平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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人は死ぬと即往生する。お経の中でも即得往生というコトバが出てくると思いますが
なぜ。往生したのに7、7、7とか49日とか中陰法要とか葬式のあとに何回もお参りをするのでしょうか
このご質問は、往生の問題と法要の問題が同時に問われていますので、まずは往生の問題を詳しく述べて、後に法要の意味を添えさせていただきます。
まず「往生」というのは、死後の問題ではなく現在の問題です。また、往生してしまうことが大事なのではなく、浄土に生まれんと「願う」ことが大切なのです。そのことは天親菩薩著『浄土論』(無量寿経優婆提舎願生偈)に「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」という文からも明らかであり、親鸞聖人は「体失往生」と「即得往生」という言い方で死の問題とは分けて考えられてみえました。
(参照: {浄土往生は即成仏と同義語でしょうか}・{五十二位と、親鸞聖人・蓮如上人の教学の違い(#体失往生と即得往生)})
『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。
『唯信鈔文意』2 より
意訳▼(現代語版 より)
『無量寿経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」と説かれている。「願生彼国」とは、阿弥陀仏の浄土に生れようと願えというのである。「即得往生」とは、信心を得ればすなわち往生するということである。すなわち往生するというのは、不退転に住することをいう。不退転に住するというのは、すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。このことを、「即得往生」というのである。「即」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。
阿弥陀仏の浄土は、人々に往生を願うように仕向ける作用があり、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と聖人が仰るような心になると、浄土の功徳が往生を願う人に実際にはたらくのです。
阿弥陀仏の浄土は「水清ければ魚棲まず」で、とても私たち罪悪深重の人間が住めるような場所ではありません。もしこのまま本当に浄土に往生してしまったら、周りは阿弥陀仏や観音・勢至菩薩はじめ立派な方々ばかりなのに、自分は余りにもお粗末で、恥かしくて縮こまっていなくてはならないでしょう。心の中までが明々白々となるのですから、想像するだけで恥かしくなります。悪の全く無い、悪の名さえ無い世界に、どうして私たちは住むことができるでしょう。
釈尊もこのことを明言してみえて――
なんぢらここにおいて広く徳本を植ゑて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。心を正しくし、意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪 40 より
意訳▼(現代語版 より)
そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。
と、この悪の多い現実世界に生き切ることこそを問題としてみえるのです。
しかしそれでも「仏願の生起本末を聞」けば真心が揺り動かされ、目を覚まし、往生したいと願わずにはおれなくなります。なぜなら「本願成就の浄土に生まれたい」という願いは、「私自身もかくありたい」とか「私の国もかくありたい」という深い願いの表出でもあるからです。ですから信心獲得後は往生を願うのではなく願生という生き様を生きるわけです。如来は先手先手で私の身心に至り届いてみえます。
そうした生まれんと願う心が如来回向の一心であり、金剛心であり、真実信心であり、仏のいのちそのものなのです。往生し切ってしまうのではなく、生まれようと願う願いが真実純粋になることこそが浄土や名号の功徳なのであり、私の身心に実際に回向される信心の功徳がなのです。
舎利弗、なんぢが意においていかん。なんのゆゑぞ名づけて一切諸仏に護念せらるる経とするや。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん。このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語および諸仏の所説を信受すべし。舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん。このゆゑに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。
『仏説阿弥陀経』 正宗分 証誠段 12より
意訳▼(現代語版 より)
舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜこれを<すべての仏がたがお護りくださる経>と名づけつのだろうか。
舎利弗よ、もし善良なものたちが、このように仏がたがお説きになる阿弥陀仏の名とこの経の名を聞くなら、これらのものはみな、すべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くことのない位に至ることができる。だから舎利弗よ、そなたたちはみな、わたしの説くこの教えと、仏がたのお説きになることを深く信じて心にとどめるがよい。
舎利弗よ、もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひともその国に生れたいと願うべきである。
このように、「阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願」っている人々は「その国にすでに生れている」のであり、「今願」っている人々は「今生れる」のであり、「これから願う」人は「これから生れる」わけです。「願往生」の一心こそが要めです。
またこの一心により、私たちも「自分の国も阿弥陀仏の国のようにありたい」と願いを起すことができ、その願いを如来は「必ずこのような国をつくることができる」・「必ず仏になることができる」と約束して下さるのです。({浄土理解の相違点} 参照)
国とは器世間(社会環境)であり、この中に業によってできた衆生世間(宿業・娑婆)と仏性によってできた如来世間(浄土)があるのですが、宿業と浄土が重なっている現実社会に自分の国を見つけ、その国が阿弥陀仏の国のようにありたいと願えば、願いが実際に完成することは永遠の彼方の目標ですが、願いが真実になる中で願いが成就するのであり、自分の世界が豊かに荘厳されてくるのです。
願いこそが仏のいのちそのものであり、仏の願いが私の願いに成り切ることが「願往生」であり「即得往生」なのです。
以上からわかるように、「人は死ぬと即往生する」というのは本質的には真実とは言えません。これは信心の内容について言っているのです。親鸞聖人も仰ってみえるように「即得往生」は今現在のことであり、真実信心の至り届いた今の「願生」の成就のことをいうのです。
信心の功徳によって浄土の縁が恵まれた私たちではありますが、実際の日々の暮らしはまだお粗末なままで、その成就は一歩一歩の歩みの中にしかありません。浄土の智慧は信心の内容として早くから開けてくるのですが、徳は行為を通してのみ身についてくるものですから、この歩みには限りがないのです。そしてこの具体的な成就は、{具足諸相の願} にありますように、人相まで変えてゆくはたらきを持つのです。
しかしこのことを誇り、「私は真の信心者です」とか「私は白蓮華のような者です」などと宣言することは避けねばなりません。これは「邪見驕慢悪衆生」と親鸞聖人も仰ってみえる通りで、「罪悪深重の凡夫」としか言いようのない自分の行為がつねに懺悔されなければ、本物の信心ではないのです。
たまに、「私は往生が約束されているから安心だ」とか「私は何年何月何日に信心をいただきました」などと言う人がいますが、これは驕り高ぶった者の云う世迷言でしょう。これは、我執が破れながらも法執に陥ってしまった結果で、よこしまな信心なのです。これでは、如来の励ましを横取りしたことになってしまいます。また得てしてこういう人は「自分は信心者、あなたは不信心者」と相手を蔑むことになりますので衆生の仏性が見えず、虎の威を借りる狐のように如来の評判を落とし、仏法に仇なす者となってしまいます。こういう僧侶も案外多いので注意が必要です。
ですから他人に対しても、「あなたは真の信心者です」とか「あなたは白蓮華のように徳が高い人です」などと言うことは避けなければなりません。仏道は驕り高ぶりが最も恐ろしいので、褒め言葉であっても、邪見を促すような失礼なことは言うべきではないのです。生きているうちは、互いに厳しく批判しあうくらいが丁度良いでしょう。
しかしその方が死なれたら、「あなたは真の信心者でした」、「あなたは白蓮華のように徳の高い人でした」と、如来の言葉を引いて素直に褒めることができるのです。{必至滅度の願} にありますように、正定聚に住する者は必ず滅度に至る、つまり念仏者は完全燃焼の豊かな人生を歩むことができるのですから、死者を仏と仰ぎ遺徳を慕うことは、残された私たちにとっては大きな心の支えになります。
こうした方を縁として法要を繰り返し行うのは、残された私たちの勤めでありますが、{供養諸仏の願} にありますように、先祖や諸仏を尊敬して供養することは、「先祖のために行う」という私たちの勤めであっても、本質的にはご先祖様の側が作られた仏縁なのです。そして供養は、相手に対する以上に供養を行う側にとってこそ重要な宝となるのです。
それは「させていただく」という言葉にも顕れていて、恭敬供養は、「尊敬する」という一方方向ではなく、尊敬の念を表した人が逆に浄土の功徳を「いただく」ことになる行為なのです。先祖は、財産や家風や信心などあれこれ残したいと願われ、私たちがご先祖さまを尊敬することによって大切なものを受け継ぐことができるのです。そしてその中でも信心・念仏の尊さは一番ですから、謹んで法要を行い、遺徳をしのび菩提を弔う(如来回向の菩提心を受け継ぐ)、浄土と名号の功徳を受け継がせていただくのです。