平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

複数の宗派の仏壇を安置してもよいか?

家族みんなの気持ちを考えて

質問:

 このたび 妻(一人娘)の両親と同居することになりました。妻の家は浄土真宗本願寺派で、先祖代々の仏壇をまつており、当然家財道具とともに当家に持ってこられます。当家は真宗大谷派の門徒で仏壇もあります。で 一つの家に 同じ浄土真宗とはいえ、ちがう派の仏壇が存在することになります。
 これは「双方のお寺と相談して、ひとつにする手続きをして・・・・・・」というのが 最も妥当な答えだとは思いますが、高齢の義父母のことを思うと私の希望としては、少なくても義父母が元気なうちは このまま2つの仏壇 それぞれのお寺とつきあい、何十年か後の義父母の葬儀はそれまでのお寺ですませた後、一つに統合して 子供に引き継ぎたいと考えています。
 これらは 地域によってお寺によって、人によって色々意見があることとは思いますが、それぞれ相談して決定していく前段階の予備知識としてなにか アドバイスを頂けたら と思い ご相談する次第です。
 また、家の構造上 二つの仏壇を並べて置かざるを得ません。普段はともに開けておくつもりですが、法要の際、一方の仏壇を隠す扉戸の設備が必要でしょうか。私としては 派は違ってもおなじ真宗ですから、二つの仏壇をあけての法要でいいとおもいますが、やっぱり「いいかげん」ととられたり、ご住職に失礼にあたったりするのでしょうか。あわせて アドバイスいただければ幸いです。
 よろしくお願い致します。
   合掌

返答

 日本は少子化ということもあり、今後はこのような相談が増えてくると推察されます。そこで、今回の具体的な相談とともに、仏壇の本質や、他のケースについてもあえて触れてみることにしましょう。

 仏壇とは

 個々のケースについて語る前に、そもそも仏壇とは何かについてお話したいと思います。

 仏壇の中心は本尊(仏像・仏画・尊号)であり、<一切衆生を救い、仏としての覚りを開かしめ、一人一人の人生を成就に導く>というはたらきの主体が顕されています([本尊と御真影について][ふたたび本尊について] 参照)。そして如来の真実心が現実に展開する世界を浄土といい、浄土を形にしたものが仏壇なのです。

 如来もお浄土も、形は本質ではありませんが、それゆえに無限の形を創出しうる世界ですから、言葉は同じでも形は様々に表現できます。ですから、同じ宗旨(同じ教え)でも宗派(組織)によって様式に若干の違いがありますが、それはどちらかが間違いという訳ではありません。

 日本における在家仏壇の始まりは、古く『日本書紀』の記述にまでさかのぼりますが、一般化したのは江戸時代です ([仏壇造りの苦労] 参照)。当時は既に現在の宗旨・宗派がほぼ成立していましたので、仏壇の歴史は宗旨・宗派の別を受けて発展してきました。
 各宗派の仏壇は本山の様式を真似て作られましたが、金色は如来の真心を顕し([悉皆金色の願][具足諸相の願] 参照)、浄土もやはり如来の真心の展開した世界ですので、浄土真宗の仏壇は宗派が違っても金を多用することが共通の特徴となっています。

 宗旨や宗派が同じ場合

 ご質問者は、宗旨は同じで宗派が違う、というケースですが――

「少なくても義父母が元気なうちは このまま2つの仏壇 それぞれのお寺とつきあい、何十年か後の義父母の葬儀はそれまでのお寺ですませた後、一つに統合して 子供に引き継ぎたいと考えています」

という意見には賛成です。
 形が本質ではないとはいえ、長年礼拝されてなじんだ形ですから、あえて変えることはしない方がいいからです。これは宗派が同じ場合でも、そうした心配りをされた方がいいのです。人の気持ちを考えないで無理に一つの形を押し付けるようなことはすべきではありませんし、第一それは仏意に反します。家族みなが心通わせあう場として仏壇があり、この一番大切なことを外しては荘厳の意味がないからです。
 ですから、それぞれの仏壇を別に拝むのではなく、みなで協力して荘厳し、ともに両方の仏壇にお参りされることが大切です。できたら朝夕二巻ずつ全員で読経して下さい。

「また、家の構造上 二つの仏壇を並べて置かざるを得ません。普段はともに開けておくつもりですが、法要の際、一方の仏壇を隠す扉戸の設備が必要でしょうか。私としては 派は違ってもおなじ真宗ですから、二つの仏壇をあけての法要でいいとおもいますが、やっぱり「いいかげん」ととられたり、ご住職に失礼にあたったりするのでしょうか」

 これも、あえて扉戸の設備は必要ありません(勿論扉戸があれば外す必要もありません)。見せて悪いものであれば隠さなければなりませんが、仏壇は皆に見せてこそ価値が現われます。法要などでは、むしろ様式の違いを味わい、認めあっていくことが念仏者の姿勢となるでしょう。
 大谷派のスローガンには、「バラバラでいっしょ ――差異をみとめる世界の発見――」とありますが、形を競い合ったり、一方を排除することのないように心がけることも信心の現われなのです。

 宗旨が違う場合

 ご質問の範囲を出てしまいますが、あえて宗旨が違う場合についても述べておきましょう。

 日本の仏教の特徴は宗派仏教といわれていますが、これは長所よりも短所が多く、それぞれの宗派は組織の殻に閉じこもってしまう傾向があります。こうなった主な理由は、中国における教相判釈の影響と、江戸時代の宗教政策にあります。
<宗旨宗派を超え、人として歩むべき道を明らかにする>という、本来目指さなければならない地平には背を向け、宗旨の独自性に寄りかかり、他をないがしろにする理由を探し回っている僧侶も少なくありません。

 本当は、各宗祖を目指すのではなく、各宗祖の目指されたものを目指すべきで、そのためには多くの経典を参考にし、他宗旨からもよく学ぶ必要があります。親鸞聖人も『顕浄土真実教行証文類』の著述には『涅槃経』や『華厳経』等数多くの経典から引用し仏意を明らかにされました。さらに仏願には、供養諸仏なしには本願成就は絵に描いた餅に過ぎないことを示されています([供養諸仏の願] 参照)。浄土真宗でいえば、「弥陀一仏を礼拝する」ということにこだわるあまり、諸仏・諸菩薩を排除するような極端に走らないよう心がけていかねばなりません。

 ただし、自分や家族が最後の最後まで依りどころとなる教えはどこにあるのか、という機と法の追求は必要で、<仏と名がつけばどれでも同じ>という悪平等に陥ると、人生の中心軸を失ってしまいます。
 多くの法を学び、自らと人類の経験を通して、究極として浮び上がる世界を求めるとおのずと答えは出てきます。

 ですから、もし宗旨の違う仏壇が重なったら、家族ともに学ぶ場を設け、法を語りあい、ともに歩む道を探していただきたいと思います。

 仏壇の現状

 さて、さらにご質問から離れてしまうまも知れませんが、仏壇の現状についてもお話ししたいと思います。

 仏壇は家庭における心の依りどころですから、仏教徒は仏壇を大切にし、常々清潔に保ち、煤などで汚れが落ちなくなったり傷んだりしたら数十年に一度は「仏壇の洗濯」といってリニューアルを施してきました。
 仏壇は製作には大変な技術を要しますが、洗濯するのにも「新品を作るのと同様の手間がかかる」といわれます。飾りや金具を一旦全部ばらして、汚れを落し、膠や金箔を貼り直して組み立てますので、確かに膨大な手間がかかるでしょう。それでも新品の半額くらいの値段で洗濯できますので、先人たちは代々洗濯を繰り返して仏壇を受け継いできました。

 ところが最近、こうして代々受け継がれた仏壇が次々に捨てられているのです。部屋の大きさや他の調度品とのバランスもあるでしょうが、ほれぼれするような素晴らしい仏壇を目の前にして、閉扉法要(仏壇廃棄の前の法要)を勤める時は胸が傷みます。保存できる場所さえあれば引き取りたいくらいです。個人の都合もあるでしょうが、自分たちの歴史を尊んで、出来る限り引き継いでほしいと願っています。

 こうした傾向が続いたためか、最近の仏壇は機械で作ったり、プラスチックの飾りが混じったり、かなり簡素なつくりのものが増えてきました。不況も影響しているのでしょうが、仏壇づくりで培われてきた技術がどんどん用をなさなくなり、安値のものばかりが売れる傾向です。しかも定価で高値をつけておいて大幅に値引いて売るという商売がまかり通り、真面目に製造販売している仏壇屋がどんどん苦境に陥っています。仏壇を買う側にも、ものを見る眼を養う必要がでてきました。

 値の高い仏壇を推薦するわけではありませんが、製造・販売が真っ当な仕事の上に成り立ってほしいと思います。日常の礼拝そして洗濯という過程の全てに誠意を重んじる気質があってこその仏教文化でありましょう。文化が痩せれば、仏法展開の下支えを失うことになります。
 今後、仏壇を選んだり受け継ぐ時に、こうした仏教文化の継承という面を尊く理解し、どの仏壇も丁寧に長くつかっていただきたいと思います。


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