平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

仏壇の必要性と因縁話

― 家の精神的中心であることの重要性 ―

質問:

こんにちは  初めて書かせていただきます。

元気に生きております。
いえ、生かさせていただいております。

特定の信仰心とて持ってはおりませんが、さりとて、一人で生きているなどとはとうてい思えず、なにか”大いなるもの”に、やはり生かさせていただいている、、という思いではおります。

泣いたり笑ったり、、、生きて行く中で起こる、苦しみや悲しみの諸々、じたばたすることは多々あれど、生きているんだもん!
いろいろあって当たり前〜っと、つまるところ”今の自分のしあわせ”を自覚してい(るつもりではおり)ます。

超・凡俗であるわたくしとしては、しかし、この”なにものかに対する感謝と畏敬の念”でもってしておれば、よいのではないか、、、と思っているのです。

抽象的・情緒的なものいいで申しわけありません。

つまり、心はそうある!というそれだけではいけないのでしょうか。
やはり、形があることも(が?)大切なのでしょうか。

実際に家族について悩んでいる時、悪しきことが起こる時、だから常々お仏壇を置くべきと言ってるでしょう、と近親から言われます。
お家のお仏壇を大切にされ(□□宗)つつ、□□さん・・・(?)を信仰される、その人の言葉は、ある種、説得力と迫力を持って迫ってきます。
つまり因縁、、、のあれこれも言われます。
日々を忙しがるだけでなく、悩む前に相談(□□易断など)に行くのが親の務めだろう、そうしないのは怠慢だとも言われました。

我が家はお仏壇をそなえておりません。
家の精神的中心、、といった意味だけでもあればよかったなとは思いつつ、次男でもありますし、経済的にも余裕なく未だそこには至っておりません。

そうかなぁ。。。 これ(心だけ)ではアカンのかなぁ。。。
揺らぐワケです、、、心弱いですから。。。
落ち込んだ気持ちになっている時、こちらを拝見いたしました。
お尋ねしてみよう、、、!

ものの数でもない質問とは思います。
ご迷惑かとも存じます。
これでは、身の上相談?じゃないか!と、ためらいつつ、、、
でも、、、もしや、、、とお送りします。

(※「□」は固有名詞のため省略)

返答

 ご質問者は、おそらく現在の日本人の最大公約数的な宗教感情をお持ちであり、「このままでも良いのではないか」という思いを述べてみえるのでしょう。そういう意味では、個人的な相談のようでありながら、実は現在の日本人全体の姿勢を問う質問となっている気がします。
 これは多くの人が参考となる質問ですから、なるべく平易な言葉でお応えさせていただこうと思います。

 ご質問を伺いますと、2つの問題が浮かび上がってきます。それは、「仏壇を安置する意味が正しく理解されているかどうか」という点と、「宗教は心の問題だけではなく身の問題であることが認識されているかどうか」という点です。
 前者は、<実際に家族について悩んでいる時、悪しきことが起こる時、だから常々お仏壇を置くべきと言ってるでしょう、と近親から言われます>とか、<つまり因縁、、、のあれこれも言われます>というお話に表れています。
 そして後者は、<この”なにものかに対する感謝と畏敬の念”でもってしておれば、よいのではないか、、、と思っているのです>とか、<つまり、心はそうある!というそれだけではいけないのでしょうか>という問いに表れています。

 仏壇を安置する意味

 まずは、仏壇を安置する本当の意味を述べたいと思いますが、その前に、世間に誤って伝わってしまった世俗的な解釈――もしかしたらご質問者やご親戚の解釈も同様であるかも知れませんが、この真偽を明らかにしてみましょう。

 まず、<実際に家族について悩んでいる時、悪しきことが起こる時、だから常々お仏壇を置くべきと言ってるでしょう、と近親から言われます>という点ですが、<悪しきこと>の内容が、もし病気や災難などの不幸を指すとしたら、これは全く道理の通らないことです。

 道理に合わず、外側の条件を願い求めて祈ることを仏教では外道といい、これを迷い・執着のもととして批判します。仏壇を安置してもしなくても、世の悩みは尽きません。<いろいろあって当たり前>と感じてみえる通りでしょう。

「祈れば、神仏が災いを無くしてくれる」などということは有り得ません。こんなことは少し頭をはたらかせれば誰でも分っていることなのに、「あえて道理に反したことを祈るのが宗教だ」という迷信が世にはびこっているのが悲しいですね。これでは宗教としては余りにも程度が低く、現代人の宗教観は一体何千年前の段階に退化してしまったのだろう、と嘆かざるを得ません。ただしこうした迷信は自分の中に依然巣食い、形を変え名を変え、たとえば科学の名を借りて迷妄に誘うこともありますので注意が必要です。

受くべからん病は、いかなるもろもろの仏神に祈るとも、それによるまじきことなり。祈るによりて病も止み、命も延ぶることあらば、だれかは一人として病み死ぬる人あらん。

法然上人著『浄土宗略抄』 より

意訳▼
病にかかるには、それだけの理由があるのだから、どんなに多くの仏や神に祈っても、どうにもならないことだ。祈りによって病も治まり、寿命も延びるのならば、だれ一人として病み死ぬ人がいないはずだ。

五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり

かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす

親鸞聖人著『正像末和讃』悲歎述懐100,101

 本当の災難は外側にあるのではなく、自分だけの幸福に執着し、道理に外れた教えを信じ、自主的な判断を怠ることから起こります。
 それに対して仏教で学ぶのは―― 病で死ぬことがある。災難を受けることもある。老病死は逃れることができない。そうした厳然たる事実から逃げて無病息災を祈るのは道理に外れている。受けるべき災難は受けていこう。身心を大切にしながらも身心に執着せず、尊いいのちを本当に輝かせ、真実の生き方を求めていこう、という道です。しかも、全ての人々とともに歩むことを目指す、これが仏教です。仏教の中心は「果てしない求道心」にあり、この心で世を満たすことの尊さを教えているのです。

 また、<つまり因縁、、、のあれこれも言われます>ということも、例えば、「先祖が霊界で迷っているから、私たちが善を積んで救う」とか、「拝まないと先祖が良い所にいけないから」という理由で仏壇を購入するのであれば、動機として問題で、これでは先祖供養どころか、ご先祖様全てを侮蔑しているようなものです。そんな恩着せがましいことをすることが本当にご先祖様がたの願いなのでしょうか。ただし迷信から転じられる正信もありますので、あえて迷信を否定せず学びを深めて頂けることを願って活動している僧侶も多くみえます。
 御先祖様に対しては、感謝と尊崇の念を持つことが最も尊いことで、この念を形として表すのが供養です。この供養を行う場所が仏壇なのです。

 さらに本質的なことを言いますと、ご先祖様全てを仏として拝むことができるのは、真実の道を示し、邪説や煩悩に迷い続ける私たちを正しく導いて下さる普遍的なはたらきがあるからです。このはたらきを本仏・本尊として仏壇の中心に安置し、その功徳を仰いでよくよく学び、御先祖が歩まれた末通った道を私たちも歩ませていただく。このことのために仏壇があるのです。

 仏壇や仏法のもたらすもの

 次に、<この”なにものかに対する感謝と畏敬の念”でもってしておれば、よいのではないか、、、と思っているのです>とか、<つまり、心はそうある!というそれだけではいけないのでしょうか。やはり、形があることも(が?)大切なのでしょうか>という点についてもお応えさせていただきます。

 仏壇を安置することの意味は前述しましたが、一般的に、「宗教は心の問題だから、形は必要ないのではないか」という認識があります。また、「そんなに特別に宗教に関わらなくても、心を大事にしているのだから、私は大丈夫なのではないか」という意見もよく聞きます。

「形が必要かどうか」という問題は、これは理屈で言っても分りにくいことでしょうが、「形の無いところでは真実の心は姿を表しにくい」という事実をお伝えするしかありません。これは 釈尊が自分の父親には「無念・無相」の道を勧めなかった、ということからもうかがえます。
 私達は、形を整えないで仏本来の尊い心に触れることはほとんど不可能である、ということは事実として知っておいて下さい。そして、仏壇に毎日手を合わせていれば、この意味を体験できると思います。

 ですから、仏壇はすぐにでも購入していただきたいのです。経済的余裕がなければ、安い仏壇で結構ですし、本尊だけでも安置し、自分でお経をお勤めしていただけば結構です。( {本願寺出版社} から経本やお経のCDを購入することができます) 本尊も、小さな掛け軸や、三つ折れになった絵像であればかなり安価で、持ち運びもできます。
 とにかく、一度安置して家族全員で拝んでみてください。そして正しい仏法をしっかり学んでみてください。必ず内面や家族の関係に大きな変化をもたらします。
<家の精神的中心>と書いていただきましたが、この意味することの大きさに気付くことができると思います。

 もうひとつ、<つまり、心はそうある!というそれだけではいけないのでしょうか>という問題ですが、<心はそうある!>と思っている裏側の事実に気付かないと、いざという時、この矛盾に引き裂かれてしまいます。つまり、「心の裏側はそうなっていない」という事実があるのです。これは特に身において実感する課題です。
 心と身は一体であり、これを別に見ていては言い訳ばかりの人生になってしまいます。実際、身の問題を心と分けて考える人が多く見受けられます。そうしていれば、身で犯した罪を、心から切り離して誤魔化すことができるからです。「色々あって仕方なかったんです。本当の気持ちは違いますよ」という言い訳です。

 そうしたせいか、現代の日本人全体にはある種曖昧な性善説がただよっています。<”大いなるもの”に、やはり生かさせていただいている>と書いていただいたような宗教的心情ですが、この心情のまま具体化せずに曖昧にしておくと、さしたる変化の無い時は美しく見えますが、いざという時には身体が動かない。意に反して強いものに従わされ、仕方なく罪を重ねる。こうした状況に陥ったまま、何となく一生を過してしまう人も多いのではないでしょうか。これでは、せっかく人として生まれた甲斐が無い人生になってしまいます。

 体解[たいげ] という言葉がありますように、宗教は本質的には身の問題であり、生活に変革をもたらす具体的な思想です。「われ有り、われ無し、われと成らん」という宗教的段階を経て、人は本当に人と成ってゆくのです。「だろう精神は捨てよ」ということが鉄則です。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。

『往生論註』 巻上 総説分 真実功徳釈【07】 より
(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文【19】 に引用)

意訳▼
<真実功徳の相>というのは、功徳には二種類があり、一つには、煩悩に汚れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。
二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如に背いているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如に背いていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。

 私たちの人生の成就が日々の努力の延長線上にあれば、宗教など必要ありません。しかし、私たちのこの心のままでは、表面は誤魔化せても、真に良き人生の成就には結びつかない、ということに気付くことがあります。これが宗教の第一歩です。真に自らのいのちの尊さに目覚めたとき、この尊さとは正反対ともいうべき心にも気付くのです。

 ここに「二諦の道理」とありますが、これは「真諦・(第一義諦)」と「俗諦」という二つの内容がきちんと相互に関わっていく、という意味です。「真諦」とは、究極的な真理であり絶対平等を内容とし、姿形や言葉で表すことのできない真理をいいます。そして「俗諦」とは、この真理を下地として相対的な現象世界に姿形や言葉として表れたものです。如来の勧める道は、真理と現象界の問題がきちんとした関係をもって相互に関わっていくことを勧めるのです。
 しかし私たちは逆に、経験や表面に現れた現象に執着し、これを真理と見てしまっています。すると執着したいくつかの現象が裏切られた時、一切の現象の奥底にある真実が信じられなくなってしまうのです。そのためいつしか求道精神は枯れ、「真実・真理など得られないのだ」と虚無感に襲われてしまいます。特に、自らの計画が大きく狂ってしまうと、人生の全てが意味を失ったように見えてしまいます。

 現象面で、いくら自らの計画が狂っても、倒れた草木を抱いた大地からまた芽が顔を出すように、一生を通して私の人生を裏打ちし、成功も失敗も善も悪も意味あるものに仕上げていくはたらきが仏法なのです。この法を味わう喜びは、単に心だけではなく身に満ちてくる功徳なのです。

 さらに「衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせる」とありますが、自分一人が真実の道を歩んで他人を見下すのではなく、むしろ他人を敬い、皆ともに利益をわかちあう道を進み、もし自らが滅んでも他の人に功徳を施そうとすることが大乗仏教の精神なのです。たとえこのような心に成り切ることはできなくとも、そうありたいと願い、そうならしめるはたらきに裏打ちされて生きる、ということが大切なのです。

 最後に、南宋の総官張リンの言葉を紹介します。

衆生またなんの苦しみあればか、みづから棄ててせざらんや。ああ、夢幻にして真にあらず。寿夭にして保ちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。

宗暁編『楽邦文類』、『顕浄土真実教行証文類』行文類二・大行釈・引文【46】 に引用

意訳▼
人々は何の苦しみがあって、自らこのような尊い法を捨ててしまい、修めようとしないのであろうか。ああ、人生は夢幻のようであり、真実のものは何一つない。寿命ははかなくて、長くたもつことができない。わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。ひとたび人としての命を失えば、もはや一万劫を経てももとにはかえらない。今この時目覚めなかったなら、仏にも、わたしたち衆生をどうすることもできない。どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。

人として生きている今を当たり前と思わないで、多くの人が仏法を学び、受持し、領解を深めて頂きたいと思います。

(以下関連ページ)
仏壇の荘厳(飾り方)― 仏壇は人生の必須アイテム ―
複数の宗派の仏壇を安置してもよいか?― 家族みんなの気持ちを考えて ―
仏壇造りの苦労
仏像造りは釈迦の意志に反している?― 「法灯明」の表現/自然崇拝と仏教 ―
結局、本尊とは何か?― 法性法身と方便法身の関係 ―
具足諸相の願
ふたたび本尊について― 仏像に刻まれた深い願い ―


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