりますので、仮であっても後々の功徳は大きいのです。
「胎生」は「前念命終」といいまして、死んで後に安楽に暮せることを求めて善行功徳に励むのですが、「化生」は「後念即生」といい、本願信受の瞬間から今ここにおいてこの立場のままに往生する(即得往生)ことができます。{※資料2▼ 参照}
つまり、阿弥陀如来の願いに感動し、<真実報土に往生したい>と願うその願いが真実になれば、すぐに阿弥陀仏の浄土に往生することができるのです。これを「即得往生」といいます。ただし、浄土には往ったままになるのではなく、浄土と娑婆を自由に行き来できる門が見つかることが肝心なのです。正定聚・不退転の菩薩となった念仏者は、つねにこの門によって「百千由旬もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養」することができるのです。本願にある通り「諸仏を供養する」ことこそ信心生活の第一の心得ですから({供養諸仏の願} 参照)、下巻の「胎化得失」にも化生の利益を代表して「供養諸仏」が記されているのでしょう。
胎生の者は仮の浄土の心地よさに満足してしまい、現実社会に進み出る機会を失いますので、菩薩として功徳を積むことができず、仏には成れないのです。往生するためだけなら私が功徳を積む必要はありませんが、成仏のためには新たに功徳を積むことが絶対に必要です。行為を通してこそ仏に成ることができるのです。ですから真実の浄土には、浄土と名号の徳を発揮するため現実社会に出入りする門が開いているのです。
ただし実体として門があるのではありません。これは浄土からいえば「入出無碍」の門であり、娑婆からいえば「往還二相回向」の門で、これこそが真実信心の要の場であり、南無阿弥陀仏が機法一体としてはたらく真の姿なのです。浄土は一瞬たりとも現実社会を離れず、それでいて現実の五濁悪世の無明煩悩に染まらず、清浄と荘厳のはたらきを世に示し、念仏者を通して社会に功徳を展開するのです。
参考:{浄土往生は即成仏と同義語でしょうか} {即往生するのに何度も法要を繰り返す訳} {浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?
【42】そのとき仏、阿難および慈氏菩薩(弥勒)に告げたまはく、「なんぢ、かの国を見るに、地より以上、浄居天に至るまで、そのなかのあらゆる微妙厳浄なる自然のもの、ことごとく見るとせんや、いなや」と。阿難対へてまうさく、「やや、しかなり、すでに見たてまつれり」と。「なんぢ、むしろまた無量寿仏の大音、一切世界に宣布して、衆生を化したまふを聞くや、いなや」と。阿難対へてまうさく、「やや、しかなり、すでに聞きたてまつれり」と。「かの国の人民、百千由旬の七宝の宮殿に乗じて障碍あることなく、あまねく十方に至りて諸仏を供養するを、なんぢ、また見るや、いなや」と。対へてまうさく、「すでに見たてまつれり」と。「かの国の人民に胎生のものあり。なんぢ、また見るや、いなや」。対へてまうさく、「すでに見たてまつれり」と。「その胎生のものの処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くることトウ利天上のごとくにして、またみな自然なり」と。
【43】そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
【44】また次に慈氏(弥勒)、他方仏国の諸大菩薩、発心して、無量寿仏を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華の中において自然に化生せん。弥勒、まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。その胎生のものはみな智慧なし。五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世のとき、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。
【45】仏、弥勒に告げたまはく、「たとへば、転輪聖王のごとき、別に七宝の宮室ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろのゾウ旛を懸く、もしもろもろの小王子ありて、罪を王に得れば、すなはちかの宮中に内れて、繋ぐに金鎖をもつてす、飲食・衣服・床褥・華香・妓楽を供給せんこと、転輪王のごとくして乏少するところなけん。意においていかん。このもろもろの王子、むしろかの処を楽ふや、いなや」と。対へてまうさく、「いななり。ただ種々に方便して、もろもろの大力〔ある人〕を求めてみづから免れ出でんことを欲ふ」と。仏、弥勒に告げたまはく、「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。仏智を疑惑せしをもつてのゆゑに、かの〔胎生の〕宮殿に生じて、刑罰乃至一念の悪事もあることなし。ただ五百歳のうちにおいて三宝を見たてまつらず、〔諸仏を〕供養してもろもろの善本を修することを得ず。これをもつて苦とす。余の楽ありといへども、なほかの処を楽はず。もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離れんことを求めば、すなはち意のごとく、無量寿仏の所に往詣して恭敬し供養することを得、またあまねく無量無数の諸余の仏の所に至りて、もろもろの功徳を修することを得ん。弥勒、まさに知るべし。それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。このゆゑに、まさにあきらかに諸仏無上の智慧を信ずべし」と。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失 より
意訳▼(現代語版 より)
【42】 そこで釈尊は阿難と弥勒菩薩に仰せになった。 「そなたたちは、その国の大地から天空に至るまでの間にあるすべてのものが、実にすぐれて清らかなことをよく見ただろうか」
阿難がお答えする。
「はい、その通りに見させていただきました」
「ではそなたは、無量寿仏が、すべての世界に響きわたる声で教えを説き述べて、人々を導いておられるのを聞いたか」
「はい、その通りに聞かせていただきました」
「では、その国の人々が、百千由旬もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養しているのを見たか」
「はい、見させていただきました」
「ではまた、その国の人々の中に胎生のものがいるのを見たか」
「はい、それも見させていただきました」
釈尊が仰せになる。
「その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でトウ利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」【43】 そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。【44】 また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」【45】 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「たとえば転輪聖王が王の宮殿とは別に七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、いろいろな旗などがかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その宮殿の中に入れられて黄金の鎖でつながれるのであるが、食べものや飲みもの、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、すべて父の王と同じように何一つ不自由することがない。さてその場合、王子たちはそこにいたいと願うだろうか」
弥勒菩薩がお答えする。
「いいえ、そのようなことはないでしょう。いろいろな手だてを考え、力のある人を頼ってそこから逃れ出たいと思うでしょう」
そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。
しかしこれらのものが、その苦は仏の知恵を疑った罪によると知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、すぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養することができる。また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさまざまな功徳を積むこともできる。
弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである。そうであるから、無量寿仏のこの上ない智慧を疑いなく信じるがよい」
問ひていはく、なんの義によりてか往生と説く。答へていはく、この間の仮名人のなかにおいて五念門を修するに、前念は後念のために因となる。穢土の仮名人と浄土の仮名人と、決定して一なるを得ず、決定して異なるを得ず。前心後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし一ならばすなはち因果なく、もし異ならばすなはち相続にあらざればなり。
『往生論註』6 巻上 総説分 作願門 願生問答 より
意訳▼(聖典意訳 より)
どういう意義によって往生と説くのであるか。
答えていう。
この世にある人が五念門を修める場合、その人の修める前念の心は後念の心のために因となる。この迷いの世界の人と浄土の人とは、きまって一ともいわれず、きまって異ともいわれない。前心と後心との関係もまたこのとおりである。なぜかといえば、もし同一なら因果の別がないことになり、また異なるものとすれば同一のものの相続でないことになる。